ルキノ・ヴィスコンティ監督 J・M・ケイン原作 マッシモ・ジロッティ クララ・カラマイ 1942年伊
ルキノ・ヴィスコンティの処女作である。
戦後、豪壮なゴシック建築を思わせる作品を輩出した、ヴィスコンティとは思えない作品である。まるで、『自転車泥棒』で戦後イタリアン・ネオ・リアリスモの名を全世界に有名にした、ヴィットリア・デ・シーカの作品かと思わせた。といっても、こちらの方が先に制作されたので、この作品がイタリアン・ネオ・リアリスモの先駆といえるだろう。
物語の内容は、田舎町のドライブイン・レストランに、流れ者がやってくる。そ の男と、店の女房が恋に落ち、女の夫を殺害するという話である。
この作品は、1981年にもジャック・ニコルソン主演で映画化され、話題になった。
金も住むところもなく腹を空かした男と、何の魅力も抱かせない亭主に飽き飽きしている女は、ゆきずりにして一瞬に火花を散らす。
ここで流れるのは、甘いポップスの曲である。のちにヴィスコンティの映画に流れるオペラやクラシックのシンフォニーではない。
女は歌う。
「可憐な花 大輪の花 恋は美しい
恋は謎がいっぱい 私を歌わせ夢に誘う
…愛のない世界に何の意味があるの?」
亭主のいなくなったのを幸いに、すぐに男は女の唇を奪う。女もすぐに反応する。
そして、二人は寝たあと、女が男に訊く。
「いつわかったの?」
「すぐさ。目で分かった」
まるで、フランス映画のようなメロディーとストーリーだ。
腹を空かした男と愛に飢えた女は、貪るように愛を確認し、抜き差しならない状態に陥っていく。
この映画の一つのテーマは、障害があるが故に高まりゆく愛の狂気。愛が生み出す打算と陰謀が悲劇を生むと言おうとしている。
そして、ヴィスコンティがこの映画で言おうとしているもう一つのテーマが、男のさすらい願望である。
主人公の男が無一文で列車に乗って、それを車掌に見つかり詰問させられているのを、金を払って助ける男が登場する。彼は、街から街を旅しながら生活している気ままな男である。助けられた主人公は、男と一緒に彼のテキ屋のような商売を手伝って、街を流離う生活をすることにする。
「女と寝るだけが人生でないと、教えてあげる」と、さすらいの男は言う。
しかし、主人公の男は、「もう放浪の生活は疲れた。定住したいんだ」と言って、店の亭主を殺したあと、女と住むことを決める。
そんな主人公を、さすらいの男は堕落したとばかりの目で見つめる。二人は喧嘩になり、さすらいの男は彼のあとを去っていく。
しかし、安住しようと思った主人公に安住はなく、悲劇が待ち受けている。
ヴィスコンティは、愛のためにというよりは、安住のために墜ちていく男を描こうとしているのだ。
そこには、安住の地などないんだよと言っているようである。安住の地にいるのは、見てごらん、凡庸な人間たちばかりではないか。それとて、足下はおぼつかないものだ、と。
それは、ヴィスコンティ自身が、衰退していく貴族の末裔として育ったことに起因しているのかもしれない。
確かなるものなどどこにもない。豪壮な城を築いた王とて、いつしか滅びていく運命なのだと、その後の映画でも描いている。
ルキノ・ヴィスコンティの処女作である。
戦後、豪壮なゴシック建築を思わせる作品を輩出した、ヴィスコンティとは思えない作品である。まるで、『自転車泥棒』で戦後イタリアン・ネオ・リアリスモの名を全世界に有名にした、ヴィットリア・デ・シーカの作品かと思わせた。といっても、こちらの方が先に制作されたので、この作品がイタリアン・ネオ・リアリスモの先駆といえるだろう。
物語の内容は、田舎町のドライブイン・レストランに、流れ者がやってくる。そ の男と、店の女房が恋に落ち、女の夫を殺害するという話である。
この作品は、1981年にもジャック・ニコルソン主演で映画化され、話題になった。
金も住むところもなく腹を空かした男と、何の魅力も抱かせない亭主に飽き飽きしている女は、ゆきずりにして一瞬に火花を散らす。
ここで流れるのは、甘いポップスの曲である。のちにヴィスコンティの映画に流れるオペラやクラシックのシンフォニーではない。
女は歌う。
「可憐な花 大輪の花 恋は美しい
恋は謎がいっぱい 私を歌わせ夢に誘う
…愛のない世界に何の意味があるの?」
亭主のいなくなったのを幸いに、すぐに男は女の唇を奪う。女もすぐに反応する。
そして、二人は寝たあと、女が男に訊く。
「いつわかったの?」
「すぐさ。目で分かった」
まるで、フランス映画のようなメロディーとストーリーだ。
腹を空かした男と愛に飢えた女は、貪るように愛を確認し、抜き差しならない状態に陥っていく。
この映画の一つのテーマは、障害があるが故に高まりゆく愛の狂気。愛が生み出す打算と陰謀が悲劇を生むと言おうとしている。
そして、ヴィスコンティがこの映画で言おうとしているもう一つのテーマが、男のさすらい願望である。
主人公の男が無一文で列車に乗って、それを車掌に見つかり詰問させられているのを、金を払って助ける男が登場する。彼は、街から街を旅しながら生活している気ままな男である。助けられた主人公は、男と一緒に彼のテキ屋のような商売を手伝って、街を流離う生活をすることにする。
「女と寝るだけが人生でないと、教えてあげる」と、さすらいの男は言う。
しかし、主人公の男は、「もう放浪の生活は疲れた。定住したいんだ」と言って、店の亭主を殺したあと、女と住むことを決める。
そんな主人公を、さすらいの男は堕落したとばかりの目で見つめる。二人は喧嘩になり、さすらいの男は彼のあとを去っていく。
しかし、安住しようと思った主人公に安住はなく、悲劇が待ち受けている。
ヴィスコンティは、愛のためにというよりは、安住のために墜ちていく男を描こうとしているのだ。
そこには、安住の地などないんだよと言っているようである。安住の地にいるのは、見てごらん、凡庸な人間たちばかりではないか。それとて、足下はおぼつかないものだ、と。
それは、ヴィスコンティ自身が、衰退していく貴族の末裔として育ったことに起因しているのかもしれない。
確かなるものなどどこにもない。豪壮な城を築いた王とて、いつしか滅びていく運命なのだと、その後の映画でも描いている。