かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

運命の女に出会ったら、「イヴォンヌの香り」(Le parfum d’Yvonne)

2012-01-30 02:47:55 | 映画:フランス映画
 恋愛小説あるいは恋愛映画において、その王道というべきテーマは、ファム・ファタール、運命の女との恋であろう。
 男がある女に出会い耽溺し破滅する恋は、不滅の恋物語である。その原型をアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」にみることができる。
 男は一目惚れし、恋に陥り、女に振り回され、破滅に向かう。女は愛すべき可愛い女であり、気まぐれで目が離せなく、行きつくところ純な男の及ぶところではないのだ。いわば、悪女とも魔性の女ともいえる。それでいてどうしようもなく魅力的な女。それが、男にとってのファム・ファタールである。
 君も、生涯一度は出くわしたことがあるだろう。もしそうでなかったら、これから出くわすかもしれない。
 幸か不幸か、出会ったら逃れることはできない。
 それが、運命の女だ。

 この映画「イヴォンヌの香り」(原作:パトリック・モディアノ、監督:パトリス・ルコント、1994年、仏)も、その手の映画である。

 男は、暗い駅で回想する。
 「恋人たちは出会ったところに戻る」という言葉を思い出していた。
 1958年の夏が私に残したものは?
 偽りの人生が始まった。
 彼女の眼差し、シガレットケース、緑のスカーフ。
 幸せだった日々の思い出が、とりとめもなく甦る。

 男ヴィクトール・シュマラ(イポリット・ジラルド)はロシアの伯爵で、その年の夏、レマン湖のほとりの避暑地にいた。親の残した遺産で食べるのには困らないようで、若いのに何もせず、読書と人間観察に耽る日々を送っていた。
 つまり、男は、自分で言うところの無為の生活を送っていた。
 「仕事は?」と訊かれれば、「何もしていない」と答えた。
 「では、休暇中ですか?」と訊かれれば、
 「ずっと休暇中です。昔は、“ゆっくり老いている”と答えていた」と答えた。
 若くして気ままな生活では、恋をする以外に何が残されていようか。
 男がホテルのロビーにいたある日、人生が変わった。
 男は一人の魅力的な女イヴォンヌ(サンドラ・マジャーニ)に出会った。そして瞬く間に、その女と恋におちた。
 その女の近くには、初老の医師であるルネ・マント(ジャン・ピエール・マリエル)がいつも付き添いのようにいた。金も教養はあるが、深い暗さを宿した男だ。おそらく、彼もイヴォンヌに恋していた。
 そして、老いと格闘していた。

 ある晩、ルネが酒場で一人飲んでいると、ジュークボックスからシャンソンが流れた。シャルル・アズナブールの「Sa jeunesse …entre ses mains」(日本題名:青春という宝)であった。
 それは、彼の心境を歌っているようであり、すべての人生を歌っているようだった。
 「豊かさを自分の手の中で持っているとき、二〇歳であれば輝く明日がある。
  愛が私たちに注がれ、眠れぬ夜を与えてくれる。
  ……
  そして、失われた時は戻ってはこない、去ってしまう。手を差しのべても悔やむだけ。
  もう遅すぎる。時間(とき)は、止められない。
  いつまでも留(とど)めておきたいのに。青春という時を…」

 歌のように、人生は瞬く間に過ぎていく。夢がある青春も儚い。すぐに、若者は中年になり、老人になっていく。
 キラキラした思い出だけが、記憶の中にたたずんでいる。

 男ヴィクトールとイヴォンヌは湖を渡る船に乗る。イヴォンヌは言う。「答えて! 答えたらご褒美をあげるわ」。「結婚したら、伯爵夫人ね?」。
 男は「そうだね。ヴィクトール・シュマラ伯爵夫人」と嬉しそうに頷く。
 二人は船の甲板にいた。一面、青い湖の水と澄み渡った青い空。男は、イヴォンヌをカメラのレンズ越しに見つめる。
 イヴォンヌは太陽の光を浴びて、水と空を見ている。白いスカートが風になびいた。
 「ご褒美をあげなくちゃ」イヴォンヌは男にほほ笑みながら、自分の白いスカートに手を差し入れ、白いパンティーを脱いで男に渡した。
 「私が落ちた時の形見よ」
 風がスカートをめくり、可愛いお尻をちらちらと覗かした。

 こんな胸をときめかす光景も、どこにもなかったかのように、すぐに過去に消えていく。
 あるのは、記憶の奥底にだけ。

 監督のパトリス・ルコントは、「仕立て屋の恋」(1989年)、「髪結いの亭主」(1990年)で、日本でも人気になった
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フィリピン・パブの夢の行方、「日本を捨てた男たち」

2012-01-25 03:16:33 | 本/小説:日本
 いつの頃からであろうか。日本にフィリピン・パブなるバーが出現したのは。
 最初は東京で、珍しいフィリピンの若い女の子がホステスとして接客するバーができたというので、面白いなと思っていたのが、休みに佐賀に帰ったら佐賀にもあるので驚いた記憶がある。こんな地方の街にもフィリピンの女の子が働いているということに、多少戸惑いと不思議さを感じたほどだ。
 このフィリピン・パブは、瞬く間に全国の都市に広まっていった。経済大国の日本に、出稼ぎに来ているのはわかる。しかし、同じ東南アジアでもインドネシアでもタイでもマレーシアでもない。フィリピンだというのには、彼らの国民性にあるのだろう。

 僕もフィリピン・パブができた頃、付きあいで何回か行ったことがある。
 彼女たちは、おしなべて陽気で元気がよかった。片言の日本語に、いつ日本に来たの?と訊くと、1カ月前とか2カ月前と言って、その言語能力に驚かされた。片言だが、難しいことを言わなければ、一応会話ができるのだ。辞書片手でもないし、フィリピンで日本語を勉強してきたのでもないと言う。即、実践の結果だ。
 僕らは英語を何年も勉強してきたのだが、こううまくはいっていないので、考えさせられた。
習うより、慣れろだ。

 このフィリピン・パブにはまって、彼女たちを追ってフィリピンに渡る男がいるというのは知っていた。フィリピンへ行けば、日本の10分の1ぐらいの物価だ。
 日本人の金にフィリピンの若い女の子もなびき、日本で稼いだ金を持っていけば、向こうではお大尽で贅沢ができる。酒池肉林といかないまでも、若い女性を堪能し、金がなくなったら日本に戻ってくればいい。そう考えるのも、無理はない。

 ところが、最近、そのフィリピンでホームレスになり困窮生活をしている日本人が目立ってきたというのだ。海外での困窮生活邦人は、タイでもインドネシアでもなくフィリピンが一番多いという。

 「日本を捨てた男たち」(水谷竹秀著、集英社)は、このフィリピンにおける困窮邦人を取材した本である。
 フィリピンに渡った男は、フィリピン・パブでフィリピン女性にはまり、結婚したりして、かの地に住むようになった男たちである。だいたいが中年過ぎで、遊び人だとは限らない。一般的には幸せな家庭があり、実直な元会社員もいる。
 しかし、人生はどこでどうなるかわからない。
 付きあいで行ったフィリピン・パブで、席に着いた女の子の笑顔に惚れたのが運のツキという場合もある。食べさせてもらったキャンディーに、甘い夢を見たというのもある。
 その女性のために、借金を重ねてフィリピンに逃げた男や、退職金を持って彼女の故郷に家を建て、数年で使い果たした男もいる。
 そのすべての男たちが、金がなくなった地点で、女性から去られている。
 彼女たちとは、金の切れ目が縁の切れ目なのである。

 金もなくなり、女からも去られ、住む家もなくなった彼らは、現地のフィリピン人の小さな情けで生きている。
 かろうじて生き延びているだけの男たちに、著者は訊いて周る。
 日本に帰りたいと思うか?
 なぜ、日本に帰らないのか?

 不法滞在や借金などで、日本に帰れない事情もある。
 たとえ日本に帰ってきても、すぐにフィリピンに戻った男を見ると、何と言ったらいいだろう。
 彼らは一様に言う。
 日本には帰りたくない。物価が高いということもあるが、自由がない。日本では、居場所がないと感じる。こちらの方がいい。
 同じホームレスなら、日本よりフィリピンの方がいいと言うのである。
 弱者や敗北者が、生きにくくなっているのが日本の現状なのである。

 *

 たまたま映画「恋するトマト」(原作:小檜山博、監督:南部英夫、2005年)を見た。
 この映画が先にできたのだが、まるで前半は、「日本を捨てた男たち」の映画化と思ったほどである。
 嫁のきてのない農業をやっている茨城の中年の男(大地康雄)が、やっとのことでフィリピン・パブで知り合った若いフィリピン人女性(ルビー・モレノ)と結婚することになる。フィリピンの彼女の両親のもとに、支度金を持っていくが、結婚するというのは詐欺で、男は金をとられ無一文になる。
 男は茫然自失となり、帰国する気も失せ、フィリピンでホームレスまでなり下がる。
 やがて男は、日本人にフィリピン人の女の子を紹介、やがて売春させる女性を集めるという裏の仕事に手を染める。
 そんなとき、実家が農業をやっている美しいフィリピン女性(アリス・ディクソン)と知り合い、彼女の農業を手伝う。
 そして、恋が芽生え、農業への熱意も復活するという、最後は甘いメロドラマ風のハッピーエンドに終わる映画である。

 「恋するトマト」の映画公開から7年。
 日本の農業はますます苦しくなっているのが現状だ。
 日本のフィリピン・パブも、最近はかつての精彩がないようにも見える。
 僕の知人で、フィリピン女性と結婚し、向こうで暮らしている男がいる。数年前、彼が日本に里帰りしたとき偶然会って、向こうでの立派な家と子供を含めた家族の写真を見せられたことがある。
 そのときは、こんな人生もいいものだと少し羨ましく思いもした。
 今、彼は順調にやっているのだろうかと、気になってきた。

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「それでも恋するバルセロナ」(Vicky Cristina Barcelona)

2012-01-20 03:02:44 | 映画:外国映画
 バルセロナといえば、スペイン西部のピレネー山脈のほとりのカタルーニャ地方にあり、アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリア教会が有名だ。
 それに、通りを歩いているとピカソやミロの美術館もあり、何となく芸術の香りがする街である。
 このスペイン・バルセロナから、映画「それでも恋するバルセロナ」は始まる。

 アメリカ人の仲のいいヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)は、ヴィッキーの親類がいるというスペインのバルセロナにやってくる。
 すぐさま、画廊で開かれたパーティーで、画家である一人の男に誘いを受ける。その男はフアン・アントニオ(ハビエル・バルデム)といい、画壇では私生活上評判のよくない男だった。しかし、どことなく魅力のある男だ。
 ヴィッキーとクリスティーナがワインを飲んでいるテーブルにやって来たアントニオは、さりげなく次のように話しかけてくる。
 「2人をオビエドに招待したい。週末を3人で過ごそう」
 オビエドとは、スペインの北部にある古い街である。そこへ小型飛行機で行こうというのだ。さらに、こう付け足した。
 「そこで、食事とワインとセックスをする」
 初対面なのに、ラテン系らしい大胆な誘い方だ。
 自由奔放そうなクリスティーナは興味津々だが、婚約者もいて、真面目な考え方のヴィッキーはあからさまな誘いに怒って、すぐさま断る。
 すると、アントニーはこう言い返す。
 「なぜ怒る。美人で魅力的だと褒めているのに」
 「君たちに最高の提案をしているだけだ」
 そして、彼の人生哲学を述べる。
 「人生は無意味だから、楽しむべきだ」
 単なる性愛(エロ)映画か、それともめくるめく官能の世界へ連れていってくれる愛の耽溺の映画か、胸が躍る。

 クリスティーナの積極性に引きずられる格好でヴィッキーも一緒に飛行機に乗り、結局3人でオビエドに行くことになる。
 オビエドは、フランスの田舎(カンパーニュ)のように素敵なところだった。ここから、1人の男と2人の女のエロティックな関係が始まることになる。
 まるで、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」のようだと思った。この映画は、2人の男と1人の女の物語。
 「突然炎のごとく」の原題は、「ジュールとジム」(Jules et Jim)という2人の名前を使った単純なものだ。
 この「それでも恋するバルセロナ」の原題は、「ヴィッキー、クリスティーナ、バルセロナ」(Vicky Cristina Barcelona)と、2人の名前にバルセロナを付け加えただけのもの。
 さらに、トリュフォーの「恋のエチュード」( Les deux Anglais et le Continent) にも通じるものがある。この映画は、2人のイギリス人の姉妹と1人のフランス人の男の物語。

 明らかに、脚本と監督をした器用なウディ・アレンが、ヨーロッパを意識していることが一見してわかる。アメリカ・スペイン合作映画だが、用意されたすべてがヨーロッパ的なのだ。そもそも、イントロから流れる挿入歌さえも、洒落たシャンソン風だ。
 このヨーロッパ的な恋愛の三角関係に移行していくかと思いきや、別れたはずのアントニオの妻であるマリア(ペネロペ・クルス)が現れて、複雑で奇妙な関係に変形していく。
 マリアとうまくいかない理由をアントニオはこう言う。
 「マリアと会ったとき、どれほど美しかったか。才能があって、ゴージャスで、官能的だった。大勢の男のなかから僕を選んでくれた。完璧な関係だったが、何かが欠けていた。愛にもバランスが必要だ。人体と同じだ」

 さらに、バルセロナに、ヴィッキーの婚約者ダグがやってくる。
 ここまで来ると、アメリカの猥雑さが強くなり、ヨーロッパの繊細さが消えていく。一歩間違うと、芸術的愛の映画が、どたばたラブコメディーになりかねないところだ。

 やがて、つかの間の恋は終わる。
 2人はバルセロナからアメリカに戻り、ひと夏の旅は終わる。
 バルセロナで、1人の男が2人の女に何かを残していった。

 スペインが舞台ということもあってか、スペイン人の俳優、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの個性が際立っている。2人の、男の色気と女の色気が匂いたっている。
 この映画の公開が2008年で、撮影されたであろうその前年の2007年の雑誌「 PLAYBOY」では、「もっともセクシーな世界の美女100人」のなかで、3位のアンジェリーナ・ジョリー、2位のシンジー・ローハンを抜いて堂々1位に輝いたスカーレット・ヨハンソンだが、ヨーロッパの地では、存在感が薄くなっているのは否めない。
 「それでも恋するバルセロナ」は、アメリカ人が作ったヨーロッパ映画と言えようか。

 *

 スペインの鉄道は、ほとんどが日本の旧国鉄と同じ国営のレンフェ(RENFE)である。マドリッドのチャマルティン駅十一時発の列車でバルセロナへ向かう。本格的な一人旅が始まった。
 列車の窓から見える景色は、土と石の荒涼たる風景だ。やはり、ヨーロッパは石の文化だ。
 夕方六時頃バルセロナ駅へ着いた。駅を出た途端、一人旅の不安は吹き飛び、私は久しぶりにヨーロッパを旅している自分を発見し、嬉しさが込みあげてきた。
 パリへの一人旅から二〇年がたっていた。久しぶりのヨーロッパの一人旅は、かつての夢見心地の旅ではない。私も年を重ねたし、日本も大きく変わった。一生懸命背伸びをしていたスーツ姿の青年は、今は少し余裕をもったカジュアルなジーンズ・スタイルの中年男に変わっている。
 バルセロナの街は、マドリッドに比べて気取っている。人々も、まるでパリジャンやパリジェンヌのようにすましている。ランブラス通りはさしずめシャンゼリゼとでも言おうか。
 ランブラス通りを歩いた。どこの世界の若者もみんな夢見ている。私も、この水を飲めばもう一度バルセロナに来られると言い伝えのある、カタレナスの泉の水を飲んだ。
 *「かりそめの旅」――ゆきずりの海外ひとり旅――(岡戸一夫著) 第10章「黄昏の輝き、スペイン、ポルトガル」より。
 *この本の問い合わせは、ocadeau01@nifty.com

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呼子の鯨屋敷

2012-01-14 19:52:27 | 気まぐれな日々
 東京へ戻る前に、呼子へイカを食べに行った。
 呼子は、玄界灘に面した佐賀県唐津の小さな漁港である。呼子といえば、イカの活き造りが最近有名度を増してきて、こともあろうか昨年年末に放映されたNHK佐賀テレビの「未来に残したい佐賀遺産ベスト70」では、伊万里・有田焼を抜いて7位にランクされていた。(2011.12.31ブログ参照)
 問題の残る佐賀遺産ベスト70であったが、イカの活き造りが美味いのは間違いない。
 僕も、佐賀の美味ランキングでは、佐賀牛とともにベスト3にあげるだろう(もう一つは意見の分かれるところであろう)。

 その呼子の港は、鄙びた家並みが海に沿って続き、風情を保っている。
 ここの港からかつては壱岐まで行く船が出ていたが、今は唐津の港に移ってしまい、漁船以外の航路の船はない。
 若いとき、一人で呼子にふらりとやってきたときのことだ。壱岐行きの船が停泊しているのを見て、壱岐に行く船がここから出ているんだと思ってしばらくは船を見ていたが、だんだん乗りたくなって、出航寸前に飛び乗り、そのまま壱岐に行ったことがあった。

 呼子の港に着くと、いつも行くイカの生き造りの元祖という「河太郎」の店は、港の岸壁に新しくなって移っていた。
 店に入ると、大きな生簀にイカが泳いでいる。あゝ、これから人間に食べられるとも知らずに。
 2階の港が見える席に座り、海を見ながらイカの生き造りに箸をのばした。
 この日は友人と2人できたので、ケンサキイカとモンゴイカの2匹が出た。食べ比べられるのは幸運だ。イカは胴体の部分は透き通っていて、見るだけでもきれいだ。刺身用に胴体は千切りに切ってあるのだが、足は動いている。
 あとで、足はテンプラにしてくれるのだ。
 午後の昼下がり、海を見ながら食べるイカは、うららかな贅沢気分だ。空は水彩画のように青い。窓の先のすぐ前の海には、加部島に続く呼子大橋が見える。

 イカの活き造りを食べたあと、近くにあるという鯨屋敷を見に行った。
 鯨漁といえば、宇能鴻一郎作の「鯨神」(映画では、勝新太郎、本郷功次郎主演)で描かれているように、かつてはこの玄界灘でも行われていたのだ。今は玄界灘でその姿を見ることは滅多にないが、ごく最近の昭和に入った頃まで、鯨が捕れていた。その写真もある。

 呼子の海岸に沿った道を歩くと、江戸から明治、大正期の古い家が並ぶ。その中でひときわ目立っていたのが鯨屋敷の中尾家で、きれいに改修され展示場として公開されていた。
 この家はもともと江戸中期に建てられたもので、「松浦の鯨王」と呼ばれた鯨組主の中尾家の旧屋敷である。(写真)
 2階建ての家の中は、思ったより広い。柱や梁が幾重にも組み合わされていて、絵が描かれている杉戸があるように、江戸時代の九州の港町には洒落た豪邸であったことが窺える。
 裏の別館には、一角鯨の捩れながら尖った白い一角が展示してあった。これは初めて見た。
 今のように牛肉や豚肉が簡単に手に入る前は、といってもまだ昭和30年代ぐらいまでは、鯨はどこの街でも安価に売られていた。牛肉や豚肉より格下の扱いだったのだ。それが、今では都会では珍しく(それゆえ鯨専門のレストランもある)、しかも高価だ。

 帰りに、海岸沿いに屋台風に朝市をやっている通りで、魚の干物を売っているおばちゃんからアジの味醂干しを、そして通りに出たところで、萬坊のイカシュウマイを買う。
 そのうち、イカとともに、呼子で鯨料理も食べさせてくれ! 鯨の活き造りとは言わないから。
 きっと、呼子の新しい名物となるだろう。

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人生は記憶① 記憶のジャングルへ

2012-01-07 19:59:35 | 人生は記憶
 記憶とは、不思議なものだ。
 昨年3月11日の東日本大震災を期に、日本人になる決意をした日本文学研究者のドナルド・キーン氏(90歳)が、今年2012年1月1日の新聞(朝日新聞)に記憶について次のように述べている。
 「小さくなった人間が、人の体内に入り込む「ミクロの決死隊」という映画があったが、自分の頭の中に入り込み、生い茂る記憶のジャングルを歩けば、どんなに面白いだろう。些末な記憶なの堆積がひっくりかえったオモチャ箱のように散乱しているだろう」

 人がそれぞれ生きてきただけの時間の記憶が、過去として堆積しているとするならば、記憶の量は膨大なものになる。単純に時間に換算しても、20歳の人で約17万5千時間、60歳の人では約52万6千時間となる。人の最初の記憶が始まるとする3歳ないし5歳から起算したとしても相当な時間量となる。
 その記憶は、年表のように年代順に整理されていればいいのだが、そうではない。あるいは、ジャンル分けされているわけでもない。きわめてアトランダムなのだ。
 記憶から取り出した具象は、どれが先でどれが後だったかは、あとで、つまり思い出したそのとき、確認・検証しないといけない。その取り出した記憶の具象には、タグやシールが貼ってあるわけではないのだ。
 だから、整理学の本が売れるわけだ。

 記憶は、ビデオやDVDのように映像だけなのか。いや、音楽や、匂いや味覚で甦る記憶もある。とすれば、記憶は僕たちが現在体感するすべてを内包しているものなのか。
 また、記憶を巻き戻してと言うが、過去をどう振り返っても、ビデオやDVDのように、記憶は巻き戻るのではない。常に取り出した記憶は基点から現在の方向に進み、つまり時間の経過のように進み、現在に近い方から遠い方にと逆進行はしない。
 ということは、どうやっても時間を巻き戻すことができないということではなかろうか。ということは、タイムマシンは人間の想像以上のものではないと言えるのではなかろうか。たとえ、ニュートリノやそれ以外の物質が光より速いとしても。
 いや、このことを根拠に、物理学の専門家でもない私がそんなことを断定できはしないが。

 このどこに何があるかも分からず、整理不可能な記憶をジャングルにたとえるなら、それこそ生い茂る密林だろう。
 しかし、残念なことに、その生い茂るジャングルの中から引き出すことができる記憶は、わずかなものでしかない。大半は思い出そうと思っても、甦らせることはできない。
 そのジャングルそのものが次第に枯れ果てて、徐々に失われているかもしれないのだ。実際のジャングルの木々が失われれば、そこに何が残るか。砂漠である。
 記憶のジャングルが失われれば……

 さらに、キーン氏は続ける。
 「記憶とは不思議なものだ。歳をとるにしたがい、先ほどの出来事、昨日の出来事が次々と頭から消えていく。なのに思いがけないひと時に、過ぎた日の断面が突然、甦る。
 そんなことは誰にでもあるだろう。ある出来事を経験した時、それが数十年後に別の抒情詩となって戻ってくるとは、人々は日々の行いの中で予想できないからだ」

 ここに言われているように、記憶は実は少し違った姿で甦るようだ。
 そのときの思いで、記憶の具象は、美しく着飾ったり、悲しみに彩られたり。あるいは、別の物語に脚色されたりするのだろうか。

 「思い出は再構成であって、再現の過程ではない。
 過去に体験したある出来事を思い出すとき、われわれは脳に分散されている符号化された構成要素を再構成する。想起が、もともとの出来事の複製のようなものであることはほとんどない」(「子どもの頃の思い出は本物か」カール・サバー著)

 私たちは、自分の記憶を本当のことだと、つまりそれが真実だと、信じ、思い込んでいる。しかし、思い起こすたびにその思い出の記憶は再構成されて、少しずつ変形した姿となっているようなのだ。
 思い出の記憶は、ビデオやDVDのように、再現のそのままの姿ではない。言い換えれば、記憶はその都度、いわば「上書き保存」されているのである。
 思い出は、作り変えられているのだろうか。

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