かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

横浜・盛り場ブルース⑤ トワイライト・ヨコハマ!

2024-04-24 01:02:17 | * 東京とその周辺の散策
 いつかどこかに 忘れた匂い 
 昨日見た夢 今宵も見る夢
 ここは横浜 真金 寿 伊勢佐木町

 *横浜橋商店街から旧・永真遊郭街へ

 JR関内駅を出発し、伊勢佐木町での「伊勢佐木町ブルース」歌碑を見たあと、隣の通りの「若葉町」のタイ街を確認し、再び伊勢佐木町に出た。そこを東に向かうとグリーンベルトの「大通り公園」に出る。
 そこに「歌丸桜」と名付けられた桜がある。笑点の司会をやっていた落語家、桂歌丸が通りの先の真金町の出身であるよしみで植えられた桜で、花見時期には賑わうという。
 その大通り公園沿いの横浜橋商店街入口から、丸い屋根を持ったアーケードの「横浜橋商店街」(横浜橋通商店街)へ入る。
 この商店街は、食料品、生活用品、普通の食堂など様々な店が並んでいて、懐かしさを感じさせる。こんな今どきの再開発ブームに抵抗しているようなレトロな商店街が、いまだ活気溢れているのが気持ちいい。

 この商店街の中ほどのところから北へ出たところの「真金町」に、「金刀比羅(ことひら)・大鷲神社」がある。
 幕末期の横浜開港にあたり設けられた「港崎遊郭」(みよざきゆうかく)の、「岩亀楼」主人である岩槻屋佐吉が讃岐の金毘羅大権現を勧請し祭祀したのが起源とされている。
 現在の横浜公園にあった港崎遊郭は大火で移転し、吉原町遊廓、高島町遊廓、永真遊廓など、移転のたびに呼び名が変わった。しかし売春防止法の成立によって、1958(昭和33)年に赤線(公認売春地域)が廃止された。
 この金刀比羅・大鷲神社の鳥居の先の通り一帯が、かつて「永真遊廓街」(永楽町および真金町)だったというので、その面影を探したがもうない。今は、静かな住宅街である。 

 この旧・永真遊郭街を北へ歩くと、銭湯「永楽湯」があった。レンガを積んで造ったようなタイル張りの玄関入口が渋い。
 永楽湯の開業は1951(昭和26)年ということだから、売春防止法施行より前から営業していたことになる。遊女も通ったのであろうか。
 全国で、銭湯もめっきり減ってきている。
 永楽湯から横浜橋商店街に戻って、再び商店街を歩いた。
 横浜橋商店街の行きつく先は中村川にぶつかる。ぶつかった通りの角に「三吉演芸場」がある。ここは戦前からある、一時は映画の上映もやっていた大衆演劇の劇場である。

 ここから、中村川に沿って北東の石川町方面に向かって歩く。
 前に「日本発祥の地を求めて、横浜」で、坂東橋駅から中村川に沿って歩き、山手公園、元町公園、港の見える丘公園方面を散策した。
 そのときは、この中村川の対岸である東側の「中村町」を歩き、「車橋」の交差点を右(東南)に曲がって、横浜駅根岸道路を打越の方に進んで山手公園に向かった。
 今回は、中村川の西側を歩き、「車橋」交差点のところ、つまり「長者町」1丁目になるのだが、そこで左(西)の通りへ入り、すぐの通りを右(北東)の「石川町」駅方面へ進んだ。
 そこが「寿町」だった。

 *ドヤ街と称される寿町を歩く

 横浜の「寿町」は、東京の山谷(東京都台東区)、大阪の釜ヶ崎(大阪市西成区あいりん地区)と並び称される「ドヤ街」である。
 ドヤとは「宿・やど」の逆読みで、簡易宿所が多く立ち並んでいる地区をドヤ街といった。

 私は寿町に何の知識もなかった。そして、横浜の有名繁華街の近くにこの街があることも知らなかった。JR石川町の駅からもすぐのところである。
 ドヤ街と聞けば日雇労働者がたむろしている少し物騒な街のイメージを抱きそうだが、寿町に足を踏み入れても何の変わりもなかった。いや、むしろ静けさが漂っているとさえ感じた。息を潜めているかのように、人の通りもない。
 しばらく歩くと、古い飲み屋が並んでいる一角に出た。まだ陽が残っている夕方だったので店はどこも開いてなく、それゆえ時代から切り離されて、そこに置かれているというイメージだ。(写真)
 近くに行ってみた。黄金町の旧ちょんの間通りの飲み屋街に似た空気がある。
 並んでいる家と家の間に狭い通路(通り)があり、その奥にも飲み屋があった。ここも、ロウソクの火のような小路である。
 建物と建物の間の狭い通りを歩いていると、確かに呼吸している空気の鼓動が伝わってきた。日の当たらない小路の中の店で飲むのも味があるというのは、経験上知ってはいる。

 飲み屋小路を出た通りには、建物はまちまちだが簡易宿所と思しき建物があちこちに目についた。
 通りの先に、この街では異色のモダンな建物が目に入った。それが「健康福祉交流センター」であった。名前の通り、いかにも健全そうな建物だ。
 建物には、ラウンジがあり、なかには図書コーナー、診療所、はたまた銭湯(公衆浴場)もある。その横に、ハローワーク(公共職業安定所)がある。
 寿町は、福祉の街になっていた。日雇い労働者はいないようだが、ドヤ(簡易宿所)は、街のそこらにあり、ドヤ街は静かに活(い)きていた。

 健康福祉交流センターの先(北)の通りを中村川の方に進んだところに1軒、居酒屋「浜港」があった。何やら謂れがある店のようだ。なかを覗いてみると昔の居酒屋然としているのに、奥にポツンと場違いな感じでジュークボックスが置いてあった。
 懐かしいオールディーズでも流れているのだろうか。

 *若葉町でのタイ料理

 寿町をあとにして、この日の出発点の西(関内・伊勢佐木町)方面に向かった。
 寿町から、縦の南北の通りの「扇町」、「翁町」、「不老町」、「万代町」を突っ切り、「大通り公園」を渡って、「蓬萊町」、「羽衣町」、「末広町」を過ぎて、「伊勢佐木町」に出た。
 この辺りは、通りが町の名前になっているので、町のオンパレードだ。
 伊勢佐木町を南下し、タイ街の「若葉町」に行った。日も暮れたし、せっかくだからタイ料理を食おうという細(ささ)やかな魂胆である。
 前に通ったとき見た、タイの古い国名の「シャム」(SIAM)という名が気にいったので、その店に行ったら閉まっていた。それで、タイの王宮らしい店構えの「J's Cafe' & Restaurant ジェイズカフェ&レストラン」の扉を開いた。
 店内は明るく、男1人と2人の女性、数人の中年女性グループがいた。座ってメニューを見ながら観察すると、客はすべてタイ人であった。女性グループは近所に住むタイの奥様仲間なのだろう、陽気なおしゃべりに花が咲いていた。
 料理は、中華料理風のメニューが多く、味も中華に近い味であった。とはいえ、タイ特有の甘辛い「トム・ヤム・クン」は欠かせない。中華風タイ料理を堪能して、店を後にした。
 ところで、男1人と2人の女性の客であるが、女性同士は話をしなかった。一人は普通の平凡な感じで、もう片方は化粧が濃かった。3人はどういう関係なのか、最後までわからなかった。注意深く観察していたわけではないが、すぐ後ろに座っていたので、何となく……。言葉もわからず、訊くわけもいかず。どうでもいいことではあるが。
 
 タイ料理店をあとに伊勢佐木町の通りに戻り関内駅に向かう途中、「長者町」との交わるところで見つけたのが、「シネマリン」という古い歴史を持つ名画座である。
 入口辺りだけで、いかにも風雪に耐えた映画館という風情がある。上映スケジュールを見ると、新旧織り交ぜた個性的な内容で通好みなのがわかる。近くに住んでいたら、通っていただろう。

 伊勢佐木町からJR関内駅に着いた。
 今回、横浜の関外の大岡川と中村川の間の、裏の横浜というべき通りや盛り場を主に歩いた。そこで、関内の「ブルーライト・ヨコハマ」とは別の奥深い魅力を知ることになった。

 この得体のしれない地域の横浜を、「トワイライト(twilight)・ヨコハマ」と呼んでおこう。
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横浜・盛り場ブルース④ 「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を求めて

2024-04-10 03:42:25 | * 東京とその周辺の散策
 街の灯りを 求めてさ迷う
 どうせ気紛れ あてもなく
 ここは横浜 長者 福富 伊勢佐木町

 先の1月に「横浜・盛り場ブルース」の関外・散策を行った。
 大岡川沿いの黄金町からスタートし、末吉町、若葉町、宮川町、長者町、日ノ出町、宮川町、野毛町、福富町、伊勢佐木町と巡った。
 帰った後、青江三奈のヒット歌謡、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑があることを知った。すぐに、一緒に歩いた湘南の士から「伊勢佐木町まで行ったのに、その1本隣にある「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を見なかったということは、近々リベンジしないといけないですね」と連絡があった。
 それで、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を求めて、「横浜・盛り場ブルース」リベンジ行を実施した。

 *関内から出発して、伊勢佐木町へ

 2024年2月14日、JR関内駅を午後出発し、まず関内の基原ともいえる「吉田橋」へ。そこから、伊勢佐木町を歩いた。

 「伊勢佐木町」は、関内・吉田橋ふもとから南北(地図上では上下)に延びた通りに即した横浜市中区の町である。
 吉田橋のふもとから伊勢佐木町1丁目が始まり、通りの東側通りは「末広町」で、西側通りは「福富町」である。2丁目で東西(地図場では左右)に延びる通りの「長者町」に遮(さえぎ)られる。
 分断された長者町の通りを超えたら伊勢佐木町は3丁目となり、4、5丁目と延びていく。伊勢佐木町の東側は「曙町」、西側は「若葉町」と変わり、西側はその先でさらに「末広町」に変わるが、伊勢佐木町はその先7丁目まで延びて南区の「南吉田町」と接する。通りの長さは約1.4km。
 現在、長者町に遮られるまでの1丁目と2丁目は「イセザキモール」と呼ばれ、3丁目から 7丁目は「伊勢佐木町商店街」と呼ばれている。

 *「伊勢佐木町ブルース」の歌碑

 街の並木に 潮風吹けば 
 花散る夜を 惜しむよに 
 伊勢佐木あたりに 灯かりがともる

 明るく賑やかなイセザキモールを過ぎ、伊勢佐木町4丁目の通りに、まるで忘れもののように突然、「伊勢佐木町ブルース」(唄:青江三奈、作詞:川内康範、作曲:鈴木庸一)の歌碑があった。
 歌碑はよく見られる歌詞が刻まれた石碑ではなく、グランドピアノをモチーフとしたモダンな作品のようなものだった。歌詞とともに歌っている青江三奈のレリーフが刻まれている。青江三奈の死去から約1年後の、2001年に建てられた。
 歌碑の後ろの歩道に沿って青江三奈の写真が掲示してある。歌碑とセットでのカメラの写し映えを狙ったものであろう。(写真)
 台座部分にあるスイッチを押してみた。すると、あの伊勢佐木町ブルースの歌が流れてきた。
 「あなた知ってる 港ヨコハマ……」
 この歌詞が始まる前に、「あふん」とか「うふん」とか、吐息というかため息が流れる。
 街中に、しかも朝や昼からでも流れるものであるから、ため息は少し控えめの軽い声になってはいるが、やはり省いてはいなかった。伊勢佐木町ブルースといえば、このため息抜きにはありえない。
 この歌が発売されたのは1968(昭和43)年であるが、初めて聴いたときは多少の驚きは隠せなかった。誰もがそうだっただろう。
 いきなり、ハスキーな女性の声で「あふん」である。よく放送禁止にならなかったなあと思う。いろいろ物議をかもしたが歌は大ヒットし、歌った青江三奈はスター歌手になった。
 同時期「女のためいき」でデビューした森進一と共に、「ため息路線」と呼ばれた。

 青江三奈の歌では、私はその翌年の1969年に発売された「池袋の夜」(作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)が好きである。
 「……美久仁(みくに)小路の 灯りのように 待ちますわ 待ちますわ さようならなんて 言われない 夜の池袋」
 池袋は何度も行って飲食しているのに美久仁小路には足を踏み入れていないので、ぜひ行かなくてはいけないとずっと思っている。
 つまり、路地裏のような「小路」が好きなのである。

 街の灯りがともるころは、かつての伊勢佐木町は今よりずっと艶っぽかったのだろう。
 ため息の街、伊勢佐木町。
 通りを歩きながら、ため息をついてみた。

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横浜・盛り場ブルース③ ディープな野毛から福富町界隈

2024-04-01 02:58:52 | * 東京とその周辺の散策

 国籍不明の路地裏で 戸惑いがてらに 灯りがともる
  ここは横浜 長者 福富 野毛通り 

 関外の大岡川沿いの黄金町を出発して、若葉町から長者橋を渡って日ノ出町、宮川町までやってきた。
 鮨屋の庭に建ててある美空ひばり像を出て、北へ進むともう野毛町である。

 *懐かしき盛り場の匂い、野毛の通り

 「野毛町」は、終戦直後は闇市が並び、その後も盛り場として横浜で最も賑わったところだった。
 現在、横浜の新しい顔は、関内である北の横浜港方面の、みなとみらい・山下町界隈に移っているが、野毛町は、街中に交わる通りや小路にかつての盛り場・歓楽街の一端をあちこちに残している、栄華の街だ。

 日ノ出町、宮川町から北の桜木町駅方面に続く通りは、野毛大通りである。この野毛大通りを北へ進むと、野毛本通りに交差する。
 ずっと歩き続けたので、ここらあたりでちょっと休憩をしようと野毛本通りを見ると、次の野毛仲通りと交わるところに「カフェ・カルディー」なる店が目に入った。カフェとあるが街中によくあるカフェ・チェーン店とは違い、昔ながらの町の喫茶店である。
 ドアを開けて中に入ると、ママさんが一人でやっていて、地元の人が憩いでやってくるアットホームな雰囲気の店だ。どこか田舎の街にやってきたような気分になる、妙に落ち着く店である。コーヒーを飲んで一息つく。
 店を出たら、野毛本通りを東側へ進み、野毛小路の先を左折(北)した通りに「福音喫茶メリー」という喫茶店があった。キリスト教の伝道を行っているのだろうか。造りも雰囲気も厳かなので、ドアを開ける気にはなれなかった。

 その通りを過ぎると、ちょっと空気が変わった通りに出た。通りの入口に提灯を並べた商店街アーチがあり、両サイドには飲食店が並ぶ野毛柳通りだ。
 地方都市によく見かけた、懐かしさを漂わせる繁華街・飲食街・小路だ。こんな通りで飲むのもいい。なんとなく、銀座にある迷路、三原小路を想起した。

 *都橋から宮川橋へ流れる都橋商店街

 柳通りを離れて都橋から大岡川に沿って歩いたら、宮川橋に向かってなだらかなカーブの川の流れに添って店が連なっていた。この2階建ての長屋のような繋がった建物群が都橋商店街で、またの名をハーモニカ横丁というそうである。
 よく見れば、1階の店舗は道路上に正面は向いていて、2階は正面が河川に向いているという個性的な集合店舗である。
 もともとは東京オリンピック開催にあたり、戦後野毛本通りなどの路上で営業していた露店を撤去し、その店を収容するために1964(昭和39)年に川沿いの道路上に建設されたものという。
 そうか、私が上京した年に建てられたのか。店並みに疲れは隠せないが、明かりがともり、まだ営業している店も多い。年月を経て、通り自体に味が滲み出ている。

 *横浜のコリアン・タウン

 宮川橋を渡ると、「福富町」に出た。順に、福富町西通り、福富町仲通り、福富町東通りとなっている。
 街は明らかに歓楽街である。バーなどの飲食店もあるが、ソープランドの店が目立つ。交差点に建つ実直そうなビルには、伝統を思わせる英国屋のネオンが通りを睥睨している。老舗スーツ仕立店と見間違えてしまった。
 さらに歩き進むと、韓国料理店が多く目につく。すると、通りにネオンに彩った「KOREA TOWN」のアーチが輝いている。その横には、「福富町国際通り」と添えられている。(写真)
 東京の新大久保にも堂々と街に「コリア・タウン」を謳ってはいないので、画期的な宣言街だろう。
 すぐ近くの若葉町には、タイ・タウンのごときタイ料理店とマッサージ店が多く目についた。
 この界隈は、横浜における多国籍・無国籍的な盛り場の街である。東京・新宿の歌舞伎町に比肩すると言っていい。

 もうとうに日は暮れて、街には明かりがともっている。ここまで来たら、青江三奈の歌う「伊勢佐木町ブルース」で名高い伊勢佐木町に足を踏み込まずに、ここを後にするわけにはいかない。
 すぐ隣の「伊勢佐木町」の盛り場であった通りを確認し、JR関内の駅に向かった。
 関内の駅の近くに「吉田橋」がある。
 もともとここには川(派大岡川)が流れていて、伊勢佐木町と馬車道を繋ぐ吉田橋が造られ、ここにいわゆる「関内」の基点ともなる関門番所が置かれていた。
 現在の橋は、幕末期の1862年に造られた木造橋より5代目にあたる。派大岡川は1971(昭和46)年に廃川となり、現在その跡には半地下構造の首都高速横羽線が、両岸の地上部は新横浜通りが通る。
 ここから野毛町方面に向かって、「吉田町」なる町名も残っている。

 *

 JR関内駅から石川町に出て、中華街に向かった。
 馴染みの東北・満州料理である。
 酒(ビール、紹興酒)の肴に、羊肉串、よだれ鶏(口水鶏)、海鮮(エビ・ホタテ・イカ)XO魚醤炒め。寒いこともあって、今回の本命料理である羊肉牡蠣酸菜土鍋。それに海鮮炒飯。
 つい、食べすぎて、飲みすぎてしまった。

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