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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「西洋の敗北」⑥ 深海洋燈・テント劇から流れた「花はどこへ行った」

2025-05-22 01:28:57 | ドラマ/芝居
 エマニュエル・トッドの現代を読み解く「西洋の敗北」を書き始めたら、個人的な戦後(第2次世界大戦後)アメリカの栄光に至り、「アメリカン・グラフィティ」、「夢のカリフォルニア」、「ホテル・カリフォルニア」に行きついた。
 さて、本題の「西洋の敗北」である。

 ところが、いつもの通る道でのことである。
 いつものように通る道で、旧・三越デパート(現・ココリア多摩センター)のビルが見えてきたら、もう多摩センター(東京都多摩市)の中心部である。道の先には国籍不明のサンリオ・ピューロランドが見える。
 その多摩センターに向かう道とビルの交差部分に、ちょっとした三角形の敷地がある。その敷地はきちんと煉瓦を敷き詰めて整備されているので空き地とは言えないが、何の目的でそこにあるのか理解しづらい空間である。どう使っていいのか、どう使われていいのかわからないといった塩梅で、たまに何かの撮影が行われていたり、時々若者がたむろしているぐらいで、所在なさそうにあり続けている。
 5月の黄金週間に、その空間に黒いテントが出現した。
 そして幟が立ち、前の塀にチラシが貼られた。それは、芝居小屋だった。そこで、天幕劇場「深海洋燈」(しんかいらんぷ)という劇団による芝居が行われたのだった。
 私は黒テントが気にはなっていたが、通り過ごしていた。
 しかし、「多摩センター 野外テントシアター・フェスティバル」の最後の日である5月19日、テントで芝居を見るのも唐十郎の紅テント以来かと思って、ふらりとテントに入った。

 *黒テントの舞台「野ばら」

 その日の最後のトリの公演が、「深海洋燈」の「野ばら」という芝居だった。
 劇団名も演目も初めて知った芝居だった。
 原作は小川未明が戦前(第2次世界大戦前)の1922年に発表した短編小説で、脚本・演出は申大樹である。出演は、申大樹、小林由尚、傳田圭菜、史椛穂、武田治香、桃菜、佐藤梟。

 *
 学校へは行かずに外で飛び回っていた少年は、祖父が書いたというノートを持っていた。少女と知り合った少年は、二人でそのノートを読む。祖父の戦争体験だった。

 老兵と青年兵が、ある二つの国の国境を挟んで見張っていた。老人は大きい国の兵士で、青年は小さい国の兵士であった。二人は国境を挟んで将棋をするようになり、親しくなる。
 ところが、この2国の間で戦争が始まる。老兵は青年兵に自分を殺して手柄にしなさいと言うが、青年はそれはできないと言って、遠い戦場へ出向いていった。

 日本では、敵国(アメリカ)と戦争が始まった。学校では敵国の言葉である英語は使えなくなった。戦争に反対した女先生は捕らえられてしまった。

 老兵と青年兵が国境を挟んでいた戦争は、大きな国が勝って戦争は終わった。国境近くに残っていた老人は旅人に、小さな国の兵士はみんな死んだと聞いた。その夏、そこに咲いていた野ばらは枯れ、老人は息子や孫のいる故郷へ帰るのだった。

 *
 黒テントの中の舞台には、ハプニングとして底に水(水路)が設えてあり、その水の中から人が登場したり、芝居の間に生のギター演奏が響いたりする。
 登場人物は別の物語のごとく、オムニバスのように変わる。それでも、芝居全体に戦争(体験)が通底として流れているのが分かる。
 そして最後に、紙吹雪が舞い、テントの奥の幕が開き、舞台と外の夜の街が繋がり、音楽が流れる。
 なんと、その曲が、「花はどこへ行った」(Where have all the flowers gone?)であった。
 テントの奥から多摩の夜の街角に、「花はどこへ行った」が静かに流れた。
 (写真:芝居が終わり奥のテントが開いた先に、多摩の夜の街が見える)
 私がこの「西洋の敗北」で書いてきた「花はどこへ行った」が、予想だにしなかったことだが、この夜、いつもの道に繋がっていたのだった。
 まるで(でき)芝居のようだ。

 ※→「西洋の敗北④ “花のサンフランシスコ”から、“花はどこへ行った?”」(2025-04-26)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3

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銀座で「能」を

2024-12-25 03:36:55 | ドラマ/芝居
 *異世界の能舞台

 日本の伝統芸能の一つに能がある。
 能は、面をつけた登場人物が(面をつけない人物もいる)、独特の調子で語り(謡い)、舞う物語である。バックには、楽器である笛、小鼓、大鼓の囃子(はやし)が入る。ときに、人の謡いが加わる。
 能は人形浄瑠璃と同じく、一定の様式を持った伝統芸能である。

 能の現在の演目は約240目あるらしく、そのうちよく演じられているのは120目ぐらいといわれている。
 代表的な演目の役柄には、「源氏物語」「伊勢物語」などの古典文学に登場する人物や、「平家物語」で死んだ武将の霊など、霊魂が登場する物語が多い。
 大体にして動きは摺り足でスローモーであるので、ある意味では重厚といえるし、音(囃子)も間(ま)に重きをおいているので緊張感があるが、軽快・軽妙とはいかない。
 いわゆる日本の伝統芸能の魅力は、独特の雅趣、風情である。

 建物のなかの能舞台を能楽堂と呼ぶ。
 能の舞台も形が決まっている。
 能を舞うためのステージ(本舞台)は、四角く前に張り出していて、この正方形の舞台には屋根がついていて、角に4本の柱がある。本舞台の左手(観客から見て)の奥に細い渡り廊下(橋掛り)が延びていて、その廊下が終わるところに五色の幕があり、そこが登場人物の出入り口となっている。
 つまり、能の舞台は、通常の演劇や音楽の長方形の四角い舞台と違っていて、細長い廊下(橋掛り)付きの正方形の舞台という、他に例を見ない変形なのである。
 それに、本舞台の奥の正面にはひときわ目立つ松が描かれている。この松の絵は不可欠なのだ。
 また、左手の渡り廊下の前にも、等間隔に3本の松の木が置かれている。この松は遠近法に倣い、左の幕にいくにしたがって少しずつ小さくなっている。
 さらに、本舞台の正面からは客席に続く短い階段(きざはし)が置かれている。
 これらのことは、能の舞台では決まり事で欠かせないことなのだ。他に例を見ない舞台装置である。
 それに、舞台と客席を仕切る幕(緞帳)もない。

 もともと能も狂言も野外で行われていたので、室内で行うことになってもその雰囲気・情感を残そうとした結果、この形になったのだろう。

 *能の体験

 初めて能を観たのは、社会人になってすぐのころである。
 目黒駅から杉野・ドレスメーカー学園のあるドレメ通りを過ぎたところにある喜多能楽堂にてであった。能に興味があったわけではないので、たぶん誰からかチケットをもらったのだろう。
 あらかじめ調べもせず解説書もなかったので、まったく内容がわからないし面白くもない。舞台の上の、恨めしい顔の鬼のような女性の面が脳裏に残る。
 日本の伝統芸能として知名度が高い能とはこんなものかと、モヤモヤとした不完全燃焼のまま館を出たという能初体験だった。
 演目が「鉄輪」だったことを覚えているのは、それが「かなわ」と読んだからである。
 のちに、別府の鉄輪温泉に行ったとき、おっ、この名は能からきたのかな、なにせ温泉地獄の地だからな、と思ってしまった。別府の温泉地は、「かんなわおんせん」と呼ぶ。

 その後、何回か能を見たが(といっても数えるほどだが)、印象深かったのは、2009(平成21)年9月、多摩市の多摩中央公園内にある「パルテノン多摩きらめきの池」で行われた「水上能」である。
 満月の夜、水を張った池の上に設けられた舞台で能が行われた。演目は、その日の満月にちなんで、月の出と月の入りを場面に組み入れた「融(とおる) 舞返(まいかえし)」であった。
 このとき、能は風情があり、幻想的だと感じた。寺の境内などでの薪能はあるが、水の上での能はめったにないだろう。
 やはり、能は野外に限ると思った。

 *銀座に生まれた能楽堂

 友人が謡いをやっている関係で、久しぶりに能を観ることになった。

 12月14日、銀座にある観世能楽堂に出かけた。「大松洋一の会」である。
 観世能楽堂は、能の流儀(流派)の一つである観世会(観世流)が運営する能楽専門の公演場で、銀座6丁目のGINZA SIX地下3階にある。
 GINZA SIXは、もと松坂屋銀座店があったところで、建物は地下6階・地上13階建ての銀座界隈で最大のビルである。こんなところに能楽堂があるとは知らなかった。
 以前、観世能楽堂が渋谷区松濤の旧鍋島邸跡地にあったときに観に行ったことがあったが、銀座では初めてである。
 (写真は観世能楽堂)
 演目は、能「鉢木」(はちのき)、狂言「二千石」、能「羽衣」で、演者(シテ)は大松洋一である。

 「鉢木」の内容は、
 ある雪の夜、上野国(現群馬県)に着いた旅の僧が、1軒の貧家に宿泊を請う。そこの主(あるじ)はその妻と、大切にしていた鉢植えの木を焚いて僧をもてなす。そして、今はこうして落ちぶれているが、もし鎌倉に事が起きたら一番に駆けつけると語った。
 翌朝、旅の僧は家を出立する。
 後日、鎌倉から諸国の武士に召集がかかる。上野国の老いぼれた主も痩せ馬に乗って鎌倉に駆けつける。そこで、ここの党首が以前雪の夜に宿を請うた僧だったと知る。召集は、上野国の主が言ったことが真偽かを試すために行った前執権の北条時頼の計らいだった。
 時頼は鎌倉に駆けつけてきた主の忠節を誉めて、3か所の荘(領地)を与えたのだった。

 「羽衣」の内容は、
 駿河(現静岡県)の三保の浦に住む漁師が、松の枝にかけてある美しい衣を見つけて持ち帰ろうとする。そこへ天女が現れて、その衣がないと天に帰れないと言って嘆くので、漁師は衣を返してあげる代わりに天女に舞を請う。天女はその羽衣をまとい、舞を舞いながら天に帰っていくのであった。

 両演目とも、能の特徴の霊の生まれ変わりは出てこない、単純な内容である。
 しかし、初めて見る演目の場合、人形浄瑠璃の文楽と同じく、粗筋を知っていて、能で謡われる言葉を記した詞章を見ていないと、日本人でもわかりづらい。ましてや、外国人は相当な日本文化通でないと楽しめないだろうと思った。

 久しぶりに能を観て、能を楽しむには年季が入ると思い知った。

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人形劇、文楽を観る

2024-05-22 02:06:56 | ドラマ/芝居
 *個性豊かな、世界の人形劇

 人形といえば、子どものころ絵本で見た(読んだ)「ピノキオ」を思い出す。
 木でできた人形のピノキオは人間のように動き、わんぱくで悪戯もする。嘘をつくとアレアレッと鼻が伸びる。そして、海の鯨(原作では大きなサメ)に飲み込まれたりする。

 人形劇といえば、インドネシアのバリ島で観た「ワヤン」が印象深い。ワヤンはワヤン・クリとも呼ばれる人形による影絵芝居である。
 ワヤンは、ガムラン音楽の流れととともに、ダランと呼ばれる一人の人形遣いが、語り、歌をうたい、時に効果音を出すなどしながら、いくつもの人形を操る。
 ガムラン音楽は、鉄琴のような青銅(鉄)製の鍵盤打楽器や銅鑼による合奏のインドネシアの民族音楽である。一回聴いただけで脳裏に残る他に類を見ないリズム、音楽だ。
 旅で訪れたバリ島のウブドの村はずれで、日も暮れた夜に、灯りに照らされた幕(スクリーン)に影による人形芝居が映し出された。ワヤンは、南国の夜空の下に揺らめく、いかにも幻想的な体験だった。

 個性的なのが、ベトナムの「水上人形劇」である。
 舞台はため池などの濁った水の上で、というか水の中で、人形劇が行われるのだ。
 水の中の簾(すだれ)で隠された舞台裏にいる人形操者が水に腰まで浸かって、歌と楽器の演奏に合わせて人形を操る。人形は長い竿の先に取り付けられ、糸によって頭や腕を動かすようになっている。
 実際に見たことはなく映像で見たのだが、初めて水上人形劇を見たときはその着想に驚くような感動を覚えた。水の上が舞台なのだ。水の上を様々な人形が素早く動きまわり、水飛沫が跳ねる。これを見るだけのためにも、ベトナムに行きたいと思った。

 こうしたアジアのユニークな人形劇に対して、ヨーロッパはどうであろうか。
 思い浮かぶのは、フランスのリヨンを中心に行われていた「ギニョール」である。ギニョールは、絹の集散地として賑わっていたリヨンに持ち込まれた、イタリアの指人形劇から始まった人形劇である。
 子どもに人気のユーモラスな動きの勧善懲悪劇で、何だか懐かしい動く紙芝居を思わせる人形劇である。

 そして、日本の人形劇といえば、「人形浄瑠璃文楽」である。
 「人形浄瑠璃」とは、三味線を伴奏に使い、太夫が語る旋律によって物語を進めていく浄瑠璃と人形によって展開される人形劇である。
 ことの初めは、江戸時代、竹本義太夫が古浄瑠璃を独自に発展させた義太夫節と人形劇で、大阪・道頓堀にて竹本座を興し公演・興行をしたこととされる。元禄期に、その竹本座で上演された近松門左衛門作の「曽根崎心中」などを生んで、人気になった。
 その後、人形浄瑠璃は徳島や淡路から全国に伝わり、日本の伝統文化となった。しかし、大正時代以降、いくつかあった公演団体のなかで一定規模以上の団体が文楽座のみになる。それゆえ、「文楽」が人形浄瑠璃と同義に用いられるようになった。

 *初めての文楽体験は、「ひらかな盛衰記」

 日本の伝統芸能である「能」や「狂言」、「歌舞伎」を観たことはあるが、「人形浄瑠璃文楽」は観たことはなかった。
 たまたま観る機会が生じて、こんなときでないと観ることはないと思い出かけた。
 5月9日、東京都北千住の「シアター1010」に出向いた。
 「豊竹呂太夫改め十一代目豊竹若太夫襲名披露」と告知が出ていたが、2部制の午前開演のAプロには豊竹義太夫は出演していたが、私が観た午後のBプロ(午後4時開演)の部の「ひらかな盛衰記」では、豊竹義太夫の名はなかった。
 外題の「ひらかな盛衰記」の、「盛衰記」とは「源平盛衰記」のことで、源義仲が滅亡する粟津の戦いから一ノ谷合戦までの間の「平家物語」の世界を描いたものである。

 人形浄瑠璃は、古くは能・狂言や歌舞伎がそうであったように、男性だけで演じられる。
 正面の舞台に、人形が並びその背後に人形遣いがいる。一つの人形につき人形の主遣いが1人、補助役の黒衣が2人付いている。黒衣の黒子は頭巾をかぶり全身真っ黒の影の存在だが、主遣いは紋付・袴で顔もちゃんと出している。
 舞台に向かって右(上手)に張り出した床があり、そこに語りの太夫と三味線の弾きが座っている。
 私は人形浄瑠璃の主役は人形であるから、人形遣いを義太夫と称するのだと思っていた。ところが、主役は語り・謡い手であり、その人が義太夫であった。そんな基礎知識もない、人形浄瑠璃、文楽愛好家から見れば呆れるような初体験であった。

 ※かつて日本語を話す外人タレントの走りであろうか、大阪弁をこなすイーデス・ハンソンという美人で賢い女性がテレビ、雑誌等で多彩に活動していた。その女性が人形浄瑠璃の吉田小玉という人形遣いの人と結婚するという報道を聞いて、日本の異国情緒に惹かれたのかなあと当時思った。そのこともあって、人形遣いが人形浄瑠璃の主役で花形だと私は思ったのだろう。E・ハンソンは2年ほどで離婚したが。
 先日、1970年の大阪万博のアーカイブ映像に、そのイーデス・ハンソンがチラッと映し出された。たまたまそれを見て、来年に迫った2度目の大阪万博と違って、E・ハンソンのいた前の大阪万博の頃は、夢のあるいい時代だったなぁと思いだしたのだった。

 *
 日本の人形浄瑠璃は、やはり日本独特の伝統芸能である。
 人形の動きは、派手でも活発でもない。語りに従って動く。どちらかというと微妙な動きに重きを置いている。それゆえか、どうしても、語り・謡いが主となる。
 いや、日本の伝統芸能は、おしなべてその全体を支えているのは話・物語である。であるから、物語のあらすじを知っていないと、楽しみは半減する。
 今回は、舞台の上の方に語りの台詞が字幕として出るので、初見の者はそれを追うことになる。日本人でも人形浄瑠璃に馴染みのない人は、字幕を見ないとストーリーを把握しづらい。
 これは、能もそうだが、初めて見る外国人の観光客に浸透させるのは難しいだろうと思った。
 イーデス・ハンソンは長く近松門左衛門の大阪の空気を吸っていて、大阪が好きだったし、日本の伝統ジャポニズムに惹かれた奇特な外国人なのである。

 日本人の私ではあるが、日本の伝統芸能である人形浄瑠璃文楽を楽しめるようになるのは難しいな、としみじみ感じ入った。

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女性落語家、蝶花楼桃花を聴く!

2024-05-04 04:45:57 | ドラマ/芝居
 会社勤めの頃、通勤・帰宅での電車の乗り換え場(駅)であったこともあり、夜の主戦場は新宿だった。
 新宿駅東口、歌舞伎町から、新宿3丁目界隈が最も頻繁にさ迷い飲み歩いた。
 そんなとき気紛れに、あるときは酔ったついでに、あるときは女の子を誘って、ふらりと新宿末広亭に入って、寄席を楽しんだりした。
 しかし、最近は寄席からすっかり足が遠のいてしまった。
 見る(聴く)とすれば、近くのパルテノン多摩(東京都多摩市)で、年に2回行われている中央大学落語研究会(落研)の学生たちの落語ぐらいである(これが上手いのである)。
 今年になって、そのパルテノン多摩で女性落語家の公演が5月2日に行われるというのを当該情報誌で知った。
 女性の落語家が珍しいので、それにあやかった公演かと見くびっていたら、3月ごろになると、テレビ「笑点」大喜利の最古参メンバーである林家木久扇が4月いっぱいで卒業するにあたり、その後継者候補の一番手に人気女性落語家が、とSNS等で話題になった。
 その女性落語家というのが、パルテノン多摩にやってくる蝶花楼桃花だった。
 1年前に笑点のメンバーとなった春風亭 一之輔を見るまでもなく、笑点レギュラーとなったらチケットが買えないくらい人気になるなと思い、急いでチケットを購入しに行った。ギリギリに席を確保でき、そんな笑点新メンバーの噂もあってか、すぐに3月で席は完売となった。

 蝶花楼桃花は、春風亭小朝の弟子である。
 春風亭ぽっぽとして前座を開始し、二ツ目の時代は春風亭ぴっかり☆を名乗る。なお、名前の末尾に☆マークが入っているが、これは読みはなく、寄席文字にないため定席のめくりには表記されない。
 2022年の真打昇進とともに、高座名を蝶花楼桃花とし、女性落語家として人気上昇し、現在に至っている。

 それにしても、蝶花楼桃花の「蝶花楼」という亭号は珍しい。
 2019年に七代目蝶花楼馬楽が死去して以来、3年ぶりの亭号復活ということである。
 笑点の大喜利メンバーであった林家木久扇は、師匠である林家彦六の真似をよくやっていた。その林家木久扇および三遊亭好楽の師匠でもある、一門の祖である林家彦六は八代目林家正蔵を名乗る前に五代目蝶花楼馬楽を名乗っていた。
 蝶花楼、なにやら華(艶)がある名である。それに、桃花が付く。
 やはり、蝶花楼という亭号は、女性落語家がよく似合う。

 *パルテノン多摩独演会「蝶花楼桃花」 2024年5月2日(木)

 蝶花楼桃花が舞台下手から登場し、壇上で座って客席に向かって一礼すると、そこに花が咲いたように急に舞台が明るくなった。
 まず、「まくら」は、自己紹介のようなものである。
 落語家は階級制度であるとして、見習い、前座、二つ目、真打と昇っていく階級を紹介。その先はないかと思うと、ご臨終にいたると笑いをとる。
 つぎに、全国の落語家さんは約1000人、そのうち女性の落語家さんは30名~40名ととっても少ない、と女性落語家の稀少性をあげてみる。
 そして、私は落語家になりたての頃は、当時大河ドラマ「篤姫」をやっていて、その主演女優、宮崎あおいが人気で、私は「ポストあおい」と言われていた、と。そのオチは、彼女にファンからの手紙を渡す役割(俳優ではなく)だったこと、という(詳細に話すと長くなるので略)。

 演目1は、師匠・春風亭小朝のために書き下ろされた新作落語「こうもり」である。
 「鶴の恩返し」をモチーフにした作品で、「こうもりの恩返し」である。これが、単なる人情噺ではないところが、おやっと新しさを思わせた。
 日本の仏教と西洋のキリスト教の対比をあちこちにオチとして提示するのである。
 であるから、このコウモリの出身がルーマニアになっている。つまり、吸血鬼の里ということである。ここから、聖書の「悔い(食い)改めよ」とか、キリストがこの中に裏切り者がいる、それは3つのコップ、葡萄酒、水、湯のどれかを飲む、と言う。それは、「湯だ」(ユダ)……等々、多少の教養も必要(できれば)な落語となっている。

 余興として、「南京玉すだれ」芸を演じる。
 長さ30~ 40センチの竹製のすだれ(簾)を、釣り竿、東京タワーなどいろいろな形に変化させるものである。

 休憩を挟んで――
 演目2は、「徂徠豆腐(そらいどうふ)」である。
 これは、街の豆腐屋と落ちぶれた浪人の恩返し、人情噺である。

 蝶花楼桃花、彼女は声がいいので、聴いていて心地いい。
 落語界へ、彼女が新しい道を開いてくれるであろう。

 *

 この日、「桃花」にちなんで、パルテノン多摩の近くにある中華料理「桃里」で夕食をした。あいにく、桃の花の季節は過ぎているが。
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有明海の海を想う、「有明をわたる翼」

2013-12-31 00:49:50 | ドラマ/芝居
 東京から佐賀の家に着いたときは、もう夜中だった。夜空を見上げると、星々が今夜生まれたばかりのように輝いていた。東京では、こんなに近くに見えることがない。
 光る星たちは、大きなものも小さなものも本当に立体的だと思えた。星座に詳しい人なら、一つ一つ心ときめかせながら、それらをなぞっただろう。オリオン星座なら、僕とてすぐに見つけることができる。北斗七星はどこだろうとぐるりと夜空を見回す。すると、北極星がわかるはずだ。

 翌朝、目が覚めて窓のカーテンを開けると、庭の垣根の向こうにいつもの山が見えた。
 山のかなたに広がる空は、気持ちのいい青空ではなく曇ってはいるが、この景色を見ると、ほっとした気持ちになる。
 よく見ると、外は白い粉のようなものが舞っている。
 雪だ。東京でも今年見ることがなかった、僕が見る初雪だ。
 もはや、東京も九州の佐賀も体感気温は変わらない。以前抱いていた、東京と比較して九州は暖かいという感覚は、北九州に関しては当てはまらない。
 むしろ東京の鉄筋に対して佐賀の木造という家の構造の違いで、家の中ではこちらの佐賀の方が寒い。古い家なので、あちこちから冷たい風が入ってくるのだ。
 家の造りは、「夏をむねとすべし」と吉田兼好が言ったように、日本の古い木造家屋は暑い夏に合わせて造ってある。北海道など寒いのが前提の地方では、冬対策として家屋内の暖房設備はしっかりと設えてある。しかし、九州の家は、暖かいという先入観があってか、冬対策は疎かだ。特に、旧態依然の僕の家は。
 だから、田舎の冬は寒い。

 寒いといえば、思い出した。
 僕は家の中では、靴下ははかない。石田純一ではないので、外出のため靴をはくときには靴下は勿論はく。しかし、外から家に帰ると、気持ちが悪いのですぐに靴下は脱ぐのが習慣だ。それは冬でも変わらない。
 去年の冬、佐賀に帰っているとき、足先が例年になく冷たかった。そして、だんだん足の指が痛痒くなった。掻いていると、赤く膨らんで硬くなっている。どうしたんだろうと思って、風呂に入ったときにもんでいたら、シモヤケだと気がついた。シモヤケになったのは子どもの時以来だろう。
 シモヤケ、霜焼け。それは、忘れていた言葉と感覚だった。その言葉を頭の中で繰り返していると、なんだか懐かしくすらあった。
 「シモヤケ、お手手がもうかゆい…」と口ずさみすらしてしまった。
 懐かしいといっても、なんなんナツメの花の下でお人形さんと遊んでいる、可愛いミヨちゃんではないのだから、もうシモヤケは懐かしくとも嫌だ。
 そんなこともあって、今年は、こちらでは家の中でも靴下をはいている。それほど、 去年の佐賀の畳の床は冷たかったのだ。
 今年はどうだろう。夏には、四国の四万十市で日本最高気温を記録したのが記憶に新しい。各地で集中豪雨も起こった。気候の変化は自然そのものであるが、最近は人為による影響も少なくない。
 人が自然に手を加えると、何らかの変化、副作用がもたらされるのだろう。

 *

 佐賀県はご存知のように、二つの海に面している。
 北の唐津の方面は、玄界灘である。そして、南の佐賀市から白石町、鹿島市、太良町に続く湾は、有明海である。
 この二つの海は全く性質が異なっていて、対照的だ。
 玄界灘は壱岐から遠く対馬を臨む青い海が広がり、漁業が栄えた。呼子(現・唐津市)では、かつては鯨採りも行われており、今ではイカの活き造りが有名だ。虹ノ松原を背にした海では海水浴やウインドサーフィンも見うけられるように、青い明るい海のイメージである。
 いっぽう有明海は、干拓地として有名であるように、ほとんどが遠浅の干潟である。青い海ではなく湿泥が広がる。中に入るとぬかるみだ。しかし、この日本で最も大きい干満の差を有する干潟の海が、ムツゴロウやワラスボなどの珍しい生物の棲み処となっていて、良質な海苔の有数な生産地ともなっているのである。

 この有明海に大きな変化が起きたのは、十数年前からである。
 いや、はっきりしていて1997年以降である。
 歴史をひも解こう。朝日新聞の「諫早湾干拓事業をめぐる動き」(2013年12月21日)等によると、以下のとおりである。
 1952年に、食糧増産のために、有明海の諫早湾の干拓事業構想が持ちあがる。
ところが1970年には、政府は新規新田の禁止、米の生産調整、つまり減反政策を始める。新しい水田は不要ということである。
 にもかかわらず、1989年、国営諫早湾干拓工事は着工される。
 そして、1997年、潮受け堤防は完全閉鎖される。テレビでも映し出された通称「ギロチン」によって、諫早湾は締め切られる。
 この諫早湾の封鎖による有明海への影響、何らかの変化が心配された。
 やはり、その後2000年には、海苔の大凶作が起こった。赤潮と見られる海質の変化も起きた。
 01年に農水省の第三者委員会が開門調査を提言。02年に、国は短期開門調査。同年、漁業者らが工事差し止めを求めて国を提訴。
 07年、干拓工事が完工。
 08年、佐賀地裁が国に常時開門を命じる判決。国はすぐに控訴。
 10年、福岡高裁が「3年以内に5年間の開門」を命じる判決。菅直人首相が上告見送りを表明し、判決が確定。
 13年、長崎地裁が開門差し止めの仮処分を決定。
 13年12月20日、福岡高裁判決の開門期限。国は開門できず。

 *

 この諫早湾開門期限直前の日に、有明海沿岸の人々の葛藤をテーマにした演劇「有明をわたる翼」が上演されるという記事が新聞に載った。
 僕は諫早湾封鎖におけるギロチンが実施された直後、諫早湾を見に行った。ギロチンはいかにも頑強そうで、諫早湾を仕切る潮受け堤防は想像以上に長かった。資料によると7キロを超える。
 人気のないところでのギロチンは、孤独そうに見えた。そして、国の命令に従ってここに在るというのに、何故このような忌まわしい名前で呼ばれなければならないのかと、憤りを感じているようだった。
 そもそも、この「ギロチン」という呼び名は、18世紀フランス革命のとき議員であった医師のギヨタン博士が「苦痛の少ない処刑装置」を提唱したのが、あの断頭台だったのから来ている。博士も自分の名が、このような嫌われものの代名詞として後世まで残り続けることになるとは、何とも不本意であろう。

 諫早湾開門期限直後の12月22日、東京のザムザ阿佐ヶ谷で 「有明をわたる翼」(脚本:堀良一、飯島明子、野美子、 演出:野美子、企画・制作:演劇企画フライウェイ)を観た。
 物語は、渡り鳥のオオソリハシシギの一行が有明海に翼を休めることから始まる。鳥たちにとっても餌が豊富で息うには格好の海は、何だか変わっていた。
 その有明海では、漁民たちが、もう一度かつての海を取り戻そうという「開門派」と、今さら補助金なしでは生活ができないという「現実派」が真っ二つに割れて対立していた。
 親同士の対立の最中に、若い二人の恋人たちは挟まれる。
 物語はアジテートには陥らず、渡り鳥たちや海神、ムラサキシジミの踊りを挿入させて、ファンタジーに仕立てていた。

 有明海諫早湾のギロチンのある潮受け堤防は何事もなかったかのごとく、開門期限を過ぎたまま年を越す。どうするか展望も描けないままに。

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