10月24日、奈良から紀伊半島の突端、串本に行くことにした。
奈良駅発の不慮の列車の遅れによって、予定していた奈良・王子から和歌山線にて和歌山駅へ、そこから紀勢線で串本に行くというコースをやめて、大阪・天王寺駅に行き、そこから阪和線・紀勢本線にて串本に行くことに変更。
遅れた列車は、11時頃に天王寺駅に着いた。
それで、時刻表を見て、この日の目的地、紀伊半島の突端である串本まで、阪和線・紀勢本線を普通列車で行くと仮定した。すると、次の通りである。
・天王寺駅11時10分発→(阪和線・関空快速)・和歌山駅着12時27分。
・和歌山駅13時0分発→(以降紀勢線)・御坊駅着14時8分/・御坊駅14時20分発→・紀伊田辺駅着15時5分/・紀伊田辺駅16時51分発→・串本駅18時16分着。
串本駅着が18時16分ではもう日が暮れている。これでは、行きたい(行かねばならない)潮岬に行くには暗い夜道となり、行けるかどうかわからない。
それで、「特急くろしお」に乗ることにした。
天王寺駅11時32分発「くろしお9号(白浜行き)」・白浜駅13時47分着/・白浜駅13時55分発→・串本駅15時6分着。
この切符を買おうとしたら、売り切れであった。駅員の説明によると、この前の特急「くろしお」が運休になったので、その客がこの列車に移ったためと説明した。
それで、当初の予定で和歌山駅から乗ろうと思っていた「くろしお11号(新宮行き)」にした。
・天王寺駅13時18分発→・串本駅着15時40分。
当初の予定である「奈良駅→(関西本線)王子駅→(和歌山線)和歌山駅→(紀勢本線)串本駅」が、「奈良駅→(関西本線)天王寺駅→(阪和線)和歌山駅→(紀勢本線)串本駅」になったのである。
予定変更のおかげで、大阪・天王寺で300メートルの高いビルの昇ることができた。
※ブログ→「紀伊半島一周④大阪で最も高いビルに昇る」参照。
それに、そもそもの命題である紀伊半島一周において、半島の根元である大阪からスタートすることとなったのも正解と考えよう。
*海と山の間…紀勢本線を走る
天王寺駅から、特急「くろしお11号」(新宮行き)に乗る。
列車は、天王寺駅から大阪湾に沿ってなだらかに南下すると和歌山駅に着く。ここからが、本格的な「紀勢本線」の始まりである。
「海南」駅あたりから海が見え始め、海岸方面に工場地帯と思しき建物が見える。こんなところに、山陽本線の徳山や鹿児島本線の八幡あたりに見られるような工業地帯があったのかと新鮮だ。
「箕島」駅を過ぎたとき、すぐに簑島高校を思い出した。甲子園のアイドルとなった太田幸司に次いで、“コーちゃん”ブームを巻き起こした島本講平(のちに南海ホークスに入団)のいた高校である。弟の島本啓次郎も、江川卓とともに東京6大学野球で活躍した。
箕島は、今は「有田」市となっている。
列車の右手の車窓を見ていると、途切れ途切れに海が現れ、リアス式の海岸線を走っているのがわかる。ところが、左側を見ると、緑の木々の山が続く。先は奥深い紀伊山地なのだ。
山の手前にところどころ平地が散在し緑の木々がある。よく見ると、ミカンの木だ。そうだ、このあたり、和歌山の有田といえばミカンの産地なのだ(佐賀の有田は磁器の産地だ)。
昨晩、奈良のスーパーで早生のミカンを買った。まだ青く新鮮な酸味があって、とても美味かった。ここ有田産のミカンかもしれない。
近年の果実はなにもかも糖度を高くして甘くしたものが多いが、個人的にそれは好みではない。やはり、果実は酸味があった方がいい。
「御坊」駅を過ぎてしばらく走ると、はっきりと海が見える。そして海辺の街が現れ、やがて「紀伊田辺」駅に着く。
各駅停車の普通列車はほとんどがこの駅止まりだ。時刻表を見ても、これから先に行く列車は本当に少ない。特急の停まらない駅に住む人は不便だろうと思う。
列車のなかで、この日は串本で泊まるつもりなので、スマホのネットでホテルを探した。すぐに潮岬に行きたいので、できるだけ串本駅の近くのホテルをと検索したら、観光地の白浜や勝浦のホテルが多く出てくる。そのなかで何とか、串本駅前のビジネスホテルを見つけたので予約した。
*本州最南端駅の串本
「紀伊田辺」駅を過ぎ、さらに温泉で有名な観光地「白浜」駅を素知らぬふりで通り過ぎると、ようやく紀伊半島の突端「串本」駅である。
串本は、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡串本町とある。「東牟婁」はなかなか読めない。
串本駅に15時40分に着いた。
列車を降りて駅のホームを見渡してみると、ホームの向こう側の線路べりに「本州最南端の駅」と書いた看板が素っ気なく立ててあった。
駅構内の観光案内所で地図をもらい、駅を出ると、人気はないがバスターミナルになっていた。本州最南端の街という雰囲気は感じられないごく普通の駅前である。
バス停のところに行って、潮岬方面に行くバスはないかと案内板を探したら、潮岬を周る串本町コミュニティバスが走っていた。その時刻表を見ると、次のバスが16時ちょうど発で、その次は最後の便で1時間以上も後だ。時計を見ると、バスの発車まであと10分もない。
あわてて駅前を見渡して、列車内で予約したホテルを探し出し駆け込んだ。すぐにチェックインだけして、バッグをカウンターに預けてバス停へ走った。
なんとか間にあってバスに乗り込んだ。駅前のホテルでよかったと胸をなでおろした。
串本町の串本駅は、紀伊半島の突端の先が尖り細くなったところにあり、さらにその先に陸続きの小さな四国の形状地がくっ付いている。その南の太平洋に面して東西二つの突端を持った四国の、西側の突端である足摺岬の部分(もう一つの反対側の突端は室戸岬)が潮岬である。
バスは、駅前から細く延びた町の中心街を通り、四国でいえば北の先の香川・高松の部分で二股に分かれる。さらに南下し四国部分に入ると人家も途絶え、20分ほど走ったところで観光用とすぐわかる円筒形の建物が目に入った。
その「潮岬観光センター」のバス停で降りた。バスには町の人と思しき数人の客が乗っていたが、降りたのは、私一人だった。
そこは、この観光センターのビルと隣の売店以外に目立った建物はなく、田舎の草原のような風景の先に海が広がっていた。本州最南端に来たという実感が湧いた。
帰りのバスの時刻を案内板で確認した。これから先の便は17時28分、19時16分である。
すると、売店の人が出てきたので、潮岬灯台までの方角と所要時間を訊いた。目の前に通っているバスの道を歩いて10分ぐらいだという。最後の便が19時過ぎなのでゆっくりできると言ったら、19時はもう真っ暗で何も見えないですよ。その前の17時28分でないと、と言われた。
*本州最南端の道「潮岬 夕日が丘」
「潮岬観光センター」の前には、水平線に続くかのような1本の道が延びていた。
この道は「潮岬周遊線」と呼ばれている。この潮岬へ行く道は、今は誰も人はなく、先ほど私が乗ってきたバスが過ぎたあとは車も通っていない。
まっすぐに延びた道を歩き始めた私は、いい道だと思い入った。ひとり、青春映画の主人公を俯瞰しているように感じた。ただ、一本の道、本州最南端の岬に続く道の風景に酔っていただけなのだが。
しばらく歩いて延びた道が下ったところに、逸れて潮岬灯台に行く道があった。
そこを歩き進むと「潮岬灯台」に出た。白い灯台は、学校の門のような石柱のなかにひっそりと、それでいて威厳を持って立っていた。時間が遅かったのか、灯台の門は頑丈な横引きシャッターで閉められている。
「潮岬灯台」は、幕末にアメリカほか3か国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)に基づき建てられた8か所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の1つである。
1870(明治3)年、完成した当初の灯台は八角形の木造であった。現在の石造灯台は、1878(明治11)年に造られたものである。
青い空が少しずつ陰りだしてきたようだ。潮岬灯台をあとにしてバス道に戻り、潮岬観光タワーのところへ向かって、再びあの一本の道を歩き始めた。
すると、海の方に向かってきれいに芝生で囲った公園のようなところがあった。行くときは素通りしたところである。その入り口あたりに「この付近でのキャンプを禁止します」とあり、奥の海辺のところに碑のようなものが建っていた。
おもむろに、なかに入ってみた。奥の碑には「和歌山県朝日夕陽百選 潮岬」とあった。
そこからは、太平洋の海が広がっていた。それに、今まさに海に落ちる夕日を影にした潮岬灯台がひっそりと立っているのが見える。偶然とはいえ、この景色が見たかったのだ。
まさに、夕日百選の潮岬に遭遇したのだった。(写真)
ここは観光案内所でもらった串本町の地図にも載っていない。しかし、灯台をも含めて潮岬の海を眺める最適の場所である。
「潮岬 夕日が丘」とでも名付けて売りだそう!
奈良駅発の不慮の列車の遅れによって、予定していた奈良・王子から和歌山線にて和歌山駅へ、そこから紀勢線で串本に行くというコースをやめて、大阪・天王寺駅に行き、そこから阪和線・紀勢本線にて串本に行くことに変更。
遅れた列車は、11時頃に天王寺駅に着いた。
それで、時刻表を見て、この日の目的地、紀伊半島の突端である串本まで、阪和線・紀勢本線を普通列車で行くと仮定した。すると、次の通りである。
・天王寺駅11時10分発→(阪和線・関空快速)・和歌山駅着12時27分。
・和歌山駅13時0分発→(以降紀勢線)・御坊駅着14時8分/・御坊駅14時20分発→・紀伊田辺駅着15時5分/・紀伊田辺駅16時51分発→・串本駅18時16分着。
串本駅着が18時16分ではもう日が暮れている。これでは、行きたい(行かねばならない)潮岬に行くには暗い夜道となり、行けるかどうかわからない。
それで、「特急くろしお」に乗ることにした。
天王寺駅11時32分発「くろしお9号(白浜行き)」・白浜駅13時47分着/・白浜駅13時55分発→・串本駅15時6分着。
この切符を買おうとしたら、売り切れであった。駅員の説明によると、この前の特急「くろしお」が運休になったので、その客がこの列車に移ったためと説明した。
それで、当初の予定で和歌山駅から乗ろうと思っていた「くろしお11号(新宮行き)」にした。
・天王寺駅13時18分発→・串本駅着15時40分。
当初の予定である「奈良駅→(関西本線)王子駅→(和歌山線)和歌山駅→(紀勢本線)串本駅」が、「奈良駅→(関西本線)天王寺駅→(阪和線)和歌山駅→(紀勢本線)串本駅」になったのである。
予定変更のおかげで、大阪・天王寺で300メートルの高いビルの昇ることができた。
※ブログ→「紀伊半島一周④大阪で最も高いビルに昇る」参照。
それに、そもそもの命題である紀伊半島一周において、半島の根元である大阪からスタートすることとなったのも正解と考えよう。
*海と山の間…紀勢本線を走る
天王寺駅から、特急「くろしお11号」(新宮行き)に乗る。
列車は、天王寺駅から大阪湾に沿ってなだらかに南下すると和歌山駅に着く。ここからが、本格的な「紀勢本線」の始まりである。
「海南」駅あたりから海が見え始め、海岸方面に工場地帯と思しき建物が見える。こんなところに、山陽本線の徳山や鹿児島本線の八幡あたりに見られるような工業地帯があったのかと新鮮だ。
「箕島」駅を過ぎたとき、すぐに簑島高校を思い出した。甲子園のアイドルとなった太田幸司に次いで、“コーちゃん”ブームを巻き起こした島本講平(のちに南海ホークスに入団)のいた高校である。弟の島本啓次郎も、江川卓とともに東京6大学野球で活躍した。
箕島は、今は「有田」市となっている。
列車の右手の車窓を見ていると、途切れ途切れに海が現れ、リアス式の海岸線を走っているのがわかる。ところが、左側を見ると、緑の木々の山が続く。先は奥深い紀伊山地なのだ。
山の手前にところどころ平地が散在し緑の木々がある。よく見ると、ミカンの木だ。そうだ、このあたり、和歌山の有田といえばミカンの産地なのだ(佐賀の有田は磁器の産地だ)。
昨晩、奈良のスーパーで早生のミカンを買った。まだ青く新鮮な酸味があって、とても美味かった。ここ有田産のミカンかもしれない。
近年の果実はなにもかも糖度を高くして甘くしたものが多いが、個人的にそれは好みではない。やはり、果実は酸味があった方がいい。
「御坊」駅を過ぎてしばらく走ると、はっきりと海が見える。そして海辺の街が現れ、やがて「紀伊田辺」駅に着く。
各駅停車の普通列車はほとんどがこの駅止まりだ。時刻表を見ても、これから先に行く列車は本当に少ない。特急の停まらない駅に住む人は不便だろうと思う。
列車のなかで、この日は串本で泊まるつもりなので、スマホのネットでホテルを探した。すぐに潮岬に行きたいので、できるだけ串本駅の近くのホテルをと検索したら、観光地の白浜や勝浦のホテルが多く出てくる。そのなかで何とか、串本駅前のビジネスホテルを見つけたので予約した。
*本州最南端駅の串本
「紀伊田辺」駅を過ぎ、さらに温泉で有名な観光地「白浜」駅を素知らぬふりで通り過ぎると、ようやく紀伊半島の突端「串本」駅である。
串本は、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡串本町とある。「東牟婁」はなかなか読めない。
串本駅に15時40分に着いた。
列車を降りて駅のホームを見渡してみると、ホームの向こう側の線路べりに「本州最南端の駅」と書いた看板が素っ気なく立ててあった。
駅構内の観光案内所で地図をもらい、駅を出ると、人気はないがバスターミナルになっていた。本州最南端の街という雰囲気は感じられないごく普通の駅前である。
バス停のところに行って、潮岬方面に行くバスはないかと案内板を探したら、潮岬を周る串本町コミュニティバスが走っていた。その時刻表を見ると、次のバスが16時ちょうど発で、その次は最後の便で1時間以上も後だ。時計を見ると、バスの発車まであと10分もない。
あわてて駅前を見渡して、列車内で予約したホテルを探し出し駆け込んだ。すぐにチェックインだけして、バッグをカウンターに預けてバス停へ走った。
なんとか間にあってバスに乗り込んだ。駅前のホテルでよかったと胸をなでおろした。
串本町の串本駅は、紀伊半島の突端の先が尖り細くなったところにあり、さらにその先に陸続きの小さな四国の形状地がくっ付いている。その南の太平洋に面して東西二つの突端を持った四国の、西側の突端である足摺岬の部分(もう一つの反対側の突端は室戸岬)が潮岬である。
バスは、駅前から細く延びた町の中心街を通り、四国でいえば北の先の香川・高松の部分で二股に分かれる。さらに南下し四国部分に入ると人家も途絶え、20分ほど走ったところで観光用とすぐわかる円筒形の建物が目に入った。
その「潮岬観光センター」のバス停で降りた。バスには町の人と思しき数人の客が乗っていたが、降りたのは、私一人だった。
そこは、この観光センターのビルと隣の売店以外に目立った建物はなく、田舎の草原のような風景の先に海が広がっていた。本州最南端に来たという実感が湧いた。
帰りのバスの時刻を案内板で確認した。これから先の便は17時28分、19時16分である。
すると、売店の人が出てきたので、潮岬灯台までの方角と所要時間を訊いた。目の前に通っているバスの道を歩いて10分ぐらいだという。最後の便が19時過ぎなのでゆっくりできると言ったら、19時はもう真っ暗で何も見えないですよ。その前の17時28分でないと、と言われた。
*本州最南端の道「潮岬 夕日が丘」
「潮岬観光センター」の前には、水平線に続くかのような1本の道が延びていた。
この道は「潮岬周遊線」と呼ばれている。この潮岬へ行く道は、今は誰も人はなく、先ほど私が乗ってきたバスが過ぎたあとは車も通っていない。
まっすぐに延びた道を歩き始めた私は、いい道だと思い入った。ひとり、青春映画の主人公を俯瞰しているように感じた。ただ、一本の道、本州最南端の岬に続く道の風景に酔っていただけなのだが。
しばらく歩いて延びた道が下ったところに、逸れて潮岬灯台に行く道があった。
そこを歩き進むと「潮岬灯台」に出た。白い灯台は、学校の門のような石柱のなかにひっそりと、それでいて威厳を持って立っていた。時間が遅かったのか、灯台の門は頑丈な横引きシャッターで閉められている。
「潮岬灯台」は、幕末にアメリカほか3か国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)に基づき建てられた8か所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の1つである。
1870(明治3)年、完成した当初の灯台は八角形の木造であった。現在の石造灯台は、1878(明治11)年に造られたものである。
青い空が少しずつ陰りだしてきたようだ。潮岬灯台をあとにしてバス道に戻り、潮岬観光タワーのところへ向かって、再びあの一本の道を歩き始めた。
すると、海の方に向かってきれいに芝生で囲った公園のようなところがあった。行くときは素通りしたところである。その入り口あたりに「この付近でのキャンプを禁止します」とあり、奥の海辺のところに碑のようなものが建っていた。
おもむろに、なかに入ってみた。奥の碑には「和歌山県朝日夕陽百選 潮岬」とあった。
そこからは、太平洋の海が広がっていた。それに、今まさに海に落ちる夕日を影にした潮岬灯台がひっそりと立っているのが見える。偶然とはいえ、この景色が見たかったのだ。
まさに、夕日百選の潮岬に遭遇したのだった。(写真)
ここは観光案内所でもらった串本町の地図にも載っていない。しかし、灯台をも含めて潮岬の海を眺める最適の場所である。
「潮岬 夕日が丘」とでも名付けて売りだそう!