通天閣の足元まで行った。有料三十分の待ち時間で、上に登る時間はなかった。
本場エッフェル塔の足元で宿泊した経験はあるが、通天閣を間近に仰ぎ見たのは初めてである。
細部の仕事は比較にならないが、外見は若しかすると本物よりも美しいかもしれない。恐らく日本にあるこの手のものとしては独特の位置を占めるだろう。
そもそも美しいと言ったって、簡単に定義できるものではないが、ここで感じるのは、なんと言ってもあの界隈の雰囲気を象徴していてなおかつそれを作っている芸術性ではないか?
すると本物のエッフェル塔の現在にはそぐわない古きよき時代感覚や京都タワーや東京タワーのウルトラマンが似合う珍奇な近代性など、もしくは東ベルリンのTV塔などの異質感とは全く異なる文化的な土壌にこの通天閣は立っているように思われる。これほど美しいキッチュな塔は、近代でも珍しいのではないか。
それがパリのパロディーや安易な物まねになることなく、南の象徴となっているのは素晴らしい。
うなぎやから今や寂れた日本橋の電々タウンに向かおうとして、方向を失った。そして、他の人が若いペアーに道を訊いているのに答えているのを見て、続けて私も尋ねてみた。
「電々タウンはどちらでしたか?」
「電々タウンって、電気街ね。それならあの交差点を右に入っていけばええ」
「ああ、黒門市場のとこね」
「そうそう」
「有難う御座います」
「ほら、俺、結構詳しいやろう」と連れの女性に自慢する男の声を背中に聞いて、すかさず後ろ向きざまに突っ込んだ。
「ほんまに、おうとる?」
前回の大阪訪問時に道を聞くと、自転車に乗っている親仁がニコニコしながら反対方向を指差して親切に教えてくれたことを思い出した。
プファルツの言葉のピンポンもなかなか絶妙なものがあるが、大阪のそれの文化的な複雑性はそれに勝るとも劣らない。
あの通天閣の姿に、その独特の文化を見てとっても誤りではなかろう。
本場エッフェル塔の足元で宿泊した経験はあるが、通天閣を間近に仰ぎ見たのは初めてである。
細部の仕事は比較にならないが、外見は若しかすると本物よりも美しいかもしれない。恐らく日本にあるこの手のものとしては独特の位置を占めるだろう。
そもそも美しいと言ったって、簡単に定義できるものではないが、ここで感じるのは、なんと言ってもあの界隈の雰囲気を象徴していてなおかつそれを作っている芸術性ではないか?
すると本物のエッフェル塔の現在にはそぐわない古きよき時代感覚や京都タワーや東京タワーのウルトラマンが似合う珍奇な近代性など、もしくは東ベルリンのTV塔などの異質感とは全く異なる文化的な土壌にこの通天閣は立っているように思われる。これほど美しいキッチュな塔は、近代でも珍しいのではないか。
それがパリのパロディーや安易な物まねになることなく、南の象徴となっているのは素晴らしい。
うなぎやから今や寂れた日本橋の電々タウンに向かおうとして、方向を失った。そして、他の人が若いペアーに道を訊いているのに答えているのを見て、続けて私も尋ねてみた。
「電々タウンはどちらでしたか?」
「電々タウンって、電気街ね。それならあの交差点を右に入っていけばええ」
「ああ、黒門市場のとこね」
「そうそう」
「有難う御座います」
「ほら、俺、結構詳しいやろう」と連れの女性に自慢する男の声を背中に聞いて、すかさず後ろ向きざまに突っ込んだ。
「ほんまに、おうとる?」
前回の大阪訪問時に道を聞くと、自転車に乗っている親仁がニコニコしながら反対方向を指差して親切に教えてくれたことを思い出した。
プファルツの言葉のピンポンもなかなか絶妙なものがあるが、大阪のそれの文化的な複雑性はそれに勝るとも劣らない。
あの通天閣の姿に、その独特の文化を見てとっても誤りではなかろう。
反東京の大阪と東京の異文化需要の方法が違うんですね。それは言葉への拘りにも表れていて、今住んでいるプファルツ地方にも同様な傾向があります。
京都は文化の洗練度が異なりますから客観的にお膳立て出来るのですね。パリの町並み保存などはそれに近いですね。
23区内にも家があったので比較的中立的に評価出来るのですが、多文化主義に傾倒しているような東京文化も実は、空っ風のように吹くのみで文化的にものにならないものが殆どのような気がします。
なるほど、大阪の粘りのようなものは、土壌に吹く風が摩擦を起しているような感じですね。多文化主義というものにはあまり実体がないと感じているので、こうした土壌がそこではどのように働くかです。良い土壌がないと良いものは根付きません。
その方言での対応は、まさに大阪らしいですね。標準語で話している相手に対してでさえ、方言で受け答えするという意地。大阪は、1930年代まで日本経済の中心地だったので、方言に対する執着があまりにもスゴいですね。標準語で話さないのは、未だに彼らの言葉が日本の中心という古き時代の栄光の自負があるからでしょうか?標準語でも、あのベトベトしたトーンは変わりませんし、あまりにも喜怒哀楽が激しくて、重たく感じますね。だから、彼らが普通に話せばお笑いに聞こえ、彼らが怒ればヤクザに聞こえるのです。
パリと大阪の雰囲気はもしかしたら似てるかも。私のパリに旅行に行った知り合いたちによれば、世界の標準語である英語で話しても、時代錯誤の元外交語のフランス語で受け答えするとのことです。その自国語に対する頑固一徹な意地は、大阪人の上方方言のそれと似てるかもしれません。
美しさでは、大阪も独特なものを持ってますね。サブカルチャーのファッションでは、大阪は発展してますね。ゴシックロリータやパンクロリータなど、いわゆるロリータ系ファッションは大阪が発祥ですし、そのメッカですし、アニメにとても大きな影響を与え、ゴスロリ系アニメの代表作は、『ローゼンメイデン』です。アニメでは、ロリータ系のキャラが定番となっていますから。また、『Death note』のヒロイン弥海砂も、ロリータ系アイドルで、京都出身ですね。でも、彼女は、標準語をちゃんと欠点のない美しいアクセントで話してました。京都は関西でもちょっと違うんですね。
どころで、大阪で、ゴスロリに身を包んでいる若い女の子は、たくさん歩いてましたか?
外食も拘らないとなかなか美味いものは喰えませんね。それは何処でも言える事ですが。と言うことで、美味いものも追々書いていきます。
空気の軽重は、自転の軸の極点に近いか、赤道周りかの相違だと思うのですが、大気の分厚さを天蓋を比べて感じられるかもしれません。
鶏が先か卵が先か、なるほど精神環境が大きく異なりますから、「異人の目」を保つのもなかなか難しいかもしれません。一種の日本化でその後は留まってしまうのですよね。すると、近代捕鯨のように捩れ現象も起きるようです。
小野小町はまた勉強させて頂きます。
都筑さん、神戸からの移動なのでなかなか大阪の人ごみに出かけるのは億劫なのですが、飛行場が堺沖にあるのでその点からも大阪湾内の交通は発達しています。
しかし、大阪の北は馴染みがあっても南には馴染みがない人は京阪神間では少なくないです。
うささん、東京タワー、エッフェル塔の愛好者からの反論をお待ちしていました。東京タワーが昭和の雰囲気を持ってレトロになっていくのと新タワーが必要になってきているのが、流転する日本文化らしいかもしれません。京都タワーほどではないですがウルトラマンに代表されるグロテスクさがそれらにはあるのですが、エッフェル塔にはそれがないですね。大きさもありますが、通天閣もグロテスクさは無いです。パリと大阪、ニューヨークと大阪以上に地元の色で似ているか?
pfaelzerweinさんも、ということでは、「タワー」モノが結構お好きですねっ?!
それぞれ場所によってタワーってシンボルになり得てしまうので、非論理的かもしれませんが、地元の色が濃く出てくるようになるのかなぁとチラリと思ったりします。
…パリのエッフェル塔は、でも、いいですよ~♪ホントいつ見てもウットリ。。。
でも。
所変わって、今度の新東京タワーにも大いに期待しているのです。
って。今の東京タワーも、悪口あっても大好きです…。
私も先月18日から21日まで、学会出張で梅田の新阪急ホテルアネックスに泊まっていました。
これまでに大阪には何度も行ったことがありますが、大阪見物というのはしたことがありません。古くは、大阪万博でマイナーなパビリオン巡りをしたことがありますが、それ以降は、ホテルと学会会場を行ったり来たりです。通天閣も見たことがありません。
案外とそういうものなのかもしれません。
pfaelzerweinさん、ミナミに行かれていたのですね。私も先日久しぶりにキタに出ました。大阪に行くのにドイツからも京都からも大して変わらない感覚のような気がしますね。とにかく便利になった時代で。
たいていの用事はキタで済んでしまいますから、ここで足止まりです。ミナミも懐かしいですが、堺の親戚に顔を出す以外はほとんどご無沙汰です。
それにしてもミナミは食い倒れで、ほかのどこよりも実際旨いものが揃っているはずでしたが、pfaelzerweinさんのお口に偶々あわなかった、というより、すでに「ドイツ舌」に変質されかかっていらっしゃるのではありませんか?
次回は何とかおいしいお店に出くわされますように。
とは言え、当地でも確かに本物の味は失われてすでに久しいです。
ドイツではブドウ農場にしても有機農法の現状などどうですか。畑で自前に作った大根などは本当に柔らかく出汁もよくしみておいしいです。
久しぶりのキタは何でもありの雰囲気で、時間があれば映画でも見たかったです。地下街で友人らと「ナンパ」できた若かりし頃が懐かしいですね。
pfaelzerweinさんの記事にあるような、通天閣に「キッチュな美」を見る感覚には、どこかすでに異邦人の視線を感じますね。どうですか?想像しますに外国帰りの方の眼からすれば、今の日本は文字通りの荘子の「混沌」のような生き物の感覚を受けないですか。
食事の不味さの理由を「日本の空気の重さ」に見られているようですが、本来ならドイツよりも日本の方が地理的には「空気」はより軽いはずです。pfaelzerweinさんがそう感じられるのは、やはり根本的には文化の問題でしょうね。とくに宗教などの問題が大きいと思います。日本の政治家の現状やその「仕事」なども、所詮彼らの「宗教」や「哲学」の帰結に過ぎないからです。
日本においては新興宗教、会社教、学校教、政治教などの「諸宗教」ともども含めて、それらの「宗教文化」は明朗軽快晴明なものではありえません。それらはいずれも国民に「自由」の何たるかを教えているものではないからです。
日本国は確かに名目的には民主主義国ですが、今回の中国人監督の映画「靖国」の上映を自主規制したことに見られるように、日本国民にはいまだ自由の何であるかが知られていないからだと思います。
本当の自由を知らない国民は、その生活も憲法もやはりどこか陰鬱にならざるを得ないのです。そのことは、日本より独裁制の強固な現在の胡 錦濤の中国や金正日の北朝鮮を見ればもっとはっきりわかるでしょう。この不自由な共産独裁の国の中国で、あの自由で晴明透徹なギリシャ発祥のオリンピックを開催しようとしているのですから。不似合いであることはわかるでしょう。そして、中国も日本も、その政治的な体制はとにかく、文化的な不自由な質は似たり寄ったりのものです。
だから、平安の昔から現代に至るまで、本当の自由を獲得できてはいない国民には、おそらく春の桜を見ても晴明透徹な自由の眼では、この花を眺められないのです。小野小町の花の歌は明るく透明でしたか?
pfaelzerweinさんのおっしゃるように、日本国民は明治の維新開国以来、古来よりの伝統文化の上に、それとはまったく異質な出自のヨーロッパ文明を接ぎ木せざるを得ないのです。そして、私たちはこの異質な文明の出会いからも、まだわずか一世紀か二世紀も経たないがゆえに、異質な両文明の混迷葛藤を避けることも出来ない時代に生きざるを得ない宿命にあるということです。
笑うべきか泣くべきか、大阪のユニークでキッチュな「美」を秘める通天閣はその象徴の一つだと思います。そこに現代日本人の悲喜劇も、また、逆にそれ故の面白さもあるのだと思います。
(このコメントはブログ記事にさせていただくかも知れません。なお当方のブログコメントは事前承認にしています。理解のほど。)