かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「門司港」② 九州最北端の駅と関門トンネル

2019-10-16 02:25:44 | * 四国~九州への旅
 いつか行こう、いつでも行けると思っているうちに年月だけがたっていて、心の片隅に宿っていたところ、「門司港駅」にやっと来たのだった。
 門司港駅に着いた翌日の9月21日、朝に門司港を発って長崎に行き、その日は長崎で中学の同級生たちと会い、長崎に宿泊する予定だった。
 しかし、台風17号が北九州の長崎、佐賀地域に上陸との予報なので、長崎行きを中止し、この日は佐賀で宿泊することにした。
 ということで、夕方まで門司港を散策することにした。台風が近づいているとは思えない穏やかな空模様だ。

 *トロッコ列車で九州最北端の駅へ

 「門司港駅」から鉄道記念館の方に歩いていたら、すぐのところで、人が並んでいるのに出くわした。その先に、まるで「きかんしゃトーマス」号を思わせるような可愛い列車が停まっているのが見えた。
 車掌とおぼしき係りの人に聞くと、ここから列車を運転中とのことで、そこは「九州鉄道記念館」という駅だった。
 ここ「九州鉄道記念館」駅から、北へ向かった関門橋の先の「関門海峡めかり」駅まで、片道10分の短い列車の旅だ。
 この路線は、かつてのJR貨物線と市保有の鉄道廃線跡を利用して、観光用のトロッコ列車として2009(平成21)年に開業したもので、正式には「北九州銀行レトロライン」、列車の愛称を「潮風号」という。今の時期は土・日・祝日限定の運転で、この日はちょうど土曜日で、運転中だった。
 乗車運賃は、片道大人300円、往復だと1日フリー乗車券600円。トロッコ列車といっても、窓なしではなく立派な2両編成の客車だ。
 思えば、かつて富山県宇奈月から黒部峡谷トロッコ列車に乗ったときは、まだ10月だというのに予想外の吹雪になり、窓がないので「ここは八甲田山か?」と、震える思いをした。

 「九州鉄道記念館」駅を出発した「潮風号」は、左手にレトロな建物の並ぶ街と、その先の関門海峡を見ながら、ゆっくりと進んでいく。「出光美術館」、「ノーフォーク広場」の駅を過ぎると、関門橋が見えてくる。
 すると、トンネルに入った。トンネルに入るや車内の明かりは消え、代わりに濃紺色の天井に様々な魚やタコなどの姿が泳ぐイルミネーションが出現する。短い時間だが、その間、幻想的な海底を走っているという演出だ。
 トンネルを過ぎると、やがて終点「関門海峡めかり」駅に着く。駅の表示板には「九州最北端の駅」とある。

 *関門海峡を歩いて渡る

 トロッコ列車「関門海峡めかり」駅の近くの海沿いから、関門海峡沿いに遊歩道が続いていて、関門橋方面に歩いて行くと、「関門トンネル人道入口」に出くわした。
 門司と下関間の海底を刳り抜いた国道2号線である「関門国道トンネル」は、車が走る「車道」の他に、人が歩いて渡る「歩行者海底トンネル」ができているのだ。
 つまり「関門国道トンネル」は二重構造で、すそ野から約3,500mの長さの「車道」の下に「歩道」があるので、厳密にいえばトンネルは2本あるといえる。この歩道トンネルは、全長780mと短い。
 なお「関門鉄道トンネル」も、単線2本である。

 人道トンネルへは、入口のある建物からエレベーターで下に降り、そこから海底トンネルを歩くことになる。トンネルは単調な直線で、情緒など期待はしない方がいい。途中、福岡県と山口県の県境が書かれた標識を通る。(写真)
 この人道を自転車で通り過ぎた外国人に出会った。自転車も通れるのだ。
 下関側には約10分で着く。下関側に着いたら、今度は逆にエレベーターで上へ上ると、地上に出る。
 そこは、関門海峡を越えた山口県下関市である。
 かつて九州自動車道の高速道路で、九州(門司)から「関門橋」を渡って本州(下関)へ行ったことがあるが、歩いて関門海峡を渡ったのは初めてである。
 列車、自動車に加えて、歩いて関門海峡を渡ったことになった。あとは、船と泳いで、か。

 関門海峡の下関市側は源平最後の合戦、壇之浦古戦場の前で、沿岸は公園になっている。そこには、海に向かって幕末・長州藩の大砲が並んでいた。
 再び、下関から海底トンネルを歩いて門司へ戻った。船でも泳ぎででもなかったのは、残念だったが。

 *瞼の特急「さくら」に再会

 40分ごとに出ている帰りのトロッコ列車に乗って、門司港中心街に戻った。
 門司港のトロッコ列車の駅の先に、旧九州鉄道本社を利用した「九州鉄道記念館」がある。
 何本もの線路の横を歩いていく先に、いくつもの列車が陳列品のように停まっている。
 鉄道記念館の入り口横に、スフィンクスのように泰然と停まっているのが、9600形蒸気機関車 59634で、1922年川崎造船所製である。何とも優麗な漆黒のSLだ。
 奥には、今はなき列車が何両も停まっている。
 特急「富士」や「月光」とともに、僕の目に留まったのは、何といっても乗車したことのある東京-長崎・佐世保間を走っていた特急「さくら」である。懐かしい寝台車も繋いである。何十年ぶりの再会に、もう一度乗ってみたい思いにかられた。
 いや、「さくら」に乗って東京へ行っていたあの頃に、もう一度帰ってみたいのだ。

 「九州鉄道記念館」をあとに、門司港駅の先の船乗り場のある海辺に行き、昨日泊まったプレミアムホテル門司港の横の「はね橋」を渡った。はね橋から、格調高い煉瓦造りの「旧門司税関」の建物が見える。
 館内には自由に入れるので、入って上階まで行ってみた。
 「旧門司税関」を出たところで、小さな雨が降り出したので、門司港の散策はここまでにして、門司港駅に行った。佐賀に向かうには、ちょうどいい時刻だ。

 *「門司港」駅から「博多」駅まで、鹿児島本線の在来線で

 夕方、「門司港駅」から、ゆっくりと鹿児島本線の快速電車で「博多」へ行くことにした。
 今まで新幹線で素通りしていた、車窓からの街並みと小さな駅を見ておきたかった。
 「門司港駅」から「小森江」「門司」を経て「小倉」に着く。新幹線の場合は、「小倉」の次は「博多」で、15分で着くのだが、時刻表を見ると在来線はその間27の駅がある。そして、快速といっても停まる駅の方が多い。
 在来線の鹿児島本線は、新幹線の行路とはまったく違う。
 地図を見るとよくわかるのだが、在来線は地形にそって曲がりくねりながら走っているのだが、新幹線の行路は、スピードを優先するために直線に近い。だから、新幹線は在来線の南の内陸寄りで、山を突き抜けるトンネルだらけである。

 在来線の、初めて聞くような駅は新鮮である。
 「西小倉」の次は「九州工大前」である。九州工業大学がここにあるとは知らなかった。この沿線には大学が多いようで、大学の名の駅名が他にもいくつか目についた。「教育大前」「福工大前」「九産大前」などなど。
 「戸畑」では、赤い若戸大橋が見えた。若松と戸畑を結ぶ橋で、1962年のできた当時は東洋一の吊り橋といって大きな話題になった。記念切手も発行されたぐらいだ(僕は切手少年でもあった)。
 「八幡」の景色は、無機質な工業地帯然とした景色と違って、人が生活している街の息吹が感じられて、何だか心が和みホッとした。
 「水巻」駅の名を見るたびに、プロゴルファーの水巻善典のルーツはこの町だろうと思ってしまう。
 「赤間」「東郷」は、宗像神社のある宗像市である。世界遺産のある町になった。
 「香椎」は、松本清張の小説「点と線」の舞台となったところで、香椎宮のあるところだ。ここまで来たら、もう福岡市だ。
 「箱崎」は、筥崎宮のあるところで、かつて移転するまで九州大学があった。この次の「吉塚」の次が「博多」駅だ。
 「門司港」から「博多」まで、約1時間半の、あっという間の旅であった。

 「博多」から鹿児島本線で「鳥栖」へ。鳥栖から長崎・佐世保線で「佐賀」へ向かった。
 佐賀に着いたときは、もう日も暮れていた。
 さあ、佐賀で夕食は何を食おうか。

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「門司港」① 振り向けば、九州の玄関駅

2019-10-05 02:18:01 | * 四国~九州への旅
 「門司港」駅へ行った。
 明治24年から続いている九州の玄関口の駅で、JR鹿児島本線の始点で終点でもある。

 高校を卒業して東京に住むようになって50余年。その間、毎年実家で過ごすのを習慣としていた年末・正月時期を含め、年に2~3回は九州・佐賀に帰っていた。
 ということは、今まで百数十回、東京~九州間を往復したことになる。
 そのうち、飛行機で帰ったのは、福岡空港へおそらく3回と佐賀空港へ1回の、計数回あるかないかである。
 他に、四国経由の船による九州上陸が、八幡浜(愛媛県)から別府(大分県)へ2回と、宿毛(高知県)から佐伯(大分県)への1回、計3回がある。
 つまり、百数十回の九州行きのほとんどが列車ということである。

 これほど多く列車で東京から九州へ行っていて、しかも鹿児島本線の始発駅なのに、僕は実は1度も門司港駅に降りたことがなく、通過したこともなかった。門司港駅が始発駅で終着駅だから当然通過することはないのだが、降りたことも駅を見やったこともないのはなぜだろう?

 *「関門トンネル」と「門司」駅と「門司港」駅の謎

 列車で本州から九州へ入る場合は、間に海峡があるので、関門トンネルを通って山口県の下関から福岡県の門司へ入る以外にない。逆に九州から本州に入る(出る)場合も、門司から下関に入る(出る)ということになる。車や歩行でも、このルートである。
 関門(鉄道)トンネルは、下り線は1942(昭和17)年に、上り線は1944(昭和19)年に開通していて、戦前から列車はトンネルを通っていた。

 東京・九州間の往復は、上京してから当初は、僕は佐世保・長崎発の急行「西海・雲仙」、もしくは特急「さくら」を利用していた。
 そして、新しく新関門トンネルが造られ、山陽新幹線が博多駅まで開通したのが1975(昭和50)年で、それ以後は、多くは新幹線を利用した。

 新幹線のほとんどの列車は、山口県の「新山口」(旧小郡)駅から、九州へ入った最初の駅は「小倉」である。その間、「厚狭」「新門司」の駅があるが、各駅停車の「こだま」以外の多くの列車は素通りする。
 在来線は、東海道本線・山陽本線と繋いで下関から関門鉄道トンネルを通って九州に入った列車は、「門司」駅に入る。下関からの山陽本線は門司駅で終わり、小倉・博多方面に向かう鹿児島本線となるのであるが、九州最初の駅は、始点の「門司港」駅ではないのである。
 始点の門司港駅の先(小倉寄り)のところで、山陽本線と鹿児島本線は合流するのである。つまり、門司駅と門司港駅間は、盲腸のように取り残されたようになっているのだ。その間、5.5キロ。

 しかし、これには物語がある。
 現在の「門司港」駅は、かつて「門司」駅と称していた。ところが、関門(鉄道)トンネルができ、出入口が当時の門司駅より小倉駅寄りになったせいで、そこの「大里」駅が門司駅となり、始点の門司駅は門司港駅と変わることになった、
 つまり、本州から九州へ上陸した場合、在来線も新幹線もどの列車も「門司港駅」は通らないのである。
 新しく九州の玄関口、門司駅ができたからといって、盲腸は不要だといって門司港駅までの路線を廃線にしなかったのは、その場所に多くの歴史が息づいていたからである。九州鉄道の発祥の遺産、関門海峡の変遷の物語が、昔は門司駅と言った門司港駅を残存させたのだ。

 ちなみに、在来線と新幹線の関門トンネルは別の坑道で、出入り口の位置も別である。列車用の鉄道トンネルは2つあるのである。
 関門トンネルは、この他1958(昭和33)年に、車道・歩道の国道2号が開通しているので、3本のトンネルがあるということである。
 加えて、1973(昭和48)年に高速道路の「関門橋」が開通しているので、本州と九州を結ぶ関門路線は4パターンとなる。

 *孤高の「門司港駅」

 台風の通る最中の9月22日に佐賀・武雄市で高校の同窓会があるので、9月19日に東京を発った。
 その日は関西に1泊して、翌20日、西国24番札所の中山寺(兵庫県宝塚市)を見て周って、夕方に「新神戸」駅から山陽新幹線で九州へ向かった。
 九州へ入った最初の停車「小倉」駅で降りた。
 小倉駅から在来線の、上りの鹿児島本線の各駅停車に乗る。「門司港」行きと「下関」行きがあり、門司港への経路は、<小倉―門司-小森江-門司港>となる。これが、下関行きに乗ると、<小倉-門司―下関>となり、門司港へは行かずにその手前で関門トンネルへ入っていくのである。
 小倉から各駅停車の門司港行きに乗った。所要時間は13分である。
 終着駅の「門司港」駅に着いた。
 各ホームの線路の先に、白黒の三角十字のような車止標識が目に入る。
 ホームを見回したあと、改札を出た。構内は思ったより広い空間で、落ち着きと威厳がある。天井から吊るされた明かりと高い天井は、格式あるホテルのようだ。
 構内にあるスターバックス・コーヒー店も都会で見るのとは違って軽くないように見えてしまうし、2階にある食堂も「みかど食堂」と称しているように、厳かな雰囲気である。
 戦前から使用されているという洗面所や手水鉢は、遺産だろう。

 駅を出ると、広いファサードが絨毯をひいたように広がっている。 
 正面に「日本郵船」と「門司三井倶楽部」の時代がかったビルが並んで、一昔前のモダンな都会の空気を醸し出している。
 日暮れ時の薄暗さが“時”を曖昧にさせる演出をしているかのようだ。空は今にも雨が降りそうだが、台風はまだのようである。
 振りかえって門司港駅を見ると、駅とは思えない装麗な建物であることに少し驚かされる。まるで、ヨーロッパの小さな町、アヌシーかマーストリヒトに佇む古城のようだ。
 この建物は1914(大正3)年に建てられた2代目ということだが、駅舎では最初に重要文化財に指定されたというだけあって、美しい。(写真)
 門司港駅と駅前の雰囲気、これを見るためにここへ来たと言ってもいい。

 門司港駅から日本郵船ビルの横の通りの先に、通りを遮るようにクラシックなビルが建っていた。海のすぐ近くだ。この建物が、今日宿泊する予定の旧門司港ホテルのプレミアホテル門司港だった。

 *港町で食べるものは!

 ホテルに荷物を置いて、外へ夕食を食べに出た。
 霧のような雨が降り出した。ホテルの玄関口では、自由に使用できる傘を用意しているのがいい。
 駅近辺の食堂を見て歩いたら、カレー店でないのにカレーをメニューに掲げ、うちにもありますよとPRしているところが多い。よく見ると、どの店も「焼きカレー」とある。ご当地グルメのようだが、焼きカレーなるものを僕は知らなかった。
 町おこしやひょっとしたら町の新しい名物になるかもという意図が見えるこの手のB級グルメ料理は、基本的に僕は好きになれない。
 長崎で「トルコライス」を物は試しに食べたが、理屈はいろいろつけてあるようだがトルコ料理とは何の関係もない料理だ。
 地元佐賀では「シシリアンライス」というのを売り出しているが、ご飯の上に薄切り肉と野菜をのせ、その上にマヨネーズをかけたもので、シシリア(シチリア)とは何の関連性もない。だから、佐賀に行っても食べたことはない。

 海の町、門司港に来ているのだから何もカレーを食べて帰ることはないと、魚を食べさせてくれる寿司店に入った。
 もちろん、下関が有名なフグ刺しも注文した。ビールは、大正時代に生まれた地元の地ビールを復刻させた「サクラビール」である。
 店のテレビでは、W杯ラグビー、日本対ロシア戦を映している。
 外は、霧雨も収まったようだ。微かに潮風の香りがする。

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長崎は、今日は晴れだった

2018-11-22 01:56:41 | * 四国~九州への旅
 肥前 長崎 港町
 異人屋敷のたそがれは
 何故かさびしい振袖人形
   「長崎の蝶々さん」(作詞・作曲:米山正夫)

 長崎をうたった歌は多い。
 「長崎は今日も雨だった」(内山田洋とクール・ファイブ)や、「長崎の鐘」(藤山一郎)、「長崎の女(ひと)」(春日八郎)、「長崎ブルース」(青江三奈)などはよく知られた歌だが、ここにあげたのは美空ひばりが1957(昭和32)年に歌った「長崎の蝶々さん」。
 プッチーニのオペラ「蝶々夫人」(Madama Butterfly)の舞台となっているのが長崎である。おそらく、蝶々さんが夫ピンカートンの帰りを信じて港を眺め続けたところは、丘の上の外人居留地、グラバー邸のあたりだったのだろう。
 プッチーニの「ある晴れた日に」の軽快な歌とは異なり、ひばりは少し哀愁を滲ませながらもコケティッシュに蝶々さんを歌っている。

 *再び長崎をさるく

 11月10日、長崎にやって来た。
 長崎に住む、佐賀の中学時代の同級生と長崎の街を歩いた。
 「この年になったら、今度というのは来るかどうかわからない。だから、会えるときに会っておこう」との標榜のもと、長崎在住の女性4人と男性は僕1人による、2017年3月以来、同じメンバーによる1年8か月ぶりの長崎散策である。
  →blog「長崎は、今日も雨だった」(2017-4-13)
 その1週間前、古くなった実家の整理のため佐賀に帰っていた。(このことは後で書くことにしよう)

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたからというわけではないが、大浦天主堂とその近辺のグラバー邸を、もう一度改めて見てみようというのが一つの目的であった。

 佐世保線在来線で肥前山口駅へ。肥前山口駅から特急「白いかもめ」で、有明海をなぞるように走ること約1時間余、昼頃長崎駅に着いた。
 駅を出ると、外はうっすらと絵の具を溶かしたような青空が雲一つなく広がっていた。

 *「出島」から「大浦天主堂」へ

 長崎駅から港に沿うように南下し、まず大波止の先の「出島」に行った。
 出島は、新しくシンプルだが流線形の表門橋が架けられており、島の構内は再現された街並みがきれいに整備されて、逆に情緒を消し去ったようだった。

 出島を出たあと、さらに南の方へ向かい、本命の「大浦天主堂」へ。坂の上に姿を現した尖頭アーチを持ったゴシック調の白い大浦天主堂は、絵のように美しい。現存する、日本最古のキリスト教関係建築物である。
 (写真)
 最初の天主堂は、江戸時代末期の1864(元治元)年末に完成している。そして、翌年の1865(元治2)年、250年に到る弾圧下、潜伏していた隠れキリシタンの出現である「信徒発見」がなされた。
 その後信徒の増加に伴い、大浦天主堂は1879(明治12)年に現在の形に増改築された。

 ゆっくりと階段を登り天主堂に行きつくと、堂内ではちょうど結婚式が行われようとしていて、白いウェディングドレスの花嫁とタキシード姿の花婿がいた。最初はドラマか雑誌の撮影かと思ったが、そうではないようだ。
 とりあえず、堂内に並べてあった長椅子の式関係者の後ろに座った。ところがしばらくすると、これから式が行われるというので、奥のステンドグラスのところへは行けないまま、早々に退去せざるを得なかった。
 やれやれ、珍しい結婚式というめぐりあわせが、良かったのか悪かったのか。

 ちなみに、前回の長崎散策のときに行った平和公園近くの「浦上天主堂」は、1879(明治12)年に最初の聖堂が、1914(大正3)年に大聖堂が完成した。しかし、1945(昭和20)年の原爆投下によって爆心地にあった浦上天主堂は倒壊し、1959(昭和34)年に新しく建て直された。

 *「グラバー邸」から長崎の港へ

 大浦天主堂を出ると、道は「グラバー邸」に繋がっている。
 なだらかな坂に沿った丘の上には、グラバー邸をはじめいくつかの居留外人用の建物が散在していて、その一帯がグラバー園となっている。1863(文久3)年に建てられたグラバー邸は、現存する日本最古の木造洋風建築である。
 園の全体が坂になっているのだが、敷地内には、動く歩道があるから疲れる心配はない。
 ここからは、長崎港がよく見える。
 港の前に、巨大なホテルかマンションが横たわっていると思ったら、停泊している大型クルーズ客船だった。 いつの間に、客船はこんなに大型化したのだろう。

 グラバー邸をあとにして、長崎港内につくられた「水辺の森公園」へ行き、ちょっと一息つくことにした。
 グラバー邸から見えた巨大客船が目の前にある。建物として見ても大きい。それが、海の上に浮いているのだ。船体に「Quantum of the Seas」(クアンタム・オブ・ザ・シーズ)とあった。
 ※後で調べてみたら、総トン数:167,800トン、全長:348m、全幅:41mという大きさである。それで人間の数はというと、旅客定員4,180人、乗組員1,500人。合計5千数百人ということは、小さな町の人口に値する。

 「港には、大体いつも、こんな大きな船が泊まっているわね」ということだった。
 長崎は、歌のなかだけでなく、紛(まご)うことなき港町なのだ。

 *「新地中華街」で夕食を

 ようやく日も黄昏てきて、お腹がすいてきた頃だ。
 港の「水辺の森公園」を出て、「新地中華街」に夕食を食べに行くことに。
 長崎の中華街は、横浜中華街に規模は及ばないものの、チャンポン、皿うどんなどこの地特有の美味しいものがある。この新地の隣に、銀座ならぬ銅座町があるのも粋な感じだ。
 近くの小さな通りに、知る人ぞ知るといった雰囲気の小さな店を見つけた。ふと入りたい誘惑にかられたのだが、今回は5人ということもあり、中華街で最も有名な「江山楼」に行くことで全員一致。
 長崎の中華街にも、中華街特有の中華門(牌楼)がある。門に「長崎新地中華街」と書かれた文字が、左からの横書きなのが、建てられた時代が比較的新しいと知ることができる。
 江山楼・中華街本店は、老舗らしい雰囲気を持っている。ここ江山楼には、「くんち」を見に来たときに何度か入って、フカヒレの入った特上チャンポンを食べたが、この日は全員でシェアできる中華料理の特性を活かして、一品料理を頼むことにする。
 注文した料理は、中華料理の定番といえる以下のもの。
 青椒牛肉絲、海老のチリソース炒め、麻婆豆腐、焼売、春巻き、ビーフン、炒飯である。
 すべてが洗練された味だ。

 いつしか、長崎の夜は更けていく……時はいつでも、どこででも、誰にでも、律義に過ぎていくのだ。
 夜のとばりの下りるなか、帰りの特急「白いかもめ」に乗り、再び佐賀に向かった。
 また、いつ長崎に来ることになるのだろうか? という思いが、走る列車とともに胸に去来した。

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長崎は、今日も雨だった

2017-04-13 02:50:05 | * 四国~九州への旅
 もう、桜の季節も終わろうとしている。月日がたつのは早いものである。
 最近観た映画「愛と哀しみの果て(Out of Africa)」(主演:メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォード、1985年アメリカ)のなかの台詞にあったように、“先が見通せないのは地球が丸いから”なのか。
 なるほど、そうかもしれない。

 *

 父が建てた墓が佐賀の実家の近くの寺にある。
 しかし、父も母も亡くなった今、その家も私が時々帰るのみで空き家同然となった。私を含めた子どもがこの地を離れて遠方に住んでいて、この地に帰ってこないとなると、近くの墓もなおざりにはできず、何とかしないといけない。
 田舎の古くなった家(実家)とともに、墓も今日的な問題である。

 そのこともあって3月下旬、私は佐賀に帰っていた。
 わが家から墓のある寺に行く路地の通りに、小学校時代の同級生の実家がある。墓の寺に行くときはいつもその前を通る。
 その同級生の実家も、わが家と同じような経路をたどったようで、近年ずっと寂しい雰囲気が漂う佇まいとなっていた。つまり、子どもである同級生の彼女は長崎に、その妹は関西に住んでいて、両親が亡くなったあとは、空き家に近い状態になっている。
 その家は、塀の奥の庭に面した掃き出し窓のカーテンが少し開いていて、家のなかの椅子が見えるのだった。そのカーテンは、いつも意図的にその長さだけ開けてあるように思えるのだが、家のなかに人の気配はない。そして、もう何年もその眺めは変わることがない。
 おそらく、かつて窓辺のその椅子に家人が座っていて、晴れた日は庭の外の日差しを浴びていたのだろう。
 私は通りのその家の前を通るたびに、あゝ、お父さん、お母さん、そして子供たちが談笑していて、今にでもそのカーテンの隙間から笑い声が聞こえてきそうな気になるのだった。
 そして、私が通りで立ちどまると、おもむろにカーテンが開いて、「あら、いつ帰っていらしたんですか」と、声がするような妄想にかられるのだった。

 しかし、先日墓へ行くためにその通りを歩いてみると、その家はすっかりなくなり更地になっていた。
 もう、その家に住んでいた人たちの笑い声も草むらの中に消えていた。あと何年かするうちに、そこにどんな家があったのかも思い出せなくなるのだろう。

 かつて同窓会で会ったとき、その同級生に、今度佐賀に帰ったときに、長崎で食事でもしようかと話していた。
 しかし、今回は墓の問題などがあってなかなか電話せずにいて、やっと申し訳の電話をした。
 電話で「明日(3月26日)しか時間がないので今回はやめて、次に佐賀に帰ったときにでもしましょうか」と、私は言った。
 すると、彼女は「この年になったら、今度というのは来るかどうかわからない。だから、明日にしましょう」と言った。
 そうだ、年齢に関係なく、今度とかいつかという約束ほど当てにならないものはない。私は前から、そんな曖昧な約束を嫌っていたはずだ。何か月も先のことなど、どうなるかわからない。私は、自分の不確かな言葉を恥じながら、快く明日会うことにしたのだった。
 他にも小学校および中学校時代の同級生が何人か長崎に住んでいるので、連絡しあってみた。急な話にもかかわらず、佐世保を含めて長崎在住の4人ともが快諾をし、私を含めて5人が長崎で会うことになった。
 こんなことがあるから、人生は面白い。

 *

 長崎は好きな街だ。
 好きな街はどんなところかと問われると、古さと新しさが混然となった街だと答えるだろう。
ビルの脇の路地を曲がると瓦屋根の平屋の家が佇んでいて、フレンチやイタリアンの洋風レストランの隣にうどん屋があるような街だ。
 あるいは、ヨーロッパの旧市街と新市街がある町は歩いていて趣がある。
 新しいだけでは潤いがないし、古いだけではときめきが湧かない。何事も、新しさと古さが同居、あるいは拮抗しているところに面白さがある。
 それに、路面電車が走る街は、街に落ち着きと物語を与えている。

 長崎市には最近の諏訪神社のくんち祭りの目当てを含めて、これまで何回も行った。
 くんちのときは、駅から諏訪神社へ行き、そこから庭先回りと言う、祭りの演し物(出しもの)を追って街中を半日さるき通し、最終的には浜町のアーケード商店街に行きつくのだった。その頃には、大体日も暮れていて、その足で新地の中華街に行って食事をして、帰ってくるのが常であった。
 ということは、今までは駅から東側の中島川周辺、そして南側に行っていたということだ。

 *

 今回は、同級生の一人が駅の北側の住吉というところにブティックを開いているというので、そこを訪ねることになった。私の知らない長崎駅の北方面だ。
 途中、前から行こうと思っていた松山町近くの、爆心地近くにある平和公園に行くことにした。
 まずはその一角にある原爆資料館を訪ねた。ここでは、被爆後の街や人の写真や被爆関連資料が展示してある。長崎型原爆とも呼ばれる「ファットマン」の模型も展示されているのが、何とも複雑な気持ちにさせる。
 平和公園には、平和祈念像がある。
 右手を天に、左手を水平に伸ばした筋肉隆々の、北村西望作の白い男性像だ。
 中学1年のとき修学旅行で、初めて長崎に行った。おそらくグラバー亭や出島にも行ったと思うが、それらの記憶は思い出せないにもかかわらず、この平和記念像だけは鮮明に脳裏に残っている。この白い男性像の逞しさは、当時のひ弱な少年には眩しいほど印象的だった。
 そのとき以来の再会であった。その後、「平和」という抽象的な言葉を聞くと、この記念像を思い浮かべる。(写真)

 公園に入ったころ、ポツリポツリと小さな雨が落ちてきた。天気予報では雨の予報はなかったのだが、やはり雨が降ったか。「長崎は、今日も雨だった」と、思わず心の中で呟いた。内山田洋とクールファイブの有名な曲名だが、長崎が特別に雨の多い街ではない。
 しかし、雨が降っても嫌な思いを抱かせないというのは、歌の効用だろう。

 その足で、近くの浦上天主堂に向かった。
 浦上天主堂は、残念ながら原爆投下で倒壊消失し、今日の天主堂は1959(昭和34)年に再建、1980年に被災前の赤レンガ造りに改装されたものだ。
 天主堂に着いた時には、雨はもうやんでいた。僕の心のように気紛れな雨だ。

 友人の営む住吉のスナックに行ったついでに近くを散策していると、路地の奥にある住吉神社に行きついた。長崎特有の急な階段を上がったところに本殿はあり、その横に稲荷神社がある。日本では、いろんな神様が共存しているからね。

 日も暮れかかってきたので、食事をすることになり、みんなで平和公園近くの中華料理店に行った。中華は大好きだ。
 通りに面してある宝来軒別館は、朱塗りの丸い柱が否が応でも目立ついかにも中華店らしい派手な店構えだが、中に入るとモダンで清々しい雰囲気である。
 一人でなく多人数で食する中華のいいところは、メニューをバラエティー豊かに注文できるところにある。
 順次、前菜盛合せ、海鮮サラダ、エビシューマイ、麻婆豆腐、青椒牛肉絲、えびのチリソース、焼ビーフン、牛肉とレタス入焼飯と、中華料理の定番を食べた。どれもが、脂っこさを抑制してある洒落た味であった。

 *

 長崎から特急列車「白いかもめ」に乗って佐賀に向かったときは、すっかり夜も更けていた。窓の外に見える海の地平線も、夜の闇に染まってわからない。
 頭の中に浮かんだのは、確かに、明日のこともわからない、ということだ。
 やはり、“先が見通せないのは地球が丸いから”なのか。
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鹿児島への旅⑥ 薩摩半島の最果て、枕崎から坊津へ

2016-04-07 03:09:27 | * 四国~九州への旅
 指宿を出発して、終着駅の枕崎に着いたのは昼の12時52分だった。僕のようにバッグを持った旅行者も含めて、数人が下車した。
 静かに列車が止まっている線路の先に目をやれば、これから先は線路はないという印の、標的のようなマークの「車止め」がある。
 列車(電車)も、車止めがあるので、これ以上進めないし、進むことに気を配る必要もないという感じで、すっかり気が抜けたように誰もいないホームに停車している。

 枕崎の駅は、無人駅なのにきれいな建物だ。
 駅前は広いロータリーになっていて、人はあまり見かけないが開放感がある。
 これから鹿児島中央駅に戻る列車の時刻を見ると、次の13時18分はあまりにも時間がないので、その次は16時3分であった。
 バスの切符売り場の窓口があったので、のぞいてみると親切なおばさんがいて、鹿児島中央駅に行くバスが1時間に1本出ていると教えてくれた。来たのと同じコースをJRで戻るのも策がないので、バスで薩摩半島を縦断するのもいいなあと、バスにすることにした。
 枕崎の先に坊津(ぼうのつ)という港町がある。遣唐使船の寄港地だったという古い港である。
 僕が坊津には行けますかと訊くと、窓口のおばさんはここからバスが出ていますが、本数が少ないので帰るのが遅くなりますよ、と言う。僕が、それでは坊津に行くのは無理かなと言って考えていると、これから坊津を循環してここに戻ってくるバスがありますよと教えてくれた。
 なるほど、坊津に降りなくとも坊津の街一帯を周ってくれば観光周遊バスみたいで、それもいいアイディアだと、坊津を循環するバスに乗ることに決めた。
 次の循環バスは14時25分発で、枕崎には15時18分に戻ってくるのだった。それに、1日5本しかなく最終の循環バスだった。
 まだバスの出発まで1時間ぐらいあるので、案内所に行って、昼食のためにこの辺で美味しい店はありませんか、と訊くと、威勢のいいおばさんが、すぐ前の店を指さした。そして、少し考えて付け加えた。バスにはまだ時間があるのだから、海辺まで歩いて「お魚センター」へ行けばいいよ。その近くにバスの停留所もあるから、バスはそこから乗るといい、と言って町の地図をくれた。
 地図を見ながら、枕崎の街中を歩き港へ出た。枕崎の港は静かだった。
 港のなかほどに、「お魚センター」はあった。建物の中に入ると、魚介類や海産物を売る店が並んでいた。その中に、食事を出す小さな店があった。その店に入ったら、もう終わったよと店の人が言った。そして、厨房をのぞきこんで、丼物が一つぐらいあるかな、と言った。僕は丼物は何ですかと訊くと、カツオ丼だと答えた。
 枕崎はカツオの産地だ。願ってもないものが残っていた。

 カツオ丼を食べて、バス通りへ出た。橋の麓の郵便局の前がバス停だった。
 バス停のベンチには、初老の男性が座っていた。立っている僕のところへ、そのおじさんは近づいてきて、誰かと話したかったのか、僕にどこから来たのですか、と訊いた。
 僕は、東京からと答えたら、へぇー、東京から、そらまた、どうして、と驚いた顔をした。旅行ですと答えたら、これからどこへ行くのですかと言うので、坊津へと答えたら、さらに驚いた顔をして、東京から坊津へねえ、へえ、坊津へねえ、と呆れたのか感心したのか分からない調子で、珍しいと盛んに言った。
 おじさんは、私は坊津へ住んでいますけど、坊津はなんもなかですよ、人口はどんどん減っていますし、空き家が増えてばかりで、と嘆くように寂しく言った。
 僕が、前の会社勤め時代の同僚が坊津出身で、その彼の父親は長いこと地元で町長だったそうなんです。そう言って、彼の名字を告げると、おじさんは、よく知っていますよ、今も家がありますが、誰かほかの人が住んでいますよ、と感慨深そうに言った。私が住んでいるところは、そこから少し離れていますが、と付け加えた。
 そして、今は一人で住んでいると言った。息子が一人いるが、今は鹿児島市に住んでいる。だから、会おうと思えば会えるんだがね、と独り言のようにつぶやいた。

 僕が坊津の町を見たかったのは、実際、出版社時代の同僚の故郷がどんなところか見たかったのだ。僕は彼と同じ部署にいたこともあって気が合い、よく食事をしたり飲みに行ったりした仲だった。ところが、会社を辞めたあと彼は急逝した。
 彼が、坊津は町に信号が一つもないんだよ、と言っていたのを思い出す。海に沿って道が周っているから、といった理由が、どんな町だろうと僕の想像をかきたてた。僕は佐賀の実家の田舎の町とて信号はあるなあと考えたのを思い出す。
 今は信号があるのか知らないが、坊津は鄙びた港町だと思い描いていた。その古い町、坊津町は、今は合併して南さつま市となっている。

 *

 バスは枕崎を出発して山道に入ったあと、海辺に出た。そこが坊津だ。坊津の町に入ったあとは、バスは曲がりくねって街中を通った。
 バスの窓からは、海を囲うように家々が並んでいるのが見えた。海に寄り沿った家並みを見下ろしていたから、バスが走る道は高台といえる。坊津は、僕が考えていたような鄙びた街ではなく、きれいな街だった。平地が少ないせいか、家と家は密接しているが、こぎれいな家が建ち並んでいる。(写真)
 入り江がいくつも入り組んでいるのか、港は一つではなくいくつか分かれてあった。家並も港ごとに分かれて存在していた。
 枕崎から乗った例のおじさんが次に下車すると目で挨拶をした。僕が、彼の家は?と慌てて訊くと、あっ、もう過ぎてしまった、教えなくて悪かった、と言って、バスを降りた。僕も、では、お元気で、と別れの挨拶をした。
 おそらく、あのおじさんとはもう二度と会うことはないだろう。坊津の街も、また来るかどうかわからない。
 もうこの街並みと景色は、二度と見ることはないかもしれないと思った。

 バスは海辺から迂回するように離れて、田畑のなかを走った。海ではないここも坊津の町だと思うと、意外な感じがした。
 バスは、再び枕崎の街中に戻った。最初に乗った郵便局の前で降りて、また港へ出た。ゆっくり枕崎の港沿いに歩いた。
 海辺で、運送会社の運転手だろうか、大型トラックの横で若い男たちが数人座り込んで話しこんでいた。ここにも、青春の悩みと喜びがあるのだろう。
 バスの出発の時刻に合わせて、枕崎の駅に戻った。

 鹿児島中央駅を通る金生町行きのバスは、枕崎の駅前を16時に出発した。
 バスは、薩摩半島を斜めに縦断するように山間部を走った。そして、17時52分に鹿児島中央駅に着いた。
 すぐさま18時03分発の新幹線「さくら」に乗った。列車に乗ったあと、鹿児島にもう1泊すればよかったと思ったが、列車は1時間20分余で新鳥栖に着いた。
 そこから佐世保線で佐賀駅で降りて、見慣れた佐賀の街の、見慣れた中華屋に入って、夜の食事をした。
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