Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

小夜曲と火祭りの喧噪

2022-11-24 | 文化一般
承前)演奏の困難さがこの交響曲の理解を困難にした。そのことを今回の一連の演奏会が証明した。1908年にプラハで初演のアシスタントをした指揮者オットー・クレムペラーが生き証人になっていて、その晩年の指揮の録音は貴重である。しかしその特異なテムポ設定などは、その演奏の難しさを示していて、「一楽章と五楽章が取り分け問題が大きい」と語っている通りだ。

まさに膝を打つしかないのだが、一年後のヴィーン初演でのシェーンベルクのコメントが更に興味深い。「芸術的な和声上にある完成された落ち着き…作曲家を古典的として賞すると同時に、未だお手本である。」としていて、感激して書き送っている。

このコメントには初めて接するのだが、言わずもがなであり、我々はこの意味を今初めて噛み締めている。実はこの文章は昨年秋のハノーファーの劇場でのプログラム解説の中に見つけた。コロナ期間中で直前に演奏者から偽陽性が見つかって、再検査前中止の遅滞で以て開かれた演奏会とされる。指揮はティテュス・エンゲルでこのような複雑な時期でないか、もう少し近場ならば出かけていた。新聞評は良さそうだったが、座付き楽団であり、ドタバタしていたので凡その想定は可能だ。

曲としては、律動をどのようにフィナーレを通して繋げて行くかにあると思うが、その間に受け渡しが為されるその構造は、奥さんのアルマ・マーラーに批判された交響曲五番の延長線上にもあるのかもしれないが、やはりその主題となっている「マイスタージンガー」のお祭り会場のパロディ若しくは本歌取りとしての意味合いは無視できない。

つまり「古典的」というのはフランクフルターアルゲマイネ紙の様に本当に博物館に組み入れられる様なものなのか。その意味を再考させる「マイスタージンガー」自体が過去へとそのもの16世紀の詩人でもあり作曲家でもあった靴職人ハンス・ザックスを描いているのであるが、それは同時にドイツの芸術の原典としても捉えられる。そこで描かれているベックメッサ―はユダヤ人であり、そのヘブライズムも暗に批判の対象となっていて、二幕においての社会集団の攻撃は殆どポグロムを思わせる。

ロンド主題となった三幕における祭りの場面も、夏至を祝うヨハニスタークのどんちゃん騒ぎとすれば、その教会歴における洗礼者ヨハネ、つまりサロメによって首を撥ねられるその旧約聖書の物語のみならず、今でも各地で残る中世からの土着的な悪魔除けの火祭りも重ねられることになる。まさしくそれがフィナーレにおける喧噪の印象にもなっている。

「夜の歌」の「スペードの女王」の印象、影の様にのスケルツォ、そして「マイスタージンガー」二幕のベックメッサーのセレナーデ、これらが宮廷オペラ劇場監督のマーラーのインスプレーションとして存在していたのだろう。

それでも「直線的な構成ではなく、驚くほどに変化に満ちている。」と若干大まかなコメントをエンゲルは残しているのだが、「直線的な構成ではない」というのは質してみなければ分からないと同時に、フィナーレのロンドのあり方のみならず全体のフォームにも係っているコメントではなかろうか。(続く)
Mahler "Symphony No 7" Otto Klemperer

Meistersinger - Baritone Markus Werba as Sixtus Beckmesser sings Serenade

Die Meistersinger von Nürnberg: Entry of the Meistersingers (Act III)




参照:
真夏のポストモダンの夢 2005-06-25 | 暦
社会的情念の暴力と公共 2016-06-01 | 音

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