恋愛小説あるいは恋愛映画において、その王道というべきテーマは、ファム・ファタール、運命の女との恋であろう。
男がある女に出会い耽溺し破滅する恋は、不滅の恋物語である。その原型をアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」にみることができる。
男は一目惚れし、恋に陥り、女に振り回され、破滅に向かう。女は愛すべき可愛い女であり、気まぐれで目が離せなく、行きつくところ純な男の及ぶところではないのだ。いわば、悪女とも魔性の女ともいえる。それでいてどうしようもなく魅力的な女。それが、男にとってのファム・ファタールである。
君も、生涯一度は出くわしたことがあるだろう。もしそうでなかったら、これから出くわすかもしれない。
幸か不幸か、出会ったら逃れることはできない。
それが、運命の女だ。
この映画「イヴォンヌの香り」(原作:パトリック・モディアノ、監督:パトリス・ルコント、1994年、仏)も、その手の映画である。
男は、暗い駅で回想する。
「恋人たちは出会ったところに戻る」という言葉を思い出していた。
1958年の夏が私に残したものは?
偽りの人生が始まった。
彼女の眼差し、シガレットケース、緑のスカーフ。
幸せだった日々の思い出が、とりとめもなく甦る。
男ヴィクトール・シュマラ(イポリット・ジラルド)はロシアの伯爵で、その年の夏、レマン湖のほとりの避暑地にいた。親の残した遺産で食べるのには困らないようで、若いのに何もせず、読書と人間観察に耽る日々を送っていた。
つまり、男は、自分で言うところの無為の生活を送っていた。
「仕事は?」と訊かれれば、「何もしていない」と答えた。
「では、休暇中ですか?」と訊かれれば、
「ずっと休暇中です。昔は、“ゆっくり老いている”と答えていた」と答えた。
若くして気ままな生活では、恋をする以外に何が残されていようか。
男がホテルのロビーにいたある日、人生が変わった。
男は一人の魅力的な女イヴォンヌ(サンドラ・マジャーニ)に出会った。そして瞬く間に、その女と恋におちた。
その女の近くには、初老の医師であるルネ・マント(ジャン・ピエール・マリエル)がいつも付き添いのようにいた。金も教養はあるが、深い暗さを宿した男だ。おそらく、彼もイヴォンヌに恋していた。
そして、老いと格闘していた。
ある晩、ルネが酒場で一人飲んでいると、ジュークボックスからシャンソンが流れた。シャルル・アズナブールの「Sa jeunesse …entre ses mains」(日本題名:青春という宝)であった。
それは、彼の心境を歌っているようであり、すべての人生を歌っているようだった。
「豊かさを自分の手の中で持っているとき、二〇歳であれば輝く明日がある。
愛が私たちに注がれ、眠れぬ夜を与えてくれる。
……
そして、失われた時は戻ってはこない、去ってしまう。手を差しのべても悔やむだけ。
もう遅すぎる。時間(とき)は、止められない。
いつまでも留(とど)めておきたいのに。青春という時を…」
歌のように、人生は瞬く間に過ぎていく。夢がある青春も儚い。すぐに、若者は中年になり、老人になっていく。
キラキラした思い出だけが、記憶の中にたたずんでいる。
男ヴィクトールとイヴォンヌは湖を渡る船に乗る。イヴォンヌは言う。「答えて! 答えたらご褒美をあげるわ」。「結婚したら、伯爵夫人ね?」。
男は「そうだね。ヴィクトール・シュマラ伯爵夫人」と嬉しそうに頷く。
二人は船の甲板にいた。一面、青い湖の水と澄み渡った青い空。男は、イヴォンヌをカメラのレンズ越しに見つめる。
イヴォンヌは太陽の光を浴びて、水と空を見ている。白いスカートが風になびいた。
「ご褒美をあげなくちゃ」イヴォンヌは男にほほ笑みながら、自分の白いスカートに手を差し入れ、白いパンティーを脱いで男に渡した。
「私が落ちた時の形見よ」
風がスカートをめくり、可愛いお尻をちらちらと覗かした。
こんな胸をときめかす光景も、どこにもなかったかのように、すぐに過去に消えていく。
あるのは、記憶の奥底にだけ。
監督のパトリス・ルコントは、「仕立て屋の恋」(1989年)、「髪結いの亭主」(1990年)で、日本でも人気になった
男がある女に出会い耽溺し破滅する恋は、不滅の恋物語である。その原型をアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」にみることができる。
男は一目惚れし、恋に陥り、女に振り回され、破滅に向かう。女は愛すべき可愛い女であり、気まぐれで目が離せなく、行きつくところ純な男の及ぶところではないのだ。いわば、悪女とも魔性の女ともいえる。それでいてどうしようもなく魅力的な女。それが、男にとってのファム・ファタールである。
君も、生涯一度は出くわしたことがあるだろう。もしそうでなかったら、これから出くわすかもしれない。
幸か不幸か、出会ったら逃れることはできない。
それが、運命の女だ。
この映画「イヴォンヌの香り」(原作:パトリック・モディアノ、監督:パトリス・ルコント、1994年、仏)も、その手の映画である。
男は、暗い駅で回想する。
「恋人たちは出会ったところに戻る」という言葉を思い出していた。
1958年の夏が私に残したものは?
偽りの人生が始まった。
彼女の眼差し、シガレットケース、緑のスカーフ。
幸せだった日々の思い出が、とりとめもなく甦る。
男ヴィクトール・シュマラ(イポリット・ジラルド)はロシアの伯爵で、その年の夏、レマン湖のほとりの避暑地にいた。親の残した遺産で食べるのには困らないようで、若いのに何もせず、読書と人間観察に耽る日々を送っていた。
つまり、男は、自分で言うところの無為の生活を送っていた。
「仕事は?」と訊かれれば、「何もしていない」と答えた。
「では、休暇中ですか?」と訊かれれば、
「ずっと休暇中です。昔は、“ゆっくり老いている”と答えていた」と答えた。
若くして気ままな生活では、恋をする以外に何が残されていようか。
男がホテルのロビーにいたある日、人生が変わった。
男は一人の魅力的な女イヴォンヌ(サンドラ・マジャーニ)に出会った。そして瞬く間に、その女と恋におちた。
その女の近くには、初老の医師であるルネ・マント(ジャン・ピエール・マリエル)がいつも付き添いのようにいた。金も教養はあるが、深い暗さを宿した男だ。おそらく、彼もイヴォンヌに恋していた。
そして、老いと格闘していた。
ある晩、ルネが酒場で一人飲んでいると、ジュークボックスからシャンソンが流れた。シャルル・アズナブールの「Sa jeunesse …entre ses mains」(日本題名:青春という宝)であった。
それは、彼の心境を歌っているようであり、すべての人生を歌っているようだった。
「豊かさを自分の手の中で持っているとき、二〇歳であれば輝く明日がある。
愛が私たちに注がれ、眠れぬ夜を与えてくれる。
……
そして、失われた時は戻ってはこない、去ってしまう。手を差しのべても悔やむだけ。
もう遅すぎる。時間(とき)は、止められない。
いつまでも留(とど)めておきたいのに。青春という時を…」
歌のように、人生は瞬く間に過ぎていく。夢がある青春も儚い。すぐに、若者は中年になり、老人になっていく。
キラキラした思い出だけが、記憶の中にたたずんでいる。
男ヴィクトールとイヴォンヌは湖を渡る船に乗る。イヴォンヌは言う。「答えて! 答えたらご褒美をあげるわ」。「結婚したら、伯爵夫人ね?」。
男は「そうだね。ヴィクトール・シュマラ伯爵夫人」と嬉しそうに頷く。
二人は船の甲板にいた。一面、青い湖の水と澄み渡った青い空。男は、イヴォンヌをカメラのレンズ越しに見つめる。
イヴォンヌは太陽の光を浴びて、水と空を見ている。白いスカートが風になびいた。
「ご褒美をあげなくちゃ」イヴォンヌは男にほほ笑みながら、自分の白いスカートに手を差し入れ、白いパンティーを脱いで男に渡した。
「私が落ちた時の形見よ」
風がスカートをめくり、可愛いお尻をちらちらと覗かした。
こんな胸をときめかす光景も、どこにもなかったかのように、すぐに過去に消えていく。
あるのは、記憶の奥底にだけ。
監督のパトリス・ルコントは、「仕立て屋の恋」(1989年)、「髪結いの亭主」(1990年)で、日本でも人気になった