かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

アラン・ドロンのいた時代

2024-08-24 02:59:27 | 映画:フランス映画
 稀代の二枚目、フランスの俳優アラン・ドロン(Alain Delon、1935-2024年)が、去る8月18日に亡くなった。88歳だった。
 個人的好みを踏まえて言うと、アラン・ドロンは私が生きてきた世代のなかで最もハンサムな男だった。彼の前の世代の、同じフランス人の色男、ジェラール・フィリップ(Gérard Philipe、1922-1959年)と入れ替わるように、A・ドロンは登場した。
 数多くの映画に出演・主演し、数多くの女性と浮名を流した。

 アラン・ドロンを世界的に一躍有名にしたのは、1960年公開されたルネ・クレマン監督の映画「太陽がいっぱい」(Plein soleil)である。
 地中海の港町を舞台に、浅はかな野望を持つ貧しい若い男(アラン・ドロン)の前にいるのは、贅沢な遊び人の男(モーリス・ロネMaurice Ronet)とその美しい恋人(マリー・ラフォレMarie Laforêt)。
 青い空と波に漂う、欲望が生み出す嫉妬と計略。眩しい陽が照らすヨットの上での情事と殺人。ニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽が青い空と波間に流れる。
 華と哀愁のある美男子のスターの誕生だった。

 ※「太陽がいっぱい」が封切られた1960年は、昭和35年である。第2次世界大戦の戦後傷跡も癒えつつ経済復興のさなかにあった日本は、この年、安保闘争で大揺れしていた。
 そのころ九州の田舎の中校生だった私は、アラン・ドロンの上半身裸でヨットを操る映画ポスターと哀愁を帯びたメロディーは脳裏に残っているが、そのときは映画「太陽がいっぱい」は観ていず、私のヒーローは日活の小林旭の“渡り鳥”であった。「太陽がいっぱい」を観たのは後の再上映館だった。私がリアルタイムでA・ドロンの映画を観たのはジャン=ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールと称される「仁義」(1970年)あたりからである。

 *初期アラン・ドロンを彩った女優たち

 アラン・ドロンは、1957年、「女が事件にからむ時」で映画デビュー。1958年に「恋ひとすじに」(Christine)で共演したロミー・シュナイダー(Romy Schneider)と同棲し婚約するも、1963年に破棄することになる。
 別れた後も二人の交友は続き、1968年、A・ドロンの手引きで「太陽が知っている」で再び共演を果たしている。

 1959年、「太陽がいっぱい」が封切られる前年であるが、アラン・ドロンの主演した「お嬢さん、お手やわらかに!」(Faibles Femmes)がフランスで大ヒットする。
 この映画で特筆すべきは、まだ新人ともいえるA・ドロンを取り巻く3人の若手女優たちの華々しさである。今では忘れられているかもしれないが、パスカル・プティ、ミレーヌ・ドモンジョ、ジャクリーヌ・ササールという名前が並ぶ。
 パスカル・プティ(Pascale Petit)は、1960年代はフランスでは特別な人気だったブリジッド・バルドーに次ぐぐらいの人気だった。後に、「妖姫クレオパトラ」(1962)や「ボッカチオ」(1972)にも主演している。
 ミレーヌ・ドモンジョ(Mylène Demongeot)は、「悲しみよこんにちは」「女は一回勝負する」(1957)などに出演している、こちらも艶っぽい人気の実力派女優である。
 ジャクリーヌ・ササール(Jacqueline Sassard)は、「芽ばえ」(1957年)「三月生れ」(1958年)などで、当時、その清楚な雰囲気が大人気だった。「三月生まれ」の衣装から日本のアパレルメーカーが売り出した、ダスター・コートの「ササール・コート」は当時話題となった。
 ということで、A・ドロンと共演した彼女たちの当時の人気度を知るために、私の手元にある「スクリーン特別版・映画ファンが選んだ生涯忘れられない名作と愛しの名優たち。」(近代映画社刊)を開いてみる。
 「1959年度の人気女優」編では、1位のオードリー・ヘプバーンに次いで、2位がミレーヌ・ドモンジョ、3位がパスカル・プティ、9位がジャクリーヌ・ササールである。
 若手人気女優を散りばめさせたこの映画の配役を見るだけで、A・ドロンに対する期待がわかる。
 この年、「人気男優」編ではアラン・ドロンは4位に登場しているが(1位はヘンリー・フォンダ)、「太陽がいっぱい」が封切られた翌1960年度は1位となっている。以後、長年ベスト10のトップを含め上位を続ける特別な俳優となる。

 さらに特質すべきは、1959年にもう1本アラン・ドロン主演の映画が封切られたことだ。この「学生たちの道」(Le Chemin des Ecoliers)の共演者が、フランソワーズ・アルヌールである。
 フランソワーズ・アルヌール(Françoise Arnoul)は、「フレンチ・カンカン」(1954年)、「ヘッドライト」「過去をもつ愛情」(1955年)などの出演で見るとおり人気と実力を備えた女優で、当時、日本では最も人気のある女優であった。ちなみに、上記の「人気女優」編での、1955年度はグレース・ケリーに次ぐ2位となっていて、1959年度では7位である。

 *転機となったルキノ・ヴィスコンティ監督との出会い

 いつも個性派監督と大物俳優が、アラン・ドロンに寄せられるように近くに現れた。
 「太陽がいっぱい」が封切られた1960年、アラン・ドロンはルキノ・ヴィスコンティ監督に認められて「若者のすべて」(Rocco e i suoi fratelli)に出演する。ヴィスコンティはイタリア出身の貴族出の監督である。この映画出演によって彼は、単なる二枚目の人気スターとは言い切れない側面を生み出したと言っていい。
 その2年後、ヴィスコンティ監督は「山猫」(Il gattopardo )でA・ドロンをまったく新しい役柄で起用する。
 両作品とも、イタリアのやはり新人女優だったクラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)と共演している。
 ※実は、私はクラウディア・カルディナーレが最も好きな女優の一人である。もう一人は、ドミニク・サンダ(Dominique Sanda)。

 *どこにあった?「地下室のメロディー」

 ちょっとしたスター俳優は、他の大物俳優との共演を嫌うものだが、アラン・ドロンは男優、女優に限らず、大物との共演をいとまなかったし、むしろ好んでいたように見える。おそらく、自分に自信があったのだろう。
 当時、フランス映画界では、「現金に手を出すな」(1954年)「ヘッドライト」(1956年)などで有名な、ジャン・ギャバン(Jean Gabin)という大物男優がいた。世界的に知られていた、誰もが一目置く渋い個性を持った男優だ。
 アラン・ドロンは、彼と1963年「地下室のメロディー」(Mélodie en sous-sol)で初共演し、その後「シシリアン」(Le clan des Siciliens、 1969年)、「暗黒街のふたり」(Deux hommes dans la ville 、1973年)と共演した。
 「地下室のメロディー」は、老ギャングであるJ・ギャバンと若者A・ドロンがカンヌのカジノの地下金庫から大金を強奪する物語だが、タイトルが気にいっていた。

 ※あの頃、つまり1970年代の中ごろ、私が出版社勤務の頃のことである。社屋ビルの地下1階は主に出版物の倉庫フロントであった。その一角に組合の事務室が設けられていた。日も当たらない、ガリ版刷りのインクの臭いのする暗い小さな部屋である。
 あの頃、たまたま私はその委員長になって(選ばれて)しまった。そのとき関係者に、私はその陰気(インキ)臭い事務室を、ここを「地下室のメロディー」と呼び方を変えると(勝手に)宣告した。何ごとも格好良くありたい時代だったのだ。
 そして、当時ガリ版刷りで作っていた機関誌とは別に、「地下室のメロディー」という名の新しい内容の小紙を発行しようと想い巡らせた。しかし、「地下室のメロディー」は発行することなく、私が長をやめた後は「地下室のメロディー」という呼称もいつしか地下の暗闇に消えていた。

 *アラン・ドロンの新しい一面、フィルム・ノワール

 1967年、アランドロンはジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画「サムライ」(Le Samouraï)で、死と隣り合わせに生きる暗い男を演じた。この映画はフィルム・ノワールの歴史を変えた作品といわれ、その後多くの監督に影響を与えた。
 メルヴィル監督とアラン・ドロンは、その後、「仁義」(Le Cercle rouge、1970年)、「リスボン特急」(Un flic、1972年)を作っている。
 「リスボン特急」では、フランス女優のなかで最も美人だと思うカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)と共演している。
 カトリーヌ・ドヌーヴは、「シェルブールの雨傘」(1964年)「昼顔」(1967年)、「終電車」(1980年)、「インドシナ」(1992年)、「8人の女たち」(2002年)と並べてみても、長く主演女優を張っていて、今も現役のようで、息の長い女優だ。
 ※写真は、当時、日比谷スカラ座で観たときの「リスボン特急」のパンフレット。C・ドヌーヴをA・ドロンとダブル主演のように扱っている。もちろん、キャスト欄ではA・ドロンが先であるが。

 *
 アラン・ドロンは、ロミー・シュナイダーとの長い春のあと、1963年、「黒いチューリップ」を撮影中にナタリー・バルテルミー(のちにナタリー・ドロン)と恋に落ち、1964年に結婚する。
 ナタリー・ドロン(Nathalie Delon)は、1967年にアラン・ドロンが主演した『サムライ』でA・ドロンの相手役として映画初出演。翌1968年、ルノー・ヴェルレー(Renaud Verley)との共演作「個人教授」(La leçon particulière)で人気が上昇した。
 しかし、A・ドロンとは1969年離婚した。
 ※当時、「個人教授」公開後、ルノー・ヴェルレーは日本ではアイドル的人気だった。実際、1971年「愛ふたたび」(監督:市川崑、浅丘ルリ子共演)、1972年「恋の夏」(監督:恩地日出夫、小川知子共演)と、巨匠監督による日本映画で主演している。
 ちなみに、1970年度の「人気男優」編では、1位、アラン・ドロン、2位、ロバート・レッドフォードという錚々たる名前が並ぶなかで、ルノー・ヴェルレーは8位に名前を出している。
 この年の「人気女優」編では、1位はロバート・レッドフォードとの「明日に向かって撃て!」が大ヒットしたキャサリン・ロス、2位がカトリーヌ・ドヌーヴである。

 ナタリー・ドロンとの別れ話の最中のころ、アラン・ドロンはジャン・エルマン監督の「ジェフ」(1969年)で、ミレーユ・ダルク(Mireille Darc)と共演。以降、二人は長い恋人関係にあった。

 音楽面では、1973年に、ダリダとの共演「あまい囁き」(Paroles, Paroles)がヒット。日本では、中村晃子と細川俊之のカバー曲もヒットした。

 *アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドがいた時代

 あの頃、いやつい最近まで、フランスにはアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドの2人の男優スターがいた。
 日本ではアラン・ドロンが圧倒的な人気だが、本国では2人は遜色ないぐらい、いやベルモンドの方が人気があるのではというぐらい、双璧ともいえる2人である。

 ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933ー2021年)は、アラン・ドロンより2歳半ほど年上である。亡くなったのは2021年9月、A・ドロンと同じ88歳であった。
 映画界への進出はA・ドロンとほぼ同じころの1957年で、演技力が認められていたがベルモンドも当初は端役での出演だった。1958年公開のギイ・ブドス監督の『黙って抱いて』では、無名時代のA・ドロンとともに出演している。
 同年、ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)監督の短篇映画『シャルロットとジュール』に主演(フランスでの一般公開は1961年)。1959年、クロード・シャブロル監督の「二重の鍵」に出演し、注目された。
 1960年、ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(À bout de souffle)が公開される。この映画は、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作として大ヒットし、主演したベルモンドを一躍人気スターの座に押し上げた。
 アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」とジャンポール・ベルモンドの「勝手にしやがれ」が登場した1960年はなんという年だろう。この年の「人気男優」編では、1位はアラン・ドロンで、3位にジャンポール・ベルモンドである。
 ベルモンドのゴダール監督映画への出演は、アンナ・カリーナとの共演「女は女である」(Une femme est une femme、1961年)、そして名作「気狂いピエロ」(Pierrot le fou、1965年)と続く。
 ※フランス・ヌーヴェル・ヴァーグに酔っていた私にとって、アルチュール・ランボーの「また見つかった、何が? 永遠が、海と溶けあう太陽が……」で終わる「気狂いピエロ」は、私の好きな映画Best1である。

 ベルモンドは、ヌーヴェル・ヴァーグでの個性派俳優と見なされた一方、派手なアクションをスタントマンなしで演じた「リオの男」(1963年)、「カトマンズの男」(1965年)、やコミカルで陽気な味のある演技も併せ持った。

 アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドが画面上で実際に共演したのは、ルネ・クレマン監督による『パリは燃えているか』(1966年)であるが、この映画はオールスター映画である。
 名実ともに大スターになっていた二人の実質上の共演は、1970年公開の「ボルサリーノ」(Borsalino)である。1930年のマルセイユが舞台で、2人の若者が裏社会でのし上ろうとする姿を描いた。
 ※「ボルサリーノ」とはイタリア製の帽子で、つばがありトップのクラウンは少しくぼみがありサイドのクラウンにはリボン(黒)が巻いてある。当時から被った姿が格好良いと思っていたが、若いと気障なので年とってからボルサリーノ製ではないが、そのスタイルの帽子を買った。しかし、被る機会がない。

 *
 2019年、アラン・ドロンは第72回カンヌ国際映画祭で長年の功績に対し、名誉パルムドール賞を授与された。
 A・ドロンは1960年の「太陽がいっぱい」以降、長い間、国際的なスターであり続けてきた。アメリカ・ハリウッド以外のヨーロッパの俳優では異例であった。近年はスクリーンから遠ざかっていたにもかかわらず、その存在は輝きを失ってはいなかった。

確かに、「アラン・ドロンのいた時代」があった。
つい、最近のことだ。
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1968年は燃えていたか、「グッバイ・ゴダール!」

2018-08-01 01:14:14 | 映画:フランス映画
 ジャン・リュック・ゴダールは、往年の映画ファンにとっては特別の名前だ。フランスのヌーヴェルヴァーグと言えば、まずこの人の名があがる。

 最も好きな映画、影響を受けた映画のベスト3をあげろと言われれば、若いときは僕は次の3つを躊躇(ためら)いなくあげていた。
 ・「気狂いピエロ」(Pierrot le fou 監督:ジャン・リュック・ゴダール、1965年)
 ・「去年マリエンバートで」(L'Année dernière à Marienbad 監督:アラン・レネ、1961年)
 ・「大地のうた」(Pather Panchali 監督:サタジット・レイ、インド映画、1955年)
 いずれも学生時代に見た映画だ。こうして並べてみれば、いずれもATG(アートシアター)の新宿文化で見たものだ。
 年齢を重ねるにしたがい、いくつかの捨てがたい映画が出てきたが、ゴダールの「気狂いピエロ」のナンバーワンは変わらない。

 *
  
 では、ジャン・リュック・ゴダール作品のなかでの僕のベスト3をあげると、次のようになる。

 ①「気狂いピエロ」(Pierrot le fou、1965年)
 アンナ・カリーナとジャン・ポール・ベルモンド主演の、僕にとっては普遍的な感動を持った映画だ。
 最後の場面(シーン)は、強烈な印象だった。
 恋人マリアンヌ(A・カリーナ)を銃殺したあと、顔をペンキで塗りたくりダイナマイトを自分の頭に巻き付けて火をつけたフェルディナン(J・P・ベルモンド)は、われに返り慌てて火を消そうとするが間に合わない。
 煙の上がる岩壁の先に広がる地中海の青い海に、アルチュール・ランボーの詩「永遠」の一節が流れる。
  また、見つかった、
  何が、
  永遠が、
  海と溶け合う太陽が。
   (小林秀雄訳)
 僕は幕が下りた後も、しばらく立ち上がれなかった。

 ②「軽蔑」(Le mépris、1963年)
 「B・B」(べべ)ことブリジット・バルドー主演の、地中海での映画撮影現場を舞台に、脚本家(ミシェル・ピッコリ)の妻で女優の揺れ動く女心を描いた映画。
 それまでバルドーといえば「裸でご免なさい」や「素直な悪女」など、コケティッシュでセクシーだけが売りものと思っていたが、この映画では違った。
 最初この映画を観たときは、まだ僕が女というものに対してよくわかっていなかったせいもあってか(今でもよくわかってはいないが)十分理解したとは自分でも思えなかった。それでアルベルト・モラヴィアの原作(大久保昭男訳)を読んで、なるほどと感動し直した経緯の映画である。
 それで、「le mépris」という言葉がすっかり気に入って、「ル・メプリ…」を繰り返し呟いたりしたのだった。

 ③「勝手にしやがれ」(À bout de souffle、1959年)
 ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ主演のヌーヴェルヴァーグを決定づけた映画で、ゴダールを一躍有名にした映画である。それにこの映画で、ベルモンドもアラン・ドロンに肩を並べるぐらいの人気スターにした。
 僕が今でも面白いなと思っている場面は、前にも「勝手にしやがれ」の項で書いた、ベルモンドとセバーグのやりとりだ。
 ベルモンドがセバーグに「ニューヨークでは、何人の男と寝た?」と訊く。
 セバーグは、少し考えて、片方の指を広げ、もう片方の指を2本立てる。つまり、7人ということだ。
 「あなたは?」と問われたベルモンドは、寝そべったまま、握った片方の手を広げて、また閉じて広げてを繰り返したのだった。
 何人かわからないのだ。まあ、多くて数えてもいなかったのだろう。
 思わず笑ってしまったが、ベルモンドは、そのあと、「多くはないな」と呟くのだった。
 そして最後は、「最低だ」と呟き、自分の手で瞼(まぶた)をおろして、路上で死ぬ。

 *
 
 今月の7月初旬、新聞広告に「グッバイ・ゴダール!」(原題はLe Redoutable)のタイトルを見たとき、胸が躍った。
 ゴダール……名前だけで胸に波を打たせる人間がどれほどいようか。
 キャッチコピーに、「アンヌ、19才。パリに住む哲学科の学生。そして恋人はゴダール。――1968年、映画、恋、五月革命、少女が駆け抜けた青春の日々」とある。
 そして、映画公開当日の7月13日の広告のヘッドコピーは、「ゴダールに恋した、1968年のパリ――。」
 これで分かるようにこの映画は、1968年、フランス五月革命当時、すでにヌーヴェルヴァーグの旗手として特別な存在となっていたゴダールの当時の恋人、アンヌ・ビアゼムスキーの目から見たゴダールを描いたものである。実際この映画は、アンヌの自伝的小説「それからの彼女」(Un an après)にもとづいている。
 監督はミシェル・アザナヴィシウス。ゴダール役にルイ・ガレル、アンヌ役にステイシー・マーティン。

 1966年、女子学生のアンヌと知りあったゴダールは、フランスにおける毛沢東主義を描いた「中国女」(La Chinoise 、1967年)の主役に彼女を抜擢し、映画公開前に結婚する。
 その前に、ゴダールは「女は女である」「女と男のいる舗道」「気狂いピエロ」などいくつものゴダールの映画に主演しているアンナ・カリーナと結婚して離婚している。
 「アンナAnna」から「アンヌAnne」へとゴダールは移ったが……。

 当時、アンヌ20歳。ゴダール37歳。
 アンヌは16歳でロベール・ブレッソンの映画で女優としてデビューしたあと、ゴダールの「中国女」(1967年)の主演女優として脚光を浴び、そしてゴダールの妻として、熱い時代を走り抜けることになる。
 「中国女」の作成には、当時毛沢東による中国文化大革命が起こり、中国を大きく揺れ動かしていた背景がある。
 「グッバイ・ゴダール!」は、アンヌと天才といわれ時代の寵児だったゴダールとの愛を、1968年のパリ五月革命前夜の時代背景を通して描いていく。フランスの各地の大学では体制に反対する学生が立ち上がり、大規模なデモが行われて、文化や政治をも巻き込んだ大きな動きになっていく。
 二人でデモに参加し、学生集会へ出向いて持論を放つゴダールだが、次第に学生たちとも乖離していく。
 カンヌ国際映画祭を中止に追い込もうとするゴダールは、映画と政治を包括しようとするし、商業映画と決別すると言い放つ。そして、次第に周りともアンヌとも微妙な溝が生じ始める。
 しかし、ゴダールは自分の生き方を変えようとはしない。映画は、そのゴダールの姿を辛辣に描いていく。あの熱い時代とともに。

 *

 この映画の時代のあと、72年ごろからアンヌとゴダールは事実上別離し、79年に正式に離婚している。
 「グッバイ・ゴダール!」(Le Redoutable)は2017年のカンヌ国際映画祭にて主要部門のパルム・ドールに出品されたのち、同年9月にフランスで公開。
 そしてアンヌ・ビアゼムスキーは、この映画が公開された2017年10月に死去している。

 政治的に生きるとはどうあるべきなのか。
 政治の季節だったあの時代。その後、政治や社会は変わったのか。
 変わったのなら、どう変わったのか。それは、いい方向へ向かっていると言えるのか。
 ジャン・リュック・ゴダールは、今でも問い続けているように思えるし、ゴダールは実際生き続けている。
 あの時代の熱気はどこから来て、どこへ行ったのだろうか。

 今年(2018年)のカンヌ国際映画祭のポスターは、ジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが互いの車中からキスをするシーンの、ゴダールの「気狂いピエロ」が用いられている。
 1968年には、ゴダールを中心としたフランソワ・トリュフォーなどの映画人に中止に追いやられたカンヌ国際映画祭であるが、それでもゴダールは無視できない突出した映画監督であることの証左であろう。
 ジャン・リュック・ゴダール、現在87歳。なおいまだ現役である。
 今年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に最新作「The Image Book」を出品し、スペシャル・パルムドールを受賞している。

 *

 1968年といえば、アメリカのベトナム反戦運動が世界的に広がり、フランスでは反体制を掲げて各地でゼネストが広まった「パリ五月革命」が、社会主義圏のチェコスロバキアでは「プラハの春」が起こった。
 日本でも60年安保で萌芽した学生運動は全国の大学に深く根づいていた。それは、ベトナム反戦運動などとあい絡まって、1968年から翌69年にかけて大学の自治と解放に向かって東大闘争や、日大をはじめとする全共闘の闘争に広がっていく。

 当時、学生生活が終わろうとしていた僕は、先鋭化する学生運動にとおについていけず、のちに歌われた「「いちご白書」をもう一度」のような心情で最後の学生生活を送っていた。
 ゴダールやレネや大島渚、吉田喜重などの、いわゆるヌーヴェルヴァーグの映画を自分の心に映し出すことで、精神的なカタルシスを行っていたのかもしれない。
 当時の時代や学生運動を扱った評論や回顧譚は小熊英二の「1968」から亀和田武の「60年代ポップ少年」や中野翠の「あのころ、早稲田で」まで何冊かあるが、政治の季節だった学生時代の心情は、僕は今でも素直に吐露することができない。
 やはりまだ棘が刺さっているのだ。
 1968年……。あの頃の時代は世界各地で確かに燃えていた。そして、傷も残した。

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「BB」が誕生した、「素直な悪女」

2013-04-19 04:15:05 | 映画:フランス映画
 「BB」といってもピンとこない人が多くなったことだろう。アメリカの人気女優であった「MM」のマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)に倣って、フランスの女優ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot )を呼称した言葉である。
 「BB」は「ビー・ビー」と呼ばずに、「ベ・ベ」とフランス風に言うのが通である。フランス語の“bébé”(赤ちゃん、ベイビー)に聞こえて、フランスでは一気に愛称として定着した。   
 ちなみに、バルドーと同時代に活躍したイタリアのクラウディア・カルディナ―レ(Claudia Cardinale)は「CC」と呼ばれた。

 では、「AA」といえば、誰であろうか?
 「MM」「BB」「CC」のように、セックス・シンボル的存在ではないが充分に色っぽい、「モンパルナスの灯」「男と女」のアヌーク・エーメ(Anouk Aimee)ではどうだろう。
 「DD」にはモンローと同世代の、「二人でお茶を」「知りすぎていた男」などのドリス・デイ(Doris Day)をあげる人がいるが、ちょっと健康的すぎるだろう。
 やはりこのアルファベット頭文字のゾロ目の呼称は、名前の綴りが適応するからいいというものではない。セクシーな女でないといけない。しかも、一世を風靡したような。

 *

 1950年代から60年代のフランスの代表的なセクシーな女といえば、このBBことブリジット・バルドーであった。
 野性的な猫のような眼と脂身をおびた唇、くびれた腰が大きな胸(乳房)を否応なく目立たせた。床に手をついて四つん這いになった姿は、どう見ても豹かチーターのようであった。その点では、山猫に例えられたクラウディア・カルディナ―レも彼女と似ているところがあった。
 雑誌モデルをしていたバルドーが18歳のときにいち早く目をつけて1952年に結婚したのが、映画監督のロジェ・ヴァディムである。このときはヴァディムはまだ監督として映画は撮っていなく、バルドーが22歳のとき、ヴァディムが28歳のとき、彼は自分の妻を主役として、初めて映画監督としてデビューする。
 それが、「素直な悪女」(Et Dieu... créa la femme、1956年、仏)である。
 この映画の原題は、直訳すれば「神が女を創った」という意味だが、日本公開では「素直な悪女」となった。映画の内容から、日本の配給会社の担当者がこの題名にしたのだろうが、この映画でバルドーは一躍大人気者となり、さらに悪女のレッテルが貼られ、それは決してマイナスではない代名詞となった。

 *

 映画「素直な悪女」の舞台は、南フランスの小さな漁港サントロペ。ここの老夫婦の家に孤児院から送られてきたジュリエット(ブリジット・バルドー)は、はちきれんばかりの肉体と奔放な行動の小娘で、街の男たちがほうっておかない。
 酒場の経営者である渋い中年の男エリック(クルト・ユルゲンス)は、娘みたいな女に心奪われていることを隠そうとはしないで、ことあるごとにジュリエットに言い寄る。
 ジュリエットは港のハンサムな色男アントワーヌ(クリスチャン・マルカン)に好意を寄せているが、その男に誠意がないとわかると、男の弟である真面目なミシェル(ジャン・ルイ・トランティニャン)と突発的に結婚する。
 結婚したからといって、このまま静かに終わるわけがない。彼女の周りには、いつも火がくすぶっている。彼女は野生の獣のように、何かに飢えている。
 そして、ふとした事故がもとでジュリエットはアントワーヌとも関係を持ってしまう。

 *

 実際、悪女にふさわしくバルドーは、この映画「素直な悪女」の撮影の最中に、相手役のジャン・ルイ・トランティニャンと恋に陥り駆け落ち騒動までおこしている。
 それが原因かどうか、この映画の撮影終了後、バルドーはロジェ・ヴァディムと離婚する。
 ロジェ・ヴァディムはふられて可愛そうな男だ、と思ってはいけない。ヴァディムは名うてのプレイボーイなのである。
 映画監督という職業は、日本でも大島渚(結婚相手、小山明子)や吉田喜重(岡田茉莉子)、篠田正浩(岩下志麻)などの松竹ヌーベルバーグの監督に代表されるように、当時もっとも売れっ子でかつ、いい大女優と結婚している。今の若い監督はどうか知らないが。

 ロジェ・ヴァディムは、バルドーと離婚した翌1958年、デンマーク人女優アネット・ストロイベルグと結婚し娘をもうけるが、2年で離婚。
 すぐにまだ無名だったカトリーヌ・ドヌーヴと交際を始めていて、1962年に彼女を主演に「悪徳の栄え」を監督として作り、彼女の才能を開花さしている。
 バルドーといいドヌーヴといい、女を見る目は相当なものといえる。ドヌーヴはその2年後「シェルブールの雨傘」で人気女優となった。ヴァディムは彼女との間に息子をもうけるが、結婚はしないで交際を続けた。
 それでいて1965年にはジェーン・フォンダと結婚し、彼女を主演に「獲物の分け前」や「バーバレラ」などの作品を監督するが、1973年に離婚。彼女との間にも娘をもうけている。
 1975年に衣装デザイナーと結婚するが、数年で離婚。1990年には女優のマリー=クリスティーヌ・バローと結婚。
 まさしく、映画界のカサノバと呼ばれるにふさわしい女優遍歴である。このほか、表に出なかった数多の女との関係を想像するだけで羨ましくなるからやめておこう。

 映画監督は洋の東西を問わず、自分の好きな女を主演にした映画を作りたいものである。
 特にロジェ・ヴァディムは、恋人や妻にした女優、さらにその女との間にもうけた娘や息子を主演・出演させた映画を主に作ってきたといっても過言ではない。
 ロジェ・ヴァディムの監督作品のなかで僕が好きなのは「スエーデンの城」(1962年、仏)もそうなのだが、「輪舞」(La Ronde、1964年、仏)をあげたい。男と女との愛の営みが、次々とパッチワークのように繋がっていく洒落た映画である。
 「突然炎のごとく」のマリー・デュボア、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナ、「太陽の下の18歳」のカトリーヌ・スパークなどのフランス女優に交じって、アメリカ人女優のジェーン・フォンダがなぜか入っていたと思ったら、ヴァディムは彼女と翌年結婚したのだった。
 分かりやすい人である。そして、幸せな人である。
 好きなことを仕事とし、その仕事とは好きになった女の魅力的なところを取り出すことであり、その好きになった女と結婚する。しかも、何度も。

 結局、「素直な悪女」でブリジット・バルドーの魅力を引き出し人気女優「BB」にした、ロジェ・ヴァディムへの羨望と賛辞になってしまった。
 映画の舞台となったサントロペは、映画ではこの当時のどかな海辺の街だが、今はコートダジュールの高級避暑地である。
 映画界をとっくに引退したブリジット・バルドーは、今は「BB」の面影はないが、現役のカトリーヌ・ドヌーヴは、いまだ女として色っぽさを保っている。

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BBとCCのセクシーな「華麗なる対決」

2013-02-12 03:37:11 | 映画:フランス映画
 「華麗なる対決」(LES PETROLEUSES、監督:クリスチャン=ジャック、仏・伊・西共同制作、1971年)は、フランス映画女優の顔だったBBことブリジット・バルドーと、イタリア映画女優の顔だったCCことクラウディア・カルディナーレが共演した映画である。ヨーロッパ映画女優を代表するセクシーなBBとCCの、最初で最後の共演作となった。
 B・バルドーが1934年、C・カルディナーレが1939年生まれで、この「華麗なる対決」の製作公開が1971年だから、大体バルドーが36歳、カルディナーレが31歳のときの作品である。
 アメリカのセックス・シンボルだったMMことマリリン・モンローが死んだのが1962年だから、M・モンローのなき後の1960年代は、この2人がセクシー女優を代表していたと言っていい。
 しかし、セクシーさに対する期待が重かったのか肉体の魅力を維持することに対して自信が持てなくなったのか、B・バルドーはこの「華麗なる対決」の後2作品に出演して、73年にはあっさり映画界を引退した。
 一方、C・カルディナーレは、最近の映画は見ていないが、おそらく今でも現役のはずである。僕は「ブーベの恋人」以来、カルディナーレのファンを公言しているのだが、近年、「マルチェロ・マストロヤンニ甘い追憶」というマストロヤンニの回顧ドキュメンタリー映画を見ていたら、カルディナーレがインタビューで出演していた。そのとき、彼女のあまりにもの変貌に、僕はその映像を見たことを後悔したほどだった。
 その映画に出演していたとき彼女は60代であったのだが、彼女から昔の面影を見つけるのが難しかった。そういえば、彼女を見た最後の映画は「家族の肖像」(1974年作)だから、彼女がまだ34歳のときである。
 老いは誰にでも訪れることなので、そのことを言っているのではない。いまだ彼女は活気があったが、化粧が濃く、老いを覆い隠そうとしているか認めていないように感じられた。
 彼女の後に同じくインタビューで出てきた、マストロヤンニと「甘い生活」「81/2」で共演したアヌーク・エーメも同じように年をとっているはずだが、エーメは若いときの面影を充分に残しつつ“品”を加えていた。アヌーク・エーメは1932年生まれだからカルディナーレより年輩だ。2人の「その後」は、あまりにも違った。

 「華麗なる対決」このときは、クラウディア・カルディナーレのもっとも女盛りのときかもしれない。ブリジッド・バルドーに負けてはいなかった。
 「山猫」のように鋭敏な瞳と、「ピンクの豹」のような色気を保っていた。

 物語の内容は、BBとCCによる西部劇である。
 西部劇はアメリカ映画が本場だが、この当時イタリアでも作られていて、日本でも「マカロニ・ウェスタン」(アメリカやイタリアではスパゲッティ・ウェスタン)などと言って、人気があった。
 西部劇だから、アメリカのテキサスが舞台だが、台詞はフランス語ときている。だから、冒頭で、荒野の町に「テキサス州、ブージヴァル・ジャンクション、1858年フランス人が開拓する」と表示板を掲げている。だから、ここはフランス人の町なのだから、フランス語がまかり通っているのは不思議ではないということなのだ。
 唯一英語を喋る少しとぼけた保安官が、CCに惚れていてデイトに誘うのだが、「フランス語が上手になってからね」などと軽くあしらわれたりする。
 この映画はフランス・イタリア・スペイン共同制作となっていたが、BBがフランス人、CCがイタリア人ということでフランス・イタリアは分かるのだが、なぜスペインも入っているのか不思議だった。でも、分かったのは、マカロニ・ウェスタンと同じく、撮影の舞台をスペインの原野で撮影しているのだ。だから、3国共同制作なのだ。

 女性4人をひきいるBBが列車強盗集団のボスで、地元のはみ出し者CCが4人の男兄弟を従えて街を闊歩しているという状況だ。その2つの集団、といってもBBとCCの2人が、石油が出るという牧場の利権をめぐって争うという、たわいない話である。
 この映画は、BBとCCを堪能する映画なので、内容は二の次なのだ。だから、この2人が乳房を揺らせながら喧嘩する場面は圧巻だ。
 この2人にマリリン・モンローを加えて、MM、BB、CCの3人の共演を見てみたかった。
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運命の女に出会ったら、「イヴォンヌの香り」(Le parfum d’Yvonne)

2012-01-30 02:47:55 | 映画:フランス映画
 恋愛小説あるいは恋愛映画において、その王道というべきテーマは、ファム・ファタール、運命の女との恋であろう。
 男がある女に出会い耽溺し破滅する恋は、不滅の恋物語である。その原型をアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」にみることができる。
 男は一目惚れし、恋に陥り、女に振り回され、破滅に向かう。女は愛すべき可愛い女であり、気まぐれで目が離せなく、行きつくところ純な男の及ぶところではないのだ。いわば、悪女とも魔性の女ともいえる。それでいてどうしようもなく魅力的な女。それが、男にとってのファム・ファタールである。
 君も、生涯一度は出くわしたことがあるだろう。もしそうでなかったら、これから出くわすかもしれない。
 幸か不幸か、出会ったら逃れることはできない。
 それが、運命の女だ。

 この映画「イヴォンヌの香り」(原作:パトリック・モディアノ、監督:パトリス・ルコント、1994年、仏)も、その手の映画である。

 男は、暗い駅で回想する。
 「恋人たちは出会ったところに戻る」という言葉を思い出していた。
 1958年の夏が私に残したものは?
 偽りの人生が始まった。
 彼女の眼差し、シガレットケース、緑のスカーフ。
 幸せだった日々の思い出が、とりとめもなく甦る。

 男ヴィクトール・シュマラ(イポリット・ジラルド)はロシアの伯爵で、その年の夏、レマン湖のほとりの避暑地にいた。親の残した遺産で食べるのには困らないようで、若いのに何もせず、読書と人間観察に耽る日々を送っていた。
 つまり、男は、自分で言うところの無為の生活を送っていた。
 「仕事は?」と訊かれれば、「何もしていない」と答えた。
 「では、休暇中ですか?」と訊かれれば、
 「ずっと休暇中です。昔は、“ゆっくり老いている”と答えていた」と答えた。
 若くして気ままな生活では、恋をする以外に何が残されていようか。
 男がホテルのロビーにいたある日、人生が変わった。
 男は一人の魅力的な女イヴォンヌ(サンドラ・マジャーニ)に出会った。そして瞬く間に、その女と恋におちた。
 その女の近くには、初老の医師であるルネ・マント(ジャン・ピエール・マリエル)がいつも付き添いのようにいた。金も教養はあるが、深い暗さを宿した男だ。おそらく、彼もイヴォンヌに恋していた。
 そして、老いと格闘していた。

 ある晩、ルネが酒場で一人飲んでいると、ジュークボックスからシャンソンが流れた。シャルル・アズナブールの「Sa jeunesse …entre ses mains」(日本題名:青春という宝)であった。
 それは、彼の心境を歌っているようであり、すべての人生を歌っているようだった。
 「豊かさを自分の手の中で持っているとき、二〇歳であれば輝く明日がある。
  愛が私たちに注がれ、眠れぬ夜を与えてくれる。
  ……
  そして、失われた時は戻ってはこない、去ってしまう。手を差しのべても悔やむだけ。
  もう遅すぎる。時間(とき)は、止められない。
  いつまでも留(とど)めておきたいのに。青春という時を…」

 歌のように、人生は瞬く間に過ぎていく。夢がある青春も儚い。すぐに、若者は中年になり、老人になっていく。
 キラキラした思い出だけが、記憶の中にたたずんでいる。

 男ヴィクトールとイヴォンヌは湖を渡る船に乗る。イヴォンヌは言う。「答えて! 答えたらご褒美をあげるわ」。「結婚したら、伯爵夫人ね?」。
 男は「そうだね。ヴィクトール・シュマラ伯爵夫人」と嬉しそうに頷く。
 二人は船の甲板にいた。一面、青い湖の水と澄み渡った青い空。男は、イヴォンヌをカメラのレンズ越しに見つめる。
 イヴォンヌは太陽の光を浴びて、水と空を見ている。白いスカートが風になびいた。
 「ご褒美をあげなくちゃ」イヴォンヌは男にほほ笑みながら、自分の白いスカートに手を差し入れ、白いパンティーを脱いで男に渡した。
 「私が落ちた時の形見よ」
 風がスカートをめくり、可愛いお尻をちらちらと覗かした。

 こんな胸をときめかす光景も、どこにもなかったかのように、すぐに過去に消えていく。
 あるのは、記憶の奥底にだけ。

 監督のパトリス・ルコントは、「仕立て屋の恋」(1989年)、「髪結いの亭主」(1990年)で、日本でも人気になった
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