かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「西洋の敗北」② スプートニク・ショック

2025-03-31 03:35:45 | 人生は記憶
 最近、よく「霧のカレリア」という曲を聴いている。もう60年も前の懐かしい曲だ。

 先の「西洋の敗北」①で、アメリカの「スプートニク・ショック」に触れた。
 第2次世界大戦の終盤、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリン書記長の間で、「ヤルタ会談」が行われた。いわゆる、超大国による戦後体制の協議である。
 この第2次世界大戦における太平洋戦争終盤、アメリカは1945年8月、広島、長崎に新型爆弾(当時の日本の呼称)を投下した。このことは、世界で初となる原子爆弾を開発・保持していることを世界に実証したことであった。
 つまり、アメリカが核というそれまでの破壊力に比較にならない突出した戦力を持ったこと、それを開発した科学力があったことを示したのだった。
 第2次世界大戦は連合国側の勝利に終わったといえ、戦場となったヨーロッパはどこも被害を負い国は疲弊した。そのなかで戦争に参加したとはいえほぼ本土は無傷のアメリカは、戦後、経済的にも戦力的にも一歩抜きに出た大国となった。
 そしてこの後、「ヤルタ会談」での戦勝大国の一国だった共産主義国・ソ連も、1949年、核兵器を開発し、その戦力を保持・拡大していく。
 こうして、アメリカとソ連は静かな覇権争いに突入して、アメリカと西側ヨーロッパ諸国の「NATO」(北大西洋条約機構)とソ連と東側ヨーロッパ諸国の「ワルシャワ条約機構」(WP)の対立へと発展していく。
 そして、世界は冷戦下へ移っていく。

 *地球の片隅にまで届いた、「スプートニク」の衝撃

 戦後、鉄のカーテンが引かれた冷戦下の世界。
 それでも、あらゆる面でアメリカは抜きに出ているように見えたし、アメリカ自身もそう自負していたように写った。
 そんななか、1957(昭和32)年10月4日、ソ連によって人工衛星が打ち上げられたというニュースが全世界に発せられた。その名の「スプートニク1号」は、地球を周回する人類最初の人工衛星であった。
 当時、私は小学6年生であったが、大きな衝撃を受けた。矢のようなアンテナを持った丸い物体が空の彼方へ地球を抜け出て、それが月と同じように地球を周っているということに驚いた。
 突然、それまで宇宙という想像・空想、物語の世界が身近なものとなった出来事だった。

 このスプートニク1号は、九州の片隅の少年にまで衝撃を与えたのだから、おそらく威信を傷つけられたアメリカの受けた衝撃は計り知れない。
 この「スプートニク・ショック」も醒めやらぬ1か月後の1957年11月3日、ソ連は今度は犬(ライカ犬)を乗せたスプートニク2号を打ち上げた。
 人工衛星に生きた犬が乗っているのである。ということは、人間が乗って宇宙に行くのもまったく夢物語ではなくなったということを意味していた。
 九州の少年にとっても、さらなる驚きだった。

 そのときの心情は、その2か月後(1958年1月)の私の年賀状に表れている。スプートニクが描かれているのだ。
 正確には、版木に掘られた彫刻画(版画)である。小学生でも年賀状を出していたのだな、誰に出していたのだろうか、と振り返る。
 当時、年賀状は彫刻刀で木版に彫った版画にしていた。1958(昭和33)年が戌年だったので、犬の版画を作ることにした。1957年の12月に彫ったのだろう。
 物置の奥に残っていた木版を取り出して見ると、忘れていたのだが1958年の版画が3枚ある。一つは、標本画のような平凡な犬の版画である。それにもう一つは、獅子舞の衣装を着飾った少年の前に座った犬の版画(これは今見ても凝った絵柄である)。
 しかしこの2枚を作った後、あのスプートニクのライカ犬がひらめいたのだろう。いや、あのライカ犬はどうなったのだろうと、頭の中で忘れられなかったのかもしれない。
 そして、決定版として、ライカ犬のスプートニクの版画を作ったのだ。今回その版画を、墨をすってハガキ大の紙に摺ってみた。墨の写りが悪いのは勘弁としよう。(写真)
 今思えば、テレビもネットもなかった時代である。どうして私はスプートニクの細かな情報を知り得ていたのだろう。ラジオと新聞からであろうか。

 *切手と歌に表れた「スプートニク」

 人工衛星スプートニクが打ち上げられた1957年はどんな年だったのか?
 前にも書いたが、私は切手少年でもあった。だから、記念切手で日本の大きな出来事を知ることもあった。この年の記憶に残った記念切手をあげてみる。

 ・国際連合加盟記念 国際連合加盟
 1966年12月、日ソ共同宣言が成立したことを受けて、日本の国際連合加盟が実現。日本は80か国目の加盟国となった。
 ・地球観測年記念 南極観測 昭和基地で開始
 観測船「宗谷」で南極に向かった日本の南極観測隊は、1月、白瀬中尉以来45年ぶりに南極大陸に上陸し日章旗を掲げた。昭和基地が設営され、西堀栄三郎越冬隊長以下11人が越冬し、日本の南極観測の歴史が始まった。
 ・原子炉完成記念 東海村で原子炉に火がともる
 茨城県東海村で日本最初の原子の火をともす歴史的な作業が行われ、8月、研究用原子炉に火がついた。日本の原子力利用の第一歩を踏み出した。

 この記念切手の出来事だけを見ても、日本は大きな変動期だったことが分かる。

 そして、世界的には、世界初のソ連による人工衛星「スプートニク」の打ち上げである。
 このスプートニクに関する切手が世界各国(主に東欧)で発行された。
 私のコレクションの中にスプートニク関係が2枚あったので挙げてみよう。(写真参照)
 写真・上は、「DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」とあるので、ドイツ民主共和国、かつての東ドイツの切手である。
 写真・下は、ハングルがあるとおり、北朝鮮の切手である。これは驚きである。

 *「スプートニクス」が広げた「霧のカレリア」

 冒頭にあげた「霧のカレリア」は、1965年にスウェーデンのバンド、「ザ・スプートニクス」がリリースしたエレキ・ギターによるインストゥルメンタルである。
 当時のエレキ・バンドといえばアメリカのザ・ベンチャーズが有名だが、この「ザ・スプートニクス」は、人工衛星スプートニクにちなんで宇宙服を着て演奏した、知る人ぞ知る人気バンドであった。
 ここでいうカレリアとは、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる地方の名前である。曲中にロシア民謡の「トロイカ」がアレンジされて入っている。
 また、「哀愁のカレリヤ」という曲があるが、こちらはザ・スプートニクスのメンバーがフィンランドで結成したフィーネーズの名でレコーディングしたもの。ほぼ「霧のカレリア」と同じ曲相である。

 このように、「スプートニク」は、全世界の様々な方面に思わぬ影響を与え、広範に波及したのだった。
 そして、人類が初めて宇宙飛行に成功したのは、スプートニク1号飛行の約3年半後の1961(昭和36)年4月12日、ソ連のボストーク1号に乗ったユーリ・ガガーリンによってであった。
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「西洋の敗北」① アメリカへの想い

2025-03-09 02:07:57 | 人生は記憶
 エマニュエル・トッドの「西洋の敗北」(文藝春秋刊)を読み、それに関連してアメリカについての個人的な想いを書き始めていたら、本題とは違った方向へ行ってしまった。
 私の場合よくあることだが、流れに任せて書いている。

 *憧れのアメリカ

 戦後の民主主義の時代に育った私の少年時代は、アメリカは輝いていた。
 私たち、少年たちにとってのヒーローは、漫画や映画のなかの“ターザン”や“スーパーマン”だった。西部劇のカウボーイも格好良かった。
 日本にテレビが普及したのは1950年代の後半からで、それでも最初のころはテレビのある家は滅多になかった。1959(昭和34)年4月、当時の皇太子(現上皇)のご成婚の実況中継を、わが家にはテレビがなかったので近所の親類の家に見にいった。
 映画やテレビのなかで見るアメリカは、絵本にあるような庭のあるきれいな三角屋根の家で、家のなかはすでに冷蔵庫や洗濯機、テレビといった電化製品が並んでいて、広い道の玄関わきには車(自動車)さえ置いてある。
 家族はイスとテーブルで食事をし(当然のことだが)、何でも知っている陽気なパパと少しうるさいが楽しいママがいる一家のもめごとや些細な事件は、いつも楽しそうであった。
 画面の向こうの家庭から見えるアメリカという国は、遠い別世界であった。
 一方、木造の狭いあばら家で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)でせいぜい煮魚と味噌汁ぐらいの食卓の当時のわが家とは比べることすら思いもしない、海の向こうのアメリカは豊かな国だった。
 実際、戦後(第2次世界大戦後)、アメリカは自他ともに認める自由で民主主義の先頭を走っている大らかな国といえた。少なからず、憧れを持たせる国であった。

 1957(昭和32)年のソビエト連邦による人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げは、全世界を驚愕させた。
 まだ小学生だった私は、人間が打ち上げた尾を付けたような丸い球が宇宙まで飛んで行き、それが地球を周っているということに、驚きと共に感動し、しばらく空を見上げていたものだった。年をとり、徒(いたずら)に長く生きた私の人生のなかでも、最も衝撃を受けた出来事だったと言えるかもしれない。
 世界のトップを走っていたアメリカは「スプートニク・ショック」となって、あらゆる場面でソ連(ソビエト連邦のちロシア)と覇権争いをするようになっていった。

 *初めての文通

 1950年代末、九州の田舎でのこと。
 中学に入ったとき、授業科目に「英語」が加わった。教科書は「ジャック・アンド・ベティ、JACK AND BETTY」である。
 「 I am a boy. I am Jack Jones. You are a girl. You are Betty Smith. 」 こんな文で始まった。
 それで、通い始めた寺小屋のような塾の先生の勧めで、英語の勉強の手助けにもなるだろうと、アメリカの同じぐらいの年齢の女の子(中学生)と文通をすることにした。
 私は、ウキウキした気持ちで手紙を送ることにした。英文など書けるわけがないので、文は先生に書いてもらった。
 ほどなくして、返事の手紙が届いた。相手の女性はアメリカのオクラホマ州の同じ年齢の少女であった。オクラホマ州がどこにあるかは知らなかったが、海の向こうのアメリカから来た手紙に心躍った。
 手紙のなかには、3人姉妹ということで、3人のポートレート写真が同封されていた。写真のなかの彼女たちは、キレイにおめかししていてニコッと笑っている。そのなかで、愛嬌はありそうだが丸顔で眼鏡をかけた“ベティちゃん”みたいな次女が手紙の相手だった。
 手紙の文は先生が訳してくれたのだが、そのなかで私の写真を送ってくれと書いてあった。
 私は困った。写真機など持っていない。写真といえばクラスで並んでとった卒業写真ぐらいで、ちゃんとした写真などない。個人の写真であるのは、子どものときのもので、最近のといえば近所の畑の前で弟と並んで撮った写真が1枚あるぐらいである。それも、袖丈の短くなった学生服に学生帽子といういでたちである。
 しかし、その後のいきさつが霧のなかである。
 文通はそれきりだったことを思えば、私が気後れして手紙を書かなかったのか、あるいは相手からの返事がこなかったのかもしれない。自分に英語の実力がないとはいえ、英文を塾の先生に丸投げするのが、内心腑に落ちない思いも多少あった。
 それ以後、私のアメリカ少女との文通の気持ちは消え去り、塾もほどなくやめてしまった。

 その頃、たぶん全国的にと思うが、海外との文通がちょっとしたブームであった。日本がやっと海外に目を向ける余裕が出てきたのか、中・高校生の間の切手ブームも関係がないとも言えないだろう。海外の切手は珍しかった。そして私も切手少年であった。
 当時、私の周りの友人の間で海外文通は話題にはのぼったが、長く続けているという人間はいなかった。みんな、私みたいに挫折したか、一歩を踏みださなかったのだろう。
 文通を続けていれば、その後アメリカに対する関心も変わり、私の英語も少しはましになったかもしれない。

 当時、アメリカとの文通を案内していた、手書きのガリ版刷りでホチキス(ステープラー)で留めた十数ページの小雑誌「エンゼルANGEL」を手にしたとき、急に世界(アメリカ)が近くなったような気持になった。
 それは、何人かの個人が国際親善協会(門司市)という名で発行している、手作りの小雑誌である。あと書きに、希望は月刊だが、できれば2か月に1回、あるいは季刊にしたいと言い訳気味に書かれていた。不定期刊で市販されているのではなく、会費によって賄われているようだ。塾の先生が会員だったのかもしれない。
 内容は、可愛いイラスト交じりで、海外への郵便料金、アメリカへの手紙の書き方などが紹介されていた。興味深いのは、郵便料金の項で、「琉球」が別項目で扱われていることだ。「沖縄」がまだ日本に復帰していなくて、ドル扱いだったのだ。
 実は、今でもその手書きのガリ版刷りの小雑誌は保管している。(写真)

 中学の時のアメリカ少女との“かりそめの文通”は、私の初めての海外とのささやかな接触だった。

 *花はどこへ行った Where have all the flowers gone?

 長じて、1960年代後半のこと。
 ラジオの深夜放送からは、アメリカのポップスやフォークが流れていた。
 「夢のカリフォルニア California Dreamin'」(ママス&パパス)は、アメリカの西海岸カリフォルニアに夢を抱かせた。
 「花のサンフランシスコ San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」(スコット・マッケンジー)は、サンフランシスコに行く時は髪に花飾りをつけていくようにと歌った。
 アメリカの60年代後半は、ベトナム戦争抜きでは語れないだろう。この激しさを増す戦争に反対する運動として起こったのが「武器ではなく花を」、「愛と平和」をスローガンにした「フラワー・ムーブメント」だった。
 このフラワー・ムーブメントは、歌だけでなくファッションやサイケデリック・アート(美術)など多くの分野で世界に影響を与え、サブカルチャーの花を咲かせた。

 後に親しくなった音楽評論家(翻訳家)は、当時、夢のカリフォルニアに憧れてサンフランシスコに留学した。

 依然アメリカは輝いていたし、世界に影響を与え続けていた。

 *アーカイブス――エマニュエル・トッド

 混迷する国際情勢に関する発言・発信において、近年注目されているフランス人の歴史・人類学者のエマニュエル・トッドである。
 最新作「西洋の敗北」は次回にするとして、参考までに、当ブログにおけるエマニュエル・トッド関連記事は以下の通り。

 ・「今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?」(2022-09-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/460823bdfcdac29864fe0d5f6c5dbf9a

 ・西洋の没落「トッド人類史入門」(2023-10-14)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/c96708f0dceb619cc99574f786a513f4



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歌う銀幕のスター、「小林旭回顧録 マイトガイは死なず」

2025-01-30 03:15:43 | 本/小説:日本
 街のみんなが振りかえる 青い夜風も振りかえる
 君と僕とを振りかえる そんな気がする恋の夜……

 *二刀流の小林旭

 時代とともに綺羅星のごとく多くのスターが生まれ、多くのスターが流れ星のように消えていった。
 思えば、どれだけのスターと呼ばれた人が、記憶に残るのだろうか、記録に残っていくのだろうか。

 小林旭は、今なお現役で活動している。
 1938(昭和13)年生まれだから、今年86歳である。
 1956(昭和31)年、第3期日活ニューフェイスに合格し、映画界の道へ入る。同年「飢える魂」(監督:川島雄三)で映画界にデビューし、1957年、「青春の冒険」(監督:吉村廉)で初主演。1958(昭和33)年の作品、浅丘ルリ子との共演「絶唱」(監督:滝沢英輔)は初期の代表的な文芸作品となった。
 1959(昭和34)年、「南国土佐を後にして」(監督:齋藤武市、原作:川内康範、出演:小林旭、浅丘ルリ子、内田良平、南田洋子、ペギー葉山)での主演映画が大ヒットし、この映画が滝伸次なる「渡り鳥シリーズ」の先駆けとなった。
 さらに同時期に作られた、二階堂卓也なる「銀座旋風児シリーズ」、野村浩次なる「流れ者シリーズ」、清水次郎なる「暴れん坊シリーズ」、氷室浩次なる「賭博師シリーズ」などで、毎月のように旭主演の映画が封切られ、石原裕次郎とともに日活の黄金時代を築いた。
 日活を出たあとは、東映の「仁義なき戦いシリーズ」(監督:深作欣二)、東宝の「青春の門」(監督:浦山桐郎)など、多数映画出演した。

 小林旭は歌も歌う。
 映画全盛期には映画の主題歌として歌い、それは映画から独り立ちして一般的な歌謡曲(流行歌)としても広く流れた。
 1958(昭和33)年、日本コロムビアより「女を忘れろ」(作詞:野村俊夫、作曲:船村徹)で歌手デビュー。同年歌った2曲目の「ダイナマイトが百五十屯」(作詞:関沢新一、作曲:船村徹)より、彼の愛称「マイトガイ」が生まれた。
 冒頭にあげた歌の文句は、1960(昭和35)年の映画「流れ者シリーズ」の第2作「海を渡る波止場の風」(監督:山崎徳次郎)の主題歌「ズンドコ節」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実、編曲:狛林正一)の出だしの歌詞である。
 映画が下火になったころ、小林旭は事業に手を出し、ゴルフ場経営の失敗などで多額の負債を背負う。そのとき、1975(昭和50)年発売したレコード「名前で出ています」(作詞:星野哲郎、作曲:叶弦大)を引っ提げて全国を回り、やがて有線からじりじりと火が付いたこの歌が大ヒットして、借金返済の目途がたったという話は有名だ。
 そして、1985(昭和60)年発売の、作詞・阿久悠、作曲・大瀧詠一という予想外のコンビによる「熱き心に」は、その後フィナーレで歌われる定番曲になった。

 スクリーンではアクション・スターとして躍動し、ステージでは声(甲)高く歌を歌い、それが両方とも人々を熱くさせてきた。それゆえに、歌う銀幕のスターと称されたのだった。
 今で言うところ(大谷翔平風)の、“二刀流”なのである。

 若いときには、日活の小林旭の映画はよく見たし、レコードも買って歌もよく聴いた(今でも聴いている)。
 そして、貴重な体験だったが、一度だけライブを聴きに行った。
 日活撮影所がある東京都調布市が市制施行60周年企画として、2016(平成28)年に小林旭のスペシャル・コンサートが調布市グリーンホールで開かれたときである。
 このときは、会場に浅丘ルリ子、宍戸錠が駆けつけてくれた。
 このときのことは、ブログで書いている。
 ※「小林旭① 調布市制施行60周年「熱き心のコンサート」」(2016-02-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/6b35d19bcd2a7b6a4e87da492c0e94be
 ※「小林旭② 吉永小百合との共演「黒い傷あとのブルース」」(2016-02-27)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/257392907047a50ea22036bcfac00204

 *何を隠そう、旭が好き!

 先日(2月25日)の朝日新聞の読書欄に、小林旭の回顧録「マイトガイは死なず」(文藝春秋刊)が掲載されていた。この固いコーナーに、俳優の本が載るのは珍しいので驚いた。論評したのは美術家(グラフィック・デザイナー)の横尾忠則であった。
 ここのところ小林旭がクセになってライブに通っていると、横尾はこの書評で述べている。
 小林旭の自伝的単行本は、すでに「さすらい」(新潮社)など何冊か出ているが、この「マイトガイは死なず」は、月刊「文藝春秋」に連載していたものを、単行本として去年(2004年)11月、出版された本である。

 かつて「渡り鳥シリーズ」をはじめ日活作品が芸術作品とは比べるべくもなく低級だと思われていたころ、意外な文化人が日活映画、とりわけ小林旭が好きだと評価したり、そう思わせる文(本)を書いたのを発見すると、密かに嬉しく思ったものである。

 小林信彦(作家)は、1970年代初頭に、小説「オヨヨ・シリーズ」のなかで、小林旭を登場させている。文中でこれを発見したときは、当時このようなことは滅多になかったので、驚いたと同時に感激した記憶がある。
 渡辺武信(建築家、詩人)は、1972年発行の「ヒーローの夢と死」(思潮社)で小林旭の映画を「無国籍アクション映画」と定義し、そのあと「日活アクションの華麗な世界」(未来社)で詳細に分析・記録した。
 この人は本職は建築家だが、日活アクションが好きで映画評も個性的で好きだった。本職を交えた「銀幕のインテリア」(読売新聞社)を出したとき、雑誌編集者だった私は取材でお話ししたことがある。
 日活黄金期の風景としては、「渡り鳥シリーズ」などの脚本を書いた山崎巌の自伝的小説「夢のぬかるみ」(新潮社)が興味深い。
 しかし何と言っても、小林旭を知るうえで欠かせないのは、小林信彦と大瀧詠一(ミュージシャン)の編集による「小林旭読本」(キネマ旬報社、2002年刊)である。保存版ともいうべき、小林旭出演の全映画(2002年まで)が、スタッフ、キャスト、内容解説付きで詳細に記録されている。

 それで、本題の「マイトガイは死なず」である。
 石原裕次郎、浅丘ルリ子、美空ひばりなど、彼と関係が深かった人物に関しては今まで小林旭が語ってきたこと以上の話は出ていない。
 しかし、今まで形式的にしか書かれなかった人物の実像も、ちらとだが書かれている。
 「ズンドコ節」や「ついてくるかい」など、終始旭の曲を書いてきた遠藤実。コロムビア時代からクラウンにレコード会社を移っても旭を担当した、五木寛之の小説「艶歌」などの主人公の「艶歌の竜」のモデルとされる音楽ディレクター、馬淵玄三。「昔の名前で出ています」他を作曲した叶弦大など、知らなかった一面を垣間見せている。
 そして、あまり実像が語られなかった大物俳優、鶴田浩二に関して、奥歯にものが挟まったような表現で以下のように述べている。
 「鶴さんは変わったところがあった。普段からまともに人の顔を見ようともしないんだ。なんていうか、陰に隠れて障子の向こうからものを言ったりする人だった」

 *幻のレコード大賞「熱き心に」

 この本「マイトガイは死なず」のなかで衝撃的なのは、「文藝春秋」(2023年11月号)にも掲載されたのだが、日本レコード大賞についての項である。
 1986(昭和61)年の「第28回日本レコード大賞」(TBS系)に「熱き心に」が大賞候補にノミネートされた。このときのことは、だいたい次のように書かれている。
 大賞が発表される直前まで、小林旭には自分が選ばれるという確信があった。舞台裏で事前に審査員の西村晃から受賞を伝えられていたからだ。
 小林旭は、作詞を手がけた阿久悠と共に授賞式が行われた日本武道館のステージに立った。ところが大賞に選ばれたのは、前年「ミ・アモーレ」で大賞を受賞した中森明菜の「DESIRE」だった。旭に渡されたのは「特別選奨」という聞いたこともない賞だった。
 「熱き心に」が審査段階で大賞に決まったものの、直後の裏工作により中森明菜の「DESIRE」が逆転受賞したというのである。
 この大賞レースの意外な結末に、小林旭も怒りをこらえて苦笑いを浮かべるしかなかったという。
 
 *大瀧詠一との一期一会

 この「熱き心に」を作曲した大瀧詠一は、小林旭のファンで知られていて、自ら作詞に阿久悠を指名して、それこそ熱い心でこの作品を作りあげた。
 歌も大ヒットし、その後小林旭との友好関係が築かれたと思いきや、録音のときのスタジオで顔を合せただけだという。
 大瀧は、大森昭男との対談(「みんなCM音楽を歌っていた」田家秀樹)でこう述べている。
 「あの時一回だけ。六本木のあの歌人れのスタジオが最初で最後。その時、銀座に誘われたんだけど、そんなところに行ったら大変だと思ったからね(笑)。それ以降も逢ってないです。一期一会。それで十分。作品の提供だけで良いんですよ」
 大瀧詠一の小林旭への愛と清々しさが伝わってきて、ほほえましい。
 
 大瀧詠一も阿久悠も今はないが、小林旭は健在である。
 マイトガイは死なず。
 渡り鳥いつまた帰る……

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日本発祥の地を求めて、横浜⑨ 野毛坂から野毛山へ

2025-01-24 04:57:32 | * 東京とその周辺の散策
 流れてきたのか 流されたのか
 どこへ行こうか気の向くままに メリケン波止場が見える丘
 ここは横浜 日ノ出 野毛坂 桜木町

 *野毛坂から野毛山公園へ

 伊勢山皇大神宮から成田山横浜別院をあとにして、野毛坂へやってきた。
 野毛坂の交差点から「野毛坂」を登ったところに緑の小高い丘がある。ここが動物園もある「野毛山公園」である。
 「野毛山」は、明治のころは横浜の豪商たちの邸宅や別荘地帯であった。ところが関東大震災によって崩壊し、その後、公園として整備された。
 1887(明治20)年、野毛山にイギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマーによって横浜水道の配水池が設置され、日本初の近代水道が始まった。

 野毛坂を登りはじめたところに、黒い鉄の筒のようなものが飾られてある。古い大砲の筒かと思った。
 ・「日本近代水道・最古の水道管」
 これは、明治の日本政府に依頼されたヘンリー・スペンサー・パーマーの指導によって作られた水道管の一部の筒だった。

 野毛坂からすぐのところで公園のなかに入っていくと、石碑があった。
 ・「中村汀女句碑」(野毛山公園内)
 中村汀女は、明治生まれの昭和の代表的な俳人である。
 熊本生まれで、官僚だった夫の転勤とともに東京、横浜、仙台、名古屋など転々とし、後に東京に定住した。どうしてここに碑があるのだろうと思った。
 横浜にも一時住んでここで俳句を作ったというのであれば、ちょっと弱い理由ではなかろうか。弘法大師とは違うのだから。

 さらに公園の奥に入っていくと、また幕末の知識人の碑がある。
 ・「佐久間象山顕彰碑」(野毛山公園内)
 佐久間象山は、江戸時代後期の信濃松代藩士の思想家で、朱子学、洋学、蘭学、砲術などあらゆるジャンルに長けた知識人であった。吉田松陰、勝海舟らに強い影響を与えた。開国佐幕のために奔走したが、京都で攘夷派により暗殺された。
 横浜開港を強く唱えたということで、ここに顕彰碑が建てられた。

 この近くに常夜燈のようなものが建っている。
 昭和初期、ラジオが普及し始めたころ、全国に建てたラジオの発信塔だという。このような塔は、初めて目にした。
 ・「ラジオ塔」(野毛山公園内)
 説明板には以下の文が記してある。
 「このラジオ塔はラジオの聴取契約者が百万人を越えた記念に、日本放送協会が昭和七年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ、昭和七年度から昭和八年度中に四十一ヵ所が完成して、その中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。
 正式名/公衆用聴取施設 全高/三メートル 建塔/昭和七年十一月十九日」
 ※説明文には読点(、)がなかったので筆者が付した。

 この区域を離れ「野毛山動物園」のところへ移ったが、動物園には入らなかった。ちなみに、動物園は入場無料となっている。

 *野毛山公園展望台の丘へ

 動物園地区から道路上に架かっている吊り橋を渡って、南の展望台のある区域に入った。
 しばらく歩くと、外国人の胸像があった。
 ㉚「ヘンリー・スペンサー・パーマー胸像」(野毛山公園内)
 1887(明治20)年、横浜に日本最初の近代水道が創設された。この場所は野毛山貯水場の跡であり、「近代水道発祥の地」となっている。
 野毛山公園に入ったすぐのところに、「日本近代水道・最古の水道管の筒」があった。イギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマーはその生みの父である。
 当時、海辺を埋め立てて造られた横浜は、いい水ではなかった。パーマーの設計・監督により、相模川と道志川の合流点(現・津久井町)に求めた水源から44Km離れた野毛山の貯水場に運ばれた水は、浄水され市内に給水された。
 パーマーは、横浜のほかにも大阪、神戸、函館、東京などの水道計画にも貢献したとある。

 さてとこの一帯を見まわすと、中央部分に何やらモニュメントのようなものが建っている。
 ・「オリンピック記念碑」(野毛山公園内)
 1964(昭和39)年開催された東京オリンピックの記念碑である。
 この記念碑には3面に競技のレリーフが飾られている。まず目に入ってくるのは、記念の題字とともにバレーボールをしている女子選手の像である。そして、サッカー、バスケットボールをしている選手像がある。
 女子バレーボールは、当時、“東洋の魔女”と呼ばれて日本中を熱狂させ、金メダルを獲得したのだから、正面に飾られて当然だろう。
 面白いのは、躍動している選手像の右上に競技名が、例えば「バレーボール」、「バスケットボール」と描かれているのだが、ボールを蹴(け)っているサッカーのところは「蹴球」となっているのである。
 つまり、フットボールであるが、まだサッカーが日本では定着していなかったためか漢字になっている。これではラグビーと区別がつかない。ちなみに、日本のプロサッカーリーグ(Jリーグ)が開始・開催されたのは1993(平成5)年である。
 ところで、なぜ東京の代々木競技場でなく、ここに東京オリンピックの記念碑があるのかと思っていたら、バレーボール、サッカー、バスケットボール(予選)の3種目が横浜市で行われたとのこと。これを記念して、1966(昭和41)年に設立されたものである。

 その先に、3階建てのコンクリート枠組みの建築物がある。
 ・「野毛山公園展望台」
 野毛山公園自体が高い丘になっているので、さらにその上の見晴らし台からは、少し殺風景な建物ではあるが、見晴らしがよさそうである。
 1階にトイレがあり、上に行くには階段だけでなくエレベーターも備えてある。が、ここは歩いていく。
 上からは、四方の横浜の街並みが見えた。
 みなとみらいのランドタワーも観覧車も見える。
 横浜港の方からぐっと右(南東)の方に、街並みの彼方に、何やら並んだ3つの塔が見える。
 うん? 異様だ。いや、威容だ。街並みから、あの塔だけが浮いている。いや、家やビルの乱立する街並みから置き去りにされている。
 あれは見たことがある、と思いだした。横浜港の南、確か根岸方面だ。よく見れば、塔の周りは緑に囲まれている。だとすると、根岸公園の旧競馬場の廃墟に違いない。
 あたかも、森(ジャングル)の繁みのなかにポツンとあるマヤ文明の遺跡のようだ。
 (写真)
 ※「日本発祥の地を求めて、横浜⑦ 根岸の旧競馬場の廃墟」(2023-09-18)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/4336444ad59110b65ff8f20735a84a15?fm=entry_awc

 野毛山公園を出て、「横浜迎賓館」を見ながら、日ノ出町の駅に向かった。
 そこから、細い急な下り階段である「天神坂」を下りて、「日ノ出町」駅に出た。
 日ノ出町駅から桜木町の駅に向かった。
 野毛大通りより大岡川寄りの脇の通りを歩き、もうすっかり日が落ちて、灯りがともる「野毛小路」の飲み屋が連なる通りを歩いた。

 *

 桜木町から石川町までJRの電車で移動し、中華街の満州(中国東北)料理店に向かった。
 ビールのあと紹興酒を飲みながら、この日の料理は以下の通り。
 まず、「羊肉」「手羽先」「豚マメ」3種の串焼き。
 「パクチー、ネギ、青唐辛子の東北和え」
 「きのこと牛肉のオイスターソース炒め」
 「ラム肉、カキ、漬け白菜の酸味土鍋」
 最後に、「焼きビーフン」
 今回、野菜類を一つと思って、「パクチー、ネギ、青唐辛子の東北和え」をとった。生の野菜を良い加減の味に和えてあったのだが、何せ青唐辛子がその美味しさを失わせるほど辛い。
 しばらく顔をしかめて食べたあと、青唐辛子を除いて(あるいは微量に残して)食べればいい感じの柔らかい味になるとわかった。そして、残った青唐辛子は味の薄いビーフンなどに付け交ぜれば、これまたいい味に変容するとわかった。
 それと、タイ料理ではないカメムシ臭いのパクチーの味も収穫だった。これから、自分で家で作る料理にも使おうと思った。

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日本発祥の地を求めて、横浜⑧ 桜木町から伊勢山、野毛坂方面へ

2025-01-20 02:53:23 | * 東京とその周辺の散策
 港の灯りに背を向けて 路地をすり抜け 坂道歩けば
 潮の香りが追ってくる
 ここは横浜 岩亀 伊勢山 野毛小路

 *なぜか、横浜を歩きまわっていた

 横浜を散策する小さな旅は、気紛れながらも続いている。
 これも、同行の湘南の士による詳細な立案に負うところが大きい。それに、歩いた後の最終地となる中華街での満州(中国東北地)料理を食する楽しみも、この横浜散策が続いている要因および魅力の一つと言える。

 まず3年前、山下公園から港に沿って“みなとみらい”へ歩いたことから始まった。
 ※「ブルーライト・ヨコハマ① まずは山下公園から埠頭へ」(2022-01-20)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/5d153e97a33b9e1aeaa3088c726d24ae
 そこから、横浜の魅力といえる“初めての地”巡りとして、「日本発祥の地を求めて、横浜」のシリーズが開始した。
 「山下公園」周辺から始まり、「みなとみらい」の横浜港をなぞって「山手公園」「港の見える丘公園」から「馬車道」、そして「根岸公園」へと歩いた。
 ※「日本発祥の地を求めて、横浜① 山下公園から日本大通りへ」(2022-05-28)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/cbbad74131a40782120cf42a1f57bc98

 それに、「横浜・盛り場ブルース」が加わり、「黄金町」から「寿町」「伊勢佐木町」などを歩いた。
 ※「横浜・盛り場ブルース① 裏横浜をあるく」(2024-02-29)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/435897bdc1f312f87df142d360f010b2?fm=entry_awc
 そのとき、今回歩いた野毛界隈も歩いた。
 ※「横浜・盛り場ブルース③ ディープな野毛から福富町界隈」(2024-04-01)

 *桜木町から掃部山公園、伊勢山皇大神宮、成田山横浜別院へ

 今回の目的地は、野毛坂界隈である。だが、その途中に誘惑に充ちたところがあちこちにある。
 1月7日の午後、JR桜木町駅の南口から出発した。
 線路に沿って続く国道を、横浜駅方面(北西)へ歩く。歩き始めるとすぐに、道路わきに何かの残壁か、例えば咄嗟に東西ドイツのベルリンの壁を思い浮かべたが、そう思わせるような塀が続いている。何だろうと塀に沿って歩くと、その先に高架の線路跡の道路が続いていた。下に、「東横線跡地」とあり、上向きの矢印とともに「遊歩道」とある。
 ・「東横線・廃線跡」(桜木町駅線路沿い)
 現在、東急東横線は渋谷駅と横浜駅を結んでいるが、かつては横浜駅より先の桜木町駅が終点だった。
 2004(平成16)年、みなとみらい線の横浜~元町・中華街間が開業して、東横線との直通運転が始まり、これに伴い東横線の横浜~桜木町間は、高島町駅とともに廃止されている。
 このJR線に沿った廃線跡は、東横線の跡なのだ。
 東横線跡地による「遊歩道」の看板がある先は、フェンスが設置されていて入ることはできない。

 国道を歩いた先の「雪見橋」のところで、国道に沿って走っている新横浜通りを左斜めに入っている「岩亀横町」へ。
 しばらく歩いていくと、通りの喫茶店の隣に稲荷神社の幟が目についた。
 ・「岩亀(がんき)稲荷」(西区戸部町)
 通りの「岩亀稲荷」の幟がなびいているところに鳥居はないが、上に小さな瓦屋根があり、そこが神社の入口であることを教えてくれる。その建物と建物の間の細い路地を入っていくと、行き止まりになっていて、そこに小さな神社が祀ってある。
 この神社の由縁はというと、以下のとおりである。
 横浜開港直後の横浜に、外国人向けに設けられた遊郭が「港崎(みよざき)遊郭」(現・横浜公園辺り)で、その後吉原町(現・羽衣町辺り)、高島町に移った。当時、この遊郭一の規模を誇った遊女屋が「岩亀楼」である。
 そこの遊女たちが病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、そこで祀られていた稲荷さまが起源といわれている。
 移転を重ねた遊郭は、真金町、永楽町の「永真遊郭街」として戦後まで続くことになる。
 ※「横浜・盛り場ブルース⑤ トワイライト・ヨコハマ!」(2024-04-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/01f1f4456da5212b9b8079d5fa3669f3

 この通りの戻った雪見橋寄りのところに「温故知新のみち」という説明版の柱が立っている。
 ここの緩やかな坂を上がっていくと、「掃部山(かもんやま)公園」である。
 この公園のなかに、幕末に活動した歴史上有名な徳川幕府老中の銅像がある。
 ・「井伊直弼像」(掃部山公園内)
 ここは、かつて明治初期には鉄道関係の施設が立てられていたことから鉄道山と呼ばれていた。その後、横浜開港5 0年記念に開港に貢献した井伊直弼の記念碑(銅像)を建てる運びとなり、そのとき旧彦根藩(井伊家)の所有になった。そして大正時代に、市に寄付され「掃部山公園」となった。
 公園の名前の由来は、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)からとったもの。
 銅像は第二次世界大戦中、政府の金属回収令で取り払われたが、1954(昭和29)年に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。

 掃部山公園の一角に「横浜能楽堂」がある。
 1996(平成8)年)に竣工した立派な建物であるが、現在は改修工事のため閉館していた。

 掃部山公園をあとに、県立音楽堂を右に見て進むと、右手に県立青少年センターがある。
 その前に、ポツンと唐突に石碑が建ててある。
 ・「神奈川奉行所跡」(西区紅葉ケ丘)
 ここに、江戸末期、神奈川奉行所が置かれていた。
 周りの風景からして歴史的背景は感じられないし、なぜここに奉行所がと疑問に思った。坂を上った高台であることから、かつては重要なエリアだったのだろう。この辺りは県立図書館ほか神奈川県の公的施設が多いのが、その名残の現れか。
 紅葉坂の県立青少年センターの先を左折すると、左手に緩やかな坂の通りがあり、その先に鳥居が見える。

 ・「伊勢山皇大神宮」(いせやまこうたいじんぐう)(西区宮崎町)
 この通りは、伊勢山皇大神宮の裏参道とある。裏と名乗っているだけあって、少しうら寂しい。
 境内に入ると、絵馬が飾ってあり受験シーズンとあってそれらしい人が多い。
 「皇大神宮」という豪壮な名前からみて、なにやら由来があるだろうと思った。
 調べてみると、武蔵国の国司が勅命によって、伊勢神宮から勧請したと伝わる戸部村海岸伊勢の森の山上の神明社を、1870(明治3)年、現在地に遷座し横浜の総鎮守とした、とある。
 それに、「伊勢山」と冠名が付いている。この地は、もともとは野毛山と呼ばれていたが、遷座の際に伊勢山と改められたらしい。しかし、今はその地名は残っていない。
 とはいえ、伊勢神宮から由来していると思われる伊勢は残っている。
 本殿は、伊勢神宮と同じ茅葺の神明造りである。去年の秋、伊勢神宮に行ってきたばかりなので、つい本家と比較してしまう。
 本殿をあとに階段を降り、表参道を歩いた。これで、裏参道から表参道へと歩いたことになる。
 (写真)
 伊勢山皇大神宮をあとに歩き進むと、すぐにまた派手やかな“謹賀新年”の幟を掲げた建物に出くわした。

 ・「成田山 横浜別院 延命院」(西区宮崎町)
 成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院である。1870(明治3)年建立とあるから、伊勢山皇大神宮と同時期に建てられたことになる。
 東西の人気の伊勢神宮と成田山新勝寺に縁を持った寺社が、明治の初期にここ横浜に建てられたということは、開港により横浜に外国人が居留したことに無関係ではあるまい。
 この時期、すごい勢いで流入してきた、新しい、それもエネルギーに充ちた西洋の文化や宗教に対峙する必要が生まれたのだろう。
 こうして、横浜には独特の文化が生まれた。

 さて、ここから「野毛坂」へ向かおう。


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今年のおせち料理、2025年

2025-01-02 03:40:14 | 気まぐれな日々
 わかぬ間に 庭に茂れる八重葎(やえむぐら)
   ふりゆく花も 香れしものを
               2025(令和7)年正月

 いつのまにか分からない間に、庭の垣根の木につる草が蔽い延びている。
 私は年々老いていっているのだが、庭の花木も同じく古く老いていく。
 この木は、花が咲けば香りが窓越しに降るように薫っていた。
 しかし、その香りも心なしか乏しくなっているように感じる。
 私が老いたせいだろうか、過ぎ去ったあのかぐわしい花の香る季節が懐かしいものだ。
                               沖宿

 *黄昏の正月料理!

 正月は恒例の形式である。形式は様式でもって表される。
 年々、私の正月のおせち料理は、形式だけの料理になりつつある。
 たかが、自分が作る自分のための料理だから、様式にこだわることはない、これも老いていく証か、と弁解がましい言い訳を自らにしてみる。
 というわけで、今年のおせち料理は以下の通りとなった。
 
 まず、「蒲鉾」と「鰊の昆布巻き」を切って並べる。これに「田作り」が加わり、個人的にはおせち料理の最低限を支える御三家としている。
 おせちの定番である「数の子」は、いまさら子だくさんでもあるまいしと問題外とし、「黒豆」は糖分が高いし、甘い「伊達巻」も圏外にしている。
 しかし、今年は「田作り」がなく、御三家の一角が脱落した。
 「刺身」はカンパチ。刺身はカンパチに限る。かつてはハマチが一番好きだったが。
 そして、「ゆで卵」、「豆腐」を並べる。野菜類は、「カボチャ煮」と「トマト」と簡単省力。摘まみとして「銀杏」を添える。
 今年は「雑煮」をしないので、代わりにご飯として「寿司(にぎり)」である。正月料理の主力の雑煮が今年はない。これは我ながらまずいと思う。ぜひとも、来年は復活させなければいけない。
 年に一度、家で飲む日本酒は、例年は「越乃寒梅」にしているのだが、今年はそれが売り切れていたので、同じ新潟県南魚沼産の「八海山」とした。
 (写真)
 さて、今年、令和七年も始まったなあと、ひとり、燗にした酒を飲みながら、おせちを摘まみだしたのは、西日が差すころとなっていた。
 流す音楽は、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」。
 ヴェネツィアのサンマルコ広場でこの曲を演奏(2022年7月)している映像を見ていっぺんに気に入ったのだが、この曲は物語性の強い歌(合唱)があるので、音だけより映像込み(生演奏に越したことはないが)の方がいい。

 こうして、すべてに不安定な要素を孕んだ今年、2025年が静かに始まったのだった。
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五日市線、秋川でジャズ

2025-01-01 00:00:00 | 歌/音楽
 JR五日市線に乗って秋川駅に行った。
 何しに行ったかといえば、近くにある「キララホール」にジャズを聴きに行ったのである。
 秋川駅は、東京都あきる野市にある駅である。

 多摩市は、左右(東西)に細長い東京都のほぼ真ん中辺りにある。
 多摩市に引っ越してきたころは、今までは東の都心の方しか目が向いていなかったのが、逆の西の奥多摩の方に目がいくようになった。気のせいか、西の森から風にのって何やら誘ってくるのである。
 それで、時々西へ向かい、JR五日市線に乗った。
 五日市線は、JR青梅線、八高線が交わる拝島駅から西へ延びて武蔵五日市駅まで行く線である。
 終点の武蔵五日市駅で降りると、そこからバスで「つるつる温泉」(東京都西多摩郡日の出町)に向かった。バスは機関車の形をした可愛いものであった。
 人里から離れた山のなかの温泉で、しかも日帰りで行けるというので、当時つるつる温泉以外に、青梅線の終点、奥多摩駅から歩いていける「奥多摩温泉もえぎの湯」(東京都西多摩郡奥多摩町)にも通った時期があった。
 だから五日市線といえば、ほのぼのとした印象しかない。

 *波乱に富んだあきる野市、秋川駅の変遷

 「秋川駅」は、東京都あきる野市にある駅である。あきる野駅という駅は存在しない。
 では、どうしてあきる野市にある駅が秋川駅になったのかを見てみると、いろいろ町の変遷と絡んで面白い。
 1889(明治22)年、町村制施行により、引田村、淵上村、上代継村、下代継村、牛沼村、油平村が合併し、神奈川県西多摩郡西秋留村が誕生する。
 1893(明治26)年、西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡とともに東京府へ編入する。
 1925年(大正14)年、五日市線(拝島~武蔵五日市間)開通と同時に「西秋留駅」が誕生。同時に隣の「東秋留駅」も誕生している。
 1943(昭和18)年、東京都制施行により東京都西多摩郡西秋留村となる。
 1955年(昭和30)年、西秋留村、東秋留村、多西村が合併し「秋多(あきた)町」が発足。また、五日市町と増戸村、戸倉村、小宮村が合併し「五日市町」が発足した。
 1972(昭和47)年、秋多町が市制施行に際し「秋川市」と改称する。
 1987(昭和62)年、それまで西秋留駅のまま継続していた駅名を、「秋川駅」に改称する。
 1995(平成7)年、秋川市と五日市町が合併し、「あきる野市」が発足する。
 しかし、駅名は「秋川駅」のままである。「東秋留駅」は、いまだ当初の名前のまま残存している。

 それにしても、「あきる野市」という名前である。
 この名の市が誕生したころのこと。ここの出身の女性に、出身地を訊いたとき、「う、うん?、あひる?、あひるの市?」と、からかったものである。
 「秋留」「阿伎留」の地名がもとになっているのはわかる。それで、合併する秋川市と五日市町がもめて、ひらがなに落ちどころを求めたのだろう。それに、なぜか「野」を付け加えた。
 近年、合併によって増えてしまった市町村名のひらがな、カタカナ化には、私は疑問を感じている。どうしても、もめた末の、これだったら何とか強い反対も収められるという、浅い魂胆が窺える折衷案としか思えないのだ。
 県庁所在地の「さいたま市」などは、きちんと「埼玉」という歴史ある漢字があるのだからなおさらである。
 山梨県の「南アルプス市」に本場スイスやアルプス地元の人たちが訪れたら、なんと思うだろう。通称や俗称ではないのだ。

 *五日市線、秋川駅へ

 12月22日の午後、拝島駅から武蔵五日市駅行きの五日市線の電車に乗った。
 ホームで停まっている電車に乗ろうとしたらドアが閉まっている。寒いので一部のドア(多くは車両の端)だけ開けて他は閉めているのかと思ったが、そうではない。
 乗客がドアの横のボタンを押してドアの開閉を行う半自動(ボタン式)なのだ。うーん、東京ではめったに見られない。
 拝島駅からは、10分ほどの秋川駅で降りた。
 この日は、駅近くのキララホールでジャズの演奏会があるので、おそらく通常の日より多くの人が降りたようだ。
 それでも駅前は閑散としている。ホテルがあるのが救いだ。

 秋川駅からキララホールのある北へ向かうと、キララ通りと並行してマールボロウ通りなるものがある。アメリカ合衆国のマールボロウ市(Marlborough、Marlboro)と姉妹都市の関係でつけられた通りらしい。
 キララホールは洒落た建物だ。キララホールの隣には中央図書館があり、市の文化的中心地の雰囲気がある。(写真)

 *高瀬龍一ビッグバンドJAZZコンサート

 この日は、トランペット奏者の高橋龍一によるビッグバンドでのジャズ・コンサートである。
 内容は、デューク・エリントンと並ぶアメリカのビッグバンドの大御所、カウント・ベイシーのみの曲演奏である。
 現在、世界で行われているビッグバンドによるジャズの演奏は、5本のサックス、4本のトランペットと4本のトロン ボーンのブラスセクションに、ピアノ、ベース、ドラムス、ギターのリズムセクションを加えた17人編成が標準となっている。

 この日の、「高瀬龍一ビッグバンドJAZZコンサート」のメンバーは以下の通り。
 高瀬龍一(tp,cond)、岸義和(tp)、奥村晶(tp)、松島啓之(tp)、岡崎好朗(tp)、中路英明(tb)、橋本佳明(tb)、三塚知貴(tb)、堂本雅樹(btb)、辻野進輔(as)、白石幸司(as,cl)、岡崎正典(ts)、川村裕司(ts)、鵜木孝之(bs)、板垣光弘(p)、山下弘治(b)、丹寧臣(ds)

 ビッグバンドのジャズ・コンサートは初めてであった。
 それが、秋川であったということが印象深い。




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銀座で「能」を

2024-12-25 03:36:55 | ドラマ/芝居
 *異世界の能舞台

 日本の伝統芸能の一つに能がある。
 能は、面をつけた登場人物が(面をつけない人物もいる)、独特の調子で語り(謡い)、舞う物語である。バックには、楽器である笛、小鼓、大鼓の囃子(はやし)が入る。ときに、人の謡いが加わる。
 能は人形浄瑠璃と同じく、一定の様式を持った伝統芸能である。

 能の現在の演目は約240目あるらしく、そのうちよく演じられているのは120目ぐらいといわれている。
 代表的な演目の役柄には、「源氏物語」「伊勢物語」などの古典文学に登場する人物や、「平家物語」で死んだ武将の霊など、霊魂が登場する物語が多い。
 大体にして動きは摺り足でスローモーであるので、ある意味では重厚といえるし、音(囃子)も間(ま)に重きをおいているので緊張感があるが、軽快・軽妙とはいかない。
 いわゆる日本の伝統芸能の魅力は、独特の雅趣、風情である。

 建物のなかの能舞台を能楽堂と呼ぶ。
 能の舞台も形が決まっている。
 能を舞うためのステージ(本舞台)は、四角く前に張り出していて、この正方形の舞台には屋根がついていて、角に4本の柱がある。本舞台の左手(観客から見て)の奥に細い渡り廊下(橋掛り)が延びていて、その廊下が終わるところに五色の幕があり、そこが登場人物の出入り口となっている。
 つまり、能の舞台は、通常の演劇や音楽の長方形の四角い舞台と違っていて、細長い廊下(橋掛り)付きの正方形の舞台という、他に例を見ない変形なのである。
 それに、本舞台の奥の正面にはひときわ目立つ松が描かれている。この松の絵は不可欠なのだ。
 また、左手の渡り廊下の前にも、等間隔に3本の松の木が置かれている。この松は遠近法に倣い、左の幕にいくにしたがって少しずつ小さくなっている。
 さらに、本舞台の正面からは客席に続く短い階段(きざはし)が置かれている。
 これらのことは、能の舞台では決まり事で欠かせないことなのだ。他に例を見ない舞台装置である。
 それに、舞台と客席を仕切る幕(緞帳)もない。

 もともと能も狂言も野外で行われていたので、室内で行うことになってもその雰囲気・情感を残そうとした結果、この形になったのだろう。

 *能の体験

 初めて能を観たのは、社会人になってすぐのころである。
 目黒駅から杉野・ドレスメーカー学園のあるドレメ通りを過ぎたところにある喜多能楽堂にてであった。能に興味があったわけではないので、たぶん誰からかチケットをもらったのだろう。
 あらかじめ調べもせず解説書もなかったので、まったく内容がわからないし面白くもない。舞台の上の、恨めしい顔の鬼のような女性の面が脳裏に残る。
 日本の伝統芸能として知名度が高い能とはこんなものかと、モヤモヤとした不完全燃焼のまま館を出たという能初体験だった。
 演目が「鉄輪」だったことを覚えているのは、それが「かなわ」と読んだからである。
 のちに、別府の鉄輪温泉に行ったとき、おっ、この名は能からきたのかな、なにせ温泉地獄の地だからな、と思ってしまった。別府の温泉地は、「かんなわおんせん」と呼ぶ。

 その後、何回か能を見たが(といっても数えるほどだが)、印象深かったのは、2009(平成21)年9月、多摩市の多摩中央公園内にある「パルテノン多摩きらめきの池」で行われた「水上能」である。
 満月の夜、水を張った池の上に設けられた舞台で能が行われた。演目は、その日の満月にちなんで、月の出と月の入りを場面に組み入れた「融(とおる) 舞返(まいかえし)」であった。
 このとき、能は風情があり、幻想的だと感じた。寺の境内などでの薪能はあるが、水の上での能はめったにないだろう。
 やはり、能は野外に限ると思った。

 *銀座に生まれた能楽堂

 友人が謡いをやっている関係で、久しぶりに能を観ることになった。

 12月14日、銀座にある観世能楽堂に出かけた。「大松洋一の会」である。
 観世能楽堂は、能の流儀(流派)の一つである観世会(観世流)が運営する能楽専門の公演場で、銀座6丁目のGINZA SIX地下3階にある。
 GINZA SIXは、もと松坂屋銀座店があったところで、建物は地下6階・地上13階建ての銀座界隈で最大のビルである。こんなところに能楽堂があるとは知らなかった。
 以前、観世能楽堂が渋谷区松濤の旧鍋島邸跡地にあったときに観に行ったことがあったが、銀座では初めてである。
 (写真は観世能楽堂)
 演目は、能「鉢木」(はちのき)、狂言「二千石」、能「羽衣」で、演者(シテ)は大松洋一である。

 「鉢木」の内容は、
 ある雪の夜、上野国(現群馬県)に着いた旅の僧が、1軒の貧家に宿泊を請う。そこの主(あるじ)はその妻と、大切にしていた鉢植えの木を焚いて僧をもてなす。そして、今はこうして落ちぶれているが、もし鎌倉に事が起きたら一番に駆けつけると語った。
 翌朝、旅の僧は家を出立する。
 後日、鎌倉から諸国の武士に召集がかかる。上野国の老いぼれた主も痩せ馬に乗って鎌倉に駆けつける。そこで、ここの党首が以前雪の夜に宿を請うた僧だったと知る。召集は、上野国の主が言ったことが真偽かを試すために行った前執権の北条時頼の計らいだった。
 時頼は鎌倉に駆けつけてきた主の忠節を誉めて、3か所の荘(領地)を与えたのだった。

 「羽衣」の内容は、
 駿河(現静岡県)の三保の浦に住む漁師が、松の枝にかけてある美しい衣を見つけて持ち帰ろうとする。そこへ天女が現れて、その衣がないと天に帰れないと言って嘆くので、漁師は衣を返してあげる代わりに天女に舞を請う。天女はその羽衣をまとい、舞を舞いながら天に帰っていくのであった。

 両演目とも、能の特徴の霊の生まれ変わりは出てこない、単純な内容である。
 しかし、初めて見る演目の場合、人形浄瑠璃の文楽と同じく、粗筋を知っていて、能で謡われる言葉を記した詞章を見ていないと、日本人でもわかりづらい。ましてや、外国人は相当な日本文化通でないと楽しめないだろうと思った。

 久しぶりに能を観て、能を楽しむには年季が入ると思い知った。

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噂の画家、田中一村の絵を観る

2024-12-05 03:04:42 | 気まぐれな日々
 生前は世に認められず、奄美大島で亡くなった田中一村の個展を東京都美術館(上野)で観てきた。

 田中一村は1908(明治41)年、栃木県に生まれ、一家は彼が6歳のときに東京へ転居。彫刻師の父の影響もあり、幼少時より画才を発揮し神童と言われた。
 南画(人文画)を得意とし、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するも2か月で退学。
 その後家族で千葉に移住し、農業に従事しながら絵を描き続ける。青龍展に入選するも、日展、院展と何度も落選する。
 1958(昭和33)年、50歳にして単身奄美大島(鹿児島県)へ移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては絵を描くという日々を送る。
 1977(昭和52)年、奄美大島にて死去。享年69。

 奄美大島の有志によって田中一村の遺作展が開催されたのが1979(昭和54)年のこと。彼の死から2年がたっていた。
 1984(昭和59)年、NHKテレビ「日曜美術館」で特集放映されたことで全国的に認知され、その後雑誌などでも特集されることになる。
 2001(平成13)年、奄美大島に田中一村記念美術館が設立される。
 そして、東京都美術館にて「田中一村 奄美の光、魂の絵画」展(2024年9月19日~12月1日)が開催された。
 生前、「東京で個展を開きたい」と言っていた田中一村。
 2024(平成6)年のこの秋、東京都美術館は、田中一村展を観るため長蛇の列である。

 *東京都美術館での田中一村展のブレイク実感

 田中一村展が今週末12月1日で終わるという直前の11月29日(金)、上野に出かけた。
 夕方の4時(16時)半ごろ東京都美術館の入り口前に来てみると、当日は予約制とある。ただし状況次第で当日券も発売しますとの条件付きだ。人数限定のミシュランの星レストランでもあるまいし、美術展で予約制とは初めて聞いた。そんなことはあるまい、何とかなるだろうと館のなかに入った。
 館内は確かに人が多い。奥のチケット売り場の窓口のところには当日券売り場とある。つまり、この日のチケットも売っているのだ。2つの窓口に多くの人が並んでいるので、列に加わった。
 チケットは、並んだとはいえそう時間はかからず買えた。チケットを見ると「17:00―18:00」と入場時間が記されていた。
 そこから、さらに奥の会場の入り口に向かった。入口では、係員が紙チケット、もしくはQR予約の人は携帯スマホをチェック確認しながら、なかに通していた。
 私も普通に横から入ろうとしたら、おや?と気づいた。チケット・チェックを受けている人の後ろは人の列になっていて、さらにその背後に人の山があった。
 すぐに列をたどりながら歩いていくと、列は後ろのところで折れてまた前に進み、また折れてといった具合に、身をくっつけて曲がりくねった蛇のように3、4重にもなっていた。
 この人混みの山全体が、一村展に入るための列だった。愚痴を言う相手もいないので、「最後尾」と書いたプラカードを持った係員のいるところに行き、黙って並んだ。

 ※私はどんなものであれ、列に並ぶのは好きではない。ラーメン店や何かの開店(館)セールなどで一番で入ろうとか、あるいは早く買おうと長時間並ぶ人がいるが、そんな気持ちになったことがない。いわんや、展覧会をや、である。
 しかし、思い出した。展覧会で並んだ記憶がある。あれは、初めて上京した年1964(昭和39)年の4月のこと、やはり上野の国立西洋美術館で「ミロのヴィーナス」を見たときだ。遠い昔のことだ。
 「ミロのヴィーナス」以来か……

 チケット・チェックのあと、さらに第2段階として、その先の会場に入るまでに列が作られた。何なのだ、と心のなかで呟いた。これでは観る時間があまりないなと思った。
 この日は、金曜日とはいえウィークデーである。私は田中一村展がこんなに人気だとは思いもしなかった。余裕を持って観賞できると思っていた。つい先日、民放のテレビ美術番組で放映したのも効いているのかなと思った。
 ようやく会場に入ると、そこは意外なことに空いていた、ということはなく、この長蛇の列のことから当然のことだが、芋を洗うような状態だった。
 田中一村、死後47年。生前ほとんど知られていなかったのが噓のような、過剰というか、異常なまでの人気である。

 *死後、有名になった画家たち

 生前は無名だったが死後の有名になった画家といえば、ゴーギャンやゴッホ、モディリアーニを思い出す。

 ファン・ゴッホはオランダ人であるが、後半生はフランスで過ごした。特に南フランスのアルル時代の絵が有名であるが、最後はパリで自死した。
 今では誰もが知っているゴッホだが、生前に売れた絵は「赤い葡萄畑」の1枚のみだったと言われている。
 彼の生涯は、映画「炎の人ゴッホ Lust for Life」(監督:ヴィンセント・ミネリ、1955年、米)に描かれている。苦悩する画家ゴッホをカーク・ダグラスが、彼の愛憎半ばした思いであった友ゴーギャンをアンソニー・クインが演じた。二人とも、ゴッホ、ゴーギャンの自画像と見比べても、全く本人かと思わせるほどの適役だった。

 フランスで主に活動していたポール・ゴーギャンは、一時アルルでゴッホと過ごしたことがあるが、40歳を過ぎに南太平洋ポリネシアのタヒチ島へ移り住み、マルキーズ諸島で生涯を終えた。
 彼の絵ではタヒチで描いた絵が有名だが、なかでも晩年の作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)は彼の最高傑作とされる。フランスの歴史学・人類学者エマニュエル・トッドの代表作ともいえる本のタイトルは「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(Où en sommes-nous ? Une esquisse de l'histoire humaine)で、その表紙はゴーギャンの絵を用いてある。
 サマセット・モームの小説「月と六ペンスThe Moon and Sixpence」は、ゴーギャンがモデルと言われている。

 今では、瞳のない目で長い顔と首の女性の絵を見れば、すぐに彼の絵とわかるほど有名な画家であるアメデオ・モディリアーニである。
 モディリアーニはパリのモンパルナスで活動していたが、なかなか世に認められず荒れた生活を送っていた。生前、画廊において唯一となる個展を開いたことがあるものの、裸婦画を出展したのがもとで警察が踏み込む騒ぎとなったという逸話がある。
 モディリアーニの半生は、アラン・ドロン出現前のフランスを代表する二枚目ジェラール・フィリップが演じた映画「モンパルナスの灯 Les amants de Montparnasse」(監督:ジャック・ベッケル、1958年、仏)に描かれている。
 絵が売れないモディリアーニは失意のうちに倒れて死んでしまう。彼の死を見届けた画商はその足で彼の家に行き、彼の死を隠したままモディリアーニの妻から絵をすべて安値で買い取っていくという話である。
 モディリアーニの死の翌日、彼の妻は自殺した。

 *人混みのなかで見た一村の絵

 長い行列に並んだ末に、ようやくたどり着いた田中一村の展示会場内である。
 混雑している会場内では、最前列は諦めて後方、あるいは斜めから絵を観賞する。
 展示された作品は全部で300点以上で、よく集めたものだと感心してしまう。
 展示は年代順に、「第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代」、「第2章 千葉時代「一村」誕生」、「第3章 己の道 奄美へ」の3章仕立てとなっていた。
 最初に、7歳のときの作品「柳にかわせみ」が出てきて、これは子どもの作品とは思えない、神童と呼ばれたのは間違いないと、いきなり衝撃を与える完成された水墨画である。
 どんな少年だったのだろうと想像しながら観ていった。
 何せ人が多く動きもスローなので、足取りが進まないのに加えて、これでもかとばかり作品が続く。特に千葉時代は作品が多い。見る人波がゆっくり進むので、丁寧に見ることになったせいか、途中疲れてしまった。
 それでも、展示がおおよそ年代順なので、この辺から少し変わったなとか新しい手法を取り入れたとか、停滞の時期かななど、絵の変遷が何となく感じられる。
 やはり、見ものは後期の奄美大島時代である。南画から解放されたかのような、彼の本質が全面開花した印象である。絵全体に、南国の特徴が表れ、繊細さのなかに大胆さが見える。

 そして会場を歩きまわり、あの絵はどこなのかという期待を焦らして、最後の最後に代表的な2枚が、出口を挟んで対比するかのように展示してあるという仕組みである。
 ポスターや案内に用いられている「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」(クワズイモとソテツ)である。
 この絵を観て、彼はこの絵を描くために絵描きであり続けたに違いないと思えた。
 この2枚を観るために、私は長い列に並んでここにやってきたと思った。
 (写真の展示案内板に付された絵は「不喰芋と蘇鐵」)

 すでに20時を超えている。途中で観る時間が足りないなと思ったのは杞憂で、この日だけ特別に鑑賞時間を延ばしてあったのだ。
 展示場を出ると、販売売り場に出るようになっていた。この展示作品のカタログ本をはじめ、関連グッズが売ってあった。
 例の2枚の絵の絵ハガキでも買って帰ろうと思いレジのところに行ったら、ここも行列である。よく列を見ると、入るときと同じような長い行列である。しかも、じっと黙って行儀よく並んでいる。
 買うのをやめて、館を出た。外は、すっかり夜になっていた。
 ちょっと過剰で異常だなと思えるような、最初から最後まで行列の印象的な田中一村展であった。

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紀伊半島一周⑧ 伊勢神宮の内宮、外宮

2024-11-27 03:46:23 | ゆきずりの*旅
 紀勢本線に乗って、大阪・天王寺から和歌山を経て串本を廻り、紀伊半島を一周して三重・多気から伊勢にたどり着いた。
 心のなかにうずくまっていた“お伊勢参り”である。
 と言っても私は無宗教なので、伊勢神宮に関して何の知識も持っていない。そもそも伊勢神宮と出雲大社はどちらが格上なのだろうという下世話な考えも浮かんでくるくらいだ。
 弥次さんと喜多さんが、江戸から東海道を歩いてわざわざお伊勢参りに行ったというから、昔から全国的人気の神社だったのだろう。
 一度は行っておきたい伊勢神宮である。
 9月26日朝、串本駅を出て紀勢本線にて紀伊半島を北上し、多気駅にて参宮線に乗り換える。多気駅14時35分発、14時56分、JR伊勢市駅に着いた。

 *伊勢神宮「外宮」参り

 列車内で予約した、JR伊勢市駅から歩いて約10分のホテルに荷物を置いて、まずはJR伊勢市駅に。
 駅構内の観光案内所にて地図をもらい駅を出ると、目の前にはもう鳥居が立っていて、その先に延びた通りが伊勢神宮の参道である。
 参道の両脇には、食いもの屋や土産物の店がにぎにぎしく並んでいる。
 この道を歩きながら、昔の人もやっとたどり着いたこの地で、お伊勢参りはさておき、店の人と、あんたどこから来なさった、はるばる江戸からさ、おやおや、箱根の関所を超えて来なさったとは大変だったねえなどと、あれこれ世間話や与太話、それに冷やかしやら買いものを楽しんだのだろうと想像した。
 通りを歩きながら、夕食の店の目星をつけておいた。
 参道が終わり、横切る大通りの前に現れたまさしく伊勢神宮は、そこは「外宮」(げくう)とある。
 外宮とわざわざ書いてあるということは、他にもあるのだなと案内の地図を見ると離れたところに「内宮」(ないくう)というのがある。
 何はともあれ、まずはここ外宮をまわり、参拝しよう。駅から賑やかな参道が続いているのだから、ここが伊勢神宮のメイン・ステージだろうと思った。

 神宮のなかは、緑があり橋があり池があり、自然公園のように整然としている。
 鳥居をくぐり、神楽殿の先に「古殿地」と称される、次の遷宮時に社殿が移される空きの地があった。その先に、見張りの係員が立っているところが「正宮」である。
 板垣に囲まれた鳥居を入ると、檜で造られた古来の神明造りの神殿が構えている。正宮は奥行きがあり、正面の神殿の奥にも神殿がある。
 この伊勢神宮は20年に一度、神殿が建て替えられ、隣の「古殿地」に移されるので、建物は古くはないのだが歴史を感じさせる。昔の人も、ここへ来て手を叩いて拝んでいたのかと想像した。(写真)
 正宮で参拝を終えたら、何だか役目が終わったような気になった。
 あたりを見渡すと、正宮の前に「土宮」(つちのみや)という別宮があったので、そこも見てまわって外宮を出ることにした。

 *伊勢神宮の本当の名前は?

 ここ「伊勢神宮」の案内書を見ると、「外宮」は、豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りする「豊受大神宮」(とようけだいじんぐう)が正確な名前である。そして、この豊受大御神は「天照大御神」のお食事を司る神とある。
 その天照大御神をお祀りするのが「皇大神宮」(こうたいじんぐう)で、それが「内宮」であった。
 この内宮、外宮だけでなく他の別宮、摂社、末社など125もの宮社全てを含めて「神宮」と称している。私たちが伊勢神宮といっているのは、他の神宮、神社と区別するために、形式的に地域名の伊勢を冠しているのである。
 つまり、「伊勢神宮」の正式の名は、単に「神宮」ということであった。このことは、他の神社とは別格ということを意味している。唯一無比の天皇家に苗字がないのと同じである。
 ちなみに、かつて「大社」といえば「出雲大社」を意味していたという。

 伊勢神宮は、敷地(神域)も格別に大きい。東京の明治神宮も大きいと思っていたがそれ以上で、内宮が外宮より少し広く、日本の神社で1、2の大きさである。

 多少気にはなっていたのだが、外宮を参拝したら伊勢神宮を参拝したのも同然だろうと思っていたけど、内宮も外せないとわかった。
 伊勢神宮の案内書には、二つの宮はどちらが各上とかは一切記されてはいないし、どれもが並列に扱われている。とはいえ、JR伊勢市駅から続く参道からして外宮が地理的に恵まれているので、私のように外宮だけ参拝して伊勢参りを終えてもいいと思う(思った)観光客もいる(いた)のではなかろうか。
 しかし、ここに来て分かったことは、二つの宮を参拝してこそ、伊勢神宮をお参りしたと言えるということである。
 こんな基本的なことも知らないでの伊勢参りであった。 

 *もう一つの伊勢神宮「内宮」へ

 地図を見ても、外宮から内宮まで歩くのは相当時間がかかりそうである。
 参道から通ずる神宮の入口の前の大通りのところにバス停があり、そこから本数は少ないが内宮に行くバスが出ていた。バスでも外宮から内宮まで15分かかる。
 神宮の参拝時間が18時までとあるので、なんとか時間に間に合うバスに乗った。
 バスは三重県伊勢庁舎、猿田彦神社を通って走り、「内宮前」のバス停で降りた。
 参拝時間制限まで30分しかない。

 「内宮」は、入口のところにやはり大きな鳥居があり、それは緩やかな弧状の木造りの橋に繋がっていて、橋の先端にはまた鳥居が構えていた。橋の名前は宇治橋といい、100mを超える長さである。橋の下に流れる川は五十鈴川だった。
 内宮のなかも外宮と同じく、広く木々が覆っていた。
 戻る人とすれ違うこともあったが見物客はもうほとんどいなく、薄暗くなりかけた宮内を急ぎ足で歩きまわり、正宮を探した。
 たどり着いた正宮は、宮内の奥にあった。階段の先の少し高まったところにある正殿は、やって来た人を少し見下ろすように建っていた。漂う暮れなんとする空気が、なにやら暗雲たる景色を醸し出している。
 この正殿には、御神体であり三種の神器の一つでもある「八咫鏡」(やたのかがみ)が祀られているという。
 人影のなくなった宮内を急ぎ足で最初に通った宇治橋に向かった。木々に囲まれた暗い通り道には灯りがともされた。宇治橋を出た入口(出口)のところには、閉門の準備を待ち構えている係員がいた。
 外宮、内宮の両宮で参拝を終え、なんとか“お伊勢参り”をしたと思えた。

 帰りのバス停のところに行こうと歩き始めると、いつしか両側にいろいろな店が並ぶ商店街を歩いている。来たときはこんな小ぎれいな商店街は通らなかったと思いながら進んだが、それにしても人がいない。暗くなり、内宮の閉門時間を過ぎて観光客がいなくなったからか、殆どの店が閉まっている。
 どこまで行ってもバス停らしい気配はない。そこで、地元の人らしい人を見つけて、やっとバス停までたどり着くことができた。
 私がバス停を探して歩いた通りは、「おかげ横丁」という商店街らしかった。

 バスでJR伊勢市駅に出て、外宮に向かう参道のなかにあった魚料理店で夕食を摂った。

 *旅の終わり、名古屋駅へ

 翌9月27日、JR「伊勢市」駅9時20分発の名古屋行き「快速みえ6号」に乗った。
 途中、参宮線と紀勢本線の分岐駅である「多気」駅を過ぎると、牛肉で有名な「松坂」駅である。この駅近辺では、牛もしくは牧場がないかと窓の外を注意深く探しまわしたが、その気配も見あたらなかった。
 その先の三重県庁所在地の「津」駅を過ぎると「亀山」駅である。この駅が紀勢本線の起点である。
 今回の、大阪「天王寺」駅の「阪和線」から始めた紀伊半島一周の旅は、「和歌山」駅から「紀勢本線」となって、「串本」駅、「新宮」駅を経て、「亀山」駅で紀勢本線は終える。
 亀山駅からは「関西本線」と名前を変え、「四日市」駅、「桑名」駅を経て、「名古屋」駅へと進む。
 名古屋駅、11時03分着。
 名古屋駅からは新幹線で東京へ向かい、旅を終えた。

コメント (3)
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