Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「火炙り」や「尊師の説教」など

2015-02-05 | 歴史・時事
火炙りの刑の映像を観た。後半に相当するらしい。広報映像の作りでその方の専門家が制作しているのは直ぐに分かる。日本の公共広告などとよく似ていて、その主張が、言語の助けが無くても、誰にでも理解できるようになっている。イスラムの「目には目をの憎しみの連鎖」そのものが良く示されていて、そこから一歩も視野が広がるような可能性を与えない。宗教や思想信条の偏狭さがとんでもないことを正当化させてしまうのは世の常である。

反ISIS連合のパイロットは市街地に爆弾を落として、そこにいる市民を虐殺しているのは、西側ジャーナリストが子細に伝えなくとも当然の事実であり、コソヴォ紛争で橋を爆撃した際も女性が一人巻き添えをくった。そうした聖戦が、こうした火炙りと何ら変わりないことを動画は明確に主張している。火炙りで焼けただれた躯が仰向けになると同時に、檻の上から崩壊したブロックなどを一気に落下させて、まるで天安門広場のようにその踏み固められた地面のブロックの隙間から殆ど焼けていない指を見せてといったとても凝った作りになっていて、これでもかこれでもかとグロテスクに訴えかけてくるのである。こうした西欧のモスリムにも強く打ったえ掛けるようなメディア戦略がイスラム国の特徴である。

偶々YOUTUBEでオウム真理教の様々な映像が解禁されているようになっているようで、これもとても興味深かった。事件が起きたときはこちらでも話題になったが、その真相はあまり知らなかったので、「麻原尊師の説教」などがとても面白かった。国政選挙での失敗が過激化させていったとどこかで読んだがなるほどと思った。

同じ意味で上の火炙り動画も彼らの狭窄した視野がよく分かる。そしてそうした狭窄は直ぐ身近にもあって、そのような原理主義者はムスリムには限らないが、先週もモスリム家庭で「名誉の殺人」があったようで事件となっていた。19歳の娘が結婚を反対された挙句、両親や叔父叔母に惨殺されて、近所の公園に無残に捨てられたというものだ。連邦共和国のモスリム家庭では後を絶たない事象であり、我々の感覚からすれば理解できないものであるが、「預言者の像」に対してあれ程反応しなければいけない啓蒙されていない人々にとっては、きっと理解できる行為なのだろう ― 因みにPEGIDAなどはこれ見よがしに預言者像を翳して町を行進するらしい。

その点、イスラム国の主張は、西欧的な社会からの参加者が後を絶たない様に、大まかなところでは理解可能なのだが、そこで実際に行われている蛮行は、イデオロギーとしてイスラムの世界観に根ざしているからとても厄介なのである。イスラム国が、イスラエルのように国際認知されるような帝国になることは仕方がないとしても、イスラム社会やイスラムの教えこそが近代化しない事には現在の世界においてその居場所などはないのである。まさしく、大東亜共栄圏や八紘一宇などのイデオロギーなどを我々は決して受け入れられない様に、イスラム主義や啓蒙されていないイスラムに妥協してはいけないのである。

しかし、そうは言っても現実は異なることは、独第一放送の番組をネットで二つほど見ると明らかになる。若い少年少女たちが、シリアで起こっているような悲惨な情景にどのように反応してジハードへと駆り立てられて、トルコ国境を越えていくかである。そこには「容赦のない無信仰への戦い」がある。それ故に嘗て左翼の過激派として12年の懲役を受けたドイツ人の爆弾魔までが転向して、サラフィストとして活躍しているのが描かれていて、その昔の左翼過激派以上に危険な存在となっている。要するに、俗に言われるようなドロップアウトした麻薬などに群がる移民家系の愚連隊だけがイスラム国に引き付けられるのではなくて、リベラルな世界観に違和感を持つ極左過激派や不満の多い若い世代の症状でもあるようだ ― これは何時か扱った学校の制服への憧れのあれにも似た病理なのだろう。

CNNが「イスラム国のメッセージを媒介することはしない」としたようだが、啓蒙された現代人は、ああした思想にも目を開くことが重要であるから、メッセージを十分に伝えることが肝要なのだ。もともと垂れ流しのような放送を行ってきたマスメディアであるから、そのような姿勢にも理解できるのである。その証拠に、嘗てはあれほど大事件の時にはTVを点けて確認していたCNNなどは昨年は一度も観なかった。ネットにおけるその報道も殆ど速報性も含めて意味を失ってきているのを実感する。その点、ネットを使った直接の広報を繰り広げるイスラム国はその点でもクールだとされる所以なのだ。時代はどんどんと変わってきている。

少なくとも連邦共和国においては、ガザ虐殺に対するイスラエル批判などが出来るような社会状況にならなければ、国内のモスリム社会を納得させるだけの世論の形成も出来ないかもしれない。やはり、サラフィスト問題と対峙することは、連邦共和国の社会に対峙することにもなるようだ。

近所では、「日本人人質が斬首刑となったのは、安倍が米国に追従することになったからか」とする疑問が呈される。肯定も否定もできないのが実際であるが、最初からイスラム国に邦人の首を差し出していたのは否定しようがない。新聞にメルケル首相がブタペストを訪れ、国粋主義政権に苦言を呈した。圧倒的過半数を保持していても少数意見に耳を傾けろと言うことで、民主主義を更に進めろと言うことである。病的に頭脳が狭窄している安倍政権に三月に言わんとしていることがここにも含まれている。社会的な議論を繰り広げていくしか、その社会の安定はないのである。



参照:
モスリム生徒解放への教育 2015-01-30 | 文化一般
首を喜んで差し出す外務省 2015-01-21 | 歴史・時事
疑似体験のセーラー服 2005-06-12 | 歴史・時事
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