かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 華麗なる賭け

2006-09-28 02:13:23 | 映画:外国映画
 ノーマン・ジュイソン監督 スティーブ・マックイン フェイ・ダナウェイ 1968年米

 有り余る金を手にしたら、どうしようか。
 もちろん好きなことをやる、と誰でも答えるだろう。では、好きなこととは何か? 

 男は、事業で成功し、金を持っている。妻とは離婚し、女に不自由はしていない。スポーツカーを乗り回し、海辺に瀟洒な別荘もある。休みにはポロの試合にも出て、大空をグライダーに乗って飛び回る。
 主人公の男、スティーブ・マックインは、こんな男だ。

 男は、銀行強盗を企てる。自分は黒幕として、顔を出さず指示を出すだけだ。複数の実行者は、お互い知らないもの同士である。
 この銀行強盗の企ては成功し、男は、その大金をスイスの銀行に預ける。
 警察の捜査は行き詰まったままだ。保険会社の辣腕調査員の女性が、調査に乗り出すことになる。この調査員がフェイ・ダナウェイだ。
 彼女は、犯人は単なる金目当ての人間ではないと推測する。そして、資料から、スティーブ・マックインだと確信し、彼に近づく。彼女は、男に犯人はあなただと告げる。普通の男と女の会話のように。男は、イエスともノートも答えない。二人は男と女の仲になるが、立場と利害は対立している不思議な関係なのである。
 ダナウェイの体をはった調査なのか、ミイラ取りがミイラになったのか、最後まで分からない。

 スティーブ・マックインは、当時アメリカで人気ナンバーワンのアクション・スターであった。カジュアルなジーンズが似合い、スポーツカーが好きな男といった印象だが、この映画ではスーツ姿で通した。
 フェイ・ダナウェイは、この映画の前年『俺たちに明日はない』で一気にスターダムにのし上がってきた女優だ。決して美人ではないが、この映画では、こんなにいい女だったのか、と再発見させられた。手と足が長いスリムな体なのに、セクシーなヘロモンをプンプンと放っているのである。

 さて、本題の、有り余る金があったら、何をするだろうか、である。
 グライダーから草原に下りたったマックインは、付きあっていた女から「着陸するときは、慎重に」と言われて、「なぜ?」と聞き返す。
 「もし、失敗したら……」と言う女に、マックインは、こう答える。
 「心配事から解放される」と。
 「何が心配なの?」
 「気まぐれな自分が」

 男がハーバード大出で、頭を使って成金になったとする状況設定は、今のわが国のIT成金と共通するところがある。しかし、男は、単に金を稼ぐことだけを考えているのではない。
 彼に漂っているのは、虚無的なダンディズムである。破滅に向かう快楽主義である。
 男は、「なぜ金があるのに、銀行強盗を」という女の質問に、こう呟く。
 「私と、腐った社会制度との対決だ」と。

 スティーブ・マックインが、こんな役をこなせるとは思わなかった。
 葉巻、真っ赤なスポーツカー、海辺の別荘、ブランデー、チェス、流れる音楽……それに、いい女。舞台は、揃っている。
 フェイ・ダナウェイは、当時、『俺たちには明日はない』(原題は「ボニー・アンド・クライド」)で、ボニー・ルックと呼ばれたベレー帽にロングスカートの1920年代のファッションを流行らせた。この映画では、流行に先駆けた膝上20センチもあろうかというミニ・スカートを見せている。

 スティーブ・マックインを乗せた黄色いグライダーが、空を飛び回る。そこに流れるミッシェル・ルグランの音楽がいい。
 
 夏の日々は早く過ぎ去る なぜそう早いのか
 恋人たちの足跡が 砂浜に点々と続く
 出会った人の名も顔も 忘却の彼方へ消える
 別れを悟ったときに気づく 
 彼女の髪の色が 秋の葉の色と同じだと……
 まるで、心の中の風車 いつまでも回っている
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□ 王になろうとした男

2006-09-24 16:29:56 | 本/小説:外国
 ジョン・ヒューストン著 宮本高晴訳 清流出版

 アメリカ・ハリウッドを代表する映画監督の自伝である。表題は、彼が監督した映画のタイトルであるが、残念なことに僕は見ていない。
 1940年代から80年代まで、映画界で活躍した人物であるが、スケールの大きいこと、この上ない。まるで、小説のように破天荒で、精力的で、享楽的で、素敵だ。いや、彼の人生そのものが映画のようだ。これは、彼の「ジョン・ヒューストンの華麗な冒険」と言っていい。「トム・ジョーンズの華麗な冒険」に遜色ない。

 父は俳優だったが、彼の人生はボクサーで始まる。試合をして賞金を稼ぐ。その間、俳優を志したり、絵を描いたりしていたが、新聞記者を経て、脚本を書き、映画界に入っていく。
 1941年、35歳の時『マルタの鷹』で監督デビュー。その時主演したハンフリー・ボガードを一躍スターダムに押し上げた。その後、監督、脚本、俳優として関わった映画は60本。

 この本で面白いのは、彼がいい仕事をした、面白い映画を撮ったということではない。どんな映画を作ったかを知りたければ、映画の解説書を読めばいい。仕事ではなく、彼の生き方が面白く、素晴らしいのだ。

 人は、好きなことをやって生きていけたら、それに越したことはない。それが一番いい。しかし、好きなことといっても、例えば親の資産があるからといって、遊んで過ごしても充足感が得られないだろう。そして、それでは人間的な豊かさ、魅力が備わらないだろう。
 好きなことをすることで金が得られて、即ち労働をして、その延長線で遊ぶのが最も望ましい姿だ。仕事をしているのか遊んでいるのか分からない、そんな生き方が、最も格好いい。
 そんな生き方は滅多にない。その滅多にない生き方をしたのが、このジョン・ヒューストンだ。
 何しろ、自由に、好き勝手に行動しているのだ。脚本を書き映画を撮って金が入ってくるのだが、またよく使うし、女にも事欠かない。ギャンブルも好きだ。もちろん、危ない橋も渡るし、その分楽しさも大きいのだろう。

 あるパーティーで、俳優のエロール・フリンと何でもないことで喧嘩する。殴り合いは1時間近くに及び、彼は鼻をつぶされ、エロールは肋骨を2本折るという壮絶なものであった。しかし、二人とも卑怯な手は使わなかった、こんなことは大したことではないといった感じなのだ。
 すべてがこの調子で、彼は仕事も遊びも恋も、正面から向かっていき、こなしていく。

 映画の企画にはいると、脚本を手がけ、ロケハンに飛ぶ。それが、メキシコであろうと、インドであろうと、トルコであろうと、アフリカであろうと、思いついたら行動は速い。
 ある時、アイルランドにロケに行く。ここで、現地の人間と狐狩りに行くことになる。狐狩りは、想像するほど優雅なものではなく、ウサギ狩りのように、犬が追い出したウサギを草むらから銃で狙うというものではない。野にいる狐を馬で追いかけて銃で仕留めるゲームだが、単に馬に乗れるからできるものとも違うのだ。至るところに障害物があり、慣れていなければ、馬から振り落とされる危険この上ないものだ。それ故、彼はこの狩りにすっかり魅せられてしまう。
 想像するだに、この狐狩りこそ、魚釣りなどを遥かに超えた、最も面白いゲーム、行動的なホビーかもしれない。
 仕事でアイルランドに来たのだが、彼はこの地が好きになり、すっかり馴染んでしまう。そして、古い小さな城のような館を買い、住まいを移してしまうこともしでかす。
 また、インドへロケに行ったときは、象に乗って虎狩りに出かける。こんな体験は、しようと思ってもできるものではないが、彼の手になれば、冒険は向こうからやってくる。彼は、それに飛びつくだけだ。
 このように、次々と仕事と遊びが渾然一体となってやってきて、彼はふと気がつくと老人になっていた、ということだ。そして、この回顧録を書き上げた。
 結婚は5回している。これも、彼の豪快で、ある意味では誠実な表れだろう。
 
 彼の人を臆さない人柄と屈託ない性格からか、とにかく友人が多い。俳優だけでなく、作家や芸術家も頻繁に彼の人生の中に登場する。豪放な性格だが、読書家で教養もあることがよく分かる。
 作家ヘミングウェイとの交流は興味深い。そして、スタインベッグ、メルビル、それにレイ・ブラッドベリの意外な側面まで明らかにしている。また、『フロイド』の脚本依頼での、サルトルの彼らしい神経質な性格を表記したところもある。
 俳優でいえば、ハリウッドの俳優のほとんどが、親しくないにしても、直接、間接に交流があったと言っていいほど、彼の人脈は広い。別に権謀術数を駆使して、社会を歩いてきたわけではないのだ。彼は、あるがままにやってきたに過ぎない。
 先に挙げたハンフリー・ボガードの主演映画は『黄金』、『キー・ラーゴ』、『アフリカの女王』など数多く、ボガードの死まで親密な交流が続く。
 登場する男優は、『白鯨』のグレゴリー・ペック、『イグアナの夜』のリチャード・バートン、『黒船』のジョン・ウエイン、『許されざる者』のバート・ランカスター、『フロイド・隠された欲望』のモンゴメリー・クリフト、『マッキントッシュの男』のポール・ニューマン、『王になろうとした男』のショーン・コネリー、それにオーソン・ウエルズ、等々。
 女優は、ローレン・バコール、『アフリカの女王』のキャサリン・ヘプバーン、『悪魔をやっつけろ』のジェニファー・ジョーンズ、ジーナ・ロロブリジダ、『荒馬と女』のマリリン・モンロー、『イグアナの夜』のエヴァ・ガードナー、デボラ・カー、スー・リオン、『禁じられた情事の森』のエリザベス・テイラー、等々。

 ヒューストンは、念願の企画だったジェイムス・ジョイスの短編『ザ・デッド』の撮影終了した直後の1987年、81歳で死んだ。
 最後まで、好きなことをやって死んでいった、羨ましい人生だ。
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楽器と恋愛関係

2006-09-21 02:05:45 | 歌/音楽
 男と女の関係は難しい。お互い夢中になっている時は、いい。相手も応えてくれる。例え相手にその気がなくても、こちらが夢中であれば、その熱意が伝わり、相手も次第に熱くなってくれることもある。
 いや、思いが一方的であればあるほど、相手が振り向いてくれるよう、あらゆる努力をいとわない。最初は素知らぬ顔していた相手が、やっと振り向いてくれた時の悦びは他に代えがたい。
 熱量の大きさは、必ず対象を少なからず動かすものである。
 そして、二人の熱々の時が過ぎゆく。いつも相手のことを思い、会っているときはいい。
 しかし、なおざりにすると、すぐにそれは気づかれてしまい、相応のしっぺ返しを食う羽目になる。
 男と女の関係は、適当に付きあうと、適当な仲にしかならない。熱くもならないし、深くもならない。こちらが熱くならなければ、相手の熱も上がる道理もなく、例え上がっていたものでもそのうち下がるというものだ。

 *

 多摩の音楽教室のピアノの演奏発表会があった。生徒の発表演奏のあと、ピアノとヴァイオリンの先生の合奏があるというので聴きに行った。
 発表会は、幼稚園の年中者から始まった。椅子に座っても、もちろんペダルに足が届かない、つい最近までお母さんのおっぱいをしゃぶっていたような子どもだ。でも、堂々と弾きこなした。
 次の子は小学5年生で、モーツアルトのピアノソナタを弾いた。次は、小学6年生で、ブラームスの二つのラプソディー。小学生とは思えない、メリハリもあり力強い。
 最後は、中学3年生で、もう体格も大きい。彼女が弾くのは、パンフレットには、ベートーベンのピアノソナタ第17番、ニ短調、第3楽章とある。弾き始めるや、音がこぼれるように会場に流れた。すぐに聴いた曲だと分かった。だが、しばらく何の曲だか思い出せない。しかし、それは心に迫った。
 何と、それは「テンペスト」だった。哀しくも情熱的な曲だ。演奏には、もう男女の機微を知っているような、年齢を超えた情感があった。僕は、我を忘れて聴きいった。
 
 かつて、付きあっていた女性がピアノを習っていて、今度ベートーベンのピアノソナタ「テンペスト」を発表会で弾くの、と言った。その時彼女に、いい曲だから聴いてみてと言われて、その足でレコード店に行った。
 その頃の僕は、まったくといっていいほどクラシックを知らなくて、詳しく訊くのが恥ずかしいものだから、ピアノソナタの10番を買ってきた。ベートーベンの棚を探して、「テンペスト」のタイトルが見つからず、テンだから10番に違いないと思ったのだ。すぐに彼女に訂正され、それで「テンペスト」を知ったのだった。そのことが原因ではないのだが、その女性とはほどなくして別れることになった。
 話は、脇道にそれてしまった。

 発表会は、みんな素晴らしい演奏で、技術も驚くほど高かった。
 発表の演奏が終わった後、先生が発表演奏した生徒に一人ひとり、好きな曲は?等々、インタビュー風に質問した。
 小6の女の子の場合は、
 「練習時間はどのくらい?」
 「1日3時間ぐらい」
 「将来は何になりたいですか?」
 「音楽の先生」
 中3の女の子の場合は、
 「練習時間はどのくらい?」
 「秘密」
 「将来は何になりたいですか?」
 「分かりません」
 演奏しているときとはうって変わって違って、みんな質問には小さい声でやっと答える。耳を澄まして何とか聞こえてくる程度だ。ナイーブなのだ。
 練習時間は、小学6年生で1日3時間だ。「秘密」と言った中学生はもっと多いかもしれない。将来は分からないとは、実に微妙に正確な答えだ。多感な時期なのだ。夢みる頃でもあるのだ。将来のことを考えると、揺れ動いているのかもしれない。もちろん、きっとピアニストになりたいのだ。それも、テレビやCDなどで知っている世界的な演奏者に。しかし、乗り越えなければならない、その壁の大きさも見え始めた年頃なのだ。
 
 ピアノとヴァイオリンの先生の合奏は、言わずもがな、みんなを堪能させた。子どもたちのためのディズニーやスタジオジブリのメロディーはお愛嬌だけど、ラルゴの「ヘンデル」の技巧的演奏には、目(耳)を凝らした。

 *

 人は、必要なことに時間を使う。そして、好きなことに時間を注ぐ。それは、その人の注ぐ熱量だと言っていい。
 男と女の関係と楽器の関係は似ている。

 僕の場合は、どうだ。
 前から気にはなっていた、ちょっとすました格好いい美人に興味を持った。
 「君が好きだけど、あまり時間を注げないんだ。でも、分かってくれるよね、僕の気持ち。君の方は、僕を好きになってくれるよね」と言っているようなものだ。
 女性もヴァイオリンも、そんな都合のいい話に乗ってはくれない。
 たまに触っても、ヴァイオリンは冷たいものである。それだけの音しか出してはくれない。触っていない何日かの間に、飛躍的に上達している、ということは決してない。恥ずかしながら、前よりもっとひどい音になっている場合が多々ある、と言っても過言ではない。そんな時、「あ~あ、また振り出しに戻れか」と溜息がでる。
 そんな場合、このヴァイオリンの質が悪いから、と楽器にその責任の矛先をちらとでも向けてはいけない。先生が持っているものよりおそらく遥かに安いものだから、それにしても、いい音がする先生のヴァイオリンはいくらぐらいするのだろうと、生徒同士で、持っている楽器の値踏みをしてはいけない。
 自分の行いは棚に上げて、「こっちを振り向いてくれない、君が悪いんだ」と、相手に言うようなものだ。
 また、ピアノの方が技術は簡単だ、フルートの方がよかったかな、などと他と比較してはいけない。
 「私というものを知って、あなたの方から言い寄ってきたのでしょう。いやなら、あっち行ってもいいわよ」と、さらに冷たくされるのがオチである。

 僕は、ヴァイオリンに触るたびにいつも後ろめたく思う。
 「ごめんね。決して忘れていたわけではないんだよ」と、謝ってしまう。
 それで、機嫌を直してくれるものではないことも、もう知っている。
 肩こりを通り越して、それすら忘れるほどに接しないと、にっこり微笑んではくれないものだ。
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◇ リプリー

2006-09-15 02:46:02 | 映画:外国映画
 アンソニー・ミンゲラ監督 マット・デイモン ジュード・ロウ グウィネス・パルトロウ 1999年米

 ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』の、リメイク版である。というより、『太陽がいっぱい』の基になったパトリシア・ハイスミスの原作を、忠実に映画化したものである。原作のタイトルも、この『リプリー』と同じ「The talented Mr. Ripley 」。
 アメリカの青年トム・リプリーは、ふとしたことから知り合った大富豪からイタリアに行っている息子ディッキーを連れ戻してほしいと頼まれる。イタリアに行ったリプリーは、そこで享楽に身を任せているディッキーに会う。ディッキーには、恋人がいて、奇妙な3人の関係が続く。そして、リプリーは、ディッキーを殺す羽目になる。

 『太陽がいっぱい』の制作は1960年だから、約40年が経っている。時代設定は、『太陽がいっぱい』の頃と同じ1958年。舞台はイタリアの港町。
 どうしても、『太陽がいっぱい』を意識して見てしまう。
 主人公の貧しい青年の役が、アラン・ドロンからマット・デイモンに。あの野卑な美しさを持っていたアラン・ドロンの役が、何を考えているのか分からないさえない眼鏡の男に変わっている。
 大富豪の息子の役が、アンニュイな雰囲気を醸し出していたモーリス・ロネから、美男子ではあるがロネから哀愁を取り除いた感じのジュード・ロウへ。
 ディッキーの恋人が、優美さを秘めたマリー・ラフォレから、セクシーさを感じさせない神経質そうな女グウィネス・パルトロウへ。
 
 フランス映画からアメリカ映画に変われば、こうも変わるものかと最初、落胆した。大まかな筋立ては同じだが、何もかもが変わっていた。
 しかし、ディテールは、細やかな計算が施されていて、殺人や人間関係の布石が、随所に散りばめられていた。最初の舞台、モンジペロからナポリ、ローマ、ヴェネチアとまわるロケーションで、イタリアの街を見せるサービスも怠りてはいない。
 ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』は、一人の若者の嫉妬や野望からの殺人で、最後は金も恋人も手にしてしまう。と思われたが、それは儚い夢に消えてしまう、という余韻を持った設定で終わる。
 この『リプリー』は、若者の心理的、同性愛的愛憎での殺人劇が展開され、サスペンスになっている。若者の野望はここでは顕著ではない。そして、最後に金や女を手に入れるわけではない。21世紀の現代に通じる、若者の精神的屈折と異常性による殺人と思えるものになっている。
 つまり、『太陽がいっぱい』の1960年といえば、夢や野望が持てた時代であった。しかし、時代設定は同じとはいえ、『リプリー』の1999年は、目的や代償が不透明な殺人が行われる時代なのである。

 『リプリー』を見ていくうちに、『太陽がいっぱい』と違う映画だということが分かってきた。そして、この映画が、『太陽がいっぱい』のリメイク版ではなく、独立した個性を持った映画だと思った。
 『太陽がいっぱい』にとらわれなく、白紙の状態で見ていたなら、きっともっと感動したであろう。そして、この配役も、それはそれで相応しいであろうと思われた。
 主人公のトム・リプリーが、美男子である必要はないのだ。むしろ、そうでない普通の男である方が、あり得る状況である。
 しかし、この『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロンは人気と名声を不動のものにした。映画の作品も、名作に名を連ねられた。ニーノ・ロータの音楽も映画音楽の中の不朽の名曲となった。

 やはり、最後まで『太陽がいっぱい』にとらわれてしまう。

*『太陽がいっぱい』は、2005年10月25日のブログ、参照。
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◇ アリ

2006-09-09 02:13:49 | 映画:外国映画
マイケル・マン監督 ウィル・スミス ジョン・ヴォイト

 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」(Float like a butterfly, sting like a bee.)
 アリは、詩人だ。「ほら吹き」(big mouth)ではない。
 アリは、闘士だ。対戦するのは、相手のボクサーとだけでなく、国家とも闘う男だ。
 アリは、ベトナム戦争に反対して、徴兵を拒否した。それで、チャンピオン・ベルトを剥奪された。
 アリは、3度チャンピオンに輝いた。
 アリは、ローマ・オリンピックで金メダルに輝き、36年後のアトランタ・オリンピックで聖火を点灯した。聖火を持つ手は、パーキンソン病で大きく震えていた。

 アリは、1960年、ローマ・オリンピックで、ボクシング・ライトヘビー級の金メダルを獲得し、その後プロへ転向した。無敗のまま、64年、ヘビー級チャンピオンのソニー・リストンを破って、チャンピオンに。
 アリは、チャンピオンの時、徴兵を拒否し、67年、ベルトとボクサー・ライセンスを剥奪される。
 その後復活し、71年、その時チャンピオンとなっていたジョー・フレイザーと闘うが判定負け。初めての敗北を喫した。
 74年に、ジョージ・フォアマンと、ザイールのキンシャサでタイトルマッチを行った。アフリカで行われる、初めてのボクシング・チャンピオン・タイトルマッチだった。大方の評判はアリの劣勢だったが、ロープを背に打たれ続けながらも、8回KO勝ち。
 アリは、チャンピオンを奪回した。最初のチャンピオンに輝いた時から10年後のことであった。
 78年には、レオン・スピンクスを破って3度目のチャンピオンに返り咲く。
 81年、引退。

 アリを語るには、60年代の世界情勢、とりわけアメリカの黒人差別への反対運動を抜きには語れない。アメリカでは、南北戦争で黒人奴隷が解放されたことになっていたが、約100年たった1950年代になっても、依然として黒人への差別は公然と行われていた。
 その反対運動の過激的な指導者がマルコムX氏で、アリと氏は交錯する。アリは、プロボクサーになった直後に、ムスリム名のモハメド・アリと改名する。預言者、ムハンマドからとったものである。

 アリは、オリンピックで金メダルを取って、祝福を受けた夜、レストランに入ろうとすると、店から黒人は入れないと断わられる。アメリカの国旗を背負ってメダルを取ったのに、アメリカで自分は人間扱いにされていないと怒ったアリは、金メダルを川に投げ捨てる。
 この話の真贋は定かではないが、アリの本心を表わしたエピソードであろう。

 マルコムX氏は、65年、暗殺される。アリは、その後、徴兵を拒否する。
 1960年から始まったベトナム戦争は、65年アメリカの北爆が始まり、泥沼の戦争に入っていく。
 アリは、ボクサーとしては最強の舞台で闘いながら、戦争で戦うことを拒否した。差別と、国家と、闘った。

 アリ、ことモハメド・アリ、こと本名カシアス・クレイは、伝説のボクサーだ。史上最強のボクサーは誰かと問えば、この人の名前がまっすぐ挙がるだろう。
 しかし、単に強いだけのボクサーではなかった。だから、伝説の人であり、記憶に残り続ける人なのだ。
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