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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

28. 旅の終わりへ

2005-12-30 20:36:12 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月25日>アムステルダム、成田
 アムステルダム14時40分発成田行き、KL861便で帰国する。日本に着くのは10月26日の朝だ。9月25日に日本を発って、ちょうど1か月だ。
 
 早めにヒースロー空港に行った。というのも、10月21日パリからアムステルダム・ヒースロー空港に着いた時に、出てこなかった別便移動の果物ナイフと土産物のワインの栓抜きの行方を確かめるために、手荷物のLOSTE&FOUNDの窓口に行かないといけないからだ。
 おそらく出てこないと、半ば諦めていた悪い予想は当たった。あの日、「あとで、もう一度来てみてください」と言った空港構内にあるKLMの相談窓口の女性は、「残念だが出てこなかった。私たちはどうすることもできない」を繰り返すばかりだ。私が、執拗に、「それでは、遺失証明書を書いてくれ」と言うと、「ここではできない、東京で書いてもらえ」と言う始末であった。どうして東京で書いてもらうことができるのか。失くしたのはここである。どう考えても、東京で書けるはずがない。諦めていたはずだが、だんだん怒りが湧いてきた。
 残念ですが失くなりました――それで終わるのは、(苦労して買ったワインの栓抜きに対して)あまりにも不憫で癪だった。せめて、ここで失くなったという証明だけでも欲しかった。
 埒があかないので、KLMの手荷物の窓口に行くと、届けられた遺失物を探してくれたが、やはりなく、「証明書に関してはここの管轄ではないので、空港の荷物の窓口に行ったらどうだ」と言われた。なんてこった。まるでたらい回しだ。
 空港の係とは、人の誰も通らないような地階にあった。そこには、いかにも窓際族とおぼしき定年間近の年代のおじさんがいた。そこで、荷物預け証を見せ事情を説明したら、そのおじさんは黙って遺失証明書を書いてくれた。
 
 思いもかけずすっかり手間がかかってしまい、飛行機の出発時間が迫っていた。
 空港内を何度も右往左往し、一般乗客が出入りしない地下から出てきた私を、警備の若い男が呼び止めた。不審人物と思ったのだ。私は「荷物を失くして……」と、しどろもどろに弁明した。少し慌てた私の様子に、彼は一瞬顔色を変えて、私にこちらへ来いと言って腕をつかんだ。
 冗談じゃない、今長々と尋問など受けたら飛行機に乗り遅れてしまう。私は「ちょっと待って」と言って、バッグの中にしまいこんださっき書いてもらった書類を見せ、「遺失係に行っていたんだ」と言った。書類を見た男は、嘘じゃないんだと思ったのか顔を崩し、そうならそうと早く言えよという顔をして、腕を放した。
 とりあえず、1通の遺失物証明書が私の手に、フィレンツェのワインの栓抜きの形見として残った。

 KLMの成田行きの帰りの飛行機に乗ると、私の隣の席は観光旅行帰りのリタイアした日本人の夫婦連れだった。急に、今までの旅という違った空間の夢から覚めた気がした。旅は終わったのだと実感した。
  
  *成田に着き、とりあえずと思いKLMの係りの人に遺失証明書を見せ事情を 説明したら、非常に誠実に対応してくれた。日本人は実際、誠実な人種だ。

 成田から新宿に向かう車窓は、見慣れた日本の風景だった。田園と、瓦の日本家屋とコンクリートのビルが交じりあう風景。都心に近づくにつれ、無造作に無計画に建てられたビルがひしめきあう。道には車が列を連ねる。
 ヨーロッパとも、アジアの他のどこの国とも違う風景の日本。ここが、私が育ち、暮らしている日本だ。

 旅は、まるで「邯鄲の夢」のようである。終わってみると、一瞬の出来事のように思えた。長い人生も旅と同じく、盧生の短い午睡と同じなのかもしれない。

 また、もとの日本の生活が始まる。もとの生活と言ってはみても、明日はどのような生活かは知れない。もともと浮き草のような生活だ。

 新宿に降り立った。穏やかな日差しが人ごみの中を充たしている。日が暮れ、月が出るのにはまだ早い。
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27. アムステルダムの灯②

2005-12-08 20:07:03 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月24日>アムステルダム
 私の1か月に及んだ旅も終わりに近づいた。明日は、アムステルダムを発って日本の成田へ向かう。
 
 オランダ最大とされる国立博物館へ行ってみた。コンセルトヘボウから遠くなく、つまり私の滞在しているホテルから歩いて行ける距離だ。ミュージアム広場の先にあるのは、左右に塔のように聳える三角形の屋根を従えた、威風堂々とした建物である。中央通路がアーチになっていてくぐり抜けられ、まるでトンネルのようだ。
 さすがにかつて一時は世界を股にかけた国だけあって、広範な美術品が集められていた。ここでの見所は、17世紀オランダ最大の画家、レンブラントの「夜警」である。集団肖像画として依頼されたものを構想画に変貌させた、絵画史上画期的とされる絵だ。
 この博物館の隣にあるゴッホ美術館に行こうと思ったが、博物館で思いのほか時間を食い、時間の余裕がないのでノミの市へ行った。しかし、大して見るべきものはなかった。
 
 トラムの中から見かけて気になっていたのがカジノだ。カジノの入口まで行ったが、散々迷ったあげく入るのをやめた。もう、ギャンブルの神は私の中には生息していないのだ。カジノも私を惹きつける魅力を失せてしまった。
 結局、ダム広場へ行き、その足でまた飾り窓の通りへ来てしまった。しかし、昨日のような新鮮なときめきはもう感じられない。
 
 人の感動とはなぜ持続しないのだろうか。同じところに留まっていると、新鮮さも色褪せてくる。胸のときめきもいつしか落ち着いてくる。だから、人は歩き続けなければならない。旅人は発たなければならない。
 
 またもや、雨が降り出してきた。最後までこうだ。
歩き疲れて、インドネシア・中華料理店に入った。インドネシアは、旧オランダの植民地だからか、意外と目にする。
 アムステルダムでは、最初着いた日がライツェ広場近くでトルコ料理、昨日は同じくライツェ広場近くのインド料理だから、ちゃんとしたオランダ料理を食べていない。そういうものがあるのかどうかも知らない。ビールは、ハイネケンばかりが目についた。
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26. アムステルダムの灯

2005-12-03 02:36:44 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月23日>アムステルダム
 朝、マーストリヒトを発ってアムステルダムに戻ることにした。アムステルダムの穏やかな空気が私には馴染めそうになかった。そんな私の心を知ってか、アムステルダムに着くと雨だった。

 インフォメーションで紹介されたホテルは、何と先々日泊まった日本人経営のホテルの目と鼻の先だった。コンセルトヘボウの裏の通りの静かな住宅街である。看板もなく、ビルの玄関の前の表札とおぼしきプレートを覗き見ることをしなかったら、うっかり見逃し、通り過ぎてしまうところだった。
 ホテルというよりアパルトメントのようで、中の造りもそうであった。細い階段を上がり、2階の受付へ通された。そこは大きなリビングのような部屋で、中年の教師のような女性がソファーに座って対応した。部屋は、その上の3階にあった。古い、いかにもヨーロッパのアパルトメントのようなこのホテルが、私は気に入った。

 市の中心に当たるダム広場周辺が、最もいろんな店が集まっていた。トラムでそこまで行き、土産物屋や面白そうな店はないかと歩きまわった。
 おそらく出てこないであろうと思い、フィレンツェで買ったワインの栓抜きの代わりを探したが、イタリアに比べてデザインは素っ気ないシンプルものばかりであった。こんなところにも、実用を旨とする国民性が表れていると思った。

 オランダの通貨単位はギルダー(G)である。面白いのは、21/2(2.5)Gのコインがあるということである。1Gは100セント(C)で、25Cのコインもある。4分の1の単位だから理屈にはかなっているのだが、使用している国は少ないと思う。
 細かいのはインドである。インドの通貨単位である1ルビー(R)は日本円で約5円で、1Rは100パイサ(P)である。パイサはあまり使わないのだが、珍しい単位である20、25Pが流通している。
 最もこの国では、1、2、3、5、10、20、25、50、のパイサ(P)のコインがあることになっているが、さすがに1、2、3Pのコインは現地でも見たことがない。1度、5P(約25銭)が釣り銭に交じっていてうれしくなり、いまだに保存しているが、形は何と菱形(◇)である。

 陽が暮れだした頃、アムステルダムといえば「飾り窓」だと思い出した。しかし、地図にも飾り窓など載っていない。現地の人に、盛り場はどこかと何となく聞き出して、その界隈にやっとたどり着いた。そこは、市の中心ダム広場からさほど遠くない、川(運河)を挟んだ通りにあり、普通の繁華街の延長上にあった。しかし、1歩その領域に入ると、すぐにその臭いはたちこめていて、胸が騒ぐのだった。
 といっても、その通りでは女性の観光客すら目にするところが、「飾り窓」がアムステルダムの観光ゾーンであるということを証明していた。もはや、他の国の裏通りに淫靡に息づいている性地帯と違って、日陰の印象はない。

 私は歩きながら映画『飾り窓の女』で主演したマリナ・ブラディーを思い出した。セクシーでも知的でもないのに、不思議な雰囲気を持っている女優である。瞳の色が淡い曇り空のようで、笑っても寂しさを漂わせていた。
 彼女の映画では、『哀愁のパリ』が忘れられない。若いルノー・ベルレーと年上の女のマリナ・ブラディーの恋物語であった。このような恋は、悲恋に終わるのが常である。
 原作は、アルフォンド・ドーデの『サフォー』である。日本の映画公開(1970年)に合わせて、文庫本が作詞家なかにし礼の訳で出版された。その頃、恋をしていた私は、物語に自分を照らし合わせて、棕櫚の木のように切なくなった。

 私は、マリナ・ブラディーが遠くなったことを思い、夜のアムステルダムの街を歩いた。マリナ・ブラディーは、ゴダール監督の『彼女について私が知っている二、三の事柄』以後、見なくなった。また、あの頃アイドルのような人気があったルノー・ベルレーも、その後さっぱり映画界から消えたが、どうしているのだろうか。
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25. マーストリヒトに流れる川

2005-11-24 01:17:57 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月22日>マーストリヒト
 オランダは、九州ほどの面積の小さな国だ。アムステルダムから、どこへ行こうかと考えた。ロッテルダムから風車のある村キンデルダイクを歩くか、デン・ハーグへ行ってフェルメールの「青いターバンの少女」に会うか、どれも私には魅力的とは思えなかった。地図を見て、いっそ何があるか知らないが、アムステルダムから最も離れているマーストリヒトへ行くことにした。92年に、EU誕生の欧州連合条約が締結された町だ。

 オランダ最南の、西はベルギー、東はドイツの間を分け入るように盲腸のようにぶら下がったところにマーストリヒトはある。アムステルダムからICの列車で2時間半で着く。アムステルダムを11時30分発の列車に乗った。
 車窓から見るオランダは、見渡すかぎり平坦だ。どこまで行っても山がない。到るところに運河が張り巡らされていて、堤防で区切られた土地が水面より低いところもある。縦横に線を引いたように走る道路の両側には、必ずといっていいほど高い木が等間隔で植えてあり、土地は定規で測ったように区画整理されている。ところどころに建ててある家は絵のようにきれいだ。この平坦でまっすぐな道は、サイクリングには格好だ。
 オランダ人は、とても几帳面で土地からの生産能力も高いであろうと思われた。標高の低い土地を忍耐強くここまで育て上げたのだ。土地も緑も大事に扱っていることが風景を見ただけで分かる。しかし、どこもゆったりとした風だ。

 マーストリヒトの駅は、静かな駅だった。構内には、花屋が道いっぱいに花を並べていた。
 駅を出てまっすぐ歩いていくと大きなマース川にぶつかる。そこにはオランダ最古といわれている聖セルファース橋が架かっていて、その橋を渡ると、市街地である。
 市街地のインフォメーションに行き、安いホテルはないかと聞いた。提示されたホテルは私が考えているのより少し高かった。もう少し安いのはありませんかと聞くと、係の女性は少し考えた末、思いついたように、ここはどうですかと提示したホテルの料金を見ると、確かに安かった。場所も川縁であるが、市街地からそう遠くはない。そこに決めて、そのホテルに向かった。

 先ほど渡った川の土手に沿った道を、ホテルのある方へ向かって歩いた。川には観光船と思われるきれいな船がとまっている。その先にも少し見劣りする船が見える。しかし、地図に記されているあたりを見てもそれらしい建物は見あたらない。もう一度地図を見ると、奇妙な位置にホテルは印されている。土手と川の両方にまたがったような中途半端な位置である。
 注意深く歩いていると、やっと道に「BOTEL MAASTRICHT」の標示が現れ、川の方に道が延びていた。しかし、土手を見てもホテルらしい建物はない。それどころか、前後左右、どちらを見てもそれらしい建物はないではないか。土手から続く道の先には、先ほどから見えている船が横たわっているだけだ。
 船をまじまじと見て、その時やっと、その船がホテルだということに気がついた。なるほど、地図には川と土手の間の曖昧な位置にホテルの印が記されているはずだ。それに、名前もHOTELではなくてBOTELとなっている。私は納得し、うまいネーミングだと感心した。

 ボテルは、1階にテーブルが並んだ食堂室があり、地下の区切られた船室が客室だった。少し狭いが風情がある。船には、一人旅の若者から家族連れなど、あらゆる階層の人が泊まっているようだった。すれ違い顔を合わせると、仲間意識のような気持ちになって、お互い会釈する。普通のホテルではないことだ。

 街に出ると、歩道は人でいっぱいだ。ロープが張られ、警察官が整理している。近衛兵だろうか、馬に乗って颯爽と道を行く。聞いてみると、プリンスとその婚約者がこの街に来ていて、街を巡行するのだそうだ。そう、この国は王国なのだ。
 人混みをかき分け行列のたどり着くところへ行くと、そこは市庁舎前の広場だった。ここも人でいっぱいだ。鼓笛隊や、巨人の仮装をした人もいて、まるで祭りのようだ。
 いつまで待ってもプリンスが来ないので、街中を歩きまわった。古い水車は城壁が残っていた。街の片隅で、低い煉瓦の壁に座って、タバコを勧める少年の像に出合った。その横では、やはり銅像の犬が少年を眺めている。面白い銅像作品だ。しかし、ブリュッセルの小便小僧のように、決して有名ではない。それどころか、誰も気にとめる人もいない。

 マース川に停まるボテルは、時折軋んだ音がし、少し揺れて船旅のようであった。この町の名のマーストリヒトの由来が、マース川を渡るという意味だそうだから、この町らしい滞在となった。
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24. アムステルダムの風

2005-11-23 01:14:05 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月21日>アムステルダム
 パリのシャルル・ドゴール空港を13時45分発のKLMでアムステルダムに向かった。アムステルダムには15時着である。
 
 飛行機は1時間遅れの出発となり、空港内で待たされた。しかも、手荷物のチェックでバッグのブザーが鳴り、引っかかってしまった。金属類が反応したのだ。
 若い男の係員がバッグの中を開けろという。私は、仕方なくバッグから日本から持ってきた折りたたみ式の果物ナイフを出し、そしてフィレンツェで買った土産用のワインの栓抜きを出した。装飾されたシルバーで、紙に包まれたそれは、実際はそうでもなかったのだがいかにも高価そうに見えた。その栓抜きを見た男の目が光ったのを私は見のがさなかった。姑息な考えを巡らせようとしている野卑な顔だった。すぐに不吉な感じがした。私は、とっさに栓抜きは4本を出し、1本はあえて出さなかった。
 果物ナイフは仕方ないとしても、いくら手荷物の警戒が厳しくなっているにしろワインの栓抜きは問題ないだろうと思っていた。しかし、男は、果物ナイフと、それは危険でも何でもないという私の再三の申し出を無視して栓抜きも取って、別に移送するといって紙袋に入れた。そして、アムステルダムの空港で手渡すという交換番号札を渡した。私は、直感的にこの男を信用することができなかった。男の下手な英語も気になった。

 アムステルダムには予定時刻の1時間遅れで到着した。ここのスキポール空港は、分かりやすい構造で、きれいだ。
 しかし、私の不安が的中し、別便の果物ナイフとワインの栓抜きの入った封書荷物は出てこなかった。何度も係りの人間とかけ合ったが、むだであった。「もう一度調べます。こちらにはどのくらい滞在していますか。4日ですか。その頃、もう一度来てみてください」こう繰り返すばかりだった。私は、帰りにまた来ることにした。
 
 空港からアムステルダム中央駅までは、国鉄の列車が出ていて20分ぐらいで着いた。
 駅構内の観光案内に行ったら17時で閉まっていた。空港内の荷物の紛失交渉で思わぬ時間を食ってしまったので、とおに17時は過ぎていた。
 仕方なく、自分の足でホテルを探そうと駅を出た。中央駅前は広場になっていて、バスやタクシーが並んでいた。チンチン電車の都電(市内電車)であるトラムも走っている。
 しかし、乗り方が分からない。駅前で途方に暮れているところへ、日本人らしい人が通った。ヴァイオリンのケースを持っていたので滞在者であろうと思い、声をかけた。ホテルを探していると言うと、日本人が経営しているホテルを知っているのでそこでどうかと、ホテルの電話番号と地図に大体の目印をつけてくれた。そして、トラムの切符を売っているところと、乗り方を教えてくれた。
 トラムの切符や回数券は売っているところが決まっていて、これが旅人には分からない。もっと分かりづらいのが、切符(回数券)の使い方だ。折り目のついた何枚かの切符(回数券)の綴りは、それを切り離して使うのではなく、車内に入って中に設置してある検札器に2枚折りたたんで差し込み、日時をスタンプするのであった。必ず2枚使用しなければならず、なぜスタンプに時間が必要かというと、1時間以内であれば(同じゾーンで)何回乗り換えてもいいが、それを過ぎるともう1度スタンプしないと違反になってしまうということだった。
 
 地図を見ると、アムステルダムの街は中央駅を背景に半円状に広がっている。その半円の最も先の方にそのホテルはあった。電話をすると、日本語が戻ってきた。コンセルトヘボウという音楽会場の近くであった。
 トラムは2両編成で、くねくねと曲がった道も蛇のようにうまく走った。停留所の呼び声も告知もないので、その近くになると止まるたびに停留所の表示を見逃さないように見ていないといけない。
 何とかたどり着いた先のホテルでは、日本人のスタッフが迎えてくれた。このホテルでは日本語が通用するのだ。
 部屋のテレビでは、日本のBSが入った。ニュースをつけると、アメリカの大野球プレーオフで、イチローのいるマリナーズがヤンキースに勝って1勝2敗としたところであった。日本では日本シリーズが行われていて、近鉄が勝ってヤクルトと1勝1敗となっていた。
 夕食をホテルの食堂で食べた。ほとんどが日本人である。もう何週間もこのホテルにいるという2人連れの女性がいた。毎日何をしているのか聞いてみた。部屋にいる時間が長いと言う。それで満足なのかと聞いてみると、オーナーが親切で、時々観光案内に連れて行ってくれるという返事であった。もうすぐここを発たねばと言っていたが、何不自由ない安心感で気持ちが緩んでいるようであった。何のために海外を旅しているのか、これでは分からない。
 私にとって、このホテルは味気ないものであった。明日は、このホテルを出よう。

 夜、アムステルダムの街を一人歩いた。街は穏やかな空気に包まれていた。私が知っている人はいず、私を知っている人もいない。歩きながら、孤独の悦びを味わった。アムステルダムは生ぬるい風が吹いていた。

 旅とは、移動感覚である。異空間における不安と孤独を、新しい発見と出会いがそれを帳消しにしてくれる。いや、不安と孤独が隣り合わせにあるからこそ、その先に大きな悦楽が待ち受けている。そこに危険が潜んでいれば、なおの条件だ。しかし、それはスパイスと同じでほどほどがいい。
 午睡に似た安寧が心に居着き始めたら、すぐにそこを発って歩きださなければならない。旅人は、常に歩き続けねばならない。
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