Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

濃淡が必要ない電光石火

2021-11-17 | マスメディア批評
(承前)ベルリンでの批評を読み聞きすると、場所や回数や日によっての相違と同時にどこを修正していっているかもなんとなく想像可能である。バーデンバーデンの編集された録音もベルリンでのそれもいづれ比較して聴くことになるのだが、興味深いのは焦点が少しづつ変わっているかに見えることである。

ベルリンにおいての公演では、処刑前夜の二幕第一景と三幕冒頭凱旋音楽とのコントラストに集約されているようだ。恐らくバーデンバーデンの二日目の方がドラマテュルギー的には成功していたに違いない。山が動いて来るのは今迄でもあり得るのだが、今回は演出がないという事で余計に嵌まらない面も多かったようだ。要するに一度上手く嵌まればそれが繰り返されるには舞台の流れが大きい。当然、そこに歌手がコンデションを合わせてくる。演出がないと音楽的な作りだけでは演奏に限界が生じてくる。演出が音楽に与える影響は大きい。

会場の音響の差は奈落と舞台上との差ほど影響はないのかもしれないが、フィルハーモニーなどのコンサートホールではより残響も活かした音楽づくりになっていたのだろう。フランクフルターアルゲマイネ新聞においてもRBB放送同様にカラヤン時代のチャイコフスキー演奏が当て馬にされている。そこでは、ペトレンコ指揮での権力と正義の間における硬で強健、軟と優しさの二極化の中での濃淡というものが必要なくなっていると書いている。これが何を意味するか?カラヤン指揮の特徴は極点に向けてのルバートでの表現とすれば、ペトレンコ指揮においては電光石火なテムポ変化が可能であって、最も技術的に卓越しているところでもあろう。

つまり、そうしたペトレンコにおける天才性こそがこのチャイコフスキーの音楽におけるドラマを生じさせている所以であって、今まで誰もできていなかったのはまさにそこである。そうした能力が有効に使われていたという事だけで大成功なのである。

ふと、ミュンヘンで監督として指揮したロシアオペラから「マクベス夫人」を流してみた。矢張り記憶していたよりも良い。ショスタコーヴィッチの語法にも慣れると余計にその上手さが分かる。ロシア音楽特有の息の長い箇所においてもリズム的な流れがしっかり刻まれているので、方向性を失うことがない。それは新聞においては、起こることの確かな方向性が定まり、緊張の弛緩を生じることなく、聴衆を引き付けてしまうので、大変な大喝采になるというのだ。

まさしくこれはペトレンコにおける正しいリズムの保持であり、楽譜に書かれているように音楽を運べる才能でしかない。楽譜を見ればわかるように、ペテルスブルクでもいい加減な指揮でお茶を濁しているように、チャイコフスキーの創作からそれだけの劇を読みだして音にできる指揮者が皆無であるという事を示しているに過ぎない。

バーデンバーデンのロビーで話していたように、ペトレンコにおける電光石火のテムピ変化の威力は計算されてものではなく楽譜を忠実に音化するときに必要になるものであって、全ての指揮者がそこを目指して経験上やってしまっていることをペトレンコにおいてはマニエーレンしないでも解決されているに過ぎない。(続く



参照:
Der verlogene Zar einer unabhängigen Ukraine, CLEMENS HAUSTEIN, FAZ vom 16.11.2021
本物のチャイコフスキー 2021-11-15 | マスメディア批評
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般

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