綿貫氏の話の3回目です。興味深い事実を、教えてくれます。
「口を酸っぱくして注意すると言うのも、日本の子供たちが、」「現地の人たちを見下すような態度を、平気でとるんですよ。」「シンガポールは多民族国家で、中国系が全人口の77%、ついでマレー系、インド系といった人たちがいる。」
「頭が良くて裕福なチャイニーズは上、マレー人やインド人は下、」「みたいな差別意識が、シンガポール社会の中に、」「歴然と存在していいるんですよ。」「たとえば、日本人学校に勤めるローカルスタッフでも、」「事務室の経理や電話交換手など、頭を使う役職はチャイニーズ、」「守衛や門番といった仕事は、インド人とかね、」「もう完全に、階級社会なわけ。」
ジャカルタの日本人学校で、階級的な話が述べられなかったのはなぜか。参考までに、ネットでインドネシアの民族分布を調べてみました。正確に言うと同国には、300の民族がいるそうですが、主な部族は下記の通りでした。
1. ジャワ人 40% 主要民族 スカルノ、スハルト大統領はジャワ人
2. スンダ人 15% マレー系
3. マドゥラ人 3% 戦闘民族として有名 オランダ統治時代は傭兵として活躍
4. 中国系 1% 人口は少ないが経済界を握り、有力財閥はほとんど中国系
中国系はシンガポールのように、多数を占めていませんが、経済界を牛耳っているため、ジャワ人を始め、他の民族との間に根深い対立はあるとのことです。ジャカルタの日本人学校で、民族差別がそれほど問題にならなかったのは、中国系が少数者だったからだと、分かりました。興味深いのは、次の話でした。
「そんな社会にあって、お金持ちの日本人は、」「現地で特別に優遇されていますから、子供たちも、」「日本人が上、みたいに勘違いしちゃうんでしょうね。」
「私自身、こんな経験があります。」「赴任して一年目、シンガポーリアンの友人に、」「私なんて、どこへ行っても親切にしてもらえるし、」「現地のお友達もいっぱいできたし、シンガポールに来て本当によかった、」「て言ったら、」「それは貴方が日本人だからよと、あっさり言われた。」
心から尊敬されているのでなく、日本人が現地でたくさんお金を使う、お得意さんだからだと、次第に分かり、氏はショックを受けたと言います。いつの頃の話だったかは忘れましたが、私の会社で、海外の現地法人で働く日本人社員の一月分の給料が、現地の人間の半年分になると、聞いたことがあります。物価の高い国内なら、普通の給料ですが、物価も人件費も安いアジア諸国では、こういう差が生じました。
日本国内の感覚でお金を使うと、現地の人間から見れば、途方もない贅沢になります。今はもう、嘘のような話ですが、バブル経済が崩壊するまでの日本は、世界から金持ちの国と見られていました。社会党の田辺委員長が、「南京虐殺記念館」建設のため、三千万円の寄付をした当時の、中国での貨幣価値は、記念館の二つ三つ分に相当したと言われるのも、あながち誇張ではなさそうです。
私の会社時代の思い出を披露しますと、あの頃の中国はまだ貧しく、共産党の幹部も慎ましいものでした。鄧小平氏の訪日後、「熱烈歓迎」時代が続き、日本が宝山製鉄所の建設を全面的に支援しました。巨大な設備が全て日本から輸送され、日本人技術者の指導で完成しました。
その時打ち合わせのため、共産党の幹部が数人、協力会社の一つでしたから、私の会社も訪れ、ホテルを手配しました。幹部たちは、宿泊費用を浮かせるためなのか、外出もせず、ホテルの食事もせず、訪ねてみると、部屋で全員が即席ラーメンを食べていました。今の中国は世界第二の経済大国、軍軍大国となっていますから、これこそ、嘘のような話です。
氏の談話は、平成4年から平成7年までの経験ですが、当時もまだ、日本人は金持ちと見られていたのでしょう。氏と同じで、田辺委員長も、大金を渡したため持ち上げられただけのことで、尊敬はされませんでした。その証拠に中国政府の反日教育は、その後鄧小平氏から、江沢民氏へ政権が変わると、激しさを増しました。単なる反日でなく、韓国と同じように、「憎しみ」と「攻撃」が加わり、現在の尖閣の領海侵犯にまでつながっています。
本題は中国のことでなく、氏の談話ですから、元へ戻ります。
「でも、そう言う多民族国家にいるからこそ、得られるものもたくさんある。」「たとえばあちらの人は、それぞれの民族の母国語があって、」「公用語の英語があり、他に広東語、マレー語など、」「3ヶ国、4ヶ国語が話せる人もざらにいます。」
「日本語学校の生徒も、その気になって色々な民族と交流すれば、」「頭の柔らかい中学生なんて、たちまち英語や中国語をマスターしちゃうだろうし、」「国際感覚を養う、絶好のチャンスだと思うんだけど、」「それがダメ。」「変に日本人社会に閉じこもってしまって、外に出ないの。」
ジャカルタの日本人学校で、石井校長が嘆いていた「テフロン現象」は、シンガポールでも同じでした。そうなりますと氏の意見は、海外で暮らす日本人の一面を切り取った、貴重な情報です。
「子供が忙しすぎる、と言うのもあるんです。」「学校が終われば、みんな塾。」「すごいですよぉ。」「日本以上に過密スケジュールで、夜の1 0時、11時の帰宅なんてざら。」
「現地に駐留している日本人は、みんなエリートでしょ。」「その子供ですから、目指すは東大・慶大クラス。」「親の心配は、帰国してから日本の受験体制に、」「子供がついていけるか、と言うこと。」「塾通いは、日本以上の過熱ぶりです。」
氏は一般に言われる立派な先生でなく、むしろ自己中心的な、軽薄な部類の教師です。しかしその率直さが、日本語学校だけでなく、戦後日本の学校教育の問題点を鋭く突いています。
「いじめ ? やっぱり、それはありました。」「ただ、長続きしない。」「ほとんどが商社マンの子女なので、生徒の入れ替わりが激しいから、」「いじめの構図が定着しない、と言うメリットがあるんです。」
「それに、いわば全員が転校生。」「しかも、世界を股にかける転校生ですから、みんな精神的にかなりタフ。」「日本人学校というところは、生徒も教師もサヨナラが多い人生なんで。」「お別れのたびに、ウエットになっちゃってちゃ、」「やっていけない世界ですね。」
ジャカルタの日本人学校の書評の時にも引用しましたが、私はやはり次の詩で、『教師』の書評の最後を飾りたいと思います。平成元年に詩人ラジャ氏が、クアラルンプールで書いたと説明されていますが、綿貫氏や石井氏の言葉と合わせながら、再読しますと、心の痛むものがあります。戦前の日本人への褒め言葉としてでなく、戦後の日本人への警鐘として読めば、無視できないものがあります。長くなりますが、再度引用しますので、興味のない方はスルーしてください。