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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

中世の差別の実態を探索した、「河原ノ者・非人・秀吉」

2013-02-28 02:09:35 | 本/小説:日本
 「河原ノ者・・秀吉」(服部英雄著、山川出版社刊)
 本書は、中世の差別の実態を多くの文献を渉猟し、それらの資料を詳細に検証し、丹念に拾いあげ、それを解説したものである。
 「あまりにも生々しく、時に本を閉じた。歴史の専門書を読んでそういう気持ちになることはほとんど無い。そこに本書の方法的な特徴がある。」と、去年(2012年)の朝日新聞の書評に、評者の田中優子(法政大学教授・近世比較文化)氏は書いている。
 本書は、大きく分けて、1部、河原ノ者・、2部、豊臣秀吉に分かれている。700ページを超す厚さは、それに比例して密度が濃い。僕はこの本を何度も中座し、また読み継いでいった。読むのに、時間と精神的な体力がかかった。

 例えば、犬追物の項だ。
 中世、武士は流鏑馬(やぶさめ)、笠懸、犬追物を馬術、武芸の訓練として行った。
 流鏑馬は、今でも各地で祭りの出し物として行われている。秋のくんちの祭りでは、僕は佐賀・白石町の稲佐神社、妻山神社で、しばしばそれを見た。
 犬追物は、かつて諸大名が武芸の訓練や行事として行っていて、各地にその跡地名という呼び名が残っていた。現在では行われていないが、どのようなものだったかは多くの資料および絵が残されている。それによると、設えた広い馬場にて、中央に太い縄で土俵のような枠を作り、それを囲むように待ち受ける武将たちが、放たれた犬を弓で射るという競技である。
 この競技で、絵にも描かれているが、犬を用意し、それを担当したのが河原ノ者であったという。本書は、この犬追物の競技内容を解説するのにとどまらず、犬追物のなかで河原ノ者がどのような社会的位置にいて、どのような役割を果たしたかを詳述している。

 豊臣秀吉の項では、秀吉の出自や、僕は今まで本などでも読んだことがなかったが、秀吉が6本指であったということを、資料を元に探究している。例えば、ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスの「日本史」や前田利家の伝記「国祖遺言」にその記述があるというが、真偽は定かではない。

 著者は九州大学教授で本書は専門書であるが、丹念な資料に基づいて、日本の中世社会の一実態を照射した労作といえる。

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故郷の街を思う、「商店街はなぜ滅びるのか」

2013-02-20 02:27:47 | 本/小説:日本
 僕は佐賀の小さな町で育ち、今ではもう両親はなくなったが古い実家はそのまま残していて、毎年時々帰っている。
 帰るたびに感じるのだが、町の商店街が年ごとに廃れ、シャッター通りと化しつつあるのだ。それに、街中を歩いても時々車とはすれ違うが、歩いている人がほとんどいないのだ。
 家の近所の人たちも高齢化して、老人が多くなった。しかも、独居老人が。典型的な地方の過疎の町なのだ。
 街はどうなっていくのだろう?

 僕の子どもの頃は、今よりずっと人も多く、当然子どもも多くいて、炭鉱の町として活気があった。街の中央にある商店街も賑わっていた。魚屋も八百屋も肉屋も酒屋も醤油屋もアイスキャンデー屋も、呉服屋も電気屋も自転車屋も質屋も鍛冶屋も、どの店も大体が顔見知りだった。
 学校帰りには、その商店街を通って帰った。いつも決まった道ではない。時には、山の方や川の方などを迂回したり、友だちの家やその近所に寄り道をしたりして帰った。
 学校から家に帰る途中が楽しかったのだ。
 炭鉱の閉山と時期を同じく、町は少しずつ活気を失くしていった。その象徴的な姿が商店街だった。
 商店街の衰退は、この町の地場産業が衰退したからと思っていたが、隣町も似たような感じで、この町だけの現象でないところを見ると、原因はそれだけではない。
 実家に帰ったときは、県庁所在地の佐賀市にもよく行くのだが、佐賀市の商店街もその例に漏れないのだ。駅から続く中央通りもアーケイドのある中心街も、シャッターが閉めてあるのが目につく。
 佐賀に帰って街を歩くたびに、近年は一抹の寂しさを感じていた。

 商店街が衰退する、この現状の原因は誰もが分かっていたし感じていた。それを見てきたし、肌で感じてきたのだ。いや、これではいけないと思いながらも、みんながそうすることに加担したというか、その道を選択したのだ。
 経済成長のおかげでみんなが車を持つようになった。行動範囲は広がり、みんな車で買い物をするようになった。駅前でなくとも、歩ける距離でなくとも、少しぐらい遠くてもいいと思うようになった。
 その頃だった。地方にも高速道路ができ、山の上まで道路が整備され、幹線道路に大きなスーパーマーケットやショッピングモールができたのは。そこでは、魚も肉も野菜も、服も電気製品も買えるのだ。それに、値段を見ると商店街より安いのが多い。
 だから、オジちゃんやオバちゃんがやっている、一軒家の商店にはいかなくなった。車のない人以外は。

 どこの町にもあった「三丁目の夕日」のような街は、地方ではもう消えつつある。残っていても、細々だ。
 どうしてこうなったか?
 日本の街はどうなるのか?
 現象としてはわかっていた問題に、社会、経済、さらに政治の思惑などを検証して解明したのが、「商店街はなぜ滅びるのか」(新雅史著、光文社)である。
 著者は人文社会学者で、これが初めての単著であるが、日本の小売業の流通の歴史と問題点がよくわかる。商店街の衰退は、政治の問題でもあったのだ。
 商店街が作られたのも、地方に道路がやたらに作られたのも、地方に大型スーパーができたのも、コンビニが蔓延しているのも、すべての根源はつながっているのだ。

 僕たちは、商店街が古い存在だと思っていた。
 しかし、本書によると意外と新しいと知る。僕たちは、しばしば商店街のルーツを浅草の仲見世や京都の老舗に見つけようとするが、実際は20世紀の社会変動に合わせて作られたという。そして、その多くは戦後の昭和20年以後とある。
 また注目すべきは、商店街という発想が、百貨店と同じ時期に生まれたということである。
 百貨店に対抗するように中内功のダイエーを先頭としてスーパーマーケットが全国に広がっていく。その過程で、商店街を含めて政治的な綱引きや駆け引きなどがあったという資料による検証は、商店街の歴史を知るうえでとても興味深い、
 セブン-イレブンの1号店が開店したのは1974(昭和49)年、オイルショックの翌年のことだ。それから、コンビニはフランチャイズのもと、全国各地に急速に広がっていった。そして、驚くことに、商店街にとっては敵対する存在だと思っていたコンビニだが、その初期の経営者(オーナー)の多くは商店街の小売店の主だということである。

 商店街の店は、大体が個人経営だ。親がやっていた商売を継ぐのはその息子や娘と決まっている。子どもが継がないと、店をたたむのが常だ。会社や工場のように、他人が受け継ぐということはない。ここにも、商店街の根本的な問題が潜んでいる。
 僕は商店街を愛する者だが、郷愁だけではどうにもならない時期を過ぎているのは現状が物語っている。
 商店街の衰退、そして崩壊は、街そのものを変貌させている。
 故郷の街は変わっていく。
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東京タワーが最も輝いていた時代、「ALWAYS 三丁目の夕日'64」

2013-02-16 04:35:21 | 映画:日本映画
 テレビ時代を告げる東京タワーが完成した翌年の1959(昭和34)年は、皇太子(現平成天皇)の結婚パレードが華やかに行われ、多くの国民がテレビの前に釘づけにされた。銀幕(映画)では、日活の石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩二のダイヤモンド・ラインが勢ぞろいしていたし、翌年本格的に日活でデビューする吉永小百合はまだあどけない少女だった。
 この年、初めての少年週刊誌「少年マガジン」、「少年サンデー」が創刊され、漫画雑誌の新しい路線を開いた。そして、初めてのレコード大賞は、水原ひろしの「黒い花びら」だった。
 日本は、あらゆる面で急成長していた。

 「ALWAYS 三丁目の夕日'64」は、昭和30年代の東京の下町が舞台の、「三丁目の夕日」シリーズの映画第3作目である。

 前作「ALWAYS 三丁目の夕日」から5年がたった1964(昭和39)年は、あらゆる意味で戦後昭和の日本を象徴する時代である。
 日本は急速な高度経済成長の過程にあった。東京オリンピックに間に合わせるように、羽田行きモノレールおよび東京・大阪間の東海道新幹線が開通した。また、首都高速をはじめとして、大都市圏で高速道路の建設が急ピッチで進められた。
 この年の東京オリンピックは、韓国ソウル・オリンピックより24年、中国北京オリンピックより44年先駆ける、アジア初の開催となった。
 学生が学生服を着る以外におしゃれにほど遠かった時代から、流行というファッションに若者が目を向き始めた頃だ。
 銀座には、新しいファッションを身につけた「みゆき族」と称される若者がたむろした。髪を短く七・三に分け、石津健介の「VAN」を愛用し、アイビー・ルックとも呼ばれた。
 そのような風潮に合わせて、若者向けの風俗をあしらった週刊誌「平凡パンチ」が創刊され、当時若者に読まれていた今日の社会問題や思想を中心とした内容の前衛的な週刊誌「朝日ジャーナル」と対比された。
 音楽に目を向ければ、若者が支えていたロカビリーからカヴァー・ポップスのブームのあと、エレキ・ブームがベンチャーズの到来とともに訪れ、彼らはビートルズをしのぐ人気だった。
 1964年のこの年、ポップスの香りを持った西郷輝彦が「君だけを」でデビューし、前年「高校三年生」でデビューした舟木一夫、さらに遡ること4年前に「潮来笠」でデビューした橋幸夫と、のちに云う「御三家」が誕生した。このころ、三田明、久保浩、梶光夫、安達明、高石かつ枝、本間千代子、高田美和などによって、「青春歌謡」の全盛をみた。
 成長の最中にあった時代そのものも、歌と同様青春だったといえよう。
 この年、僕は九州の田舎から上京した。

 *

 「ALWAYS 三丁目の夕日'64」(原作:西岸良平、監督:山崎貴、出演:吉岡秀隆、堤真一、薬師丸ひろ子、堀北真希、小雪、須賀健太、森山未來、2012年東宝)

 「ALWAYS 三丁目の夕日」の夕日町3丁目の商店街も、5年がたって1964年だ。
 街に「東京オリンピック」のポスターが貼ってあるように、この年、戦後最大のイベントとなる東京オリンピックに向けて、国も街も活気に満ちていた。
 5年前の前作では、街の食堂でテレビを買うと、商店街のみんなが集まってきて大騒ぎだったが、この年では、各家々が、ここでは小さな各個人商店だが、オリンピックをわが家でも見ようと、どこもテレビを買うまでになっていた。
 今のようにシャッター街となっていなくて、貧しくともどこの商店街も生きいきとしていたころだ。雑貨屋の茶川家でもカラー・テレビは無理でも、モノクロ・テレビを買うことにする。
 しがない作家を続けている茶川(吉岡秀隆)は念願のヒロミ(小雪)と夫婦となっていて、ヒロミはお腹が大きく、妊娠中だ。家は2階を建て増しし、1階では雑貨売りの片隅で、ヒロミが居酒屋をやって家計を助けている。引き取った淳之介(須賀健太)は、東大を目指して勉強中の高校生になった。
 向かいの一本気の旦那(堤真一)と人情家の奥さん(薬師丸ひろ子)がいる鈴木オートでは、淳之介と同じく高校生の一人息子の一平は自動車修理工の後を継ぐことを嫌っていて、エレキギターに夢中だ。
 集団就職で青森からやって来た住み込みの工員六子(堀北真希)は仕事も覚え、新入りの男の子を厳しく鍛えているが、もう年頃だ。

 鈴木オートの息子一平が、家でギターの練習をしている場面で、本棚に「平凡パンチ」が置いてあり、壁には加山雄三の「ハワイの若大将」のポスターが貼ってあった。一平は学校でベンチャーズのサウンズを弾くが上手く弾けなく、会場にいた女の子もあきれて部屋を出ていくという有様だ。この辺の音楽若者の状況を芦原すなおが「青春デンデケデケデケ」に描いている。
 六子がほのかに恋した男(森山未來)は医者だが、私生活の服装は軽い若者だ。髪は七・三に分け、当時流行のアイビー・ルックというファッションだ。誘われて銀座でデイトするが、今どきの若者として「みゆき族」がテレビに映し出されたなかに2人があり、六子が慌てるという一コマがある。
 新婚旅行に出発するという東京駅での場面は、できたばかりの新幹線の新大阪行きの、今は懐かしい芋虫のような最新型列車「こだま」が映し出され、結婚した2人はそれに乗って旅立つ。新婚の花嫁は、お決まりの丸いピルボックスの帽子を被っている。

 やがて街には夕日が輝き、映画の始まりと同じく、そこには東京タワーがそびえている。
 東京タワーは、スカイツリーができた今後も、きっと東京の象徴であり続けるだろう。スカイツリーができたおかげで、東京タワーには品と哀愁すら漂うようになった。

 「雨の外苑、夜霧の日比谷…」と歌う「東京の灯よいつまでも」(新川二郎)が流れたのは、この年だった。
 「街はいつでも、うしろ姿の幸せばかり…」と歌う「ウナ・セラ・ディ東京」(ザ・ピーナツ)が流れたのも、この年だった。

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大人の見る絵本「生れてはみたけれど」

2013-02-13 02:44:11 | 映画:日本映画
 子どもには子どもの世界がある。
 そこには、いやな奴がいたり、自然と遊び仲間のグループができたりして、小さな世界での階級ができて、各々のスタンス、立ち位置が確立されていく。だいたいが、ケンカの強い者がボス的存在のガキ大将になるのだが、そこには他の要素も時折介入してきて、微妙な力関係で存在する世界はそれなりに揺れ動き、各自のスタンスは確固たるものではない。

 「大人の見る絵本、生れてはみたけれど」(1932年、松竹)は、小津安二郎監督の20代のときの、初期の作品である。出演、斎藤達雄、吉川満子、菅原秀雄、突貫小僧、坂本武ほか。

 腕白坊主の兄弟2人(小学校低学年の年齢、菅原秀雄、突貫小僧)一家は、都心から郊外に引っ越してくる。そこには、体の大きいケンカの強いガキ大将の男とそのグループがいた。兄弟は、ガキ大将が目の敵(かたき)にしているせいで、学校を休んだり、仕返しをしたりするが、やがて仲良くなる。
 そのグループのなかには、父(斎藤達雄)の会社の上司(坂本武)の息子もいた。一家が郊外へ引っ越してきたのも、父の上司の家の近くということもあった。
 そんなことはお構いなく、兄弟はグループの中ではガキ大将的な地位にいた。
 ある日、その父の上司の家で映写会をやるというので、子どもたちも喜んで見に行く。もちろんテレビなどなかった時代だから、動く映像を見る映写会は珍しかった。上司の家では、兄弟の父も含めて会社の部下が何人か集まっていて、子どもたちも集まって、8ミリ映写が行われた。
 最初は動物園の動物などが映り、みんな喜んで見ていた。そのうち、会社の社員の顔が映し出された。そして、兄弟の父が上司とともに映し出された。そこでは、家では厳格な父が、上司に媚びてペコペコお辞儀をし、おどけ顔を作ったりしているのだった。
 映像を見ているうちに、兄弟の顔がみるみる変わっていった。そして、そっと席を立って帰るのだった。
 偉いと思っていた父の大きな像が、急に崩れたのだった。
 兄弟は、家に帰ってきた父に何故あんな態度をとるのかと怒り、お父さんは偉くないのか、何が偉いのかと声をあげる。そして、2人はハンガーストライキを決意する。

 子どもが、大人の世界を垣間見た瞬間を、それをどう自分に納得させるのか、親はそれに対してどう答えるのか、映画は子供の世界から観る者に語りかける。
 語りかけると言ったが、この映画はサイレントで声が出ないので、実際は語りはしない。時折、字幕が出る(新版では字幕のところはナレーションも加えてある)が、見終わって、サイレントという印象はなく、騒々しくなぜか生々しく言葉が残っているのである。

 子どもが大人の世界を垣間見たとき、子どもの世界に大人の世界が入ってきたとき、子どもは世界の矛盾や真実、つまり現実を知ることになる。そして、その分だけ大人になる。その分だけ子どもであることを捨てるのである。

 小津安二郎といえば、「東京物語」をはじめ、家族の在り方を淡々と描いた戦後の作品が有名だが、ここでは子どもの世界が上手く描かれていて、当時の子どもの遊びを知ることができる。

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BBとCCのセクシーな「華麗なる対決」

2013-02-12 03:37:11 | 映画:フランス映画
 「華麗なる対決」(LES PETROLEUSES、監督:クリスチャン=ジャック、仏・伊・西共同制作、1971年)は、フランス映画女優の顔だったBBことブリジット・バルドーと、イタリア映画女優の顔だったCCことクラウディア・カルディナーレが共演した映画である。ヨーロッパ映画女優を代表するセクシーなBBとCCの、最初で最後の共演作となった。
 B・バルドーが1934年、C・カルディナーレが1939年生まれで、この「華麗なる対決」の製作公開が1971年だから、大体バルドーが36歳、カルディナーレが31歳のときの作品である。
 アメリカのセックス・シンボルだったMMことマリリン・モンローが死んだのが1962年だから、M・モンローのなき後の1960年代は、この2人がセクシー女優を代表していたと言っていい。
 しかし、セクシーさに対する期待が重かったのか肉体の魅力を維持することに対して自信が持てなくなったのか、B・バルドーはこの「華麗なる対決」の後2作品に出演して、73年にはあっさり映画界を引退した。
 一方、C・カルディナーレは、最近の映画は見ていないが、おそらく今でも現役のはずである。僕は「ブーベの恋人」以来、カルディナーレのファンを公言しているのだが、近年、「マルチェロ・マストロヤンニ甘い追憶」というマストロヤンニの回顧ドキュメンタリー映画を見ていたら、カルディナーレがインタビューで出演していた。そのとき、彼女のあまりにもの変貌に、僕はその映像を見たことを後悔したほどだった。
 その映画に出演していたとき彼女は60代であったのだが、彼女から昔の面影を見つけるのが難しかった。そういえば、彼女を見た最後の映画は「家族の肖像」(1974年作)だから、彼女がまだ34歳のときである。
 老いは誰にでも訪れることなので、そのことを言っているのではない。いまだ彼女は活気があったが、化粧が濃く、老いを覆い隠そうとしているか認めていないように感じられた。
 彼女の後に同じくインタビューで出てきた、マストロヤンニと「甘い生活」「81/2」で共演したアヌーク・エーメも同じように年をとっているはずだが、エーメは若いときの面影を充分に残しつつ“品”を加えていた。アヌーク・エーメは1932年生まれだからカルディナーレより年輩だ。2人の「その後」は、あまりにも違った。

 「華麗なる対決」このときは、クラウディア・カルディナーレのもっとも女盛りのときかもしれない。ブリジッド・バルドーに負けてはいなかった。
 「山猫」のように鋭敏な瞳と、「ピンクの豹」のような色気を保っていた。

 物語の内容は、BBとCCによる西部劇である。
 西部劇はアメリカ映画が本場だが、この当時イタリアでも作られていて、日本でも「マカロニ・ウェスタン」(アメリカやイタリアではスパゲッティ・ウェスタン)などと言って、人気があった。
 西部劇だから、アメリカのテキサスが舞台だが、台詞はフランス語ときている。だから、冒頭で、荒野の町に「テキサス州、ブージヴァル・ジャンクション、1858年フランス人が開拓する」と表示板を掲げている。だから、ここはフランス人の町なのだから、フランス語がまかり通っているのは不思議ではないということなのだ。
 唯一英語を喋る少しとぼけた保安官が、CCに惚れていてデイトに誘うのだが、「フランス語が上手になってからね」などと軽くあしらわれたりする。
 この映画はフランス・イタリア・スペイン共同制作となっていたが、BBがフランス人、CCがイタリア人ということでフランス・イタリアは分かるのだが、なぜスペインも入っているのか不思議だった。でも、分かったのは、マカロニ・ウェスタンと同じく、撮影の舞台をスペインの原野で撮影しているのだ。だから、3国共同制作なのだ。

 女性4人をひきいるBBが列車強盗集団のボスで、地元のはみ出し者CCが4人の男兄弟を従えて街を闊歩しているという状況だ。その2つの集団、といってもBBとCCの2人が、石油が出るという牧場の利権をめぐって争うという、たわいない話である。
 この映画は、BBとCCを堪能する映画なので、内容は二の次なのだ。だから、この2人が乳房を揺らせながら喧嘩する場面は圧巻だ。
 この2人にマリリン・モンローを加えて、MM、BB、CCの3人の共演を見てみたかった。
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