かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

色川・阿佐田先生の「うらおもて人生録」

2011-08-16 01:12:18 | 本/小説:日本
 最近、伊集院静の「いねむり先生」が評判のようだ。
 女優である当時妻であった夏目雅子が急死した後、伊集院は茫然自失、自暴自棄の生活を送っていた。その時に、声をかけてくれたのがいねむり先生で、あの先生との時期があったからこそ今日の作家生活があると述懐している。
 そのいねむり先生とは、作家の色川武大である。「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、「離婚」で直木賞をとった純文学系ともいえる作家であるが、彼のもう一つの作家名が阿佐田哲也である。
 阿佐田哲也は、麻雀文学の不朽の名作ともいえる「麻雀放浪記」の作者で、色川武大の名は知らなくとも、当時阿佐田哲也の名はあまねく知られていた。
 阿佐田は若いころプロのギャンブラー、博奕打ちだったことがあり、「麻雀放浪記」はその体験が生かされた凄味のある小説である。

 僕は会社に入って30歳になろうとしていたころ、遅まきながら麻雀を覚えた。仕事が終わった後、会社の同僚と初めて卓を囲んだ時のことだ。親しくもない、むしろ好ましく思っていなかった同僚が、「麻雀を始めたのだって?」と言って手渡したのが、この「麻雀放浪記」だった。
 麻雀をやっていなかったので読んでいなかったが、その本の噂は聞いていた。たかが麻雀小説と思って読み始めたら、文庫本で4冊にもなる長編だったが、つい引き込まれて一気に読んでしまった。
 その後、僕は麻雀そのものにも溺れていったのだが。
 そして思った。学生時代にやらなくてよかった、と。こんな面白いゲームを若い時に知ってしまったら、僕の青春時代は変わったものになっていただろうと。
 この「麻雀放浪記」は、イラストレーターの和田誠によって、1984年に映画化された(主演、真田広之、鹿賀丈史、他)。

 この阿佐田哲也こといねむり先生に一度だけ会った。
 出版社の編集者時代に、仕事の打ち合わせではなく、どういう成り行きでこうなったか忘れてしまったが、銀座で同僚の編集者に紹介された。
 第一印象は大きい人だと思った。怖さと優しさを同居させたような大きなぎょろりとした目をしていて、独特の雰囲気を持っていた。
 僕たちは、銀座の4丁目あたりから日本橋の方に向かって3人で並んで歩いた。ただそれだけのことだった。先生は多くを語らない人だった。
 彼の著作の中で、自分は頭が大きくいびつなので、それが小さい時から精神的に負い目に思っていた、という文を思い出し、僕は何気なく先生の頭を見たのだった。
 大きいと思っていたが、最近「ばれてもともと」(文芸春秋刊)の著書の中で、身長170センチ、体重80キロという文を見つけた。縦横大きくお相撲さんのような印象だったが、身長は僕より少し低いぐらいなので、意外な気がした。
 大きく見える人だった。

 *

 色川武大の「うらおもて人生録」(毎日新聞社刊)は、著者の体験を語りながら若い人に向けた人生訓であるが、少し変わっている。そして、考えさせる。
 というのも、博奕や勝敗を人生の例に絡めて説明されるからだ。勝ち負け、フォーム、運とは何かと言われると、これが、若い時の博奕打ちとしての生きた経験があるから、不思議な説得力がある。しかし、わかったようでわかりにくいところが、人生の神髄なのである。
 若いときに読んでいたら、わかったとしても深く理解しなかったかもしれない。

 阿佐田哲也こと色川武大先生は、次のように言う。
 博奕打ちに限らずどんな職業であれ、プロは一生を通じてその仕事でメシが食えなくてはならない。そのためには何よりフォームが大切で、プロの基本的フォームは持続が軸であるべきだ。
 しかし、何もかもうまくいくということはありえない。
 彼は言う。
 15戦全勝を狙ってはいけない。
 15戦全勝を狙って勝ち続けても、いつまでも勝ち続けることはありえない。むしろ、そういう人は負け続けることもありうる。逆にそういう人に限って15戦全敗だってありうる。
 すべからく、8勝7敗を良しとすべきだ。理想は9勝6敗だ。
 このことは、勝負事だけでなく、人生もそうだ、と。
 何もかもうまくいくことはありえない。勝ち続けることはありえない。運よくうまくいっているということは、反対に運を消費していることにもなる。プラスを使いすぎると、マイナスが待っている。
 すべてがバランスで成り立っている。
 運は、結局ゼロということである。

 この考え方は、大きく深い。
 若いときは、すべてを求める。何もかも手に入れようとする。そして、気がつけば何もかも失っていることがある。
 著書は、人生のトータルというものは、結局プラスマイナスゼロに近くなっていくようだ、と語る。
 これは、ある時期、突き詰めた人生を送った人間でないと言えないだろう。あるいは、波乱万丈の人生を送った後の、引き潮を感じる時でないと。
 勝ち続けて絶好調と思わせている人が、次の瞬間に大きな落とし穴に落ちるというのを、僕らはよく見ている。
 
 そして、著者は続ける。
 物事というものは、進歩、変革、そういうことが原因して、破滅に達するのだと。
 例えば、誰かが自分たちの生活を一変するような発明をしたとする。人類にとって大きなプラスだ、科学の勝利だ。確かにそうだが、その代わり、その分だけ確実に終末に近づいてもいるのだ。
 だから、ものすごい発明が人類の大きなプラスになったとしても、何も失わずにプラスだけが手に入ったわけじゃない。作用があれば、必ず反作用という逆の力が働く、と著者は言う。
 このことは、現在全世界でその存続が議論されている原発にも当てはまる。この本が出版されたのは1984(昭和59)年だが。

 このプラスマイナスゼロの法則(考え方)や作用反作用の法則は、個々の人生にも当てはまる、と著者は説く。
 著者は、理想はしのぎながら勝つスケール勝ちに置く。
 スケールとは、器の大きさ。これを、著者は比喩として、大事なところでチャランポランになる能力とも言っている。
 ふつう、ここ一番というチャンスを迎えた時に、大体、一生懸命になる。固くなったり、身構えたりする。誰だって、チャンスは存分に生かしたいから。
 ところが、それと同時に、自分のそのときの限界まで見せてしまう。ここが難しいところだ。自分がたくわえた力は、相手に分かってもらわなければならない。けれども、力の限界は見せたくない。
 大事なときに、チャランポランになれる能力とはどういうことか。チャランポランというよりリラックスといった方がわかりやすいかと著者は言う。これはなかなか難しい。
 著者は、平生のしのぎを固くやって、しのぎ切っていると、自然にゆとりが出てきてリラックスを生む。リラックスしているというゆとりがスケールにつながって印象されて、もっと奥がありそうだと思わせることができる。

 そのスケールを大きくするにはどうすればいいか。
 著者は続ける。
 人生は、特に男の場合は、たたかいの連続だ。
 自分にとって好都合ばかりではこの世は成立しない。必ず不都合もある。それだから、好都合というものが成立するのだから。
 たたかいやしのぎのセオリーを身につけると同時に、それと同じくらいに大切なこととして、自然に人を愛することもできるようになっておくべきだ。 
 人を愛することができないと、ちゃんとたたかうことができない。実は、これがスケールになる。
 大事なところでチャランポランになれる能力。これがなぜ能力かというと、愛することと、たたかうこと、矛盾した二つのものを、こういう形で混在させているからだ。
 これがスケール。そして、スケール勝ちが最高の勝ち方だ、と著者は言う。

 器量が大きいとか小さいとよく言う。スケールとはこの器量のことだろう。
 このことは、伊集院静が色川武大こと阿佐田哲也から学んだという、「人はそれぞれの器量の中でしか生きられない」(「作家の遊び方」)という意味なのか。
 なるようにしかならない。
 このことを学んで、伊集院は、文章を書くことに関して以前のように悩むことはなくなったという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする