ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

教師 - 10 ( 本名・綿貫真理子氏 )

2021-02-11 23:05:59 | 徒然の記

 綿貫氏の話の3回目です。興味深い事実を、教えてくれます。

 「口を酸っぱくして注意すると言うのも、日本の子供たちが、」「現地の人たちを見下すような態度を、平気でとるんですよ。」「シンガポールは多民族国家で、中国系が全人口の77%、ついでマレー系、インド系といった人たちがいる。」

 「頭が良くて裕福なチャイニーズは上、マレー人やインド人は下、」「みたいな差別意識が、シンガポール社会の中に、」「歴然と存在していいるんですよ。」「たとえば、日本人学校に勤めるローカルスタッフでも、」「事務室の経理や電話交換手など、頭を使う役職はチャイニーズ、」「守衛や門番といった仕事は、インド人とかね、」「もう完全に、階級社会なわけ。」

 ジャカルタの日本人学校で、階級的な話が述べられなかったのはなぜか。参考までに、ネットでインドネシアの民族分布を調べてみました。正確に言うと同国には、300の民族がいるそうですが、主な部族は下記の通りでした。

 1. ジャワ人 40%  主要民族 スカルノ、スハルト大統領はジャワ人

 2. スンダ人 15% マレー系

 3. マドゥラ人 3% 戦闘民族として有名 オランダ統治時代は傭兵として活躍

 4. 中国系  1% 人口は少ないが経済界を握り、有力財閥はほとんど中国系

 中国系はシンガポールのように、多数を占めていませんが、経済界を牛耳っているため、ジャワ人を始め、他の民族との間に根深い対立はあるとのことです。ジャカルタの日本人学校で、民族差別がそれほど問題にならなかったのは、中国系が少数者だったからだと、分かりました。興味深いのは、次の話でした。

 「そんな社会にあって、お金持ちの日本人は、」「現地で特別に優遇されていますから、子供たちも、」「日本人が上、みたいに勘違いしちゃうんでしょうね。」

 「私自身、こんな経験があります。」「赴任して一年目、シンガポーリアンの友人に、」「私なんて、どこへ行っても親切にしてもらえるし、」「現地のお友達もいっぱいできたし、シンガポールに来て本当によかった、」「て言ったら、」「それは貴方が日本人だからよと、あっさり言われた。」

 心から尊敬されているのでなく、日本人が現地でたくさんお金を使う、お得意さんだからだと、次第に分かり、氏はショックを受けたと言います。いつの頃の話だったかは忘れましたが、私の会社で、海外の現地法人で働く日本人社員の一月分の給料が、現地の人間の半年分になると、聞いたことがあります。物価の高い国内なら、普通の給料ですが、物価も人件費も安いアジア諸国では、こういう差が生じました。

 日本国内の感覚でお金を使うと、現地の人間から見れば、途方もない贅沢になります。今はもう、嘘のような話ですが、バブル経済が崩壊するまでの日本は、世界から金持ちの国と見られていました。社会党の田辺委員長が、「南京虐殺記念館」建設のため、三千万円の寄付をした当時の、中国での貨幣価値は、記念館の二つ三つ分に相当したと言われるのも、あながち誇張ではなさそうです。

 私の会社時代の思い出を披露しますと、あの頃の中国はまだ貧しく、共産党の幹部も慎ましいものでした。鄧小平氏の訪日後、「熱烈歓迎」時代が続き、日本が宝山製鉄所の建設を全面的に支援しました。巨大な設備が全て日本から輸送され、日本人技術者の指導で完成しました。

 その時打ち合わせのため、共産党の幹部が数人、協力会社の一つでしたから、私の会社も訪れ、ホテルを手配しました。幹部たちは、宿泊費用を浮かせるためなのか、外出もせず、ホテルの食事もせず、訪ねてみると、部屋で全員が即席ラーメンを食べていました。今の中国は世界第二の経済大国、軍軍大国となっていますから、これこそ、嘘のような話です。

 氏の談話は、平成4年から平成7年までの経験ですが、当時もまだ、日本人は金持ちと見られていたのでしょう。氏と同じで、田辺委員長も、大金を渡したため持ち上げられただけのことで、尊敬はされませんでした。その証拠に中国政府の反日教育は、その後鄧小平氏から、江沢民氏へ政権が変わると、激しさを増しました。単なる反日でなく、韓国と同じように、「憎しみ」と「攻撃」が加わり、現在の尖閣の領海侵犯にまでつながっています。

 本題は中国のことでなく、氏の談話ですから、元へ戻ります。

 「でも、そう言う多民族国家にいるからこそ、得られるものもたくさんある。」「たとえばあちらの人は、それぞれの民族の母国語があって、」「公用語の英語があり、他に広東語、マレー語など、」「3ヶ国、4ヶ国語が話せる人もざらにいます。」

 「日本語学校の生徒も、その気になって色々な民族と交流すれば、」「頭の柔らかい中学生なんて、たちまち英語や中国語をマスターしちゃうだろうし、」「国際感覚を養う、絶好のチャンスだと思うんだけど、」「それがダメ。」「変に日本人社会に閉じこもってしまって、外に出ないの。」

 ジャカルタの日本人学校で、石井校長が嘆いていた「テフロン現象」は、シンガポールでも同じでした。そうなりますと氏の意見は、海外で暮らす日本人の一面を切り取った、貴重な情報です。

 「子供が忙しすぎる、と言うのもあるんです。」「学校が終われば、みんな塾。」「すごいですよぉ。」「日本以上に過密スケジュールで、夜の1 0時、11時の帰宅なんてざら。」

 「現地に駐留している日本人は、みんなエリートでしょ。」「その子供ですから、目指すは東大・慶大クラス。」「親の心配は、帰国してから日本の受験体制に、」「子供がついていけるか、と言うこと。」「塾通いは、日本以上の過熱ぶりです。」

 氏は一般に言われる立派な先生でなく、むしろ自己中心的な、軽薄な部類の教師です。しかしその率直さが、日本語学校だけでなく、戦後日本の学校教育の問題点を鋭く突いています。

 「いじめ ?  やっぱり、それはありました。」「ただ、長続きしない。」「ほとんどが商社マンの子女なので、生徒の入れ替わりが激しいから、」「いじめの構図が定着しない、と言うメリットがあるんです。」

 「それに、いわば全員が転校生。」「しかも、世界を股にかける転校生ですから、みんな精神的にかなりタフ。」「日本人学校というところは、生徒も教師もサヨナラが多い人生なんで。」「お別れのたびに、ウエットになっちゃってちゃ、」「やっていけない世界ですね。」

 ジャカルタの日本人学校の書評の時にも引用しましたが、私はやはり次の詩で、『教師』の書評の最後を飾りたいと思います。平成元年に詩人ラジャ氏が、クアラルンプールで書いたと説明されていますが、綿貫氏や石井氏の言葉と合わせながら、再読しますと、心の痛むものがあります。戦前の日本人への褒め言葉としてでなく、戦後の日本人への警鐘として読めば、無視できないものがあります。長くなりますが、再度引用しますので、興味のない方はスルーしてください。

  かって 日本人は 清らかで美しかった
  かって 日本人は 親切でこころ豊かだった
  アジアの国の誰にでも
  自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
 
  何千万人もの 人の中には 少しは 変な人もいたし
  おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
  いなかったわけじゃない
 
  でも その頃の日本人は そんな少しの いやなことや
  不愉快さを超えて おおらかで まじめで
  希望にみちて明るかった
 
  戦後の日本人は 自分たちのことを 悪者だと思い込まされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  まじめに
  自分たちの父祖や先輩は
  悪いことばかりした残酷無情な
  ひどい人たちだったと 思っているようだ
 
  だから アジアの国に行ったら ひたすら ぺこぺこあやまって
  私たちはそんなことはいたしませんと
  いえばよいと思っている。
 
  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや 口先では すまなかった 悪かったといいながら
  ひとりよがりの 
  自分本位の えらそうな態度をする
  そんな 今の日本人が 心配だ
 
  ほんとうに どうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  本当の日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも 歯がゆくて 
  悔しい思いがする
 
   自分たちだけで 集まっては 自分たちだけの 楽しみや
  ぜいたくに ふけりながら 自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている その国と国民のことを
  さげすんだ目で見たり バカにしたりする
 
  こんなひとたちと 本当に 仲良くしていけるのだろうか
  どうして
  どうして日本人は
  こんなになってしまったんだ
コメント (2)
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