かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大牟田、三池炭鉱再訪

2016-04-30 01:54:50 | * 炭鉱の足跡
 法事のため、再び佐賀に帰っていた。
 その日、4月14日の夜、突然家が揺れた。すぐにテレビを見ると、地震の緊急放送が流れた。震源地の熊本が震度6で、佐賀も震度5が出てその大きさに驚いた。M6.5であった。
 熊本には親類も知人もいるので、翌日見舞いの電話をいれ被害状況を聞いた。全体の被害状況はテレビ・新聞などで流されているように、地域によっては甚大である。それに地震は断続的に続いている。 
 16日の朝佐賀を発って帰京する予定だったが、この日の早朝の本震(熊本震度7、M7.3)により在来線の佐世保線が動いていなく、その日は諦めて、翌17日の日曜日に帰京した。 
 いまだ余震が続いているが、地震の終息と被災地の早い復興を願うのみである。
 5年前の東日本大震災の時もそうだったが、個人としては無力であるが自分にできることは何だろうかを考える。

 *

 3月に続き法事で4月に佐賀に帰っていて、法事が終わった翌4月11日、車で帰っていた弟の車で、二人で大牟田へ行った。

 大牟田は祖父母が住んでいたので、子どもの頃はよく遊びに行った。長じて、大牟田を訪れるのは、祖父母が住んでいた吉野へ行き、その変わった街の景色に幼少の思い出を重ねに行くのと、三池炭鉱の炭鉱跡を見ることだった。
 明治新政府のもと、日本の近代化の基幹を担った石炭産業の中心的存在だったのが大牟田市の三池炭鉱である。佐賀、長崎を含めて北九州には炭鉱は数多くあったが、この三池炭鉱に勝るものはない。
 最初に三池の炭鉱跡を見に行ったのは、1997年に三池炭鉱が閉山した直後の1998年のことだった。大牟田駅から歩いて宮原坑へ、さらに三池港へと歩き回った。三川坑のあった三池港では、まだ石炭の息吹が残っていた。
 今振り返ってみれば、よく歩いて回ったものだ。旅に出ると、僕はよく歩く。家にいるときの生臭坊主とは見違えるほどだ。
 次に2005年に、今度は駅前からレンタサイクルで、同じく三池港、そして宮原坑へ行った。
 相変わらず宮原坑には、誰一人人影はなかった。
 ところが、宮原坑へ行ったところで雨に見舞われた。最初は小雨だったのだが次第に大雨となり、人家の軒下で雨宿りをしたがなかなかやまない。自転車の返却時間が迫っており、仕方なく雨の中を濡れながら自転車で走ったことが忘れられない。
 先ごろこの三池炭鉱の跡は、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されたが、そのずいぶん前のことである。

 *

 4月11日、この日は、まず三池炭鉱の三川坑のあった三池港に行った。
 佐賀から車で筑後川を通り過ぎると福岡県に入り、大川、柳川を抜けると大牟田だ。
 三池港に入ると、もう炭鉱は閉山で行き交う車もまばらで静かだが、あちこちに石炭は小さなボタ山のように積まれていた。まだ他地域からの石炭の集積と運行はやっているのだ。
 この三池港からは、あまり知られていないが、今でも有明海を挟んで長崎県の島原までの定期船が出ている。船着き場に行ってみると、利用者が少ないのかのんびりとした風景だ。

 三池港から洒落た洋館の旧三井港倶楽部を横目に見ながら、まだ行ったことのなかった南にある万田坑に行った。
 万田坑は、大牟田市を過ぎたところの熊本県の荒尾市にある。
 万田坑は、静かな街中に忽然とあった。今は原っぱになっている先に、赤茶けた煉瓦造りの建物と銀色の幾何学的な竪坑櫓が立っていた。(写真)
 一瞬見たときには、かつて見た宮原坑ではないかと思ったくらい、その構造の景観はよく似ていた。
 万田坑の横には、近所の人が教えてくれた、今は通っていない廃線跡が暗渠のように通っていた。ここの北にある宮原坑からここ万田坑を通って、三池港へ石炭を運んだ石炭専用電車道だ。

 万田坑から北へ、宮原坑へ行ってみた。
 宮原坑は、廃線跡の上の陸橋のふもとに、置き去りにされた廃墟のようにあった。いや、僕が最初に来た十数年前は確かに廃墟だったのだ。草がここかしこに生えた原っぱの中に、風雨にさらされた赤煉瓦の2階建ての建物と、その横に聳える幾何学的な竪坑櫓は鉄線で囲ってあって、建物の近くへ行けないようになっていた。
 観光客など誰もいないので、僕はその鉄線の中へ入って近くでこの廃墟を眩しく見ていたのだが、今は開放されて大勢の人がいた。
 かつて来たときと同じように宮原坑はあったが、汚れた顔をきれいに洗ってもらったかのように、周りは整備されていた。それに、何にもまして人気者になっていた。
 入口には案内の人が何人もいて、中に入るとすぐに案内書をくれた。それにガイドもしてくれるというが、それは断って自由に中に入った。中では案内を受けている団体の観光の人たちも多くいた
 前にはなかった、石炭を運ぶ鉄のトロッコ電車も飾ってある。

 いやはや、世界遺産の効力はたいしたものだとつくづく思った。
 とはいえ、置き去りにされようとしていた三池の炭鉱が、再び脚光を浴びていることは感慨深い。僕は、滅びようとしているもの、忘れ去られようとしているものに哀惜を感じるので、なおさらだ。

 宮原坑からさらに北にある、まだ行ったことがない宮浦坑へ向かった。
 宮浦坑は、「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん、けむたかろ…」と炭坑節にも歌われた、煉瓦の煙突が残っているという。
 地図を見て走行していたが、三井化学工場を過ぎて、宮浦坑はどこか見失ってしまった。

 日も暮れようとしている。
 宮浦坑はまたの機会にするとして、柳川を通って佐賀へ帰ることにした。
 柳川から佐賀に向かうに大川を過ぎて筑後川を渡るが、その川に日本に現存する最古の、橋桁が昇降する昇開橋がある。この橋はかつて国鉄佐賀線として列車が走っていたものだが、ここも何とか遺産にしたいものである。

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炭鉱の足跡、飯塚の住友忠隈炭鉱のボタ山

2012-10-18 02:02:02 | * 炭鉱の足跡
 石炭は、採掘されたあと選別され、不良炭は一か所に捨てられた。その捨てられた石の山がボタ山である。
 かつて炭鉱町には、灰色がかった黒っぽいピラミッドのようなボタ山が、風景の一つとして多く見られた。そのボタ山も、1960年代のエネルギー革命により炭鉱が閉山に追いやられると、忘れられていった。
 炭鉱町がなくなっていったのと同時に、忘れられたボタ山は姿を消していった。
 ボタ山はどこへ行ったのか?
 山が崩れる危険のため切り崩されたものもあるし、そのまま放置されたものは、そのうちに草が生え、木が生え、普通の山と見まがうようになっていった。
 炭鉱が消えていって約半世紀たったあと、あれだけあったボタ山は、いつの間にか日本で見られなくなっていった。あるにはあるのだが、かつての灰色がかった黒い石によるピラミッドの威容を保っているものはない。
 1975年に封切られた映画「青春の門」(監督:浦山桐郎、出演:田中健、仲代達也、吉永小百合、小林旭)には、まだ原形を保ったボタ山が映し出されていた。確かに、1970年代には、まだボタ山は各地に健在していたのだ。しかし、その後急速に見なくなっていった。いや、みんなボタ山のことなど話題にしなくなったし、忘れていたのだ。
 日本のエネルギー資源は、石炭から石油、原子力へと移り、人々の生活は消費文化へと変わっていった。
 忘れ去られた石炭は、まるで絶滅品種のようだ。
 蒸気機関車も、もはや観光用の見世物としてしか走ることはない。

 *

 福岡県志免町の竪坑櫓とボタ山を見たあと、飯塚へ行き、江戸歌舞伎様式の嘉穂劇場、炭鉱王の旧伊藤伝右衛門邸を見た。
 夕方、飯塚を離れて、佐賀に帰ることにした。
 街中を縦断する通りを、まっすぐ南へ車を走らせた。
 飯塚駅を左手に見ながら南に行くと、大きな橋に出た。遠賀川の支流の穂波川に架かる飯塚橋を渡って、さらに南に進んだ。JRの線路と平行して走った。
 しばらく走ると、左手に緑の山が見えた。3つ並んでいた。それがボタ山だとすぐに分かった。こんなところにもあったのかと思わず息をのんだ。筑豊炭田の中心ともいえる飯塚だから、あって不思議はないのだが、何せ絶滅品種である。
 予想しない突然の出現であった。
 車を走っているうちに通り過ぎると見えなくなりそうなので、左の道に入って、近くへ行ってみた。住宅がひしめく、小さな町があった。町中を歩くと、そこが炭鉱町であった面影が漂っていた。おそらく、かつては炭住が並んでいたであろうと想像できる家並みだった。
 家の先にボタ山がそびえていた。奥の2つの山は見えなくなっていたが、手前の1つは緩やかな斜面を残したボタ山だ。今は緑の山だが、見る人にはわかるきれいな形だ。(写真)
 さらに、南に走って振り返ると、再びきれいな3つの山が小さく見えた。

 後で調べてみると、この3つ並んだボタ山は、穂波町の旧住友忠隈炭鉱のボタ山で、「筑豊富士」と呼ばれていた。
 忠隈炭鉱は、明治27年に麻生太吉から住友に経営が移り、その住友忠隈炭鉱は1961(昭和36)年に閉山し、引き継いだ第二会社の忠隈炭鉱株式会社も1965(昭和40)年に閉山した。
 僕は迂闊にもその存在を知らずに、偶然にこのボタ山に出くわしたのだった。幸運というほかない。
 日が暮れそうなので、帰途を急いだ。今度は、ボタ山の間近に行こうと思う。

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炭鉱の足跡、飯塚の伊藤伝右衛門邸

2012-10-12 00:42:47 | * 炭鉱の足跡
 飯塚は、筑豊炭田地帯の中で最も大きな町(市)である。
 この一帯は、近隣の町を含めて、日鉄鉱業、三菱鉱業、住友石炭鉱業、古河鉱業、麻生炭鉱などの炭鉱が林立していた。
 こういった大手財閥の炭鉱が割拠するなかで、飯塚で炭鉱王と呼ばれた男が伊藤伝右衛門である。明治の中期、父が始めた炭鉱を引き継ぎ、伊藤鉱業 (後に大正鉱業に改称) を設立し事業を拡大していった。
 そして、彼の名を一躍世間で有名にしたのが伯爵・柳原前光の娘・子との結婚だった。2人とも再婚であったが、そのとき伝右衛門数え52歳、子数え27歳であった。
 子は、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。伯爵令嬢のうえに、大正三美人と言われた美貌で、柳原白蓮の名で歌壇でも有名であった。
 当時、たたき上げの伝右衛門とは政略結婚と噂され、実際そのようであった。伝右衛門は白蓮を迎えるのに別邸を造り、その本宅であったのが今も飯塚市に残る伊藤伝右衛門邸である。

 旧伊藤伝右衛門邸は、地図を見ると、嘉穂劇場のある裏手のメイン通りをまっすぐに北へ向かった飯塚市幸袋町というところにあった。
 メイン通りからこの邸のある通りに入ると、古い家並みが続く。その中で、代官所を思わせる長い塀に囲まれた屋敷が伊藤伝右衛門邸である。敷地2300坪、建坪300坪といわれている大きさだ。
 入場料を払い敷地内に入ると、建物は広い庭に囲まれた木造2階建てである。
 建物内に入ると、左右に長い廊下が走る。部屋がいくつあるか知れないほどだ。建物の裏に広がる庭には、池やそれに架かる橋があり築山もある。それだけで、独立した庭園のようだ。
 邸の2階に、白蓮の個室があり、そこから庭が見渡せる。ここから、白蓮は、どんな思いで庭を見ていたのだろうか。(写真)
 しかし、この大邸宅は、数多くの使用人ほか伝右衛門の妾も同居するなど、複雑な環境だったようである。
 結婚はしたものの、後に白蓮は、孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天の息子で、「解放」の記者であった宮崎龍介と恋仲になり、彼の子供を妊娠し家を出る。そして、新聞に伊藤伝右衛門への公開絶縁状を掲載したことにより、世論で大問題になる。
 今の時代とは違い姦通罪のあった時代の、思い切った行動であった。
 念のため記しておくと、姦通罪が適用されるのは、夫のある妻およびその相手の男で、妻のある夫である男が不倫あるいは妾を持っても姦通罪には適用されないという、男の都合のいい法律だった。この法律は、第2次世界大戦後廃止された。
 この旧伊藤伝右衛門邸内には、柳原白蓮の資料も展示してある。

 この筑豊の炭鉱王の伊藤伝右衛門邸を訪れると、やはり佐賀肥前の炭鉱王と呼ばれた杵島炭鉱の経営者、高取伊好を想起させる。
 高取伊好の邸宅が唐津市に残っているが、高取邸は豪華さだけではなく、建物の内部に芸術的趣向が凝らされている。部屋のあちこちにある杉戸絵や襖絵、さらに邸内に茶室、能舞台を設けてある貴重な建物である。
 「炭鉱王の邸宅・高取邸」(2008.2.1ブログ)
 http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/107e7a99223f3f838b5f99ff22e946cc

 北九州の炭鉱王のこの2つの邸宅は、明治以降、国をあげての富国強兵のもと工業化を支えた、石炭産業が華やかなりし時代の栄華をしのばせる。
 と同時に、この栄華は、旧伊藤伝右衛門邸内に展示してあった、ユネスコの世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の炭鉱絵に描かれている、多くの抗夫・労働者に負うものだということも忘れてならないだろう。
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炭鉱の足跡、飯塚の嘉穂劇場

2012-10-10 01:56:24 | * 炭鉱の足跡
 筑豊炭田といえば、福岡県の北部から中央部に流れる遠賀川流域に広がっていた日本最大規模の炭田である。そこには、田川、直方、嘉麻(かま)、中間(なかま)などの町(市)が散在しているが、そのなかでも最も大きい町(市)が飯塚である。
 筑豊は、すぐ近くに八幡製鉄所を控え、明治期には日本の採炭量の過半を占めるほどで、北九州工業地帯の推進に重要な役割を担っていた。

 福岡市の近くの志免町から東へ車を走らせ、篠栗の山道を越えると飯塚である。
飯塚の町中に入ると、まず嘉穂劇場を目指した。
 嘉穂劇場は、江戸歌舞伎小屋の雰囲気を保った昔ながらの芝居小屋である。炭鉱が栄えた時代、大衆演劇や歌手を呼んでのコンサートなどで、炭鉱労働者やその家族で賑わった。今でも、現役の芝居小屋として存続しているので、ぜひ見てみたかった。
 嘉穂劇場は大正10(1921)年に「中座」としてスタートした。しかし、昭和3(1928)年、火事により全焼。直ちに翌年再建されたものの、昭和5(1930)年には台風により倒壊してしまう。
 劇場を引き継いだ伊藤隆は、昭和6(1931)年に「嘉穂劇場」として再建させた。

 嘉穂劇場は、飯塚の商店街といおうか盛り場のすぐ裏道にあった。裏道と言ったが、まだ車が頻繁に走っていない劇場ができた当時は、ここがメイン通りだったに違いない。
 飯塚の街は、一昔前の繁華街の匂いが漂っていた。商店街を歩くと、バーや飲み屋の看板があちこちに見受けられた。かつてはこの街に大勢の人が行き来して、人いきれでムンムンしていたのだろう。かつて炭鉱夫は、宵越しの金は持たねえの意気で、街を闊歩していたのではと想像した。今でも、夜になると違った雰囲気を見せるのかもしれない。

 嘉穂劇場は、通りからその敷地に入ると広い空間があり、でんと大きな建物が座っているのだった。それは、間口15間(27メートル)、奥行き23間(42メートル)という、大きな屋根の入母屋造りの木造2階建てだ。その建物の前に、切符売り場の小さな番屋がポツンとある。
 同じ劇場と言っても、やはり東京の帝国劇場や日生劇場とは全く印象が違う。新しくなった歌舞伎座とも違う。江戸時代の芝居小屋にやって来た感じである。
 催し物が行われていないこの日、場内を見学(有料だが)できた。
 場内は、もっと違う。場内の座席は、今では椅子が一般的だが、板敷きで座布団の上で座って見物する昔ながらのもので、板で区切ってある。なにやら錦絵を見ているようだ。
 舞台も間口10間(約18メートル)と大きく、舞台から客席に向かって長く花道が延びている。回り舞台は、地下で人力で動かす昔の仕組みのままだ。
 2階に上がってみたが、そこから見る舞台も風情がある。
 2階に資料室がありポスターが貼られていたが、美空ひばりも公演したらしい。楽団にシャープス&フラッツ、美空ひばりの名前の横に小さく香山武彦(注:ひばりの実弟)とあるのが、何とも時代を感じさせる。
 三波春夫、森進一、五木ひろしなどの大物歌手のポスターもある。
 演歌もそうだが、大衆演劇は、こういうところで座って見るのが本当なんだろう、と思わせる劇場だ。
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炭鉱の足跡、福岡・志免炭鉱

2012-10-01 22:48:27 | * 炭鉱の足跡
 何年か前に弟も帰省しているとき、佐賀から高速道路の九州自動車道で、福岡、北九州方面に向かって走っていたときのことだった。大宰府インターを過ぎたあたりで、左側にこんもりとした山が見えた。
 僕はその山を見てはっとした。弟もそうだったようで、思わず顔を見合わせた。
 「あれは、ボタ山だよね」と、お互い言った。
 炭鉱町に育った者は、すぐに分かる。掘り出した石炭の不良炭を積み重ねた山、その人工の山がボタ山だ。かつて石炭が日本エネルギーを背負っていた時代、炭鉱のある町にはよく見られた黒い炭の山である。特に北九州は、筑豊炭田が広がっていたので、多くの炭鉱町が存在していた。
 「地理的に見て、筑豊ではないね」と僕は言った。
 「志免あたりだ」と運転している弟は言った。
 地図を見ると、福岡市の南に志免(しめ)町があり、ハンマーを構えた鉱山のマークがある。こんなところにも炭鉱があったのか、いつか来なくてはと僕は思った。
 筑豊の田川には、若いとき一人歩いた。五木寛之の「青春の門」の舞台になったボタ山がはっきりと残っていた。炭住(炭鉱住宅)の名残りのある家並みを歩いた。
 炭鉱の跡は、石炭記念公園としてきれいに観光化されていたが、僕はこのように整備された施設には感動を覚えなかった。すでにこのようなハコモノは夕張で見ていたし、佐渡の金山跡でも足尾の銅山跡でもとっくに作られていたからだ。

 志免には、ボタ山を見に行こうと思いたった。すると、そこには竪坑櫓が残っていることを知った。
 志免の町役場がある街の中央に行くと、遠くからランドマークのように聳える四角い長方形のコンクリートが見えた。すぐにそれが、竪坑櫓だと分かった。石炭や坑夫を地下深く掘った坑道に運ぶための、昇降機械を設置した建物である。
 近くに行くと、それは予想以上に大きかった。竪坑櫓は、町を睥睨するように立っていて、威厳に充ちている。大牟田の三池炭鉱などの坑櫓跡を見てきたが、そのどれよりも大きい。
 役場でもらった町の紹介誌の表紙に写真が載っているように、竪坑櫓は町のシンボルで、町の顔であった。
 竣工が1943(昭和18)年とあるから約70年がたっているが、遺産というよりまだ現役の雰囲気さえある。高さは46メートルである。
 近くに、斜坑口跡がある。
 ボタ山はもう木々が繁り、形からもそれがボタ山だとすぐには分かりづらい。

 志免鉱業所は、明治に採炭が始まった全国唯一の国営炭鉱であった。閉山は、多くの炭鉱がその時代に集中している1964(昭和39)年である。
 志免町は、この竪坑櫓の存在で、顔を持った町となっている。
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