温故知新No2

静岡県の牧之原市から、盆栽、野球審判、蕎麦打ち、おやじバンド、その他徒然なるままに、ブログしています。

大学校舎55・58年館

2010-12-17 22:05:09 | 日記・エッセイ・コラム

大学のOB、山口県、岸氏から今日は、懐かしい母校校舎の映像の資料を紹介された。

私の大学母校の校舎は、今では都内及び町田にあるが、私が卒業した当時は、都内だけ。

そのいくつかある都内校舎も老朽化で、順次建て替えられている。

そして都内の本校敷地内にある校舎の中で唯一残っているものが、55年館と58年館。

ただしその校舎も、時代の流れとともに取り壊しの時期に来ている。

このことは、5月に石坂教授から、その計画を知らされた。

http://blog.goo.ne.jp/oishi21/d/20100513

私にとっては、良き大学時代の想い出の校舎ということで、いまでもその残像を糧に片田舎で精いっぱい動き回っているつもりだが、その校舎が取り壊されるということには、特にどうしようもなく反対という気持ちは、起きてこない。

もうすでにあれから30年。

歴史的価値のある建築物の取り壊しは、それは、そう簡単にしてもらっては困るが、一方で、相当の理由があれば、やむを得ないと考える。

でも、世の中には、やはりこういう時には、さまざまな立場から反対する方々がいる。

最近グループ化したそんな皆さんのコメントに、次のようなものがあった。

「55年館、58年館は、すでに取り壊された53年館に続いて、戦後の日本の復興期に、新たな日本の未来を担う若者の教育の場として、当時、〇〇大学建築学科教授であった、大江宏によって設計され、建設されました。
 前面をガラスとスチールの黒いラインで構成するその清冽なデザインは、戦後日本を代表する現代建築として、様々な評価を受け、1959年には文部大臣賞芸術選奨および日本建築学会作品賞を受賞しています。
 その姿は、現在でも決して古びることなく、日本国内だけでなく、世界に誇れる学校建築として、外濠の緑豊かな景観の一部を形成しています。」

私が入学時期初めて校舎を見た時、中はゴミだらけ、ビラの張り紙だらけの校舎だな、と思ったが、外見はモダンな建築物という印象であった。

この校舎にお世話になった多くの学生は、この校舎に思い入れがあり、取り壊しなどは言語道断と思うのかもしれない。

以下は、岸氏から紹介された竣工当時の資料。

http://www.55-58saisei.sakura.ne.jp/data/archives/58_rakusei_pamph.pdf

そして、55,58年館の取り壊しを考える会の方々のHPから、素晴らしい55.58年館の映像。

http://www.55-58saisei.sakura.ne.jp/gallery/photo4/photo.html

http://www.55-58saisei.sakura.ne.jp/gallery/photo1/photo_k.html

http://www.55-58saisei.sakura.ne.jp/gallery/photo2/photo_y.html

これらを見て、あらためて、私たち母校の校舎の行く末を今、考えることが必要かと思う。

コメント (1)
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