*3年ぶりの千鳥ヶ淵の桜
満開の桜の季節、3月30日、パンデミックで自粛していた千鳥ヶ淵の花見に、3年ぶりに出かけた。夕方、靖国神社をスタートし千鳥ヶ淵へ。
人出は例年より少ないが、ほどほどには混んではいる。みんなマスクをしての花見だ。それにしても、コロナウィルスの3回目のワクチンは打ち終わったが、いつまでマスクをするのだろう。
桜は満開で、ちょうど見ごろである。皇居の濠に向かってしなるようになびく桜の枝が織りなす花の舞は、変わらず絶妙であり絶品であった。
今年は例年にも増して、濠に浮かぶボートの数が多かった。それに、行き交う外国人も多いように感じられた。いまだパンデミック下であるので観光客ではないだろうから、日本に住んでいる人たちであろう。
世情が不安定であるから、みんな、桜でも見ようという心情であろうか。
*日比谷の松本楼へ
いつものように千鳥ヶ淵から濠に沿って歩いて、日比谷に出た。
日も暮れた頃なので、夕食である。
日比谷公園を抜けて有楽町近くの日比谷界隈の店へ行こうと思っていたのだが、公園の中を歩いているうちに建物の灯りが見えたので気が変わった。そうだ、公園内にある松本楼へ行こうと思いたったのだ。
「松本楼」は、西洋風の日比谷公園が1903(明治36)年に開園するにあたり開業した洋食店である。当時ハイカラ好きの間では人気だったようで、戦前には日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボースとの縁も伝わっている。
若いときから日比谷や日比谷公園には何度も来ていて、私の好きな界隈なのだが、松本楼は入ったことがなかった。若いときは、何だか敬遠する店だった。
店内は明るいながら、老舗の持つ落ち着いた雰囲気を漂わせている。
少し歩き疲れた脚を慰めるために、ソーセージとエビの唐揚げを肴にビールを一杯。そして、ここの看板メニューともいうべきハイカラビーフカレーを食べた。
*銀座裏通りの三原小路へ
松本楼を出たのがまだ夜8時だ。時間はあるので、銀座に行こうと思いたった。
いつも気まぐれな行動だが、銀座のクラブに行こうというのではない。気になっていた、知人が話した銀座の裏通りを探そうと思ったのである。
その人の話では、銀座を散歩しているとき、ふと小さな通りに入り込んだ。その通りは、普段知っている銀座とは思えない雰囲気があった。
その通りの中ほどにある和風の食の店の前では、四角い煉瓦火鉢が置いてある。そこで小さな少女が、炭火で小さな餅を上手に焼いていた。
思わず、「いつも焼くの?」と訊くと、「う~ん? お客さんの日だけ」と。「上手ね」と言うと、「う~ん?」と、あどけない返事とのこと。
その通りは「三原小路」と言った。
「三原通り」は、銀座中央通りと昭和通りの間を走っている通りである。地下鉄東銀座駅の交差点が「三原橋」で、今は知らないがこの地下街に、ピンク映画を上映している映画館があった。
その「三原小路」は銀座5丁目というので、おおよその検討をつけて中央通りの裏通りを歩いたが、それらしい通りは見つからない。地元の人とおぼしき人に訊いて、その通りの入口にたどり着いた。
ここに通りが、と思わせるところに、その通りは存在した。
石畳の小さな通りに、小料理屋や中華などの店が左右に並んでいる。急に、何だか地方都市の通りに迷い込んだ雰囲気である。
途中、和食店の前に例の煉瓦火鉢が置いてある。店は京都の町屋を思わせる、思ったよりきれいな造りだ。この夜は、誰も座って焼いてはいない。店の中から女将とおぼしき人が、何やら料理とおぼしき品を抱えて、道の前の別の大きな店に入っていった。
店を過ぎ通りの端に出ると、赤い幟が並んでいるのが目に入る。そこは、よく見ると「あづま稲荷神社」である。小さな通りに小さな稲荷神社が佇んでいる。
通りの入口には、「三原小路」と通りの名前を書いた明かりが、在処(ありか)を主張するかのように光っている。
どうして、この通りを今まで見かけなかったのだろう。銀座4丁目から目と鼻のすぐのところにあるというのに。
「小路」とは、侘しさとロマンを内に秘めた情緒のある通り名だ。
日を改めて、ゆっくりもう一度来なくてはいけない。そして、ゆっくりと一杯飲まなくては……
三原小路の 灯りのように
待ちますわ 待ちますわ
どうせ気まぐれ 東京の銀座裏通り
――「池袋の夜」(歌:青江三奈、作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)の歌に合わせて……
満開の桜の季節、3月30日、パンデミックで自粛していた千鳥ヶ淵の花見に、3年ぶりに出かけた。夕方、靖国神社をスタートし千鳥ヶ淵へ。
人出は例年より少ないが、ほどほどには混んではいる。みんなマスクをしての花見だ。それにしても、コロナウィルスの3回目のワクチンは打ち終わったが、いつまでマスクをするのだろう。
桜は満開で、ちょうど見ごろである。皇居の濠に向かってしなるようになびく桜の枝が織りなす花の舞は、変わらず絶妙であり絶品であった。
今年は例年にも増して、濠に浮かぶボートの数が多かった。それに、行き交う外国人も多いように感じられた。いまだパンデミック下であるので観光客ではないだろうから、日本に住んでいる人たちであろう。
世情が不安定であるから、みんな、桜でも見ようという心情であろうか。
*日比谷の松本楼へ
いつものように千鳥ヶ淵から濠に沿って歩いて、日比谷に出た。
日も暮れた頃なので、夕食である。
日比谷公園を抜けて有楽町近くの日比谷界隈の店へ行こうと思っていたのだが、公園の中を歩いているうちに建物の灯りが見えたので気が変わった。そうだ、公園内にある松本楼へ行こうと思いたったのだ。
「松本楼」は、西洋風の日比谷公園が1903(明治36)年に開園するにあたり開業した洋食店である。当時ハイカラ好きの間では人気だったようで、戦前には日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボースとの縁も伝わっている。
若いときから日比谷や日比谷公園には何度も来ていて、私の好きな界隈なのだが、松本楼は入ったことがなかった。若いときは、何だか敬遠する店だった。
店内は明るいながら、老舗の持つ落ち着いた雰囲気を漂わせている。
少し歩き疲れた脚を慰めるために、ソーセージとエビの唐揚げを肴にビールを一杯。そして、ここの看板メニューともいうべきハイカラビーフカレーを食べた。
*銀座裏通りの三原小路へ
松本楼を出たのがまだ夜8時だ。時間はあるので、銀座に行こうと思いたった。
いつも気まぐれな行動だが、銀座のクラブに行こうというのではない。気になっていた、知人が話した銀座の裏通りを探そうと思ったのである。
その人の話では、銀座を散歩しているとき、ふと小さな通りに入り込んだ。その通りは、普段知っている銀座とは思えない雰囲気があった。
その通りの中ほどにある和風の食の店の前では、四角い煉瓦火鉢が置いてある。そこで小さな少女が、炭火で小さな餅を上手に焼いていた。
思わず、「いつも焼くの?」と訊くと、「う~ん? お客さんの日だけ」と。「上手ね」と言うと、「う~ん?」と、あどけない返事とのこと。
その通りは「三原小路」と言った。
「三原通り」は、銀座中央通りと昭和通りの間を走っている通りである。地下鉄東銀座駅の交差点が「三原橋」で、今は知らないがこの地下街に、ピンク映画を上映している映画館があった。
その「三原小路」は銀座5丁目というので、おおよその検討をつけて中央通りの裏通りを歩いたが、それらしい通りは見つからない。地元の人とおぼしき人に訊いて、その通りの入口にたどり着いた。
ここに通りが、と思わせるところに、その通りは存在した。
石畳の小さな通りに、小料理屋や中華などの店が左右に並んでいる。急に、何だか地方都市の通りに迷い込んだ雰囲気である。
途中、和食店の前に例の煉瓦火鉢が置いてある。店は京都の町屋を思わせる、思ったよりきれいな造りだ。この夜は、誰も座って焼いてはいない。店の中から女将とおぼしき人が、何やら料理とおぼしき品を抱えて、道の前の別の大きな店に入っていった。
店を過ぎ通りの端に出ると、赤い幟が並んでいるのが目に入る。そこは、よく見ると「あづま稲荷神社」である。小さな通りに小さな稲荷神社が佇んでいる。
通りの入口には、「三原小路」と通りの名前を書いた明かりが、在処(ありか)を主張するかのように光っている。
どうして、この通りを今まで見かけなかったのだろう。銀座4丁目から目と鼻のすぐのところにあるというのに。
「小路」とは、侘しさとロマンを内に秘めた情緒のある通り名だ。
日を改めて、ゆっくりもう一度来なくてはいけない。そして、ゆっくりと一杯飲まなくては……
三原小路の 灯りのように
待ちますわ 待ちますわ
どうせ気まぐれ 東京の銀座裏通り
――「池袋の夜」(歌:青江三奈、作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)の歌に合わせて……
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