ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

代議士不要の政治

2015-04-19 18:05:57 | 徒然の記

 武田文彦氏著「代議士不要の政治」(昭和55年 大陸書房刊)を読んでいる。


 原発の専門家であるらしい氏は、動画でよく目にし、テレビにも時々顔を出す。分かり易い語り口で、微笑みながら辛辣な意見を述べるので、面白い人物と言う印象がある。

 「憲法の前文で述べられているように、われわれが " 選挙された代表 " を通じて行動している限り、主権を代表者に預けてしまい、あとは良きにはからえ!!というような立場、いわば封建時代のバカ殿のような態度を取る限り、」


 「最終的な決定権を一切奪われてしまっているような民主主義は、選挙の時だけの民主主義と言えるだけで、それ以外は我々の政治でなく、彼ら(代表者)の政治となってしまっている。」

 このように氏は、議員制民主主義の欠陥を正しく批判する。
選挙の時だけの王様でしかない自分たちの姿に、苦々しい思いをしているので、思わずページをめくった。ようするに、彼が主張しているのはコンピュータを駆使した、国民全体が参加する政治であり、氏はこれを「究極的民主主義の政治」と呼んでいる。

 確かに現在の日本では、若者は言うに及ばず、私のような高齢者(自分では中年)でも、こうしてパソコンを使っている。提案の奇抜さに惹かれたが、具体的内容を読み進むうちに、実現の可能性に疑問が強まった。

 全国の有権者が国政の判断をするのだから、国会は立法府としての役目を失い、たんなる「審議院」となり、代議士も「審議員」という資格に変わる。政治案件の決定は、各戸に設置されたコンピュータを通じ、国民がするため、議員は、国民の判断材料となる審議だけすれば良くなるとのこと。

 コンピュータ設置の初期投資額を、氏は40兆円と計算するが、これが高いのか安いのか、私には判断がつかない。それでもここまで来ると、氏の意見の荒唐無稽さが、何となく分かる。定年退職し年金生活者となり、有り余る時間を気ままに使える身となって以来、政治の案件を追っているが、判断できないものが無数にある。

 関心を持って調べても、それでも分からない案件が多々ある、というのに、すべて国民に決定権が付与されたら、武田氏のようなインテリでない庶民に、どんな決定が下せるというのだろう。

 年寄りや若者の中には、対応困難な弱者もいるだろうし、政治に興味も関心も持たない無い愚か者や、悪だくみばかりする不届き者への対策は、どのようにするのか。パスワードで防止を図るというが、国民各自の意思が、間違いなく本人のものであるという確認や、不逞の輩どもへの防止策が、どう読んでも納得できない。

 まして現在の議員が審議員になるなど、どうして彼らが、そんな意見に耳を貸すだろうか。政策の決定権があるからこそ、政治家として彼らの誇りがあり、士気がある。議案を検討するだけというのなら、政府の官僚だけで事足りるし、議員の必要すら無くなる。優秀な上に海千山千の官僚は、厚顔な議員だって手玉に取るのだから、一般国民は、間違いなく釈迦の手の中の悟空と成り果てる。

 動画の中で、反日の政治家や学者を鮮やかに切り捨てていた、爽快な氏を知るだけに、本の中身には失望させられた。どういう人物かとパソコンで調べても、この人が故意にそうしているのか、何の情報も取り出せない。出てくるものといえば、氏の著作の宣伝ばかりだ。

 で、私は、不本意ながら、学者としての氏の人間性に疑問を抱くこととなり、これ以上本を読む気が喪失した。

 明るいあの笑顔を思い出すと、決して悪人ではないのだろうが、本には本としての価値判断がある。説明するまでもなく、この本は、「有価物回収の日のゴミ」とする。
途中で投げ出した本は、本多勝一の「中国の旅」以来だ。こんな有害図書と同じ扱いにしたくないし、氏には気の毒でならないが・・。ここはもう、アレキサンダー大王を真似、「快刀乱麻を断つ」決定をするしかない。

  ( 追記 : 途中で読むのを止めたのは、3月の 内山秀夫氏著「政治は途方に暮れてい

      る」だった。本多勝一の本は、ともかく最後まで目を通した。

      そろそろボケが始まったのか、痴呆の記録としたいから、本文を訂正せず、

      追記とした。)

コメント
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