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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本語の迷い道へ、「ちいさい言語学者の冒険」

2017-09-09 01:51:08 | ことば、言語について
 ナゾナゾである。
 日本最古のナゾナゾらしいので、日本語を勉強した人はもちろん、見たこと(聞いたこと)がある人も少なくないでしょう。
 「母には2回会ったけれど、父とは一度も会っていない」のは、な~んだという問題です。

 *

 「ちいさい言語学者の冒険」(広瀬友紀著、岩波書店刊)で、思わぬ発見をさせられた。本書には、「子どもに学ぶことばの秘密」とサブタイトルにある。
 子どもがどうやって言葉を覚えるかが、実際に子ども(自分の子と友人の子)を相手に観察された体験をもとに、日本語への疑問を提起されていて面白い。
 まず子どもは、当然のことだが、最も言葉を発しかけてくる、つまり最も身近にいて話しかけてくる親や家族から、言葉を吸収することになる。言葉を曲がりなりにも話すようになると、次は文字、平仮名である。文字はどうして覚えただろう。
 振りかえって思い出すと(もう遥か彼方の遠い薄い記憶だが)、やはり、「あいうえお…」の五十音の表を、親に見せられておぼえたのだろうなあ。
 五十音の平仮名表を見せられて、それを「あいうえお…」と読んでいって、よくできたわねと、おだてられておぼえていったのだろう、というところに行き着く。
 僕らは、この五十音の言葉(文字)に、何の疑いも持っていない。

 この本では、まず「テンテン」(濁点)についての疑問から始まる。
 言葉を覚え、やっと平仮名を覚え始めた頃の子どもに、次の質問をしてみる。
 「「た」にテンテンは何ていう?」
 「da(だ)だよ」と答える子は多い。ここでアルファベッドdaと記しているのは、発音としての記号である。
 そして、「「さ」にテンテンをつけたら何ていう?といったら、za(ざ)、と答えるだろうし、「か」にテンテンと訊いたら、ga(が)と答えるでしょう。
 では、「「は」にテンテンを付けたら何ていう?」と訊くと、どう答えるか、である。問題は、ここである。
 僕ら大人は、当然ba(ば)と答えることに何の疑問も持たない。少なくとも僕は、この本を読むまでは、そうだった。
 実は、ここで、「うーん、わかんない」という子が結構いるというのだ。あるいは、ga(が)と答えたり、ha(は)を力みながら訳のわからない音を出したり、なかにはa(あ)と答えた子もいたといった具合に、とたんに様々な珍回答が出てくるという。
 それでいいのだ、いやそれこそ子どもが言葉で使われる音を整理できている証しだというのである。

 *

 では、「テンテン」(濁点、濁音符)とは何なのだろう。
 「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」のそれぞれのペア音を発音してみる。舌も含めた口の中の動きが同じである。違う音だから微妙に違えてはいるはずだが、ほぼ同じ動きと言っていい。
 実は、口の中で発音に使う場所は同じでも、発音を作り出す空気の流れが、テンテンのあるなしで違った性質を持っているという。
 テンテンのないのは、肺から声帯を震わせずに口まで到達した空気の流れを使って発音した音なのである。これらは、「無声音」と呼ばれる。
 テンテンのあるのは、声帯が少し狭められ(自覚はできないが)、そこを通る呼気が声帯を震わせながら口まで到達したものを使った音という。これらは、「有声音」と呼ばれる。
 ということは、テンテンをつける「濁音化」は、無声音を有声音に切り替えるということになる。
 確かに、「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の無声音から有声音への切り替えには、口の中の動きに共通の対応がある(ように思える)。
 「な」「ま」「や」「ら」行には、テンテンがない。どうしてだろうという疑問がわく。「な」にテンテン(濁点)を付けたとして、それを発音しようと試みてもどう発音していいかわからない。
 つまり、これらはもともと有声音だということである。

 さて、問題の「は」と「ば」である。
 「は」は、喉の奥で音を発生している。口は開いたままで、上と下の唇がくっつくことはない。
 で、「ば」を発音すると、喉の奥とは正反対(遠い位置)ともいえる唇を閉じて離す動きである。
 つまり「は」と「ば」の関係は、他のペアの成立している対応関係とはまったく違う口の動かし方なのである。
 僕ら大人は、このことに疑問を持たずにきた。
 喉の奥での発生の「は」の無声音から有声音への対応ともいえる、喉奥の声帯付近で摩擦を起こしながら声帯を振動させる有声音は、特殊で難しい。
 だから、「は」のテンテン化「ば」を、子どもたちが、「わかんない」とか日本語にない音を出したとしても何の不思議でもなく、むしろ、当然の正解の「ば」(ba)よりも正しいともいえるのである。

 ここまで来てやっと疑問の中身が見えてきた。
 「た-だ」、「さ-ざ」、「か-が」の対応関係は、音に出したらわかるが、それは「は」ではなく、「ぱ」と「ば」のようだ。
 本来は、「ぱ」(pa)が「ば」(ba)と対応しているのである。
 本書では、「「ば」(ba)からテンテンをとったら、何ていう?」というヒントも加えている。
 かつて日本は、現在の「は」行は、「ぱ」p行だった。
 その後、「ふぁ」f行に変わっていき、今日の「は」h行になったといわれている。

 日本語の「は」行に見る、p→f→hの流れを見ると、「発音は楽な方へ変化していく」といわれる説もなるほどと思わせる。
 若者が言葉を簡略して流通させているのも、それを世間が追認しているのも、本能的に楽な方へ向かっているからなのだろう。

 *

 少し長い道のりだったが、これで冒頭のクイズの正解が紐解けたようだ。
 室町時代に出されたナゾナゾ集「後奈良院御撰何曾」に出ている、
 「母には二たびあひたれども父には一度もあはず」は何だ?という問題である。
 上記に紹介した「ちいさい言語学者の冒険」にこのクイズが例題として書かれているのではないが、読んでいるうちにこのクイズを想起させたのだ。
 答えは「くちびる」である。
 本にある子どもの自然な疑問が日本語の源流に導いてくれ、クイズの答えを裏付けしてくれた。
 かつて日本では、なんと、母は「パパ」だったのだ。その後「ふぁふぁ」となり、今日「はは」となった。

 日本語の足跡をたどってみると、いまだ「にほん」と「にっぽん」が混濁して存在しているのも、何となくわかるというものである。

 (写真は、東京都多摩市のある夏の日の夕暮れ)
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さまよえる日本語を語る、「だめだし日本語論」

2017-08-15 02:58:59 | ことば、言語について
 言葉や文字の発生について、時々考える。
 人類は、まったく違った脳の発想をしていたのか。そもそも、国や地域によって、言葉もその構造(文法)もまちまちだし。
 どうして、アルファベッドや漢字、アラビア文字など、こうも違っていて、いまだいろいろな文字が様々なところで、生きて活用しているのか。
 そんなことをふまえて日本語を考えると、底なし沼に足を踏み込んだような気分に陥り、身動きがとれなくなるように感じる。どうして日本語はこうなんだろう。
 日本語はいくつもの顔を持ち、いつしかヤドカリのように母屋を借用し動き出したかと思うと、時に爬虫類のように尻尾を切り離しても活動し、軟体動物のようにくねくねと変化もし、まるで鵺(ぬえ)のようである。

 *

 鬱陶しい雨と猛暑の日、動くのも億劫なので本でも読もうと思って手にしたのが、「だめだし日本語論」(太田出版)。
 橋本治と橋爪大三郎の対談形式の日本語についての話だから、どんな内容なのだろうかぐらいの好奇心からである。
 橋本治は、あの全共闘が華やかな時代、大学在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」という東京大学駒場祭のポスターで注目された。それから小説「桃尻娘」などを書いた後も多くの本を著しているが、僕は熱心に読んではいない。
 橋爪大三郎は、大ヒットした大澤真幸との対談集「ふしぎなキリスト教」、それに大澤真幸、宮台真司との鼎談集「おどろきの中国」を読んで知っているくらいである。

 この本「だめだし日本語論」の紹介文は、
 「日本語は、そもそも文字を持たなかった日本人が、いい加減に漢字を使うところから始まった――成り行き任せ、混沌だらけの日本語の謎に挑みながら、日本人の本質にまで迫る。あっけに取られるほど手ごわくて、面白い日本語論」

 話は、日本人が中国から文字としての漢字を借用し、それより平仮名、片仮名を生み出し、どうやって日本語が変化、成長してきたかを、多くの古典を渉猟しながら、主に橋爪が問いかけ橋本が答えるという形で進んでいく。
 日本語に関する基本的な問題や変遷はすでに学者などが言っていることであるが、それを裏付けようとして答える橋本のディテールの引用が当意即妙でなるほどと思わせ、いくつかの発見があった。

 *

 言葉というのは、通常「話し言葉」が先に生まれるものである。
 文字は、その後必要に応じて生み出されるか、他から借用して発達する。まだ文字がなかった日本には中国の文字が入ってきた。
 本書では、文字の生みの苦労を具体的に話している。
 ――困難はいくつもございましたが、その最大の問題は、文字のことです。
 ――まさに太安万侶は、稗田阿礼の口承を書き記すという、日本語における最初の言文一致体を生み出す苦難のすえ、『古事記』を書いたわけです。

 最初は、日本語は漢文で書かれた。つまり発音も構造(文法)も違う中国語で書かれたのだから無理があろう。その無理を解消しようと表音文字の仮名が生み出された。やがて、漢字と仮名が併用して綴られて、今日に至っている。
 しかし、「古事記」や「日本書紀」は読んだことがないし、高校のときに習った「枕草子」や「源氏物語」は、日本語の文なのに外国語のように対訳付きでないとはっきりとは分からないときている。
 当時は気づかなかったが、源氏物語について橋本治は次のように言っている。

 ――平安時代の敬語は尊敬と謙譲だけで、丁寧はありません。だから「源氏物語」をそのまま現代語訳すると、乱暴に響いてしまうのです。
 ――日本語から敬語を取っ払ったら、どれだけ日本の内実がわかりやすくなるかと思いますね。やってみてわかったのですが、「枕草子」は逐語訳できても、「源氏物語」はできません。「源氏物語」には丁寧の敬語がなくて、今の日本語の「語尾」がないからです。「いづれの御時にか」だけで終わっている。だからたいていは「いつのことだったでしょうか」と丁寧の敬語を入れて訳す。そうしないと上品で優美な感じがしないのです。「いつのことだったか」だけだと、男言葉みたいになっちゃう。

 僕にとって「源氏物語」は、高校時代の古文以来である。
 有名な桐壷の章「光源氏の誕生」の冒頭の文である「いづれの御時にか」である。これを「いつのことだったか」だけでなく、日本語特有の変幻自在に付け足し言い表すことが可能だから、同じ日本語訳で谷崎潤一郎版や円地文子、瀬戸内寂聴版など違ったニュアンスの訳本が生み出されるのだ。
 橋本治は自分でも「窯変源氏物語」を書いている。これでの他の訳者との一番の違いは、最初の部分は、なんと光源氏本人の言葉で語られていること。そして後半の宇治十帖は紫式部が語り手になっているというのだ。
 タイトルの頭に「窯変」を付けるとは、たいしたものである。僕はすぐに国宝の「窯変(曜変)天目」の日本(世界)に3つしかない茶碗を想起する。

 *

 橋本は、日本語は話し言葉として発達してきた。それに無理やり書き言葉を当てはめてきたと話す。
 ――日本語は日本語として一つであるというのは、現代的かあるいは近代的な考え方で、「話す」と「書く」が別箇に存在して発達したのが日本語ですから、一つにするのは無理です。 雑多なものを野放しにしておいて、大体わかればいいじゃないかというのが日本語のあり方だったのだと思います。

 社会学者の橋爪は、日本語の文体そのものに苦言を呈する。
 ――常日頃不満なのが、まず、「ですます体」と「である体」。この2つがあることになっているけれど、いったいこれは何だ。英語にはこんなものはない。
 橋本はこれにこう答えている。
 ――文章を文章として成り立たせるための助動詞が日本語にしかないということですね。叙述が「……です」という形で終わるということは、その文章自体が「です」という行為をしていることになって、本当はへんなのです。だから、平安朝の文章に「叙述自体を表す動詞や助動詞」は存在しません。「です」「ます」とか「である」という、叙述自体を管轄する助動詞は、丁寧の敬語の登場と関連すると思いますね。
 ――敬語は、神様に対して使うものだったのが、だんだん下へと降りてくる。敬語のカジュアル化が、その反作用として上に対する過剰化も生む。

 現代では、「~させて頂く」などの過剰なへりくだりや、おかしな敬語表現も生んでいる。

 *

 橋爪は、曖昧な日本語の人称代名詞に対して次のようにも言っている。
 ――理想としては、一人称は「われ」、二人称は「なれ」、三人称は「それ」、不定称は「だれ」に統一して、新しい日本語として、学校で教えるべきだと私は思うのです。

 確かに一人称代名詞を見ても、英語やフランス語や中国語などがほとんど1つであるのに、日本語は様々な言葉があり、様々な使われ方がなされている。
 実際、この文では一人称は「僕」を使っていて、場合によっては他の文では「私」を使うときもある。話し言葉では「俺」を使う場合もあり、子どもの頃は九州だったので「おい」「おいどん」を使っていた。
 女性では「あたし」「あたい」や「うち(内)」も使うだろうし、少し前には「われ」(我、吾)、「わがはい」(吾輩)、「せっしゃ」(拙者)、「当方」なども使っていた。いや、こまかく方言も拾っていったらきりがないぐらい多いはずだ。
 地方や階級でそれぞれ違う言葉が使われていたのが、近代化とともに統一されるべきなのがそのままになっていて今日に至ったのだろう。
 そもそも日本で共通語の必要性に迫られ、標準語なるものが論議されたのは明治以降である。
 だから、それ以前までは、例えば九州と東北地方のように地域が違う人が話しても外国語のようだったに違いない。半分も通じたのだろうか。今でも方言で話しているお年寄りの言葉が分からないことも多々あるのだから。

 この人称代名詞を統一しろという橋爪の論に、橋本は、もう遅い、日本語はこういう特徴として今日に至ったのだからと、次のように言う。
 ――それは「言葉を論述の言葉だけにしろ」と言うようなもので、「日本語はやめて漢文にしろ」とか「フランス語にしろ」と言うのと同じです。 

 日本語としての平仮名とカタカナの使われ方に、橋本は歴史的に幅広く言及している。
 ――明治になると国語の教科書がまずカタカナで始まります。でも、寺小屋で教えていたのはひらがなでした。なぜ教育がカタカナから始まったのかといえば、明治政府にとってはカタカナが文章を書く文字だったからなのではないか。
 ――「枕草子」も「源氏物語」もほとんどひらがなで書かれています。ひらがなは「女手」(おんなで)とも呼ばれ、女性が主に使っていた。
 カタカナは漢文の訓点からはじまり、カタカナとひらがなは出自は違いますが、表音文字としては同じですね。文章の表記には原則として漢字とひらがなを用い、カタカナは外来語など特殊な場合に用いるスタイルが、公文書も含めて確立したのは、戦後です。

 日本語のたどった運命のようなものが、手っ取り早くわかったような気がした。もちろん、橋本が言うように、 日本語における正しい答えはないのだろうが。
 橋本治の次の言葉は名言だろう。
 「実は日本人というのは話し言葉を記録しようとする人々です」

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日本語を求めて、「台湾生まれ 日本語育ち」

2017-07-18 00:52:04 | ことば、言語について
 私の言語の限界が、私の世界の限界だ。
   ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 日本語はいつもどこかで造語が生み出され、それを面白がられる社会があり、濫用され流布される。それらが文法を無視したものであれ根拠が出鱈目であろうと、構わないで甘受されるところがある。
 日本語というものは、いまだに不安定で流動に見舞われているようだ。
 流行語や短縮した若者言葉が取りざたされると、「言葉というものは、世につれ変わるものですよ」と、言語学者でも平気で言う。
 それまで日本語にない言葉や外来語をカタカナで使う場合などは仕方ないとしても、日本語にあるのに意味や文法を無視して、まるで新しいのが価値と意味があるがごとく世間に流布されるのには違和感を覚える。
 使いたくない日本語について、ある作家が「私はイケメンという言葉は使わない」と言っていたというのを聞いて、その言葉の謂れを調べてみて、私も以後使わないでいる。

 *

 また、今もって時折使っているのを見ると怒りより失望感を抱く言葉の使い方に、去年流行語になった「神ってる」というのがある。
 最初、野球の監督が思わず発してしまったのが、巷で面白いと話題になるのはわかるとしても、その後、ちゃんとしたマスメディアの大新聞がそれを応用して使うとなると、ちょっとやめてくれと言いたくなる。それは、正しい日本語なのですかと言ってみたくなる。
 「神ってる」は、「神がかっている」と言うべきところをはしょって、つい「がか」を抜かしてしまったのだろう。私は、最初はそう思っていた。
 しかし、もし「神している」を動詞の原型としたもので、「神る」と短縮し、「神っている」と進行形にしたのなら、日本語は深刻だと思った。
 名詞に動詞「する」を付け足した動詞は、「恋する」や「勉強する」のように多く使われてきているのだが、それが使用できるものとできないものがある。私は日本語の文法学者でも研究者でもないので、詳しく知りたい人は専門書を読むなり調べてもらうとして、本来言葉はきちんと区別しないといけないはずだ。
 しかし、日本人は使えない言葉でも、多くの人が使うことによって不自然ではないのではと思うようになり、「みんなで使えば怖くない」かのごとく、思いもよらず定着したり、なかには辞書に載ったりすることもある。
 例えば「お茶」は「する」という動詞は使われない。通常「飲む」という動詞がつくはずなのに、「お茶を飲みに行かない?」を「お茶する?」といった具合に、不自然に短縮してきた過去がある。さすがに、最近はあまり聞かなくなったのでホッとしているが。

 あとで紹介する、この項の主題である台湾人の温又柔の著である「台湾生まれ日本語育ち」で、時折おかしい日本語を話す母親を娘たちが「ママ語」と称して揶揄する描写がある。
 そのなかでも娘たちが気にいっている、母親特有の独特の言葉が「迷子する」である。
 「迷子する」という言い方はおかしい。正しくは、「迷子になる」である、と、娘たちが何度言っても、母親は、道に迷わないでね、のつもりで、「迷子しないでね」と言ってしまうのだ。
 なぜそんな間違った使い方をするのかを考えた著者は、その理由を、母は「迷子」という日本語を使うとき、中国語をイメージしているからだと考える。中国語の「迷路」は日本語の「迷路」ではなく、「道に迷う、道を失う」の意味で、「迷」が「迷う」という動詞にあたる。だから動詞形の「する」を付けるのだろうと。
 「迷子」は、知らず知らずのうちに「なる」ものであって、みずからの意思であえて「する」ものではない、と結ぶ。
 著者は、外国人に対する日本語教師もやっているので、自ずと日本語の使い分けにも論理的であろうとする。

 この「迷子する」と同じように、「神」を「する」はおかしな言葉だと思う。意味をその通りにとれば、キリスト教関係者はどう思うのだろう、面白くはないはずだと心配になる。

 そんな矢先に、先月の朝日新聞のテレビ番組欄の「記者レビュー」(6月23日)というコラム欄で、「人間してるな―」という文を見た。「人間している」という日本語はあるのだろうか、と疑問に思った。
 そもそも、「人間をする」とは「神をする」と同様に、日本語として使わないだろう。それを朝日という新聞に書いてあったから、なおさら引っかかったのだ。

 *

 日本語を真剣に考えた本がある。
 「台湾生まれ日本語育ち」(白水社刊)の著者、温又柔(おん ゆうじゅう)は、台北で生まれ3歳より日本に住む。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つが、本人が通常使ってきたのは日本語で、日本の学校を卒業した。
 著者の述懐によると、幼い頃、両親と使っていた台湾語は少し曖昧だが「話すことば」で、大学(法政大国際文化学部)で改めて学びだした中国語は、意に反して本人は苦手だと意識させられ、ひらがな、カタカナの2種類の表音文字と漢字の表意文字の組み合わせの日本語に表現の喜びを見いだして、現在日本語で文を書き続けている。
 複数の言葉のなかで、母語とは?母国とは?と自問しながら、自分にとっての言葉、言語というものを考え続けているのが綴られている。

 台湾語と中国語は、日本の方言と標準語の違いだろうと思っていたが、その違いの根拠が、本書の次の文から少しははっきりした。
 ――中華人民共和国では、公用語を「普通話」(注:話の言偏はサンズイに似た簡体字)と呼ぶ。「普通」は、「あまねくゆき渡る」の意味だ。日本では「中国語」と言うと、この「普通話」を指すことが一般的である。中国の公用語なので、それを外国語として学ぶならば、発音記号はピンインを、文字は簡体字を使用する。
 ――現在、「台湾語」と一般的に呼ばれている言語は、福建省南部で話されていた閩南(ミンナン)語を起源としたコトバを指す。
 蒋介石率いる国民党政府が台北を「中華民国」の臨時政府としたときから、中国語は「國語」と呼ばれ、台湾において最も特権的な言語となった。もともと「國語」とは、辛亥革命を経て大陸で中華民国が成立した際、北京官話を基礎に標準語として政府が制定し、普及を進めたコトバのことだ。

 *

 「台湾生まれ日本語育ち」は、去年(2016年)出版され、そのとき読んだのだが、著者の「真ん中の子どもたち」(すばる4月号)が、今回の2017年、第157回芥川賞候補作に選ばれたので、改めて読み直した。
 彼女は、台湾語、中国語を媒介に日本語を表現していく。
 もし、日本人の私が、中国で育ち、ずっと中国語の話者であったなら(日本語はほとんどできないで成長したとしたら)、どう日本語を感じとっていただろうかと考えた。

 著者の小説「来福の家」が台湾で翻訳され、そのとき台湾の新聞記者から受けた質問に、著者はこう答えている。
 ――自分の居場所はどこだと感じますか?
 「日語」(日本語)。
 さらに、こう続ける。
 「我住在日語」(私は日本語に住んでいます)

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ABCD……H、奇妙な日本語について、「性欲の研究」

2013-08-23 00:05:27 | ことば、言語について
 いつの時代にも言われていることであるが、近年ことさら、日本語の使い方がおかしい。
 そう思っているところへ、内館牧子著、「カネを積まれても使いたくない日本語」(朝日新書)が出版されたので読んだ。この本は、看過しがたい最近の日本語の変な表現を、週刊朝日の連載中にアンケートをとってまとめたものである。
 このことについては、改めて別に書くことにしよう。

 言い回しや表現とは別に、日本人は言語を何でもすぐ短縮して、便利に使用しがちだ。僕は文法学者ではないが、日本語は、単語や文を省略・短縮したり、くっ付けたりすることを阻まない、本質的に変動的で非文法的な言語なのだろうと思ってしまう。
 たとえきわめて奇妙な日本語でも、最近の若者の間で流行している言葉などといって、マスメディアや言語学者もそれらを取りあげ、許容し、認知してきた歴史がある。

 では、外国語はどうかといえば、省略する表現はあるが、英語やフランス語はかなり文法が確立していて、主語や目的語の位置ははっきりしているし、人称によって動詞は変化する。名詞には冠詞があり、フランス語などは各名詞に性差すら存在する。だから、それをきちんと把握しているかどうかで、その言語に対する教養度がすぐにわかるというものだ。

 そのことをうまく表している文章に、最近読んだ本「旅立つ理由」(旦敬介著、岩波書店)のなかで、出くわした。
 「商店からは観光客目当ての正当的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這うように響いてくる。」
 クレオールとは、英語やフランス語などを話す際に、意思疎通を図るために、主に商人の間や植民地などで発達した、簡略化された言語である。だから、動詞の活用も省いて使われるのが多い。
 また、同書で、アフリカを舞台にした章では、こういう文もあった。
 「空港を降り立ってタクシーの交渉をしたときから、すぐに彼女はふとした違いに気がついた。自分の話しているスワヒリ語と、白い小さな帽子をかぶった年配の運転手が話すスワヒリ語に格の違いがある気がした。相手が規則にのっとった格調高い言葉遣いなのに対して、自分は蓮っ葉なだらけた言葉を話しているように感じられて、なぜだか引け目を感じてしまったのだ」
 言葉とは、その使い方で品性がわかるというものだ。

 *

 ここでは、日本語について書くつもりではなかった。
 「性欲の研究」(井上章一編、平凡社)という本に興味をひかれて、読もうと思ってページを開いたのだった。
 井上章一は、彼の著作、「美人論」、「愛の空間」を読んでいて、その道を調べている人として知っていたが、もともとは建築史家・意匠論の人である。本書は、井上が「関西性欲研究会」なる会に集う者を中心として、東アジアの性についての文を集めたものである。
 巻頭は、西欧の性事情に造詣が深い鹿島茂に聞くという対談形式で、トルコ風呂、いわゆるソープランドのルーツや、パリのカフェやブラッスリー(ビヤホール)の起源などが聞けて、面白い内容となっていた。
 しかし、この対談のタイトルが、「西のエッチ、東のエッチ」である。このタイトルを見て、僕は失望感を抱いた。
 この対談の中でも、井上は安易に「エッチなトルコ」「エッチなアラビア」などとエッチという単語を使っている。
 僕は、内館牧子の「カネを積まれても使いたくない日本語」で譬えれば、日本語の言い回しではないが、「エッチ」は最も使いたくない日本語の一つである。ましてや、文を専門としている人が、その意味や語源などを解説しているのなら別だが、安易に使っているのを見ると、それだけでうんざりしてしまう。
 調べてみると、この井上章一、鹿島茂の二人の対談集で、「ぼくたち、Hを勉強しています」(朝日新聞社)なるタイトルの本まである。おそらく井上章一がつけたのと思われるが、性についての研究者で碩学の二人が、なぜこんな安易なタイトルを付けたか不思議だ。

 「エッチ」は、もともとHentai(変態)の頭文字からきたと言われている。今では、「あの人エッチね」という元来の変態といった意味から、「エッチする」といった性行為の意まで、幅広く使われている。
 日本語によるセックス、性行為の用語は、隠語を含め様々な言葉で言い表されてきたが、ちゃんとした日本語を作りえることなく、現在はこの語がいつしか安易に定着したようである。
 現在のようにエッチを性、セックスまで広く使用するとなると、Sexの頭文字のS(エス)を使用した方がまだ理に適っていると思うのだが。

 そう思って、昭和53年発行の「日本風俗語辞典」(故事ことわざ研究会編、アロー出版社)を見てみると、「エス」はかつて使用されていた。戦前の女学生が使っていたもので、意味は、同性愛、特に女性を言う、とある。語源は、シスターSisterの頭文字からとってある。
 「エイチ」という項目もある。アルファベットのHで、男色の意味である。語源は、男色―鶏姦ということで、雌鶏のhenヘンの頭文字からきているというから凝っている。
 同書には同じHを区別してか、別に「エッチ」もあり、意味は、助平、変態のことで、やはり語源は変態Hentaiの頭文字とある。昭和53年当時は、まだセックス全般の意味には一般化していなかったのか、そういう記載はない。
 おそらくその後、変態の「エッチ」が、広範な性全体の意味となって流布し、男色の「エイチ」を凌駕し、消滅させたのであろう。
 アルファベットの頭文字でいえば、この辞典には「ABCDI」という項目もある。意味は、A=キス、B=ペッティング、C=性交、D=妊娠、I=中絶。語源に、これは現在の中学生の間に使われている性に関する隠語、とある。性がティーンの間まで解放されてきた時期のことだ。
 それにしても、「エッチ」は流行というには長すぎるし、学者はまして、普通の人が使うにしても、性の語源としては安っぽい。
 「官能小説用語表現辞典」(永田守弘編)を見ると、性に関しては驚くほど多様な表現があり、作家の努力と情熱が伺える。

 念のために、今映画が公開され、話題になっている妹尾河童の自伝的小説である「少年H」は、もちろんここでとりあげた意味でのHではありません。妹尾河童の元の名前「肇(はじめ)」の頭文字なのです。
 妹尾河童は舞台美術家で、彼が書いた凝った細密画入りの「河童が覗いたインド」は、僕がインドを旅した時に読んで、ためになった本である。

 *

 「性欲の研究」のなかの、中国人の学者、劉健輝との対談で、井上章一は「P屋」(ピー屋)について取りあげている。
 僕はその単語を知らなかったが、戦前、娼婦(Prostitute)を売る店、娼館の頭文字をとって言ったそうである。この英語の語源説以外に、中国語からの転訛説を井上が劉に言及している。中国語の女性の陰部を指す言葉に「ぴい」があると言う。漢字でも書かれてあるが、漢和辞典にもなく、シカバネの部首に、穴を充ててある。
 そして、その中国語説の根拠として、戦前の本である田中貢太郎著「貢太郎見聞録」なる本で、上海での娼婦のことを「カントンピー」と書いていたことをあげている。
 しかし、劉はその字を、中国語では、少なくとも北京語ではピイでなくて、ビイと濁ると主張している。

 この他に、中国における「相公」(シャオコン)の章が興味深かった。
 現在、日本では女装したタレントをテレビでは見ない日はないが、「中国の女装の美少年「相公」と近代日本」(三橋順子)では、中国の女装の美少年である「相公」(シャオコン)を写真付きで解説している。
 この「相公」(シャオコン)は、日本でいえば、江戸時代の男色を売った「陰間」(かげま)に当たるとしている。両方とも、15~18歳が命だった「盛りの花」に譬えられているのを見ると、年齢は問わない現在の日本は姥桜の文化全盛と言えるだろうか。

 さて、性に関する隠語であるが、ABCDやSやPなど、消え去っているのを見ると、H(エッチ)も、いつの日か、そういえばそんな言葉が流行ったなあという時代が来ることだろう。
 先月8月の朝日新聞特別版のアンケートによる「よみがえらせたい死語」ランキングでは、1位が「バタンキュー」で、2位が「おニュー」、4位が「はいから」だった。カップルを言う「アベック」が7位に入っていたが、すでにこれは死語なのか。となると、注意しないと、使っては恥ずかしい語なのだ。
 広く流布しても、変な日本語は、いつしか使われない死語になる、と思うのだが。

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漢字の持つ意味を考えさせる、「韓国が漢字を復活できない理由」

2013-03-21 03:30:41 | ことば、言語について
 僕が初めて韓国に行ったのは1985(昭和60)年のことだった。
 李成愛が歌う「釜山港へ帰れ」のメロディーをくちずさみながら、下関から船に乗って釜山へ向かった。当時の両国の関係は、まだ戦前時代の日韓併合の歴史的遺恨感情も色濃く残っていて、近くて遠い国と言われていた。お互いの国同士の文化の交流もほとんどなく、今みたいに活発に観光客が行き来していた時代ではなかった。
 しかし、韓国へは一度は行ってみたいと思っていた。
 韓国語を勉強したわけでもなかったが、韓国も元々は漢字の国だから何とかなるだろうと思って、ホテルも予約せずに一人で船に乗ったのだった。下関を夕方出発した船は、翌早朝釜山に着いた。
 釜山へ着いたら、僕のあてはまったく外れた。そこには、どこにも漢字の表示はなく、英語表示もなく、わけのわからない記号のようなハングルだけの世界が待っていた。
 それでも、日本語が話せる地元の人に出会ったりして、釜山から慶州、そしてソウルと楽しく旅することができたのは幸いだった。帰りは、逆のコースで、釜山から下関に船で帰ってきた。

 かつては韓国も、日本が漢字と仮名を混ぜて活用しているように、漢字とハングルを混ぜて活用していた。新聞も、漢字とハングルを併用していた。それが、いつしかハングルだけの世界になっていたのだ。
 ハングルだけの文といえば、日本語でいえば平仮名(ひらがな)だけの文と同じである。平仮名だけの文は、簡単で易しい文だったら問題ないが、複雑な文や専門書だとかえって分からなくなる。
 極端に平仮名を多用した小説である今年の芥川賞の黒田夏子作「a b さんご」は、必要以上に漢字を使わない日本語がいかに読みづらいかを教えてくれた。日本語には、漢字は適度に必要なのである。
 漢字を追放してハングルだけにした韓国だが、韓国人は、ハングルだけの文で意味がすぐにわかるのだろうか、かえって不便でないのだろうかという疑問がずっと残っていた。

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 「韓国が漢字を復活できない理由」(豊田有恒著、祥伝社刊)は、日本語と韓国語の違いを解説しながら、韓国語およびハングル文字の過去と現状を述べたものである。そして、韓国語がいかに漢字を下敷きにした言葉かを解説したものである。

 ご存知のように、ハングルは15世紀に作られた文字である。
 それまで韓国は、かつて日本が中国から借用した漢字のみで文字、文章を書いていたように、文字は漢字のみだった。新しく作られたハングルは、計算された合理的な文字である。しかし、ハングルは「諺文」(オンムン)と呼ばれ、長い間普及しなかった。特に、関学、儒学に素養のある人からは蔑まされていたという。
 韓国の歴史ドラマを見ても、ドラマに出てくる文書は漢字だけの漢文である。
 そして近代に入り、日韓併合下の時代に日本語を強要される。ということは、日本語は漢字を多用しているので、日本語漢字を使用することになる。
 そういう経過もあって、韓国は戦後独立した後、占領していた日本を根本から払拭するために、漢字の使用を禁じるようになり、それが今日まで続いているのだった。日本を否定することが、漢字を使わない国策になったのだ。

 今日、急速な日韓交流のおかげで、われわれは、「こんにちは」という挨拶が、「アンニョン・ハシムニカ」ということぐらい知っている。これは直訳すれば、「安寧(アンニョン)、していらっしゃいますか」ということらしい。
 日本語の漢字にも「安寧」はあり、「あんねい」と読み、辞書を見れば「社会が穏やかで平和なこと」とあるように、日本では挨拶では使わない硬い表現であるが意味深い言葉である。
 このように、「アンニョン・ハシムニカ」は、漢字にすればとてもわかりやすい。「安寧、していらっしゃいますか」は、なかなかあいさつとしてはいいではないか。このアンニョンは、朝、昼、晩の挨拶にも使われる。いわゆる英語の「good morningグッド・モーニング」や「good nightグッド・ナイト」のようなものだ。

 日本の漢字は、音と訓があって、字によっては伝達の時代の違いによって、さまざまな読み方がある。例えば「京」を例にとると、呉音だと「キョウ」、漢音だと「ケイ」、唐音だと「キン」となるように複雑だ。
 韓国では、李朝時代に漢字の訓を廃止し、音も数少ない例外を除いて統一した。だから、1字1音が原則となっている。
 日本の漢字が様々に読み替えられるのを何て無駄な、統一すればいいのにと僕も思ったこともあった。しかし、同音異義語を区別するという効果もあるのだ。
 ところで、東京と横浜をつなぐ路線を京浜(ケイヒン)と呼ぶのはどのような裏付けがあるのだろう。キョウハマだと無理に結びつけた重箱読みだし、キョウヒンだと響きがよくないからか。おそらく漢音で統一したのだろう。こうした後で作られた漢字熟語の呼び方は、国語学者に相談して決めるのだろうか。

 ところで、韓国のように1音1字にすると多くの同音異義語が出てくる。しかも表記をハングルだけにすると、その裏付けとなっている漢字が表に出てこなくなる。もっとも漢字を教育されていない若い人は、出てこないのは当然のこととなる。
 漢字は表意文字であるから、それを見ると意味がわかる。漢字による言葉・熟語だと初めて見る単語でも、何となく意味が読みとれる。
 ハングルは表音文字だから、それだけではアルファベットの文字と同じで意味はない。ハングル文字を見てすぐに漢字が出てこないと、意味が出てこなくなるのではないかと、余計なお世話かもしれないが危惧してしまう。

 日本でも、明治と戦後の一時期、漢字の縮小・廃止や日本語のローマ字化を唱える人がいたが、そうはならなかった。
 日本語の生い立ちからして、漢字は日本語に必用なのである。平仮名だけでは生きられない。ましてや、ローマ字だけでは意味をなさないだろう。

 表意文字の漢字と表音文字のアルファベットを比べると、言語の幹がまったく違うので、その発生と結果を見るのは非常に興味深い研究課題だが、日本人が漢字と仮名混じり文を工夫発展させたことは、大きな文化革命だったと思う。仮名にしても、平仮名と片仮名がありその役割を使い分けている。外国人には、難しいという印象が強いが。
 確かに、こんなに難しい言語(国語)はないかもしれない。長い歴史のなかで、日本人は文法化することなく、さまざまな要素を言語表現として、器用に、悪く言えば無節操に取り汲んで、活用してきた。今でも、省略したり、意味を変えたり、良いか悪いか、日本語は無自覚に変容し続けている。
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