法事のため、再び佐賀に帰っていた。
その日、4月14日の夜、突然家が揺れた。すぐにテレビを見ると、地震の緊急放送が流れた。震源地の熊本が震度6で、佐賀も震度5が出てその大きさに驚いた。M6.5であった。
熊本には親類も知人もいるので、翌日見舞いの電話をいれ被害状況を聞いた。全体の被害状況はテレビ・新聞などで流されているように、地域によっては甚大である。それに地震は断続的に続いている。
16日の朝佐賀を発って帰京する予定だったが、この日の早朝の本震(熊本震度7、M7.3)により在来線の佐世保線が動いていなく、その日は諦めて、翌17日の日曜日に帰京した。
いまだ余震が続いているが、地震の終息と被災地の早い復興を願うのみである。
5年前の東日本大震災の時もそうだったが、個人としては無力であるが自分にできることは何だろうかを考える。
*
3月に続き法事で4月に佐賀に帰っていて、法事が終わった翌4月11日、車で帰っていた弟の車で、二人で大牟田へ行った。
大牟田は祖父母が住んでいたので、子どもの頃はよく遊びに行った。長じて、大牟田を訪れるのは、祖父母が住んでいた吉野へ行き、その変わった街の景色に幼少の思い出を重ねに行くのと、三池炭鉱の炭鉱跡を見ることだった。
明治新政府のもと、日本の近代化の基幹を担った石炭産業の中心的存在だったのが大牟田市の三池炭鉱である。佐賀、長崎を含めて北九州には炭鉱は数多くあったが、この三池炭鉱に勝るものはない。
最初に三池の炭鉱跡を見に行ったのは、1997年に三池炭鉱が閉山した直後の1998年のことだった。大牟田駅から歩いて宮原坑へ、さらに三池港へと歩き回った。三川坑のあった三池港では、まだ石炭の息吹が残っていた。
今振り返ってみれば、よく歩いて回ったものだ。旅に出ると、僕はよく歩く。家にいるときの生臭坊主とは見違えるほどだ。
次に2005年に、今度は駅前からレンタサイクルで、同じく三池港、そして宮原坑へ行った。
相変わらず宮原坑には、誰一人人影はなかった。
ところが、宮原坑へ行ったところで雨に見舞われた。最初は小雨だったのだが次第に大雨となり、人家の軒下で雨宿りをしたがなかなかやまない。自転車の返却時間が迫っており、仕方なく雨の中を濡れながら自転車で走ったことが忘れられない。
先ごろこの三池炭鉱の跡は、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されたが、そのずいぶん前のことである。
*
4月11日、この日は、まず三池炭鉱の三川坑のあった三池港に行った。
佐賀から車で筑後川を通り過ぎると福岡県に入り、大川、柳川を抜けると大牟田だ。
三池港に入ると、もう炭鉱は閉山で行き交う車もまばらで静かだが、あちこちに石炭は小さなボタ山のように積まれていた。まだ他地域からの石炭の集積と運行はやっているのだ。
この三池港からは、あまり知られていないが、今でも有明海を挟んで長崎県の島原までの定期船が出ている。船着き場に行ってみると、利用者が少ないのかのんびりとした風景だ。
三池港から洒落た洋館の旧三井港倶楽部を横目に見ながら、まだ行ったことのなかった南にある万田坑に行った。
万田坑は、大牟田市を過ぎたところの熊本県の荒尾市にある。
万田坑は、静かな街中に忽然とあった。今は原っぱになっている先に、赤茶けた煉瓦造りの建物と銀色の幾何学的な竪坑櫓が立っていた。(写真)
一瞬見たときには、かつて見た宮原坑ではないかと思ったくらい、その構造の景観はよく似ていた。
万田坑の横には、近所の人が教えてくれた、今は通っていない廃線跡が暗渠のように通っていた。ここの北にある宮原坑からここ万田坑を通って、三池港へ石炭を運んだ石炭専用電車道だ。
万田坑から北へ、宮原坑へ行ってみた。
宮原坑は、廃線跡の上の陸橋のふもとに、置き去りにされた廃墟のようにあった。いや、僕が最初に来た十数年前は確かに廃墟だったのだ。草がここかしこに生えた原っぱの中に、風雨にさらされた赤煉瓦の2階建ての建物と、その横に聳える幾何学的な竪坑櫓は鉄線で囲ってあって、建物の近くへ行けないようになっていた。
観光客など誰もいないので、僕はその鉄線の中へ入って近くでこの廃墟を眩しく見ていたのだが、今は開放されて大勢の人がいた。
かつて来たときと同じように宮原坑はあったが、汚れた顔をきれいに洗ってもらったかのように、周りは整備されていた。それに、何にもまして人気者になっていた。
入口には案内の人が何人もいて、中に入るとすぐに案内書をくれた。それにガイドもしてくれるというが、それは断って自由に中に入った。中では案内を受けている団体の観光の人たちも多くいた
前にはなかった、石炭を運ぶ鉄のトロッコ電車も飾ってある。
いやはや、世界遺産の効力はたいしたものだとつくづく思った。
とはいえ、置き去りにされようとしていた三池の炭鉱が、再び脚光を浴びていることは感慨深い。僕は、滅びようとしているもの、忘れ去られようとしているものに哀惜を感じるので、なおさらだ。
宮原坑からさらに北にある、まだ行ったことがない宮浦坑へ向かった。
宮浦坑は、「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん、けむたかろ…」と炭坑節にも歌われた、煉瓦の煙突が残っているという。
地図を見て走行していたが、三井化学工場を過ぎて、宮浦坑はどこか見失ってしまった。
日も暮れようとしている。
宮浦坑はまたの機会にするとして、柳川を通って佐賀へ帰ることにした。
柳川から佐賀に向かうに大川を過ぎて筑後川を渡るが、その川に日本に現存する最古の、橋桁が昇降する昇開橋がある。この橋はかつて国鉄佐賀線として列車が走っていたものだが、ここも何とか遺産にしたいものである。
その日、4月14日の夜、突然家が揺れた。すぐにテレビを見ると、地震の緊急放送が流れた。震源地の熊本が震度6で、佐賀も震度5が出てその大きさに驚いた。M6.5であった。
熊本には親類も知人もいるので、翌日見舞いの電話をいれ被害状況を聞いた。全体の被害状況はテレビ・新聞などで流されているように、地域によっては甚大である。それに地震は断続的に続いている。
16日の朝佐賀を発って帰京する予定だったが、この日の早朝の本震(熊本震度7、M7.3)により在来線の佐世保線が動いていなく、その日は諦めて、翌17日の日曜日に帰京した。
いまだ余震が続いているが、地震の終息と被災地の早い復興を願うのみである。
5年前の東日本大震災の時もそうだったが、個人としては無力であるが自分にできることは何だろうかを考える。
*
3月に続き法事で4月に佐賀に帰っていて、法事が終わった翌4月11日、車で帰っていた弟の車で、二人で大牟田へ行った。
大牟田は祖父母が住んでいたので、子どもの頃はよく遊びに行った。長じて、大牟田を訪れるのは、祖父母が住んでいた吉野へ行き、その変わった街の景色に幼少の思い出を重ねに行くのと、三池炭鉱の炭鉱跡を見ることだった。
明治新政府のもと、日本の近代化の基幹を担った石炭産業の中心的存在だったのが大牟田市の三池炭鉱である。佐賀、長崎を含めて北九州には炭鉱は数多くあったが、この三池炭鉱に勝るものはない。
最初に三池の炭鉱跡を見に行ったのは、1997年に三池炭鉱が閉山した直後の1998年のことだった。大牟田駅から歩いて宮原坑へ、さらに三池港へと歩き回った。三川坑のあった三池港では、まだ石炭の息吹が残っていた。
今振り返ってみれば、よく歩いて回ったものだ。旅に出ると、僕はよく歩く。家にいるときの生臭坊主とは見違えるほどだ。
次に2005年に、今度は駅前からレンタサイクルで、同じく三池港、そして宮原坑へ行った。
相変わらず宮原坑には、誰一人人影はなかった。
ところが、宮原坑へ行ったところで雨に見舞われた。最初は小雨だったのだが次第に大雨となり、人家の軒下で雨宿りをしたがなかなかやまない。自転車の返却時間が迫っており、仕方なく雨の中を濡れながら自転車で走ったことが忘れられない。
先ごろこの三池炭鉱の跡は、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されたが、そのずいぶん前のことである。
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4月11日、この日は、まず三池炭鉱の三川坑のあった三池港に行った。
佐賀から車で筑後川を通り過ぎると福岡県に入り、大川、柳川を抜けると大牟田だ。
三池港に入ると、もう炭鉱は閉山で行き交う車もまばらで静かだが、あちこちに石炭は小さなボタ山のように積まれていた。まだ他地域からの石炭の集積と運行はやっているのだ。
この三池港からは、あまり知られていないが、今でも有明海を挟んで長崎県の島原までの定期船が出ている。船着き場に行ってみると、利用者が少ないのかのんびりとした風景だ。
三池港から洒落た洋館の旧三井港倶楽部を横目に見ながら、まだ行ったことのなかった南にある万田坑に行った。
万田坑は、大牟田市を過ぎたところの熊本県の荒尾市にある。
万田坑は、静かな街中に忽然とあった。今は原っぱになっている先に、赤茶けた煉瓦造りの建物と銀色の幾何学的な竪坑櫓が立っていた。(写真)
一瞬見たときには、かつて見た宮原坑ではないかと思ったくらい、その構造の景観はよく似ていた。
万田坑の横には、近所の人が教えてくれた、今は通っていない廃線跡が暗渠のように通っていた。ここの北にある宮原坑からここ万田坑を通って、三池港へ石炭を運んだ石炭専用電車道だ。
万田坑から北へ、宮原坑へ行ってみた。
宮原坑は、廃線跡の上の陸橋のふもとに、置き去りにされた廃墟のようにあった。いや、僕が最初に来た十数年前は確かに廃墟だったのだ。草がここかしこに生えた原っぱの中に、風雨にさらされた赤煉瓦の2階建ての建物と、その横に聳える幾何学的な竪坑櫓は鉄線で囲ってあって、建物の近くへ行けないようになっていた。
観光客など誰もいないので、僕はその鉄線の中へ入って近くでこの廃墟を眩しく見ていたのだが、今は開放されて大勢の人がいた。
かつて来たときと同じように宮原坑はあったが、汚れた顔をきれいに洗ってもらったかのように、周りは整備されていた。それに、何にもまして人気者になっていた。
入口には案内の人が何人もいて、中に入るとすぐに案内書をくれた。それにガイドもしてくれるというが、それは断って自由に中に入った。中では案内を受けている団体の観光の人たちも多くいた
前にはなかった、石炭を運ぶ鉄のトロッコ電車も飾ってある。
いやはや、世界遺産の効力はたいしたものだとつくづく思った。
とはいえ、置き去りにされようとしていた三池の炭鉱が、再び脚光を浴びていることは感慨深い。僕は、滅びようとしているもの、忘れ去られようとしているものに哀惜を感じるので、なおさらだ。
宮原坑からさらに北にある、まだ行ったことがない宮浦坑へ向かった。
宮浦坑は、「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん、けむたかろ…」と炭坑節にも歌われた、煉瓦の煙突が残っているという。
地図を見て走行していたが、三井化学工場を過ぎて、宮浦坑はどこか見失ってしまった。
日も暮れようとしている。
宮浦坑はまたの機会にするとして、柳川を通って佐賀へ帰ることにした。
柳川から佐賀に向かうに大川を過ぎて筑後川を渡るが、その川に日本に現存する最古の、橋桁が昇降する昇開橋がある。この橋はかつて国鉄佐賀線として列車が走っていたものだが、ここも何とか遺産にしたいものである。