いつの間にか冬至である。もうすぐ今年も終わる。
先日、12月19日に浅草に行ったら、浅草寺の境内で羽子板市をやっていて出店が並んでいた。新宿の花園神社の酉の市で熊手の出店が並ぶのは見たことがあるが、羽子板市は初めてだった。
もともとここ浅草寺では、この時期行われていた正月の品や縁起物を売る「歳の市」が、「羽子板市」として形をとどめているというものだ。
そもそも羽子板を見たのは何年振りだろうか。
そういえば、僕の子どもの頃は、新年の正月になると、近所の通りや空き地で羽根つきをしていた。外での遊びといえば、女の子は羽根つきで、男の子は凧揚げか独楽(コマ)遊びだった。もちろん、羽根つきは大人の人もやっていた。
そんな光景は、今では地方でも見られなくなった。
今では、羽子板は飾りもの、縁起ものなのだ。出店に並べてあるのを見るだけで、華やかな気分になる。(写真)
どこかの店前から、三本締めの手拍子が聞こえる。お買い上げの景気音頭だ。
こんなきらびやかな羽子板なら、羽根つきなどしないのは道理だ。すっかり、飾っておくもの、見るものになっているのだ。
もともとは中国で羽を蹴りあう遊びが日本に伝わり羽根つきになったという。羽の付いた球を相手に向かって板でもって突きあう遊戯としての羽根つきは、バトミントンやテニスにとって代わられたのだろうか?
漢字で書けば、バトミントンは羽球、テニスは庭球となる。
球を蹴りあう競技の蹴鞠(けまり)は、やはり中国から入ってきて平安時代に貴族の間で流行したというから古い遊びである。
球を蹴るといえばフットボール(football=蹴球)であり、サッカーをすぐに思い浮かべるが、もともとサッカーもラグビーも一緒だった。両方ともフットボールである。19世紀になり、ボールを持って走るラグビーは、ゴールキーパーを例外に手を使わなくなるサッカーと袂を分かった。
だいぶん前だが、フットボールのルーツという番組を見た。
近代スポーツの発祥の多くはイギリスだが、フットボールもイギリスだった。17世紀からアッシュボーンという田舎町に今でも伝わる行事で、町に流れる川を間に南北に分かれたチームが、おたがい川の離れた地点に設けられた自軍のゴール点にボールをタッチするという競技であった。
球は、持っても、蹴っても、投げてもよく、町で選ばれた何人もの男たちがそれを奪い合いながら、自軍のゴールへ運ぶのである。さらに付け加えるならば、球は草むらや川の中に隠しても、袋の中に入れて運んでもいい。ルールはとても大雑把なものである。そもそも遊びや祭りは、細かい規則などなかったはずだ。
このアッシュボーンは町全体がフィールドとなり、球を運ぶ競技は2日間にわたって行われ、町をおこしての祭りであった。ゴールを獲得した男は、その年のヒーローとなり、町の酒場で語り継がれることになる。
素朴な競技だが、見ているだけで熱狂させるものがあった。
しかし見渡してみると、素朴な遊びはだんだん廃れている。いや形を変えていると言っていい。
遊びは規則が細分化され、グローバル化され、スポーツとなっている。
羽根つきも、絶滅危惧種の一種なのかもしれない。
先日、12月19日に浅草に行ったら、浅草寺の境内で羽子板市をやっていて出店が並んでいた。新宿の花園神社の酉の市で熊手の出店が並ぶのは見たことがあるが、羽子板市は初めてだった。
もともとここ浅草寺では、この時期行われていた正月の品や縁起物を売る「歳の市」が、「羽子板市」として形をとどめているというものだ。
そもそも羽子板を見たのは何年振りだろうか。
そういえば、僕の子どもの頃は、新年の正月になると、近所の通りや空き地で羽根つきをしていた。外での遊びといえば、女の子は羽根つきで、男の子は凧揚げか独楽(コマ)遊びだった。もちろん、羽根つきは大人の人もやっていた。
そんな光景は、今では地方でも見られなくなった。
今では、羽子板は飾りもの、縁起ものなのだ。出店に並べてあるのを見るだけで、華やかな気分になる。(写真)
どこかの店前から、三本締めの手拍子が聞こえる。お買い上げの景気音頭だ。
こんなきらびやかな羽子板なら、羽根つきなどしないのは道理だ。すっかり、飾っておくもの、見るものになっているのだ。
もともとは中国で羽を蹴りあう遊びが日本に伝わり羽根つきになったという。羽の付いた球を相手に向かって板でもって突きあう遊戯としての羽根つきは、バトミントンやテニスにとって代わられたのだろうか?
漢字で書けば、バトミントンは羽球、テニスは庭球となる。
球を蹴りあう競技の蹴鞠(けまり)は、やはり中国から入ってきて平安時代に貴族の間で流行したというから古い遊びである。
球を蹴るといえばフットボール(football=蹴球)であり、サッカーをすぐに思い浮かべるが、もともとサッカーもラグビーも一緒だった。両方ともフットボールである。19世紀になり、ボールを持って走るラグビーは、ゴールキーパーを例外に手を使わなくなるサッカーと袂を分かった。
だいぶん前だが、フットボールのルーツという番組を見た。
近代スポーツの発祥の多くはイギリスだが、フットボールもイギリスだった。17世紀からアッシュボーンという田舎町に今でも伝わる行事で、町に流れる川を間に南北に分かれたチームが、おたがい川の離れた地点に設けられた自軍のゴール点にボールをタッチするという競技であった。
球は、持っても、蹴っても、投げてもよく、町で選ばれた何人もの男たちがそれを奪い合いながら、自軍のゴールへ運ぶのである。さらに付け加えるならば、球は草むらや川の中に隠しても、袋の中に入れて運んでもいい。ルールはとても大雑把なものである。そもそも遊びや祭りは、細かい規則などなかったはずだ。
このアッシュボーンは町全体がフィールドとなり、球を運ぶ競技は2日間にわたって行われ、町をおこしての祭りであった。ゴールを獲得した男は、その年のヒーローとなり、町の酒場で語り継がれることになる。
素朴な競技だが、見ているだけで熱狂させるものがあった。
しかし見渡してみると、素朴な遊びはだんだん廃れている。いや形を変えていると言っていい。
遊びは規則が細分化され、グローバル化され、スポーツとなっている。
羽根つきも、絶滅危惧種の一種なのかもしれない。