義家弘介氏著 「ヤンキー先生の教育改革」(平成17年 幻冬社刊) と、「ヤンボコ母校北星余市を去るまで」(平成17年 文芸春秋社刊) 、を読み終えた。
氏は長野県に生まれ、今は自民党所属の町村派衆議院議員だ。ついこの間まで、文部科学省の政務官でもあった。昔赤旗に寄稿したことがあるらしく、共産党員だったという噂もある。
何となく不思議な人物として記憶していたので、先日図書館の廃棄本の中から、この二冊を貰って来た。学校では教師に反抗して暴れ、家庭内では、家族に暴力を振るい、親から勘当され、里親に預けられ、問題児ばかりが集まる、北海道の高校(北星余市)へと引き取られる。
教師の愛情と献身に支えられ、彼は更生し、やがて母校の教師となって赴任する。
自分の過去の経験を踏まえ、問題児ばかりの母校で、がむしゃらに生徒と向き合い、彼らと共に氏自身も成長する、という自伝でもある。
貧しかったけれど優しい両親がいて、大学まで行かせてもらい、彼に比すれば、何事も無く卒業し、会社員となり、現在年金暮らしをしている私は、過酷だった彼の半生を知るだけで、ため息がもれる。努力し踏ん張って生きた彼に、大したものだと脱帽する。
「教師は、生徒の人生に責任を持てないが、生徒の成長には、責任が持てる。」「光を求めるな。光のある所には、必ず影がある。光でなく、暖かさを求めていけ。待つのではなく、自分から近づけ。」「教職は聖職だ。聖なる生徒に触れる仕事だ。」
彼自身の体験からでたと思われる言葉が、沢山出てくる。素晴らしいと思う。
けれども、率直に言って、私は彼の本に心を動かされなかった。
著書の二册を二日間で読んだという事実からして、それが証明される。年金生活者だから四六時中暇で、本を読むしかやることがないだろうと、以前はそう思っていたが、日々の雑事は結構ある。家内にばかり押し付ける訳に行かないから、掃除、洗濯、料理、買い物など分担し、ついでに庭仕事などに、楽しい時間と労力を費やす。
読書するのは、就寝前の二時間くらいだ。
普通の本なら一週間かかり、ちょっと面倒な本になると、十日を要する。氏の本の二冊が二日で読み終えられたのは、読み飛ばすくらいの中身だった、と言うことでもある。彼の半生の凄さは、私には耐えられないし、這い上がった彼の強さと真摯さに、敬服もする。
金八先生はテレビドラマの話だったが、すべてを生徒に向けていく、本物の氏の日々は、そんじょそこらの教師には、真似の出来ない凄さだ。しかし一冊の本の感想を述べる時の基準は、作者の過去や努力の多寡でなく、やはり本自体の中身となる。
負けるな、挫けるな。俺もやるから、ついて来いと、力の限り奮闘する教師である氏に、今ひとつ足りないものが私には見える。
つまり、何のために頑張るのか。何のために、負けまいとするのか・・・・・。
個人個人は、何処で生きているのか。
普通の人間なら、暖かい家庭があり、両親や兄弟がいて、地域の社会があり、個人は気付かないけれど、社会に守られて生存している。社会とはふる里であり、国であり、大切な国土であると、そこまでのつながりを教えるのが教育であろうと、私はいつも思っている。
一足飛びに国家や国民のことを教えなくとも、過酷な国際社会では、子供でも老人でも、女でも男でも、惨たらしく死んで行く国があることを教え、自分を守ってくれている国と言うものの存在を教え、そこから自分を考えることを学ばせる。私は、自分が反日の教育を受けて来たから、いっそうその大切さを感じる。
自分の国の歴史への誇りや、自分の国を大切にする心など、そうしたものが欠けてしまったから、生きる目標のない人間が増えたのだと、そう信じている私には、氏の教育に欠けたものを感じるのがもどかしい。
まして自民党の衆議院議員であるのなら、そうした保守の精神を、一本通して欲しいではないか。いつまでもヤンキー先生でなく、日本の教師として、議員として、過去の熱意と踏ん張りを、未来の子供たちのために使ってもらいたい。
そうであれば、きっと私は、氏の著作に感動したのではなかろうか。
国の大切さや、国への誇りを語れない教師なんて、いったい何だというのだろう。国の守りと、軍国主義の区別もつけられず、何でも日本が悪いと断定するのなら、そんな者は日教組に幾らでもいるし、とてもでないが尊敬できない。
国も軍隊も、平和も戦争も、出て来ない氏の著書について、ここまで言うのは酷なのかも知れない。けれども、そこまで言いたくなるのは、非凡な氏への期待でもあると・・、そんな気もする本だった。