高校時代、相思相愛の人がいた。
ただ、お互い見つめあっているだけだった。
そのまま卒業、彼女は日本女子大学家政学部に。
大学を卒業するとき、彼女に手紙を書いた。
返事がきて、高島屋の建装部に勤めることになりました、社会人としての生活についていけるか不安です。とあったのを思い出す。
こんなことを書いたのは、世田谷美術館の、暮らしと美術と高島屋、なる展覧会を観てきたからだ。
高島屋は、京都に飯田新七が、たかしまや飯田呉服店として開業したのが始まりという。
まずは、美術と高島屋、三越は、1907に美術部を、高島屋は、1911にやはり美術部を開いたという。
京都の方の作家が沢山出ていて、須田国太郎もある。
1950に大坂店で、須田国太郎展をやったという。
民芸との関わりは、川崎堅一という高島屋の人の河井寛次郎コレクションだ。425点のコレクションを京都近代美術館に寄贈した。
次に装飾だ。彼女を思い出したのもこのコーナーだ。
高島屋の装飾事業は幅広く、船から、JR東日本スーパービュー踊り子号から、法務府までまあいろいろ。
それから、衣装と来て、最後は、現高島屋社長と、セゾンの堤清二さんとの対話のビデオ、40分もある。
高島屋というのは、街づくりに貢献しているそうだ、横浜高島屋を作った時も反対運動はあったが、価値を造り出したと堤さんは評価、それに社長鈴木さんも、日本橋店もこれから6年かけて改装するが、地域の再開発を目指したいと。
あと高島屋は、シンガポールに大きな店を持っているが、日本の企業ではなくその国の企業としてまず、そこに高島屋らしさをどう融合するかが課題と応えておられた。
老舗百貨店の意気込みを感じるとともに、懐かしく高校時代のKさんを思い出した。
ただ、お互い見つめあっているだけだった。
そのまま卒業、彼女は日本女子大学家政学部に。
大学を卒業するとき、彼女に手紙を書いた。
返事がきて、高島屋の建装部に勤めることになりました、社会人としての生活についていけるか不安です。とあったのを思い出す。
こんなことを書いたのは、世田谷美術館の、暮らしと美術と高島屋、なる展覧会を観てきたからだ。
高島屋は、京都に飯田新七が、たかしまや飯田呉服店として開業したのが始まりという。
まずは、美術と高島屋、三越は、1907に美術部を、高島屋は、1911にやはり美術部を開いたという。
京都の方の作家が沢山出ていて、須田国太郎もある。
1950に大坂店で、須田国太郎展をやったという。
民芸との関わりは、川崎堅一という高島屋の人の河井寛次郎コレクションだ。425点のコレクションを京都近代美術館に寄贈した。
次に装飾だ。彼女を思い出したのもこのコーナーだ。
高島屋の装飾事業は幅広く、船から、JR東日本スーパービュー踊り子号から、法務府までまあいろいろ。
それから、衣装と来て、最後は、現高島屋社長と、セゾンの堤清二さんとの対話のビデオ、40分もある。
高島屋というのは、街づくりに貢献しているそうだ、横浜高島屋を作った時も反対運動はあったが、価値を造り出したと堤さんは評価、それに社長鈴木さんも、日本橋店もこれから6年かけて改装するが、地域の再開発を目指したいと。
あと高島屋は、シンガポールに大きな店を持っているが、日本の企業ではなくその国の企業としてまず、そこに高島屋らしさをどう融合するかが課題と応えておられた。
老舗百貨店の意気込みを感じるとともに、懐かしく高校時代のKさんを思い出した。
学校に行ってた頃の記憶がとても薄いような気がしています。
すっかり忘れてしまっています。
捨ててしまったのでしょうか。
べつに苦い思い出があるわけでもないし、
でも、記憶の断片を拾い上げて、
どうこうする気にもなれないし。
なんだか記憶に厚みが足りない自覚がありますが、
こんな自己申告は、他人と比べるのが難しいですね。
もの覚えが悪い、ひと言でいえばそうなりますが。