残りつづけることに向かって

2011-12-25 17:46:12 | 日々

物をデザインする、という言い回しはなかなか難しいもので、常に前向きなイメージが伴いがちです。これまでに無かった新しいものを生み出す、といったポジティブな印象は、常に「個性的」であることとワンセットであったようにも思います。それが商売となれば当然のことかもしれません。でもその過程で、忘れ去ってきた、あるいは落としてきてしまったものも多かったのではないか、と思うことがあります。近代よりも昔、まだ芸術が宗教と一体であった頃、絵を描いたり彫刻を彫ったりすることに、個性など求められない時代がありました。個人的な表現を求めるのではなく、宗教的な含意を表出することに目的をしっかり定め仕事をしていた時代のことに思いを馳せると、どこか心地良い気分になります。

ロマネスクとよばれる教会堂は、そんな時代につくられました。今から見れば技術的にも稚拙で、土地の形状なりに曲がった間取りは、個人的な作為とは無関係につくられました。でも、それから何世紀も経て残り続けるそれらの小さな教会堂が、慎ましやかで物の理に背かない姿を今だに保持し、現在に生きる私たちの心に、すっと沁みるように感じられ、今だに使われ続けているというのは、とても示唆的であるように思います。建物の佇まいを見たとき、あるいは中に入ったときに、あ、これでいいんだ、と素直に思えるような感じ。そんな感じをつくりだすことは、案外に難しいことのように思います。

どんなに考えを重ねて物をデザインして造っても、年月を経れば古びるし、時代に即した実用性に合わない、ということになるかもしれません。それは物の宿命とも言えそうです。でも、日常のなかにすっかりとはまり込んでしまったそれらの物が、いつまでも愛らしく、独特の存在感をもっていたとしたら、それは先ほど言ったところの、あ、これでいいんだ、という感じに近いのだと思います。たとえば古びたドアや窓が、人の心にすっと沁みるものになるようにすることは、今後、ますます大切なことのように思います。日々の暮らしのなかの、ありふれたものこそ美しい。画家・ジョルジョ・モランディが描き続けた静物画のような、ものごとに対する美徳を大切にしたいと思っています。

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