かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

井原慶子も挑戦する、「栄光のル・マン」

2012-11-30 02:04:41 | 映画:外国映画
 人生には、大きなターニング・ポイントが待ち受けている場合がある。
 人は、いつどんなところで、運命ともいえる転機が待っているかわからない。それを黙って見逃す人もあれば、掴む人もある。

 井原慶子は、法政大学経済学部に通う女子大生だった。モーグルスキーの活動費を捻出するためアルバイトで始めたモデルの延長で、レースクイーンとなる。そのことが、彼女の人生を変えるとは思ってもいなかった。
 ところが、レースクイーンとしてサーキットへ行った際、カーレースに魅了されてしまった。そして、自分もレーサーとして走ってみたいと思う。とはいっても、彼女は運転免許すら持っていなかった。
 若いときは、誰でも夢を抱く。しかし、夢は夢で終わる場合がほとんどだ。夢が大きければ大きいほど、乗り越えなければならない壁は高い。

 先日、「井原慶子-究極の耐久レースへの挑戦」というテレビ・ドキュメンタリーを見た。
 レースクイーンは女性の分野だが、カーレーサーといえば男性の戦場で、女性は稀だ。カーレーサーになりたいと思った彼女は、すぐさま自動車運転免許を取り、一直線にその道に進む。
 そして、1999年、26歳でレース・ドライバーとしてデビューする。遅すぎるデビューを自覚した彼女は、本場イギリスにレーサーとして留学し、単身海外レースに参戦する。
 男性に交じって、しかも海外で、女性一人参戦を続け、戦う舞台を高く登っていく。その間、精神的な苦難に落ち込んだ時期があったと告白している。
 そして今年、24時間耐久レースの「ル・マン」に参戦した。あの映画「栄光のル・マン」の、世界の頂点ともいえるレースである。女性ではただ一人だった。

 *

 「栄光のル・マン」(監督:リー・H・カッティン、1971年米)は、スティーヴ・マックイーン主演の、24時間耐久レースの「ル・マン」を舞台にした映画である。
 スティーヴ・マックイーンは、俳優の傍ら自身もレーサーとして活動しているほどの車好きで、彼自身が全力を投入した映画である。
 僕は、先に「パピヨン」の項で書いたように、ハリウッドの映画にもマックイーンにも興味がなかったので、公開当時は見ていなかった。
 しかし、井原慶子のドキュメンタリーを見たあと、この映画を観ることになった。

 映画「栄光のル・マン」は、実際の1970年の「ル・マン」の24時間耐久レースにカメラを回しながら、映画を組み合わせるという、セミドキュメンタリー・タッチだった。画面から「ル・マン」の実際の熱狂が伝わってくる。
 ル・マンは、パリから西に向かったところにある、フランスの小さな町である。この町を周る楕円形の一般道がコースとなり、24時間ぶっ続けで車を走らせるレースが行われるのである。このレースが行われる2日間は、海外からも含めて多くの人が集まり、町は熱狂に包まれる。
 ル・マンの会場で、レースが始まる前に、このレースの説明が流れる。
 「この最も過酷といえる24時間耐久レースは、G・ファルーとC・デュランが第1次大戦後に創設。いちばん近い町の名がコースの名に。
 コースの全長は、1周13.469キロ、8.418マイルです。公道とサーキットの複合コースで、年間363日は一般通行が可能です。
 約6キロの直線コース、ミュルサンヌ(直線コースの名)では最高速度が時速370キロを超えます。第1回開催は1923年、当時のラップ記録は9分39秒、平均速度は107.32キロでした。昨年(1969年)のラップ記録は3分22秒、平均速度は234.172キロまで達しています」
 コースは、直線コースで速度が出すぎるために、何度か微調整されているが、全体では開設時からのコースと変わらず、現在まで約90年の歴史を刻んでいることになる。
 マシンも改良され、タイムも映画撮影当時より速くなっているだろう。

 映画は全編、ほとんど実際のレースおよびレース場での描写である。係員も観客も総出演である。
 映画では、スティーヴ・マックイーンも、実際レースカーに乗り、走っている。
 マックイーンは、のちに「ル・マン」に本気で参加しようとしたが、周囲の反対でやめざるを得なかったという。
 映画の感想としては、モーターファンにとっては素晴らしい臨場感溢れる映像描写となっていたが、純粋な映画ファンとしてはストーリーとしては物足らなさを感じた。
 しかし、「ル・マン」の醍醐味は味わえるし、スティーヴ・マックイーンも果たせなかったこのレースに、日本女性の井原慶子が挑戦したというのは感慨深い。
 今年(2,012年)、「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に彼女は選ばれた。
 彼女は、「目的(夢)があったら、諦めないことです。諦めなければ、必ず実現します」と語る。
 思わぬことから女性レーサーとして生きる井原慶子の、「英光のル・マン」への挑戦は続く。

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人が犯す最も重い罪は?を問う、「パピヨン」

2012-11-24 18:23:52 | 映画:外国映画
 1日が過ぎるのが速い。いや、1年が過ぎるのが速い。
 若いときは様々なことが起こり、様々なことをし、時計の針を追いかけるように生きていたし、1年はそれだけ様々なものが詰まっていた。が、年がたつにつれ、次第にたいしたこともしない間に、時計の針に追い抜かれるように、たいしたこともなく1年が過ぎていく。
 アインシュタインが唱えたように、時間は相対的なものなのだろう。
 ついこの前まで若者だった男が、今では老人だ。
 夢はどこへ行ったのか?
 人生を無駄にしていないか?

 「パピヨン」(監督:フランクリン・J・シャフナー、1973年米-仏)は、スティーヴ・マックィーン主演の映画である。
 スティーヴ・マックィーンは、1960年代から70年代初頭にかけて、アメリカ男優の人気のトップを走っていた男である。僕はもともとヨーロッパ嗜好で、アメリカのハリウッドの映画はあまり興味がなかったので、マックィーンの映画もあまり見ていない。
 ある時、ポール・モーリアの映画音楽特集を聴いていたら、素晴らしい音楽がこの「パピオン」だった。
 印象深い映画は、いい映画音楽とカップリングしているのが多い。アラン・ドロンを一躍スターにした「太陽がいっぱい」や、オードリー・ヘプバーンの魅力を浸透させた「ティファニーで朝食を」(主題歌:「ムーンリバー」)や、クラウディア・カルディナ―レの思わぬ女らしさを見せた「ブーベの恋人」も、そのサウンドトラック、主題歌に負うところが大きいだろう。
 マックィーンの「華麗なる賭け」(1968年米)も、グライダーに乗ったマックィーンが空を舞う画面に流れた、ミッシェル・ルグランの主題歌「風のささやき」が印象深かった。

 *

 胸に蝶の入れ墨をしていることからパピヨンと呼ばれる男(スティーヴ・マックィーン)が、殺人の罪で収監される。
 彼は、金庫破りであるけれど殺人は濡れ衣だと主張するが、終身刑を宣告される。そして、南米の離れ小島の監獄へ送還され、強制労働を課される。
 そこにいた囚人の一人に、偽札作りの天才の男ドガ(ダスティン・ホフマン)がいた。脱獄を企てていたパピヨンは、その男に近づき一緒に脱獄を勧める。パピオンがドガを助けたことから、2人に友情が芽生える
 そして、脱獄を敢行するが、失敗に終わり、さらなる厳しい監獄へ入れられる。

 映画の大半が監獄での、過酷な生活の描写だ。
 監獄での、重労働とわずかな食事の、単調な日々が過ぎていく。多くの罪人が次々と死んでいく中で、パピヨンは生き抜くことを、監獄から脱出して自由になることだけを考え続けている。

 監獄である晩、パピヨンは夢を見る。
 荒涼とした砂漠だ。砂上に並ぶ裁判官に向かって、1人ひざまずく彼は、必死で訴える。
 「おれは無罪だ。ポン引きを殺していない」
 「おまえの罪はポン引きと関係ない」と裁判官が答える。
 「なら、おれの罪は何だ」
 裁判官は答える。「人間が犯しうる最も恐ろしい罪を犯したのだ」と。さらに言った。
 「では、改めて起訴する。人生を無駄にした罪で」
 パピヨンはこの起訴状に、おもわず納得した顔になって、自分自身に向かってつぶやく。
 「有罪だ」

 脱獄も失敗に終わり、さらに長い月日が過ぎる。
 やがて、島内の自由が保障された、囚人が住む断崖の孤島に送られたパピヨンは、すでに白髪まじりで体もかつてのように頑強でも機敏でもなく、衰えている。
 そこで再会した、かつて一緒に脱獄を試みた仲間ドガは、長い囚人生活が身について、危険を冒して夢を実行する気持ちは消えている。ささやかな野菜を作ったり、家畜を飼ったりして、つつましくその日暮らしをしている。すでに、農耕民族になっている。
 しかし、パピヨンは見続ける。自由への夢を。その眼は、依然と狩猟民族だ。
 彼ははるか彼方の大陸への上陸を試みるため、孤島の断崖から大海に飛び込む。いまだ、若者のように。

 パピヨンの物語は、実話をもとにしたというから面白いのだ。
 パピヨンが夢に見た、日々、人生を無駄に過ごしていないか? それが最も重い罪だという問いが胸に響く。
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多摩発の新人映画作家の発掘をめざす、多摩映画祭コンペティション

2012-11-19 04:11:28 | 映画:日本映画
 東京都多摩市の多摩映画祭TAMA CINEMA FORUMが始まった。
 今年で22回目となるからよく続いている。各地で映画祭が町興しの一環のように行われた時期があったが、持続するのが難しいのが現状だ。
 多摩の映画祭は、一般の映画愛好家が中心となって運営している映画祭で、最優秀作品から、話題作品、新人作家作品、はたまた日本のヌーベルヴァーグ作品などと幅広い内容だ。
 期間も11月17日(土)から24日(土)までと長い。上映館は、多摩センターがパルテノン多摩小ホール、聖蹟桜ヶ丘がヴィータホール、永山がベルブホールである。
 今年の最優秀作品・受賞作は、「この空の花-長岡花火物語」(監督:大林宣彦)、および「桐島、部活やめるってよ」(監督:吉田大八)。
 多摩映画祭のHPは、 http://www.tamaeiga.org/2012/

 *

 11月18日(日)に、新人映画人のコンペティションである第13回「TAMA NEW WAVEコンペティション」が多摩・聖蹟桜ヶ丘のヴィータホール行われた。
 僕は、ここ数年一般審査員として参加している。一般映画館では上映しない、若い作家の映画を観るいい機会でもある。
 朝10時過ぎから夜7時過ぎまで、応募120作品から選ばれた選考作品5本の映画を観た。
 上映のあと、ゲスト・コメンテーターとして、篠崎誠、鈴木卓爾監督が出席して、出品作品に関して感想を語った。

 今年は、質のいい作品が揃ったと感じた。
 出品映画の題名と簡単な僕の個人的感想を記しておきたい。(上映順)

○「ひねくれてもポップ」(監督:村松英治)
 主人公の女性は、人生の目的もなく、始めたアルバイトも遅刻と早退の繰り返しだ。ふとしたことから、食事する人間ばかりを撮っている変わった写真家と知り合ったことにより、彼女の心に少し波風が立つ。
 小品だが、今どきの若者の倦怠と窒息感が伝わってくる。主人公の女性のやるせなさと最後の表情の変化が味を出している。

○「大童貞の大冒険」(監督:二宮健)
 何の取り柄もない、女にモテない童貞の学生である主人公が、学内の美女を好きになり、彼女の所属する演劇クラブに入って熱烈純情アタック。ところが、現実は夢と化す。
 過剰な演技が目につくところがあるが、劇中劇、現実か空想かといったスケールの大きさを含ませ、学生らしい鋭敏な感覚が全体を覆っている。

○「かしこい狗は、吠えずに笑う」(監督:渡部亮平)
 不細工に生まれたと思っている目立たない女子高生の女の子に、同じクラスの可愛い女の子が、ある日から急接近する。全く正反対のような二人だが、瞬く間に親友と呼ぶような仲になるが、待っていたものは驚くべきことだった。
 思春期の親友という領域に深く入り込もうとする感性豊かな作品である。サスペンス仕立てを装っているが文学的な嗜好があり、現代の湊かなえの「告白」から、谷崎潤一郎の「少年」まで、SMの香りも漂わせる。
 主演の女子高生役の二人の拮抗が、映画に厚みを持たせている。

○「月の下まで」(監督:奥村盛人)
 高知県のカツオ漁師である主人公は、腕はいいが知的障害を持っている息子を抱えてトラブルが絶えず、経済的にも逼迫している。純真な天使のような息子と、正面から向き合って生きていこうとするのだが。
 作品としては新人離れした完成度の高い内容、構成となっている。その完成度の高さゆえに、贅沢にも不満が残る。主人公の漁師役が、映画全体を引き締める演技をしている。

○「魅力の人間」(監督:二ノ宮隆太郎)
 工場で働く若者たちのなかにも友情やいじめがあるように、ふとした諍いは起こるものである。こうした働く若者の日常の出来事を描いている、かのように映画は進展していく。しかし、物語はそこにとどまらない。静かで孤独な男の、以前知り合っていた女とのふとした情事、女の家から出てきた先で出会った先輩の同情心に対する、男の暴力。この、ある夜の落とし穴のような出来事から、次の日、奇妙な仕返しの儀式が行われるのだった。
 監督のプレーイング・マネージャー、つまり演出兼主演ともいえる準主演である。平凡と見せかけた巧妙なトリックが仕掛けてある、心に棘を突き刺したような傷を残す、奇妙な作品である。

 審査の結果、第13回「TAMA NEW WAVEコンペティション」は、以下の映画および役者が受賞した。
◎大賞:「かしこい狗は、吠えずに笑う」(監督:渡部亮平)
◎特別賞:「魅力の人間」(監督:二ノ宮隆太郎)
◎ベスト男優賞:那波隆史 「月の下まで」
◎ベスト女優賞:mimp*β(ミンピ) 「かしこい狗は、吠えずに笑う」
○G・C男優賞:アベラヒデノブ 「大童貞の大冒険」
○G・C女優賞:北村美岬 「ひねくれてもポップ」

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青春という名の、吉永小百合

2012-11-11 03:59:58 | 人生は記憶
 ある朝のことだ。いつものように布団の中で、朝刊をおもむろにめくっていると、僕を見つめる吉永小百合の顔がアップで飛び込んできた。それも、若いときの吉永小百合だ。
 と同時に、「はじめて恋したひとの名は、小百合といいます。」という言葉が目に入った。
 僕は思わず飛び起きた。まるで大事件が起こった記事を、新聞で初めて見たときのように。
 その日、11月1日の新聞(朝日新聞)の朝刊に、1頁大で吉永小百合の顔写真が載った。(写真)
 彼女の写真の横に書かれた「はじめて恋したひとの名は、小百合といいます」という言葉は、誰の言葉なのか。もしかして、僕のことを言っているのではないか、と思わず思った。
 すぐにそのことを打ち消した。確かに若いとき吉永小百合の映画は好んで見たし、多少の憧れは持っていたかもしれないが、僕の初恋は吉永小百合ではないし、彼女と会ったこともない。会ったこともない人を想像でというか妄想で恋するのも恋というのかどうかは別として、僕はちゃんとした初恋をしている、と思わず反芻した。
 そして、冷静に考えた。
 この台詞は、吉永小百合に憧れた、同時代もしくはその周辺の時代の人間の共有した思いだ、と考えるに至って現実に戻った。
 
 この紙上の写真は、吉永小百合のDVDマガジン(講談社)の宣伝広告だった。彼女が選んだ日活時代の映画ベスト20だとあった。
 第1回配本の「キューポラのある街」(1962(昭和37)年)をはじめ、「草を刈る娘」(昭和36年)、「泥だらけの純情」(昭和38年)、「青い山脈」(昭和38年)、「愛と死を見つめて」(昭和38年)など、彼女の青春映画が並んでいる。
 20本中17本が昭和30年代後半の、吉永小百合十代の頃の映画である。そして、「青春のお通り」が昭和40年作で、彼女が20歳のとき、「愛と死の記録」がその翌年作で、彼女の21歳のときのもので、これらを含めて19本が彼女の青春真っ只中の作品だといえる。
 残り「戦争と人間・完結篇」だけが、1973(昭和48)年作で、彼女の28歳のときの作品となっている。青春映画ラインアップの中で、あえて彼女がこの映画を選んだというのは、彼女の青春の残り火、もしくは青春と決別した映画だったのかもしれない。

 この数日あとの11月4日には、同新聞の見開き2ページにわたって、同じ吉永小百合の若いときの写真と文章が載った。同じ出版社の広告であったが、DVD付きとはいえ出版物では異例の大きさだ。
 宣伝記事には、キャスターでジャーナリストの鳥越俊太郎の文が載っている。
 そこでは、吉永小百合さんとは同じ誕生日なので、誕生会を開いて彼女を誘ったと書いていた。彼女は来なかったが、それ以来付き合いが始まったとある。
 よくある姑息な手を使うものだと(失礼)思わず嫉妬したが、誕生日(3月13日)が同じなら、彼がそうしたくなるのもむべなるかなと寛容に思った。
 サユリストを自認するタモリは、どう思っているだろうと思うだけで、面白い。
 かつて作家の野阪昭如も、サユリストを公言してはばからなかった。
 野球評論家で参議院議員もやった元南海、阪神のピッチャーの江本孟紀は、「僕は吉永小百合さんの結婚相手だったんですよ」と、いつかテレビでしゃべっていた。
 確かに彼は、映画「細雪」(監督:市川崑、1983年東宝)で、三女の吉永小百合の結婚相手役の色男として出演している。この映画は、岸恵子、 佐久間良子、 吉永小百合、 古手川祐子、 伊丹十三、石坂浩二と錚々たる出演メンバーで、その年のキネマ旬報日本映画2位の名作である。

 サユリストに少し遅れて、コマキストなる言葉も出てきた。
 そのくらい、栗原小巻(くりはら こまき)が人気だったときもあった。吉永小百合と誕生日が1日違いの栗原小巻(1945年3月14日生)は、「戦争と人間」(1部1970年、2部71年)、「忍ぶ川」(1972年)などの質の良い映画に出演して、若いながらも渋い人気を博していた。

 吉永小百合と同じ時期に早稲田大に通っていて、学食で彼女を見たことがあるという友人に、あなたもサユリストだったかと訊いてみた。彼は、「俺は隠れサユリストだった」と答えた。
 当時は、たとえ吉永小百合とて、正面切って芸能人のファンだと言うのはためらわれた。何を隠そう、僕が当時のプロマイドを持っているのは彼女だけだ。そういう意味では、僕も隠れサユリストだったと言えよう。
 初恋の人の名が小百合でなくとも、どきりとしたのはそうだったからなのだ。今では、サユリストだったと公言するのに、何のためらいがあろうか。

 *

 九州の片田舎の町では、中学生までは学校の許可した映画以外は自由には見られなかった。
 というわけで、中学を卒業して待ちに待ったように、僕はすぐに佐賀市まで映画を見に行った。自分の自由意志で見た初めての映画は、イタリア映画の「わらの男」だった。
 ピエトロ・ジェルミ監督の先の見えない男と女の物語だったが、今となってはストーリーも霧の中で暗い印象しか残っていない。中学を卒業したばかりの、女も恋も知らない少年にわかる内容ではなかった。なぜこの映画を見に行ったのかも覚えていない。芸術的映画だというので、背伸びして行ったのだろう。
 これに懲りたわけではないが、すぐに近くの田舎町の映画館に日本映画を見に行った。日活の「コルトが背中を狙っている」(葉山良二、芦川いずみ主演)と松竹の「番頭はんと丁稚どん」(大村崑主演)の2本立てだ。
 田舎町の映画館では、封切より少し遅れて上映されるのが常だったし、日活と松竹とか東映と大映といったように、違う映画会社の2本立ても珍しくなかった。
 やはり、日活映画は若者には人気があった。高校に入学した後の4月には、赤木圭一郎の「俺の血が騒ぐ」(共演:笹森礼子)を見た。もう1本は、洋画の「ターザンの決闘」だった。邦画と洋画の2本立てという組み合わせもあったのだ。

 吉永小百合の映画を初めて見たのは、高校1年の冬だった。
 「黒い傷あとのブルース」(監督:野村孝)という小林旭のヒット曲の映画で、旭との共演だった。小林旭主演の人気の「渡り鳥シリーズ」はまだ1本も見ていなかったが、僕は感動していた。

 仲間の裏切りで服役していた男(小林旭)が、出所後復讐するために横浜に向かう列車の中で、ふと少女ともいえる女(吉永小百合)と知り合う。コロコロと床にこぼれ落ちた果物を、男(旭)が拾って少女(小百合)に手渡すシーンだ。
 二人はそれから時々会うようになり、少しずつ恋心が芽生え始めるのだった。しかし、旭が突きとめた復讐しようとする男(大坂志郎)は、何と小百合の父親だった。
 最後のシーンは、旭が来るものとレストランでじっと待つ小百合。その姿を窓の外から旭は見ながら、黙って去っていく。
 何も知らない明るく清純な少女が、恋を知り始める女へ移りゆく姿を、まだブレイクする前の吉永小百合が演じる。少女の心を知りながらそっと去っていく、抑えた演技の小林旭に哀愁が漂う。それに、吉永小百合の父親役の、人がよさそうな大坂志郎が悪役をやるのも好演だった。

 すると朝日新聞の映画欄に、この映画が日活アクション映画としては半歩前進した内容だといった褒めた内容の記事が載った。
 次の日、僕は、体育の授業でラグビーをやったあとの泥で真っ黒になった足と運動靴を、並んだ水道の蛇口から出る冷たい水で洗いながら、隣にいる級友の男に話しかけた。
 「昨日の新聞見たか?小林旭と吉永小百合の映画「黒い傷あとのブルース」が、日活映画としては半歩前進した内容だと評価してあったな」と。
 彼は、「そうだ、あれはいい映画だ」と納得した返事をした。いや、僕が得意げに、一方的にいい映画だと話をしたのかもしれない。
 この映画は、小林旭と吉永小百合のコンビの最初で最後、唯一の日活作品となった。
そして、僕が最初に見た吉永小百合の映画であり、最初の小林旭の映画でもあった。

 「黒い傷あとのブルース」は、冒頭に書いた吉永小百合の選んだ「私のベスト20」には入っていないが、僕のなかの日活映画では、「キューポラのある街」と並んで、ベスト1である。

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藤本義一のいた「11PM」とその時代

2012-11-03 04:16:55 | 人生は記憶
 藤本義一が10月30日、亡くなった。79歳だった。
 藤本義一は、作家というよりテレビ番組「11PM」の司会者として知っている人が多いかもしれない。

 「11PM」(イレブン・ピーエム)は、1965(昭和40)年から始まり1990(平成2)年まで25年間続いた、夜11時(23時)からの放映のテレビ番組だった。夜型人間が増え、若者が深夜族になる時代だった。
 コンビニエンス・ストアの「セブン-イレブン」が日本で開店したのが1974(昭和49)年で、翌年から24時間オープンの店が出てきた。僕は、24時間店が開いていても、そんな夜中に買いものに行く人間がいるのかなと疑問に思った記憶がある。
 当時、夜開いている店といえば飲み屋かラーメン屋ぐらいであった。普通の人は、夜、買い物に行ったり、意味もなく街を歩いたりなんてことはしなかった。だいたい夜は家で静かにし、日が変わる頃には寝ていたのである。盛り場以外、街は静かだった。
 しかし、コンビニが24時間営業は当たり前となるにつれ、夜遅くまで営業する店も増え、深夜に活動する人間は増えていったのである。
 その象徴的な現象ともいえるのが、「11PM」の登場ではなかったろうか。

 「11PM」は、日本テレビと読売テレビの交互製作による、月・水・金曜日の東京局が大橋巨泉、愛川欣也で(途中から)、火・木曜日の大阪局が藤本義一の司会によるワイドショーで、深夜の番組にちょっとしたお色気を入れて人気があった。
 藤本義一の横に座る女性アシスタントの初代が元京都芸妓の安藤孝子であったのも、新しい試みだったといえる。藤本のよどみない話に相槌を打つ安藤はしっとりと艶っぽく、番組全体に関西の風味が漂い、藤本とはいいコンビであった。
 一方東京の大橋巨泉の相手は曜日によって変わり、当初は應蘭芳(オウ・ランファン)、ジューン・アダムス、朝丘雪路で、こちらも個性が違った色っぽい女性が座った。
 應蘭芳は女性週刊誌による発言から「失神女優」などと呼ばれて話題になったが、「11PM」出演期間は短く、そのあとを受けたのは松岡きっこだった。
 ジューン・アダムスは、ハーフのモデルで、カメラマンの篠山紀信とお互い最初の結婚をした。
 朝丘雪路は父が日本画家の伊東深水というお嬢さん女優で、今でいう巨乳であった。朝丘は現在も健在で活躍中なので、過去形ではなく巨乳であると進行形で言わないといけない。巨泉はこのことを揶揄って「ボイン」と言ったことから、この言葉は流行語にもなった。
 「11PM」のカバーガールを見てみると、ジューン・アダムス以下、沢知美、池島ルリ子、樹れい子、秋川リサなど、いわゆる当時のグラビア・ガールが見てとれる。現在も活動している、かたせ梨乃、飯島直子、岡本夏生なども出演していた。
 大阪では、安藤孝子のあとアシスタントに、真理アンヌ、東てる美、横山エミー、松居一代などが見てとれる。

 藤本義一は、このテレビの司会を続けながら小説を書き続け、1969(昭和44)年以来何度も直木賞候補となり、1974(昭和49)年に上方落語家の半生を描いた「鬼の詩」で第71回直木賞を受賞した。
 当時の文壇は、タレント性の強い作家が小説だけでなくその行動や発言でマスコミを賑わしていた。
 ルックスがよく「顔文一致」などと言われた五木寛之は、1967(昭和42)年に「蒼ざめた馬を見よ」で、翌年にはサングラス姿で何かと発言がマスコミを賑わしていた野坂昭如は、「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受賞し、小説家としてもその実力を示していた。
 野坂は、歌手としてもデビューし、「黒の舟歌」や「マリリンモンローノーリターン」などのヒット曲も飛ばした。僕も「野坂昭如 不条理の唄」と「野坂昭如ライヴ総集篇Vol.1」のレコード・アルバムを持っている。
 なかでも、「不条理の唄」に収められている「「野坂昭如新古今集より」は、いい歌だ。このアルバムのライナーノーツには、「野阪昭如誌上猥褻リサイタル」として、巻頭に雑誌「面白半分」に掲載した「四畳半襖の下張」の猥褻文書裁判の起訴状が載っているという個性的なものだ。
 1971(昭和46)年創刊の「面白半分」は、代々作家が半年ずつ編集長を務めるという雑誌だった。初代が吉行淳之介で、2代目が野阪昭如であった。そのあと、開高健、五木寛之と続いて、5代目に藤本義一がなっている。
 また、当時、佐々木久子が編集する「酒」という雑誌があった。この雑誌には、毎年「文壇酒徒番附」なるものが掲載されていて、それで作家の酒豪、酒好きがわかった。
 毎年少しは顔ぶれ、順列が変わったが、1972(昭和47)年は、東西横綱に立原正秋、梶原季之、野坂昭如、黒岩重吾、大関に池波正太郎、三浦哲郎、吉行淳之介、瀬戸内晴美などが顔を並べたとある。
 ある年は、東の横綱が吉村昭で、西が藤本義一のときがあったというほど、藤本も酒が好きだった。しかし、乱れることのない紳士的な飲み方だった。

 *

 藤本義一には多くの出版物がある。
 その作家、藤本義一と会ったことがある。という言い方は少し違うが、僕が出版社の編集者のときに彼の単行本を1冊作った。西宮市の家に足を運んだこともあった。
 編集したのは「巷の奇人たち」という本で、1978(昭和53)年発行だから、「11PM」司会の真っ只中の頃である。
 とても丁寧な対応で、いつも紳士的な人であった。おそらく、誰にでも変わらない対応であっただろう。大阪を愛した人だが、大阪人というより東京の粋人のような印象を与える人だった。
 本は、「事実は小説よりも奇なり!一つのことに憑かれた人間たち」と帯に書いたように、常識から逸脱した人間を描いたノンフィクション風小説である。
 この本で取り上げたように彼は、市井の有名ではないが個性豊かな人物たちを丁寧に掘り起こした。
 藤本義一は、人を愛し、酒を愛し、大阪を愛した。彼の旺盛な好奇心が、数多くの小説を生んだ。
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