(承前)マーラ―作曲交響曲七番はあまり理解されていない。なぜならば、技術的にもその内容的にも最も理解するのに困難な交響曲だからである。もちろんのこと幾多の解説がなされているが、釈然としない。それは演奏会前の小講演でもその事実が証明されるだけとなっている。ルツェルンでのそれをフランクフルトでの一時間半に亘る音楽学者のそれでも補強された。
講演者はシノポリの本などを書いている人なのだが、フランクフルトの音楽学者である。だから美学的な文献には目を通している筈なのだが、自身の仮説を紹介するに止まった。つまりそれ以上の学術的成果は未だにないという事だろう。要するに難しい。
哲学的な概念として、この創作にはショウペンハウワーがあり、それは八回現れるフィナーレ楽章のマイスタージンガーのファンファーレのヴァ―クナー繋がりでも証明されるというのである。勿論その本歌が過去のバッハなどへと通じるというのは当然となる。しかしなによりもその舞台となるヨハネスタークの雰囲気つまり夏至のそれがこのフィナーレの内容となる。恐らくそれは19世紀後半の自然観でもあって、更にそこから連なるものだ。
そこでも重要になる動きが、三楽章のヴィーナーヴァルツァーなどに表れるというものだ。一楽章の冒頭で欲しかったのはその動きの根源的な動きとしてのオールの回旋だった。そして、三楽章のトリオを取り巻く情景としてゴヤの描く1797年の「魔女の飛行」を挙げていた。しかしそれ自体への関係付けは為されなかった。
二楽章のレムブラントの「守衛」との関連に於いては、嘗ての修復される前の真っ暗の絵を思い浮かべるべきだというのは当然なのだが、それ以上ではない。しかし、ホルンの呼びかけに対してIch,Duそしてそれを受けるのがWirつまり一人称、二人称、一人称複数としたのは説明の仕方として結構優れていると思った。
繰り返すが、「スペードの女王」での手紙を読むヘルマン、寝付かれぬヘルマン、聖歌から教会を思い描くとその繋がりがあり、最初の兵隊ラッパから風の気配へと心理背景の説明ともなっている。
抑々講演者が指示す楽譜例とその書き込み、更に音楽辞典に載っている様な四度の下降とかそうした基本的な音楽分析とこうした印象の説明との接点が説明されていないからである。要するに全く音楽的でない音楽学者で、更に美学的な解説にも哲学的な解説にもなっていなかった。但しアカデミックなサーチ情報をこちらからも一望できたのがよかった。
もう一つ重要な視点は、改宗したマーラーにおけるカトリズムからの恐らくニッチェに繋がる、特にここでは「ツァラストラはかく語りき」に繋がると思われるが、その近代性でありながら、同時に「黒いロマン」をキーワードに使ったのは混乱を招くのではなかろうか。まさしくそれは「スペードの女王」そのものであったのだ。
こうした文学的な把握で以て、この交響曲の全体像が把握できるかどうかが問題である。三度と三全音に依って減七でその不協和が語られていても、その構想が説明無しには語るには及ばない。それを納得させるだけの演奏がなされていなかったという歴史的な背景も影響しているのである。(続く)
参照:
歴史的な瞬間にいること 2022-11-08 | 音
漸く見えて来た闇の陰陽 2022-11-07 | 音
講演者はシノポリの本などを書いている人なのだが、フランクフルトの音楽学者である。だから美学的な文献には目を通している筈なのだが、自身の仮説を紹介するに止まった。つまりそれ以上の学術的成果は未だにないという事だろう。要するに難しい。
哲学的な概念として、この創作にはショウペンハウワーがあり、それは八回現れるフィナーレ楽章のマイスタージンガーのファンファーレのヴァ―クナー繋がりでも証明されるというのである。勿論その本歌が過去のバッハなどへと通じるというのは当然となる。しかしなによりもその舞台となるヨハネスタークの雰囲気つまり夏至のそれがこのフィナーレの内容となる。恐らくそれは19世紀後半の自然観でもあって、更にそこから連なるものだ。
そこでも重要になる動きが、三楽章のヴィーナーヴァルツァーなどに表れるというものだ。一楽章の冒頭で欲しかったのはその動きの根源的な動きとしてのオールの回旋だった。そして、三楽章のトリオを取り巻く情景としてゴヤの描く1797年の「魔女の飛行」を挙げていた。しかしそれ自体への関係付けは為されなかった。
二楽章のレムブラントの「守衛」との関連に於いては、嘗ての修復される前の真っ暗の絵を思い浮かべるべきだというのは当然なのだが、それ以上ではない。しかし、ホルンの呼びかけに対してIch,Duそしてそれを受けるのがWirつまり一人称、二人称、一人称複数としたのは説明の仕方として結構優れていると思った。
繰り返すが、「スペードの女王」での手紙を読むヘルマン、寝付かれぬヘルマン、聖歌から教会を思い描くとその繋がりがあり、最初の兵隊ラッパから風の気配へと心理背景の説明ともなっている。
抑々講演者が指示す楽譜例とその書き込み、更に音楽辞典に載っている様な四度の下降とかそうした基本的な音楽分析とこうした印象の説明との接点が説明されていないからである。要するに全く音楽的でない音楽学者で、更に美学的な解説にも哲学的な解説にもなっていなかった。但しアカデミックなサーチ情報をこちらからも一望できたのがよかった。
もう一つ重要な視点は、改宗したマーラーにおけるカトリズムからの恐らくニッチェに繋がる、特にここでは「ツァラストラはかく語りき」に繋がると思われるが、その近代性でありながら、同時に「黒いロマン」をキーワードに使ったのは混乱を招くのではなかろうか。まさしくそれは「スペードの女王」そのものであったのだ。
こうした文学的な把握で以て、この交響曲の全体像が把握できるかどうかが問題である。三度と三全音に依って減七でその不協和が語られていても、その構想が説明無しには語るには及ばない。それを納得させるだけの演奏がなされていなかったという歴史的な背景も影響しているのである。(続く)
参照:
歴史的な瞬間にいること 2022-11-08 | 音
漸く見えて来た闇の陰陽 2022-11-07 | 音
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