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言葉のチカラが信じられていたころ

2007-03-13 21:39:32 | アート・文化

当たり前だがテレビもネットもない時代があった。

人々の情報源は活字、とりわけ新聞だ。

明治23年、大日本帝国憲法の発布という騒々しい時代に二つの新聞が創刊された。

ひとつは西洋探偵小説輸入の先駆者、黒岩涙香率いる「萬朝報」で一部一銭という格安で由来は「よろず重宝」から来ており、もうひとつは秋山定輔率いる「二六新報」で由来は「二六時中報ずる」から来ているという。

この二つの新聞を軸に明治新聞人の気概を回顧した「言葉の戦士」の展覧会をまたまたインターネットミュージアムさんの招待券で日本新聞博物館に観に行く。

前者は幸徳秋水やら内村鑑三やらがメンバーで後者は尾崎紅葉などがメンバーだったようだ。

この二つの新聞社のジャーナリズムは日清戦争が終わると遺憾なく発揮される。

萬朝報のほうは妾擁護の立場から権力者を切って捨てる。スキャンダル批判だ。

二六新報のほうは三井財閥批判だ、タバコの岩屋天狗攻撃だ。

で日本最初のメーデーを組織したりして大いに盛り上がる。

当時の部数は、二六新報、大阪朝日、大阪毎日、萬朝報、報知の順だったという。

日露戦争で趣が変わってくる。

日露戦争に反対したのは毎日や東京日日新聞だったというが、萬朝報も最終的に戦争支持したため内村や幸徳が社を去るという事態になる。

二六新報の秋山も議員になったりするが、孫文と知り合ったりしてロシアのスパイと目され、活動に権力の力が介入したようだ。

それでも辛亥革命を支援したりして活動は続けたようだが。

翻って今の新聞にどれだけ力があるのだろうか。

朝日の「ジャーナリスト宣言」も他社の記事盗用で撤回せざるを得なくなっている。

言葉のチカラーそれはどこまで通用するのであろうかいささか考えさせられた。