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『日本終戦史・中巻』 ( 明治の元勲と昭和の軍人の違い )

2017-04-19 17:44:07 | 徒然の記

 『日本終戦史・中巻』( 昭和37年刊 読売新聞社 ) を、読書中です。

上巻は、左翼学者の反日書と高を括って手にしていましたが、中巻を読むうちに、むしろこの書は、敗戦前後の日本を語る貴重な資料でないのかと、改めて向き合っております。

 多くのマスコミが語っている「軍部の独走」が、具体的にどんなものであったか、詳しく述べられています。戦後の評論家や文化人たちが口を揃え、「日本は無謀な戦争をやった。」「間違った戦争をした。」と非難しておりますが、世論に迎合する合唱の軽さも、発見しました。

 勝利したため批判も少なくて済んでいますが、明治時代の日清、日露の戦争にしても、当時としては間違いなく「無謀な戦争」でした。一旦敗れれば、国がなくなってしまうと、捨て身の覚悟で突入した戦争で、諸外国は日本の敗北しか予想せず、同情する国さえありました。

 ですから、同じ捨て身の戦いだった大東亜戦争を、敗戦後に後づけで批評するのは、無責任で一方的な意見と、私には思えてなりません。あの戦争を正しく批判すると言うのなら、初戦の勝利に酔うばかりで、同時並行すべき終戦工作を軍が疎かにしたという事実こそ、もっと語らなくてならないのではとそういう気がしてなりません。

 日清・日露を戦った明治の元勲たちは、戦争開始と同時に戦争の終結を見据え、諸外国との折衝を始めていました。小国日本は、短期決戦で勝利しても、長期の戦いをする国力はないと、彼らは現実を把握していました。幕府を相手に命がけの戦いをした元勲たちの知恵を、昭和の軍人が見習わなかったという奢りをこそ、批判すべきなのです。

 明治の元勲はいわゆる文民でなく、武士であり軍人でしたから、首相になっても外務大臣になっても、軍事について指揮をし、詳細な情報も得ていました。大東亜戦争時の政府には元勲がすでに亡く、天皇の統帥権に直結した軍が出来上がり、政府と軍は別組織として機能していました。首相その他の大臣に軍事情報の詳細を知らさず、陸海軍のトップが、政府を無視し軍務を進めました。

 林銑十郎や阿部信行、米内光政や東条氏など、軍人の大将も首相になっていますが、陸海軍そのものが独立した組織として振る舞い、軍人首相でも統制できない状況になっていました。東京裁判で被告席に立たされた東条氏が、こうした軍の実態を説明しています。

  「陸軍にありては、三長官、すなわち陸軍大臣、参謀総長、教育総監の意見の合致により、陸軍大臣の補弼の責任において、御裁可を仰ぎ、決定を見るのであります。海軍のそれも、また同様であります。」

 当時の日本では、陸海軍がそれぞれに作戦を立てて実行し、相互の連携が図られていませんでした。ですから東京裁判で、対英米作戦計画について、首相であった東条氏はこう述べています。

  「海軍統帥部が、この間何を為したるかは、承知致しません。」

 政府を無視して作戦計画を遂行する陸海軍、しかも海軍と陸軍には意志の疎通がない。東京裁判で東条氏が述べているのですから、その通りなのでしょう。国運をかけた大戦争をするのに、元勲のいた明治政府なら、考えられない事態だったはずです。

 大東亜戦争の反省や批判をするのなら、ここを考えなくては核心が外れます。当時の日本軍は確かに強く、他国に負けない力を持っていましたし、「不滅の神国」という慢心もここから生まれました。そんな軍の奢りを、戦後の批評家は追求すべきだったのではないでしょうか。

 「短期的に勝利を収めても、日本の国力では長期戦に耐えられれない」という、明治の政治家たちの英知を受け継いでおれば、開戦と同時に、終戦工作を行うことの重要性を忘れなかったはずです。

 もっと言えば、終戦工作を難しくするドイツとの同盟や、ソ連との条約締結など、ありえない選択となったのかもしれません。「たら、れば」の論は、歴史を語る姿勢でないと言いますから、私の意見になんの意味もありませんが、初戦からの終戦工作を軽視した軍部の驕りは、いくら指摘しても足りない気がいたします。

 今後日本が憲法を改正し、自衛隊を国軍とする日が来たら、この愚を繰り返さない英知を絞らなくてなりません。戦争反対とか、平和憲法遵守など、国の存立を危ういものにする反日左翼の妄言は無視するとしましても、日本の軍の在り方や、暴走の抑止策を確立することは重要です。私たちが昭和の歴史から学ぶべきとすれば、ここだと思います。

 不滅の神国思想から逃れられなかった軍人の実例を、本から紹介します。

 「独ソ和平工作にしても、対華工作にしても、戦況が有利なうちは、軍事的勝利に甘い期待をかけ、いささかも外交的譲歩をしないというのが、日本側、特に陸軍の態度であった。」「そして戦局が行き詰まってから、始めて手を打つということで、後手にばかり回っている。」

 「軍事的勝利を予想した終戦方針に変わって、妥協による終戦方針を考えようとする機運が熟し始めたのは、昭和18年の後半からであった。」

 この本のおかげで、終戦工作が複数ルート存在していたことを知りました。下記の5番だけを学校で習った記憶がありますが、他の和平工作については今回教わりました。

  1. 藤村中佐による「ダレス工作」・・アレン・ダレスへの働きかけ

  2. 重光葵外相による「ハッゲ工作」・・アレン・ダレスへの働きかけ

  3. スエーデン国王による「小野寺工作」・・イギリス王室への働きかけ

  4. 緒方竹虎国務相による「対華和平工作」・・蒋介石への働きかけ

    5.  近衛公による「対ソ和平工作」・・ヤルタ会談以後だったため、ソ連が拒絶

 これらに関する詳細の説明を省略し、総括的叙述を紹介します。

 「留意したいのは、対ソ工作を除いて、すべて個人的な工作であったことである。」「日本が正式に和平を取り上げたのは、最高戦争指導会議で決定された、対ソ交渉以外になかったのである。」

 「ハッゲ工作のごときは、外相の任にある重光によるものだから、本格的終戦工作と見なして良いだろうに、それでもなお個人的として扱われた。」

 海軍では軍令部総長豊田副武が、藤村中佐の提案を取り下げ、陸軍では梅津参謀総長が小野寺少将の意見を退け、逆に詰問文書を発送しています。

 「帝国が、必勝の信念をもって戦争を継続する決意を有することは、貴官も承知のはずなり。」「しかるところ、ストックホルムにて、中央の方針に反し、和平工作をするやの情報あり。」「貴官は、その真相を調査の上、報告ありたし。」

 これが敗色濃くなった昭和20年3月の話だというのですから、不滅神話に縛られ、現実が見えなくなった軍人の姿が浮かびます。世界各地に駐在する武官たちの方が、大本営で指揮を執る指導層より、的確で切実な情報を得ているはずなのに、彼らは無視しました。

 と言うより、たとえ分かっていても、聖戦遂行の熱狂の中で、和平を言い出す勇気に欠けていました。ここまで読み進みますと、昭和の戦争指導者と、明治の元勲の聡明さには、歴然とした違いがあることが分かります。

 私もまた、結果だけ見て批判をするという、批評家たちの愚を犯しているのかも知れませんが、明治の政治家と比較し、昭和の指導者の器の小ささと言うか、狭量さと言えば良いのか、嘆きたくなるものがあります。

 本日はここで終わりますが、立派な軍人がいたことや、彼らの多くが悲惨な最期を遂げたことなど、明日は続きを述べたいと思います。 

 〈 追記 〉・・ 

  続きを述べるより下巻を読む方が先だろうと、そんな思いに駆られてきましたの

 で、予定を変更し中巻の感想につきましては、ここで終わりと致します。

コメント (3)
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