毎年8月15日になりますと、テレビと新聞が「終戦記念日」の報道特集をします。
「戦争の惨禍を忘れるな !」「繰り返すまい、悲惨な戦争。」「戦争の記憶を風化させてはならない。」などと、何十年と使い古され、擦り切れたような言葉を、飽きることなく活字にしています。
だいたい「記念」という言葉は、結婚記念日とか、卒業記念とか、めでたい日のために使われるものです。バカなマスコミどもは、いったい、あの日の何を記念すると言うのでしょう。
先ずもって、「終戦」という言葉からしておかしいのです。度重なる無差別爆撃と、二つの原爆によって、あの時の日本は徹底的に破壊され、国は焦土と化しました。占領軍に統治され、日本の歴史が否定された日です。それはまごうかたなき「敗戦」であり、「終戦」などという言葉の出番はどこにもありません。正しく敗戦という言葉を使っていましたら、「敗戦記念日」という行事の不合理さが誰にも分かったはずでした。
そうすれば全ての国民に、敗戦という事実の冷厳さや、国際社会での正義の理不尽さが痛感されたでしょうに。敗戦の惨めさから国民の目を外らし、事実を覆い隠し、ひたすら自己反省を強いるように仕向けたのは、まさにこの、「終戦」という不思議な言葉でした。
「反日・亡国のマスコミどもが、また日本の歴史を捻じ曲げている。」と、敗戦の日の、記念日特集が報道されるたび、私もまた飽きることなく憤慨し続けて来ました。
ところが、このたび『日本終戦史』の下巻を読み、びっくりいたしました。終わりに近い、190ページでの叙述です。書き残さずにおれなくなりましたが、これこそが、私にとっての記念だという気がいたします。
「昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の全面的敗北によって、終止符を打った。今や黒船に代わる占領軍の圧力のもとに、日本は第二の開国を迎えることになった。」
「ここで国民に要求されているのは、自発的、自主的態度でなく、服従の姿勢であった。」「日本の完全な敗北にもかかわらず、つとめて敗戦という言葉を避け、終戦、戦争終結と呼んだのは、かって大本営が敗退を転進と呼び、国民をごまかしたのと同じ手法である。」
「つまり、日本の敗北と降伏を民族的誇りを傷つけずに示しつつ、平常に戻りたいとする民衆の願望をも表すには、敗戦でなく、終戦の方が良かったのである。同時にこれは、戦争終結を受動的にしか受け入れなかった、民衆の状態を表し、敗戦に至った戦争責任を曖昧にする役割も含んでいた。」
私のように率直に述べていませんが、著者も私同様に「終戦」という言葉に異論を感じています。こんなところで、反日左翼教授の意見と一致するとは、予想していませんでした。しかし文全体を読みますと、反日教授の意見は私と相いれません。
彼は占領軍による統治を、希望の再出発ででもあるように喜んでいますし、相変わらず国民を民衆などと呼び、飼いならされた愚民が反抗もせず、批判もせず、政府の戦争責任も追及しなかったと、共産主義者丸出しの批判を展開しています。こんな主張が、私と一致するはずがありませんので、やっと安心いたしました。
私は本の読後感を、七回にわたって述べてきましたが、日々の無聊をまぎらすため、漫然と書評をしたのではありません。この間私の心にありましたのは、今上陛下の「退位」関するマスコミの報道でした。悲しみとともに日々の報道を追いながら、マスコミのこの報道姿勢こそが、かっての大本営発表と同じであると見ておりました。
今上陛下の犯された過ちについては、何度かブログで取り上げましたので、これ以上言及したくないと思いました。
文字通り忍び難きを忍びながら、「自分の身はどうなっても構わない」と、昭和天皇は停戦の決意をされ、マッカーサーと対面されてました。陛下の御前会議でのお言葉や、マッカーサーへ語られたお言葉を知るほどに、言わずにおれないものが生じてまいります。
昭和のあの時代、陛下の「私」はどこにもなく、公人としての昭和天皇がおられるだけでした。死を覚悟した意思表明でしたのに、表情を出されない陛下が、私には日本の君主のお姿と見えました。
しかるにこの度、今上陛下がNHKを使って語られたお言葉には、「公人としてのお姿」はなく、初めから終わりまで、「私ごと」が語られておりました。高齢となったため天皇の公務に耐えられなくなったので、なるべく早く地位を皇太子に譲りたいと、ご自分のご都合だけを国民に伝えられました。
マスコミは早速アンケート調査をし、国民の80%以上が退位に賛成していると、一斉に報道しました。このアンケートの数字は妥当なのか、いつの間にやったのか。それよりもまず、このような国家の重大事を、内閣に知らせず、宮内庁の長官も知らない間に、誰がNHKにリークしたのか。NHKは、誰の指示でこの重大ニュースを報道したのか。
あれほど戦前を批判したマスコミなのに、大本営と同じ手法で、陛下を持ち上げる報道を、各社横並びで何故するのか。無批判なマスコミの姿は戦前も戦後も変わっていないと、書評をしながらずっと憤りを抑えておりました。
その上で、今上陛下について申し上げねばなりません。
「陛下のなされておりますことは、憲法に違反しております。」
長い言い訳や弁明は不要です。今上陛下の一連のご行為は、その出発点からして「憲法違反」です。しかもその内容は、「私ごと」ばかりです。ご自身の命すら投げ出され、戦争を終わらせられた昭和天皇の苦衷を察しますと、今上陛下に申しあげたくなるのは無理もないと、そう考える自分がいます。
日本が法治国家だというのなら、政治家でも裁判官でも、あるいは何でも口を挟みたがる文化人が、どうして誰一人として憲法違反を言わないのでしょう。暴走し始めたら、誰にも止めることができない天皇の権威と、陛下が持たれている権力の大きさを、私は目の当たりに致しました。
NHKのお言葉報道以来、政府は慌てふためき、国会で政治家たちが騒ぎ、退位関連の法整備に取り組んでいます。この状況を目にされながら、陛下は「憲法」をご自分が守っているとお考えなのでしょうか。天皇は政治に関わってはならないと、憲法が定めております。何かをなさるときには、内閣の助言と補弼が必要と明記されています。したがって、退位問題は、何もかもが異常で、不純なものが見え隠れしております。
昭和天皇が命をかけて守られた日本が、今上陛下の手によって、崩壊の道を踏み出していると、私は言います。ネットが発達した現在ですから、政府やマスコミが今上陛下を屁理屈で正当化しましても、やがて事実が国民に知れ渡ります。実態があからさまになった時、果たして国民は、皇室への敬愛の念を失わずにおれるのでしょうか。
今上陛下のみならず、新天皇のご一家が、嫌悪や蔑視の目で見られる日が来ましたら、皇室は存続できるのでしょうか。その時に喜ぶのは、きっと反日の共産主義政党とそこに集う人間たちです。すでに今上陛下の退位宣言が、反日野党とその親派たちに歓迎されておりますことを、保守を自認する方々はなんと捉えておられるのでしょう。
長い時間をかけこの書評を続けてきましたが、私が述べたかったのは、今上陛下の「憲法違反」についてでした。最初から読まれた方には、私がなぜこんな手間暇をかけ、陛下の「退位問題」に言及したのか、きっと分かって頂けると思料いたします。
長い日本の歴史の流れの中で、今回の「退位問題」の不自然さと異常さを理解してもらいたいと、私の願いはその一点であります。