ねこ庭の独り言

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バターン死の行進

2017-04-16 18:03:08 | 徒然の記

 四月四日付の千葉日報で、「バターン死の行進」と題するルポ記事を読みました。大東亜戦争中、フィリピンで日本軍の捕虜となった米兵が、捕虜収容所までを歩いて移動したため、多くの者が死亡したという事件です。

 今年で75年となる節目にあたり、共同通信社の石橋拓郎記者が、出発地のマリベレスから10キロを歩いてみたという体験記事でした。道路脇に立つ「バターン死の行進」の石碑を眺めながら、氏は現地のフィリピン人記者と二人で歩きます。

「石碑をふと眺めると、この辺りでも多くの兵士が、水も食料もなく、命を落としたのだと実感させられる。」「気温が30度を超え、日光が肌を突き刺し、汗が噴き出す。」「同行したフィリピン人記者も、口数が少なくなった。」「フィリピンの気候に慣れていても、過酷なようだ。」

「沿道に住むディアナさんに、話を聞いた。」「当時は幼く、はっきりした記憶はないが、大人たちの話から、」「日本兵はろくでもないと、感じた。」「その思いは、今も変わっていないという。」

「二時間強で、目的の10キロ地点に着いた。」「10キロでも、頭が朦朧とする。」「力尽きた兵士たちが、最後に見たのはどんな風景だったのだろうと、」「想像を巡らせるばかりだった。」

 地図や石碑や沿道の写真を加え、記事は新聞の半ページのスペースを占めていました。この記事だけを読みますと、日本軍が、捕虜となった米国兵士に、ひどい仕打ちをしたのだと思わされます。当時の状況をまったく書かない氏の記事に、私は違和感を覚えました。いつものように、ネットで「バターン死の行進」を検索し、知り得た情報に、番号を振ってみました。

  1. 全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

  2. 1942年(昭和17年)、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したバターン半島の米比軍は、7万6千名もの多数が捕虜となった。

  3. 「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、マニラ裁判で死刑になっている。でもこの行進はトラックがなかったからで、日本兵だって歩いていた。決して捕虜を殺すために歩かせたわけではない。

 4. フィリピンの失陥は、米国史上における米軍最大の敗北であり、バターン死の行進は、 降伏した米兵・フィリピン兵に対する最も残虐な戦争犯罪であった。

  5. ニューレンベルグ裁判の太平洋戦争版である極東軍事裁判は、日本軍によるこの行進は、ナチス支配下に行われた、囚人や捕虜への健康や生命を顧みない、強制的な移動と同様とみなされた。

 当時の行進に参加していた、今井武夫大佐の話を引用してみます。

「然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、」「単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、」「数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。」

「士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、」「争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。」

「しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、」「彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。」「戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、」

「初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。」

 日本軍の何倍もいた捕虜に、十分な食料を与えるだけの備蓄が無かったという事実も、忘れてはなりません。捕虜だけが歩いたというのではなく、重装備の日本兵が一緒に歩いていたのに、記事では一言も触れられていません。

 情報を得た結果として、今の私が重要視しますのは、上の4番目の項目です。フィリピンの失陥が、米国史上における米軍最大の敗北であるとすれば、当然それはマッカーサー自身の汚点であり、屈辱であるはずでしょう。ありもしない南京虐殺を捏造した東京裁判ですから、バターンでの捕虜移動を、残虐そのものの「死の行進」として記録に残せば、マッカーサーには好都合な話となります。

 たとえ偏見と言われても、私は日本人ですから、共同通信の石橋記者のように、「日本軍邪悪説」をそのまま語る気にはなれません。むしろ氏に対して、「もう少し事実を調べた上で、記事を書くべきでないのか。」と、苦言を呈したくなります。戦後70年が経過した今でも、こんなGHQへの提灯記事を書く記者がいるなど、私にはその方が驚きです。

共同通信社も、そろそろまともな通信社らしく、事実を調べた記事を配信しなくてどうするのでしょう。日本の会社として、恥ずかしいのではありませんか。

 [ 追 記 ] 日本軍の軽率さを批判する意見もありましたので、追記いたします。伊藤正徳氏の「帝国陸軍の最後」という著書に、こう書かれています。

 「ただ、こういうことは言い得る―俘虜を好遇する意思が十分にあったならば、モ少し苦痛のない後送法は実行できたであろう「一日の行進距離を縮めること。マリベレスとサンフェルナンドの中間に食糧の貯蔵所をつくり、多少なりとも補給を考慮すること。」

「幹部にトラック輸送を工夫すること等々、とにかく尽くせるだけは尽くしてみることであった。」「それを、本間軍は逆に放擲したという憾みがあった。」

 それでも石橋記者や共同通信社に対する、私の苦言は変わりません。今井大佐の話も、伊藤正徳氏の叙述も調べ、どちらも記事にするという姿勢が求められるのではありませんか。

 

コメント (4)
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