かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 郵便配達は二度ベルを鳴らす

2006-11-30 02:56:42 | 映画:外国映画
 ルキノ・ヴィスコンティ監督 J・M・ケイン原作 マッシモ・ジロッティ クララ・カラマイ 1942年伊

 ルキノ・ヴィスコンティの処女作である。
 戦後、豪壮なゴシック建築を思わせる作品を輩出した、ヴィスコンティとは思えない作品である。まるで、『自転車泥棒』で戦後イタリアン・ネオ・リアリスモの名を全世界に有名にした、ヴィットリア・デ・シーカの作品かと思わせた。といっても、こちらの方が先に制作されたので、この作品がイタリアン・ネオ・リアリスモの先駆といえるだろう。

 物語の内容は、田舎町のドライブイン・レストランに、流れ者がやってくる。そ の男と、店の女房が恋に落ち、女の夫を殺害するという話である。
 この作品は、1981年にもジャック・ニコルソン主演で映画化され、話題になった。

 金も住むところもなく腹を空かした男と、何の魅力も抱かせない亭主に飽き飽きしている女は、ゆきずりにして一瞬に火花を散らす。
 ここで流れるのは、甘いポップスの曲である。のちにヴィスコンティの映画に流れるオペラやクラシックのシンフォニーではない。
 女は歌う。
 「可憐な花 大輪の花 恋は美しい
 恋は謎がいっぱい 私を歌わせ夢に誘う
 …愛のない世界に何の意味があるの?」
 亭主のいなくなったのを幸いに、すぐに男は女の唇を奪う。女もすぐに反応する。
 そして、二人は寝たあと、女が男に訊く。
 「いつわかったの?」
 「すぐさ。目で分かった」
 まるで、フランス映画のようなメロディーとストーリーだ。
 腹を空かした男と愛に飢えた女は、貪るように愛を確認し、抜き差しならない状態に陥っていく。

 この映画の一つのテーマは、障害があるが故に高まりゆく愛の狂気。愛が生み出す打算と陰謀が悲劇を生むと言おうとしている。
 そして、ヴィスコンティがこの映画で言おうとしているもう一つのテーマが、男のさすらい願望である。
 主人公の男が無一文で列車に乗って、それを車掌に見つかり詰問させられているのを、金を払って助ける男が登場する。彼は、街から街を旅しながら生活している気ままな男である。助けられた主人公は、男と一緒に彼のテキ屋のような商売を手伝って、街を流離う生活をすることにする。
 「女と寝るだけが人生でないと、教えてあげる」と、さすらいの男は言う。
 しかし、主人公の男は、「もう放浪の生活は疲れた。定住したいんだ」と言って、店の亭主を殺したあと、女と住むことを決める。
 そんな主人公を、さすらいの男は堕落したとばかりの目で見つめる。二人は喧嘩になり、さすらいの男は彼のあとを去っていく。
 しかし、安住しようと思った主人公に安住はなく、悲劇が待ち受けている。

 ヴィスコンティは、愛のためにというよりは、安住のために墜ちていく男を描こうとしているのだ。
 そこには、安住の地などないんだよと言っているようである。安住の地にいるのは、見てごらん、凡庸な人間たちばかりではないか。それとて、足下はおぼつかないものだ、と。
 それは、ヴィスコンティ自身が、衰退していく貴族の末裔として育ったことに起因しているのかもしれない。
 確かなるものなどどこにもない。豪壮な城を築いた王とて、いつしか滅びていく運命なのだと、その後の映画でも描いている。
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◇ 夏の嵐

2006-11-28 01:12:34 | 映画:外国映画
 ルキノ・ヴィスコンティ監督 アリダ・ヴァリ ファーリー・グレンジャー 1954年伊

 19世紀、オーストリア支配下の北イタリア。
 ヴェルディーのオペラ「イル・トロヴァドール」の観劇シーンで、この映画は始まる。物語も、まるでオペラのように、愛、嫉妬、復讐、別れが嵐のように展開される。イタリアの伯爵夫人とオーストリアの青年将校との愛と残酷な別れが、ヴェネチィアを舞台に、血なまぐさいまでの濃密さで描かれている。

 美しい伯爵夫人が、魔がさしたように恋に陥ったのは、敵の若い将校だった。しかし、彼女を恋の盲目にしたその若い将校は、目的も志もないただの色男だった。その男は、伯爵夫人の情熱的な恋心を利用して、金で軍役を離れることすらする。しかも、彼女の出した金で、女に不自由しない生活を送るだらしなさだった。しかし、何もかも彼女の知ることとなり、悲劇を迎える。
 
 何で、あの人があんな男にという恋は、よく見かけることだ。いつの時代でも、恋は公式通りにいかないもの。
 いい女がダメ男に首ったけという図は、周りから見ればじれったくもあり、早く目を覚まして別れればと思うが、周りの反対や障害が強ければ強いほど、当人たちは深みに入っていくというのが恋愛の構造だ。
 
 この映画は、伯爵夫人を演じたアリダ・ヴァリの映画だといっていい。あの射るような鋭い瞳と全身で男にぶつかっていく姿を見るにつけ、立場も命も顧みないひたむきな情熱を演じられるのは彼女しかいないと思わせるものがある。
 僕が最初にアリダ・ヴァリの映画を見たのは、『第三の男』(キャロル・リード監督、グレアム・グリーン原作・脚本)ではなく、『かくも長き不在』(アンリ・コルピ監督、M・デュラス脚本)だった。
 パリ郊外でカフェを営む女のところへ浮浪者がやってくる。その男は、もう何年も前に戦争で行方不明になった夫によく似ていた。しかし、その男は記憶を喪失していた、という話である。この映画で、男の記憶を回復させようとする女のひたむきさを、ヴァリは怖いぐらいの迫真の演技で演じた。
 この時から僕の中には、ヴァリは愛の女というより怖い女というイメージがある。この『夏の嵐』も、夫がありながら自堕落な色男に狂い、裏切られた女の話である。

 愛は、何もかもを捨てさせるというが、イタリア人が演じると怖いぐらい全身全霊となる。
 イタリア男は女を甘く誘うのに長けているが、誘われるイタリア女の方は人一倍情熱的である。それは、『ブーベの恋人』のクラウディア・カルディナーレや、『マレーナ』のモニカ・ベルッチを見ても、よく分かる。

 しかし、何といってもこの映画で素晴らしいのは、19世紀のヴェネチィアの貴族社会が、リアルに再現されていることである。
 特に、女性の服装は、ウエストをコルセットで締めつけ、スカートの裾はペチコートを重ねることで大きく広げる、いわゆるロマン・スタイルを再現させている。この優雅な服装が、ヴァリの理知的な容貌によく溶け合っているのである。
 ルキノ・ヴィスコンティの完璧主義を見た思いだ。
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ルキノ・ヴィスコンティとは

2006-11-25 16:22:42 | 映画:外国映画
 若いときには、この監督の映画は分かっていなかった。その頃は、映画の中に問題意識が内包されていて、前衛的でアグレッシブな映画が魅力的だった。だから、ジャン・リュック・ゴダールであり、アラン・レネであり、ミケランジェロ・アントニオーニであった。のちに大好きになるフランソワ・トリュフォーでさえ、「恋のエチュード」まで待たなければならなかった。
 
 ヌーベル・ヴァーグの旗手たちが、ピカソやダリのようだと感じるのに対して、ヴィスコンティはレンブラントかベラスケスのように古色蒼然としていた。
 ヨーロッパの豪壮なゴシック建築を見るよりは、セーヌの河畔で恋を語る方がずっとよかった。
 もちろん、今でもセーヌの河畔の方がいい。しかし、ゴシック建築にも目がいくようになった。そして、同じ建物に見えていたものも違いが少し分かるようになってきた。
 ノートルダム寺院があるからこそ、セーヌのポン・ヌフは熱いぬくもりを持てるのであり、サン・マルコ広場にサン・マルコ寺院と鐘楼があるから、ヴェネチィアの路地は胸躍るのである。
 
 ヴィスコンティは、1906年生まれ。イタリア北部のミラノを中心とした貴族の末裔である。パリを旅行中に、映画監督のジャン・ルノワールを知り助監督に。1942年に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で監督としてデビューしている。
 戦後は、「夏の嵐」(1954年)、「白夜」(1957年)、「若者のすべて」(1960年)、「山猫」(1963年)、「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)、「ベニスに死す」(1970年)、「ルードヴィヒ」(1972年)、「家族の肖像」(1974年)などを監督制作している。
 
 今年は、ルキノ・ヴィスコンティ生誕100年ということで、NHK・BSで、彼の映画を連続で放映している。
 しばらく、ヴィスコンティを見直してみたいと思う。見ていない映画もたくさんあるので。
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☆ 一週遅れの、ボージョレー・ヌーヴォー

2006-11-24 18:13:59 | ワイン/酒/グルメ
 ボージョレー・ヌーヴォーは、11月の第3木曜日に、全世界一斉に解禁される。
先週の11月16日(木)は、ボージョレー・ヌーヴォーの解禁日だった。僕は、ことさらクリスマスだのバレンタインだのといった商戦に乗っかり浮かれるのに関心はないのだが、今年は、この日ぐらいはボージョレーを飲んでみようと思った。
 と言うのも、ボージョレー・ヌーヴォーはワインにしては例外的な、賞味期限のある(ちゃんとあるのではない)命の短いワインなのだ。解禁日でなくとも11月いっぱいぐらい、遅くとも年内に飲んだ方がいいとされている。
 
 この国に、そのボージョレー・ヌーヴォーを流行らしめた「ジョルジュ・デュブッフ」の社長が、テレビで、今年のヌーヴォーは美味しいとPRしながら、こんな言葉をちらと漏らした。
 「ボルドーやブルゴーニュは知識がいるが、これはいらないですし…」と。
 それを聞いいて、僕は苦笑した。日本人にはボルドーやブルゴーニュの複雑な味と質の違いを知るには、まだ十分ではないと思うが、ボージョレー・ヌーヴォーは、そう質に違いもないし、味も初心者にはこれで充分です、と言っているようなものだったからだ。

 解禁の夜、新宿に出た。
 まず、結構置いてある酒が充実している伊勢丹の地下一階の売り場に行く。試飲会をやっているが、人もあまり多くなく活気がない。試飲の際、「車ではないですね」と念を押しているのは、今問題になっている飲酒運転を懸念してのことか。
 ボージョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォーの「ドメーヌ・デュ・セロワール」と「ラウル・クラージュ」を一口飲んで、フレンチ・レストランを求めて外へ出た。
 もともと新宿にフレンチ・レストランは少ないのだが、やっと見つけたそこは予約でいっぱいだった。やはり、この日のフレンチはカップルでいっぱいかと諦めて、知っているイタリアン・レストランに入った。心なしかひっそりとしていて、席も空いている。
 こんな日にイタリアンに来るのは、男同士か、ワインに特別関心がない者か、よほどイタリアンが好きなのか、フレンチにあぶれてイタリアンに流れたのだろうと考えた。
 席に着き、この日だからもしかしてと思い、「今日はボージョレー・ヌーヴォーを置いてありますか」と訊いてみた。すると、ウェイターは表情も変えずに「うちはイタリア・ワインしか置いてありません」と言った。その心意気や、よしである。

 ということで、昨日、社会人(元出版社)としても人生においても大先輩の三人と宴をくんだ。
僕は、ボージョレー・ヌーヴォーの「ブシャール・エネ・エ・フィス」を持っていった。大して高くない。とりあえず、先週飲みそこねた今年のヌーヴォーを飲んでおきたかったにすぎない。味に言及するのはやめておこう。

 先輩の一人が、「僕もこのワインを持ってきたよ」とおもむろに差し出した。
それは、玉村豊男氏が造ったワインだった。フランスと料理に造詣が深い玉村氏の本を、かつて元いた会社で出版したことがあった。現在は画家にもなった玉村氏は、長野でワイン造りをしている。
 玉村氏のワインを飲むのは初めてである。
 シャルドネの白で、「VILLA D`EST VI GNERONS RESERVE CHARDONNAY 2004」と銘打ってある。それに、ラベルには、エッチングにあるように製品番号が肉書きしてあった。製造本数は、574本であることが分かる。
 これも、味に言及するのはやめることにしよう。
そ れにしても、好きなワインを自力で造る、それは素晴らしくも羨ましいことである。それは、生き方にも通じる。

 ボルドーやブルゴーニュは一日にしてならず、である。

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「東京タワー」と「東京」

2006-11-19 01:56:53 | 人生は記憶
 リリー・フランキー著の『東京タワー』がテレビドラマ化された。僕は、まだこの本がこんなに評判になる前、本屋で手に取ってすぐにいい本だと直感した。そして、立ち上げたばかりのこのブログに書き綴った。去年の夏だった。
 <05年8月30日「東京タワー」ブログ参照>。
 初版2万部のこの本は、じわじわと人気が広がり、予想を遥かに超える200万部突破というメガヒットとなった。そして、満を期してのドラマ化だ。通常、活字を超える映像はなかなかないものだ。文章の持つ想像力と行間に漂う吐息を映像で伝えるのは、難しいからだ。
 しかし、主人公の大泉洋、オカンの田中裕子、オトンの蟹江敬三はそれぞれいい味が出ていた。友人の佐藤隆太もいい。このドラマは、本にはない広末涼子を出現させるなど、『東京タワー』のエッセンスを抽出していた。
 この本をドラマ化しようとして、思い半ばで急逝した久世光彦が撮ったらどのような内容になっただろうかと思った。僕は、久世の湿った映像が好きだった。

 ここで書こうとしているのは、ドラマのことではない。このドラマの中で、沖縄出身のBIGINによって歌われていた「東京」という歌である。
 もともと、フォークブームの最中の1974年、秋田出身のマイペースという3人組が歌ったこの曲は、当時の東京をよく表わしていた。

 1970年に雑誌「an・an」(アンアン)が創刊され、翌71年「non・no」(ノンノ)が次いだ。この頃から、日本の若者の風俗は急変したと言っていい。その推進役をこの2誌が担ったのだった。
 最も変わったのはファッションだったが、それと付随して都市、つまり街が紹介された。それは旅という形で表現された。東京、大阪などの都会をはじめ、京都や地方の金沢、倉敷、津和野などが小京都としてリニューアルされ、一気に日本の都市が身近なものとなった。
 毎月(月2回刊)のように、都市、特に東京の街のファッション風俗から雑貨屋などのお店までの情報が掲載された。若者は、地方にいながらにして、都会の情報が知り得るようになった。そして、東京の街中を、アンアン、ノンノを片手に歩く若者を見るようになった。
 そんな時に流れたのが、「東京へは、もう何度も行きましたね…」と歌うマイペースの「東京」だった。地方から見た東京は、すでに旅行で行くところではなく、恋人の住む街へしばしば会いに行くという、身近な存在になっていた。

 といってもまだ憧れの残滓は残っていて、最後のリフレンで繰り返し歌われている、君の住む「美し都」であり「花の都」でもあった。
 当時、僕はこの東京に対する形容詞が、何とも大時代的だと思って、面はゆい感じがしたものだ。それは、戦前に流行った藤山一郎の「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)の「楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京」を想起させたからだ。
 この宝塚が歌うような、「花の都」や「恋の都」は、元来、巴里(パリ)に形容されたものであろう。それが、流れ流れて、極東の東京までやって来た。

 パリにしろ東京にしろ、都会は、いつの時代でも夢をはぐくんできた。しかし、それは蜃気楼のように実態のないものである。多くは、掴みそこねて、また故郷へ帰っていくか、都会で燻って埋没していくしかない。七色の虹は、シャボン玉のように儚く消えてしまうのだ。
 それでも、東京は何かある。そう思って、僕はずっと東京を離れられないでいる。泥まみれであれ、枯れ果てようとしていれ、何せ、腐っても「花の都」なのである。浅はかで、偽りに充ちた「恋の都」なのである。
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