かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

かつて観た「戦争と平和」

2022-03-09 01:49:46 | 映画:外国映画
 戦争と平和、War and Peace――ロシアがウクライナに侵攻しているこの時期、映画「戦争と平和」(War and Peace、監督:キング・ヴィダー、伊・米映画、1956年)を観た。
 19世紀初頭の戦争に巻き込まれたロシアを舞台に、愛を描いた大スペクタル映画だ。原作は文豪レフ・トルストイ。

 映画の幕開けは次のような言葉で始まる。
 19世紀初頭――
 黒い影がヨーロッパを覆い始めた。その影を号令一つで進めたのはナポレオンだった。抵抗したのはロシアとイギリスのみ。
 ロシアの空は澄み渡り、太陽が輝いていた。ナポレオンははるか彼方。モスクワの街はパレード日和だった。

 日の出の勢いのナポレオン軍が迫ってくる帝政ロシアのモスクワ。ナポレオンを尊敬しているが、進歩的で平和主義者の貴族の私生児ピエール(ヘンリー・フォンダ)。ピエールの親友で軍に赴く士官アンドレイ(メル・ファーラー)。彼らから愛される、天真爛漫な娘ナターシャ(オードリー・ヘップバーン)。
 この3人を中心に、ナポレオン(ハーバート・ロム)とロシアの総司令官クツゾフ将軍(オスカー・ホモルカ)の戦いに対する考え方、人物像を織り交ぜながら、戦争下に繰り広げられる雄大な人間模様である。
 「甘い生活」(監督:フェデリコ・フェリーニ、伊、1960年)のアニタ・エクバーグが、ここでも主人公の一人ピエールと婚約する妖艶な女性として登場している。

 *青春時代の淡い記憶

 実はこの映画を、学生時代の1965(昭和40)年に1度観ていた、のだった。滅多にパンフレットは買わないのだが、当時のパンフレット(写真)を持っていたし、私の映画ノートにも簡単な粗筋と感想を記している。
 <当時のノートのメモ>
 19世紀初めの帝政ロシア時代の物語。華麗なるナターシャを中心に、彼女を好意的な眼で常に見守るピエール、冷静なるアンドレイによって繰り広げられる。
 アンドレイは妻が死んだ傷心のときにナターシャを知り、彼女と婚約する。しかし、アンドレイの1年間の出征中に、ナターシャは道楽男に恋をし駆け落ちしようとするが、ピエールにとめられる。戦争で傷ついたアンドレイは、赦しを請うナターシャに見守られて死んでいく。
 戦争で荒廃したモスコーの地の旧宅で、ナターシャとピエールは再び巡りあわされる。彼らは、おそらく幸せな家庭を築くであろう。ピエールがナターシャにもたらしたものは、経験とプラトンが彼に教えた人生の真実であった。
 ※最後の行に書かれたプラトンの教えはどこから来た説かと疑問に思ったら、当時のパンフレットの最後に書かれたものであった。

 時代は変われど、繰り返される戦争と平和。
 果たして、人間は進歩しているのだろうか。

 ところで、かつて私はこの映画をどこで観たのであろうか。日比谷あたりの映画館で、それとも当時住んでいた近くの笹塚の映画館だったのか、まったく記憶にない。
 その次の週に、同じトルストイ原作の「復活」(監督:ミハイル・シヴァイツェル、ソ連、1962年)と、ヘミングウェイ原作の「誰がために鐘は鳴る」(監督:サム・ウッド、米、1943年)を観ている。
 この頃、私はヌーヴェル・ヴァーグに刺激を受け、映画に夢中になっていた。

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1974年の想い出、「追憶」

2021-07-26 03:19:28 | 映画:外国映画
 心の片隅に残る想い出
 過ぎし日の想い出は淡い水彩画
 散らばった写真に置き去りにされてしまった笑い
 互いに交わすほほ笑み
 過ぎし日の私たちに
   ――「The way we were」

 「追憶」は、1973年アメリカ、1974(昭和49)年に日本公開の、バーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォード主演のアメリカ映画のタイトルである。
 原題は「The way we were」。
 「The way (where) we were」とwhereが省略されているが、直訳すれば「私たちがいたところの道」。つまり、「かつて私たちがいた風景」、これが「私たちの想い出」、そして「追憶」となった。
 いいタイトルだ。

 *過ぎ去った愛の物語「追憶」

 映画の内容は、一組の男女の愛と別れの回想である。
 大学のキャンパス。時代は第二次世界大戦前。
 理想主義で政治的には左翼思想のケイティー(バーブラ・ストライサンド)は、今こそ立ち上がろうと、マイクを持って学生に訴えている。
 そんなケイティーを横目で見ているノンポリで文学青年のハベル(ロバート・レッドフォード)は、ハンサムでみんなの人気者だ。
 正義感丸出しで、いつも怒っているような風情のケイティーと、世の中どこ吹く風の風情のハベル。まったく対照的ともいえる二人は卒業後それぞれの道に進むが、第二次世界大戦中に偶然再会し恋仲となり、戦後結婚する。
 学生時代から小説を書いていて何冊か本を出版していたハベルは、物書きを生業として、ハリウッドで脚本を書き始める。そんなとき、ケイティーは妊娠する。
 時代は、マッカーシズムの到来のときで、もともと二人の考えの違いははっきりしていたものの、圧迫的な政治に対処する違いから、結局二人は別れることになる。
 子どもはケイティーが育てることにして、女の子を出産したのをハベルが見届けて、別れた二人。
 それから年月が過ぎて、ニューヨークで、ある日偶然にケイティーはハベルを見つける。
彼は再婚したと、彼女に告げる。彼女は、私もと応える。そして、娘は立派に育ったから、今度夫婦で会いに来てと付け加えるが、彼はそれはできないと応えて、二人は別れる。
 おそらく、それきりの別れ。
 今は、二人の生活は別にあるのだ。二人にあるのは、過ぎ去った思い出だけ。ケイティーは再婚したと言ったが、そうではないのではないかという余韻が伝わってきた。

 バーブラ・ストライサンドの、美人ではないが個性的で忘れられない顔。
 ロバート・レッドフォードの、当時ハリウッドで最もハンサムだった甘い顔。(ヨーロッパではアラン・ドロンがいた)
 1970年代の、良き時代のアメリカ映画である。
 政治の季節。学生運動と自由。日本も同じような空気が流れていた。

 *1974年に、空の上で観た映画

 「追憶」が、若いときの恋を描いて懐かしさを抱かせるのが理由だけで、ここに書いたのではない。この映画には、私には忘れられない情景がある。
 この映画が日本で公開されたのは1974(昭和49)年4月のこと。
 私は、この年の5月3日、羽田発チューリッヒ行きスイス航空機で、初めての海外への旅フランス・パリに出発した。スイス航空は、先月の4月に、毎週金曜日に1便だけ、DC-10ジェット機で、東京・チューリッヒ間の「スイス特急」便を開通させたばかりだった。
 広い機内の乗客は疎らで、私の席は外が見える窓際だったが、空いたところならどこへ座ってもいいですよと、スチュワーデス(フライト・アテンダント)は言ってくれた。
 夕食の後、前方のスクリーンに映画が映し出された。
 それが、「The way we were」(追憶)だった。当時人気だったロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドが映し出された。
 しかし、日本語字幕もなかったのもあって、途中で観るのをやめて、日本人のスチュワーデスとお喋りをした。今のような安売りチケットや団体ツアー客もなく、機内に乗客が少なかったのも幸いに(日本人の乗客は3人と言っていた)、私があてもない一人旅ということもあって、スチュワーデスの女性はとてもフレンドリーであった。
 
 そのようなわけで、映画「追憶」は私のなかで宙ぶらりんになったままであったし、私の初めての海外への旅の想い出とともにある。
 その後、映画「追憶」は観ないままに人生は過ぎていったが、やっと録画で観たのである。
 1974年は、忘れられない年である。

 (写真は、1974年5月3日、スイス航空・羽田発チューリッヒ行き搭乗チケット)

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あなたの近くにある、「草原の輝き」

2017-06-22 03:25:33 | 映画:外国映画
 かつてあれほど明るかった輝きも
 今は私の眼の前から消えた
 草原の輝きは戻らず 花は命を失ったが
 嘆くことはない
 残されたものに 力を見いだすのだ
     ――ウィリアム・ワーズワース

 草原の輝きは、若々しさに溢れている。
 僕は、佐賀の田舎の青い麦畑の小道を、頬に風を受けて自転車で通るたびに、かつての若々しいときの空気を吸い込んでいるように感じるのだ。(写真)
 草原の輝き、この言葉を聞くたびに、僕は若さの持つ切なさを感じて立ち止まってしまう。

 「草原の輝き」は、1961年公開のエリア・カザン監督のアメリカ映画である。
 しかし、思い浮かべるのはこの映画だけではない。
 香港からやって来たアグネス・チャンが1973年に、「居眠りしたのね いつか 小川のせせらぎ きいて…」と、人形のような顔と声で歌った歌も「草原の輝き」(作曲:平尾昌晃)である。「…レンゲの花を 枕に今 目がさめた…」と続く歌詞は、安井かずみによるもの。
 僕はこの歌を聴くと、いつも草原で居眠りから覚めたアグネスの横に、シルクハットの帽子をかぶったウサギが現われる状景の、「不思議の国のアリス」を思い浮かべる。
 それにしても、「居眠りしたのね いつか…」という、こんな意表をついた出だしの歌はほかにないだろう。ズズこと安井かずみは天才だ。

 「草原の輝き」という歌はこれだけではない。
 「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などのヒット曲で有名なG・Sの先駆的存在のジャッキー吉川とブルー・コメッツも、1968年、このタイトルの曲(英題、Summer Grass)を歌っている。作詞は橋本淳で作曲は井上忠夫。編曲に、のちにヒットメーカーとなる筒美京平が参加している。
 「あなたのおうちは 緑にぬれた草原の 草原の はるかかなた…」と、こちらはタイトル本家、アメリカ映画の影響を受けた、青春の思い出の歌と言っていいかもしれない。
 この年の暮れ、NHK紅白にこの歌で出場している。

 *

 映画「草原の輝き」(Splendor in the Grass、監督・製作:エリア・カザン、原作・脚本:ウィリアム・インジ)は、1920年代の米中部カンサスを舞台に、卒業を控えた高校生の愛とその後の物語である。
 青春の持つ瑞々しさと傷つきやすい脆さが描かれていて、今観ても胸を切なくさせる。

 高校3年生のディーニ―(ナタリー・ウッド)とバッド(ウォーレン・ベイティ)は、クラスの仲間も認めあっている美男美女の愛し合う仲だ。それでも、抱擁やキスはするが、それ以上は進まない。
 ディーニ―の母親は、結婚前に性交渉をするのはふしだらな女だという考えを娘に押しつけているので、娘のディーニ―は恋人に最後まで許すことはできないでいる。
 バッドは愛するゆえの、性の欲求に苦しむ。そして、そのもどかしさに苛立つことさえある。石油長者のバッドの父親は、遊べる女と付き合えという合理的な考えの持ち主である。農業をやりたいバッドは農業大学に進みたいと思っているが、父親は一流大学に行けと息子にその考えを押し付けている。
 愛と性と進学や進路は、誰もが青春期にぶつかる、最も大きな問題だろう。

 そんななかで、バッドはディーニ―と同じクラスの尻軽な女の子の誘惑に負けてしまう。
 そのことは、すぐさまクラス中に知れ渡り、クラスメイトの腫れ物にさわるような視線のなかで、ディーニ―は事態を知り、気持ちは落ち着きを失っていく。
 授業中、教師が虚ろなディーニ―に、教科書のワーズワースの詩(冒頭に記した)を読ませ、その意味を解釈しなさいと、指名する。
 立ち上がったディーニ―は、その意味を精いっぱい今の心で解釈しようと試みるが、ついにはわれを失い泣きながら教室を出ていくのであった……。

 ナタリー・ウッドは、ロバート・ワイズのミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」で世界的に有名な女優になった。典型的なアメリカ女優の顔だろう。
 ウォーレン・ベイティは、日本では長らくウォーレン・ビューティーと呼ばれてきて、僕はビューティー(美)とは気障な名前だなあと長らく思っていた。発音表記の違いなのだ。
 彼はシャーリー・マクレーンの弟で、「俺たちに明日はない」(Bonnie and Clyde)でスターの座を獲得し、その後多くの女優と浮名を流した。

 *

 青春期の愛や初恋は、結ばれることは少ない。
 初めての出来事に、どう対処していいかわからないし、傷つき、ときに傷つける。
 また、母親と娘、父親と息子、その関係は時には愛憎なかばし、思春期には確執さえ生まれる。
 
 「草原の輝き」は、青春という若さが抱く、瑞々しくも哀しい物語である。
 アメリカでも、処女が大切だと思われていた時代があったのだ。
 日本でも、そう遠くない最近まで処女が純潔だと称されて、女の子にとっては、いや、男にとっても少なからず重要なことだった。そんなことなど、今の女の子を見ていると及びもつかないが、そんな時代があったことは、思えば貴重なことだったように思える。
 だからこそ、青春時代が精神的にも肉体的にも繊細で濃密だったような気がする。
 
 今も、草原の輝きはあるのだろうか。
 とまれ、草原の輝きを失っても、嘆くことはない。
 草原はどこかで輝いているものだ。
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「青梅竹馬」もしくは「台北ストーリー」

2017-05-25 01:40:49 | 映画:外国映画
 東京・多摩市の隣町であるということからか八王子市の図書館でも会員になれるので、最近隣町の南大沢(八王子市)に行くこともある。
 先日、その京王相模原線の南大沢駅の構内の宣伝パンプレットやチラシを並べてある棚を見ていたら、「自由気ままな都市 高雄の個人旅行」という見出しの小冊子が目についた。
 同じ京王線にある八王子市だから宣伝しているのだろうと思ったが、何か引っかかった。
 確かに京王線の終点にある八王子市にあるタカオ山は、最近外国人に人気があるとはいえ自由気ままな都市と言えるほど発展したのだろうか。駅のふもとに温泉ができたとは聞いたが、僕も食事をしようと駅周辺を散策したことがあるが都市と形容されるほどそう賑やかな界隈ではない。
 そして、それよりも引っかかった根源は地名の漢字である。タカオ山で有名なタカオは、高雄でなく高尾だったはずだ。おやおや、こんな大きなミスをしていると思って、その冊子を手に取った。
 中をめくってみると、何とタカオは台湾の高雄だった。となると、字は高雄でいいのだ。
 それにしても、高尾にそう遠くはない駅で高雄とは紛らわしい。冊子の表紙には台湾の文字がないから、てっきり高尾と思い込む人もあろう。そういうことを狙ったのだとしたら、手が込んでいる。
 いやはや、高雄(台湾)のPR誌が八王子(高尾)にあるなんて、グローバルな時代になったものだ。リブ・ゴーシュ(パリ・セーヌ左岸)のPR誌が、佐賀と鳥栖(サガン)にあるようなものというのは言い過ぎか。
 ちなみに、後者のサガンは、「佐賀の…」の訛った表現で、「佐賀ん(サガン)町は嘉瀬川の左岸に広がっているので、パリのセーヌ左岸(サガン)のリブ・ゴーシュと似たようなものだ」と言ったりする(実際に、こんなことを言う人はいないが)。

 *

 台湾の候孝賢(ホウ・シャオエン)の監督する映画が好きだ。
 「風櫃(ふんくい)の少年」、「童年往事 時の流れ」、「恋恋風塵」などは、いつ見ても、未知なる将来にもがき悩んでいた、いまだ瑞々しい時代を思い起こさせ、心を滲ませる。
 候孝賢の自伝的映画である「風櫃の少年」は、小さな島の漁港で育った少年が台北に次ぐ大都会である高雄に行って生活する物語である。
 1991年、僕は台湾を旅した。
 台北から列車に乗って南に向かい、台南に1日寄って高尾に着いた。高雄の駅を降り、この町に泊まって街中を歩こうと思った。しかし、街の匂いと雰囲気が情緒に薄い工業都市のようで、歩きまわる気が起きなかったので、僕はすぐに駅前からバスに乗って、さらに南端に向かったのだった。
 あれから、高雄の街の匂いや風景は変わったのだろうか。

 *

 1980年代から90年代、候孝賢とともに台湾のニューシネマの代表と称されたのが「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」の楊德昌(エドワード・ヤン)である。
 エドワード・ヤンが1985年に撮りあげた作品で、日本では上映されていなかった2作目の作品、「台北ストーリー」(青梅竹馬)が渋谷で上映されたので、見に行った。
 主役は何とヤンの盟友であった候孝賢である。脚本も担当した候孝賢は、このときすでに「風櫃の少年」、「冬冬の夏休み」などを発表していて監督として注目されていたのだが、ヤンの映画製作のために尽力していた。
 相手役のヒロインは、台湾で人気歌手の蔡琴(ツァイ・チン)。

 親の家業を継いでいる主人公のアリョン(候孝賢)は、幼馴染みの恋人アジン(ツァイ・チン)と、マンションの空き室を見ながら、将来のことを語っている。
 アリョンは元少年野球をやっていて将来を嘱望されていた。しかし今は、その夢が断たれたのか何となく鬱屈しているように見える。一方アジンはバリバリのキャリアウーマンで、活動的な生活を送っているように見える。
 しかし、アジンの勤めていた会社が買収され、突然アジンは解雇される。アジンは、アリョンの義兄を頼ってアメリカへ行こうと提案するが、アリョンは踏ん切りがつけられないでいる。
 そんななか、ある事件が起きる。

 蔡琴(ツァイ・チン)の存在感が眩しい。
 この映画撮影の頃、監督のエドワード・ヤンと結婚している。しかし、その後離婚。エドワード・ヤンは再婚し、10年前に没した。

 *

 映画「台北ストーリー」が終わったのは、夜9時半過ぎ、10時近くだった。
 劇場を出て、食事する店を探しながら渋谷の駅の方に歩いた。さすが若者の町渋谷である。まだまだ人通りは多く、あちこちに夜はこれからですよとばかり飲食店の看板やネオンが明かり輝いている。
 すると、待っていましたとばかりに歩いている通りに、「台湾料理、故宮」という看板が目についた。僕の頭の中は台湾モードだったから、誘われるようにその店のある雑居ビルに入った。
 扉を開き中に入ると、入口のすぐの壁に「台北ストーリー」のチラシが貼ってある。映画館の近くだから、台湾繋がりで関係者が貼っていったのかな。
 店の中は、こんな時間でも客がいっぱいで、騒々しい嬌声が聞こえてきた。テーブル席はほぼ埋まっていて、一人客は僕だけのようで、誰も座っていない3、4人も座ればいっぱいになる小さなカウンターに座った。
 遅い時間だといっても、いつもの僕の食事時間と変わらない。
 中華料理のメニューを見るのは、その味を空想させて楽しい。
 頼んだのは、炒蛤蜊(アサリ・バジル炒め)、羊肉青菜(羊肉と青菜炒め)、水餃子、米粉(ビーフン)、それに台湾ビールの「王牌」を1本。
 アサリは日本語の漢字では「浅蜊」で、メニューに使ってある「蛤」は、日本ではハマグリだよね。中国語では両方「蛤」を使うのかな。
 ここの水餃子は、丼のような碗の中のスープに浸かっていて、餃子というより小籠包に近く、スープも旨い。

 料理を持ってきた、渡辺直美を半分ぐらいスリムにしたような小姐に「台北ストーリー」のチラシを見せたら、「映画見てきたの? 私まだ見てない。主役の蔡琴(ツァイ・チン)は台湾でとても人気あるよ」と言った。
 「中国語の原題は「青梅竹馬」だけど、どういう意味?」と訊いてみた。
 彼女が「幼馴染み」と答えたので、「日本でも、“竹馬の友”という言葉があるから「竹馬」はわかるけど、「青梅」はどういう意味?」と重ねて訊いた。
 彼女は、「甘酸っぱい……」と言って、「う~ん、少し難しい」と考えた。そして、スマホを開いて何やら打ち込んでいたが、すぐに「李白、知ってる?」と言うので、「うん、李白や杜甫は日本でも有名だよ。高校の漢文で習うしね」と答えると、「「青梅竹馬」は李白の詩から来ている。ほら、ここ」と言って、スマホの画面を見せた。
 そこには、中国語の字が並んでいた。李白の「長干行」という詩だ。
 そして、彼女は付け加えた。「ただ、「青梅」は男と女の間にしか使わない」と。

 僕は、台湾の啤酒(ピージウ)を飲みながら、「青梅」という語には、幼いなまめかしさが潜んでいると思った。「青い梅」でもいいタイトルの響きではないか。「青い麦」に低通するものがあるし。
 それにしても、つい少し食い過ぎてしまったようだ。

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「聖なる呼吸」で見たヨガの聖地、マイソール

2016-09-25 01:16:39 | 映画:外国映画
 年をとると、身体のあちこちに齟齬をきたす。
 最近は、足の裏が調子が悪い。自己診断だが2年前の足の指先のシモヤケに始まり、魚の目、タコができた。
 しかし、足の裏に、海(水)の生き物の魚の目、タコがへばりついているとは、何と奇妙というか不気味なことだ。誰が、どうしてこんな名前をつけたのだろう。
 というわけで、足が痛くなったので皮膚科の先生に診てもらった。皮膚科の先生によれば、靴が合っていないのと歩き方の問題だと言われた。魚の目やタコは何とか治ったが、シモヤケだと思っていた足の指先の炎症は、暖かくなっても収まらないところを見ると、皮膚科系ではないようだ。
 血行障害だと思うから、身体の血の巡りをよくするために何か運動をしないといけないと思った。数年前までは時折近くのプールに通って水泳をやっていたが、今は運動といえば歩くことぐらいしかしていない。
 かといって、ジムに通うのは嫌だし、もっとゆったりとした楽しめる運動はないかと考えたら、ヨガを思いついた。
 そしたら、近くの市の施設を利用して「ゆるヨガ」をやっているというのを見つけた。ヨガといえば、アクロバティックに体を曲げたりくねらせたりするのを思い浮かべるが、ゆるいヨガというのが楽そうでいい。それに、自己啓発的で宗教がかったのは嫌だが、そうではなさそうだ。

 *

 すると、新聞の広告で「聖なる呼吸」(ヨガのルーツに出会う旅)という映画の告知を見つけた。
 何だかヨガが僕のところにやって来た、といった都合のよい思考を持ってはいないが、気にすると、人間はそのことに視線や関心が集まるのか、ヨガの情報が急に眼に入る。
 ヨガを知るのにちょうどいいと思い、渋谷に映画を見に行った。

 「聖なる呼吸」(原題:Breath of the Gods、監督:ヤン・シュミット=ガレ、2011年/ドイツ、インド)は、以下のような内容の映画である。
 ヨガのルーツは、古代インドにあるという。ヨガに興味を抱いたドイツ人の映画監督ヤン・シュミット=ガレが、南インドを訪れ、「近代ヨガの父」といわれるティルマライ・クリシュナマチャリアの足跡をたどるドキュメンタリーである。
 監督は、クリシュナマチャリアの弟子や子どもたちに話を聞き、彼が教えていたという学校を訪ね、実際にヨガの教えを受ける。
 クリシュナマチャリアは1989年に亡くなっているが、映画では、彼の残された数々のヨガの実践映像が映し出される。

 映画を見始めて、僕がおやっと思ったのは、クリシュナマチャリアの足跡を訪ねていったインドの町というのが、マイソールだったことだ。マイソールは、クリシュナマチャリアを師と仰ぐ人にとっては、いわば聖地のような町なのであった。

 *

 1994年、僕は2度目のインドの旅に出て、ボンベイ(ムンバイ)に降りたった。前々年の1度目の北インドの旅と違って、この回は南インドを旅しようと思っていた。
 計画は南インド方面と大雑把に決めていただけで、どこに行こうという当てがあったわけではない。ところがボンベイ駅でスムーズに列車の切符が買えず(インド特有の混雑と融通のなさで)、仕方なくとりあえずインド中部のエローラおよびアジャンタの遺跡を周り、再びボンベイに戻った。そこから再び南の方に行こうとやっと切符を買いとり、とりあえずバンンガローブへ向かった。
 今はIT産業で有名になっているがバンガローブの街は面白くなかったので、地図を見てその南のマイソールという町に向かった。マイソールは、マハラジャの住んでいた藩主国だったところだというのが興味をひいたのだった。
 マイソールの街は、マハラジャの住んでいた宮殿が残っていて、周りにはグーゲンビリアの花がまるで日本の錦秋のように赤く彩っていた。夜には宮殿はイルミネーションで彩られた。僕はこの街が気に入っていた。(写真)

 映画でも、このマイソールの王宮が舞台となり、映し出された。
 クリシュナマチャリアは、このマイソール王国の君主に雇われて、ヨガを教え普及させたのだった。

 この映画によってヨガの魅力がわかったわけではないが、ゆるいヨガならやってみようと思う。ヨガといっても僕にとってはハードではない、ストレッチ体操程度が今のところちょうどいい。
 しかし、映画でヨガの師が言っていた。
 「体を動かすだけなら単なる体操だ。ヨガは呼吸が大切だ」と。
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