この4月(2025年)、アメリカが関わる全ての国に対して関税をかける発動をしたことが、アメリカ自身が主導してきた第2次世界大戦後の自由貿易体制、しいては民主主義体制を揺るがし始めている。
フランスの歴史・社会学者のエマニュエル・トッドは、彼の近著「西洋の敗北」で、近代から現代を牽引してきたアメリカをはじめ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ大国を俎上にのせ、この国々の衰退化の現状を分析している。
つまり西洋といわれる国・世界の没落、しいては敗北しつつあることを、様々なデータを駆使して説いている。
戦後(第2次世界大戦後)民主主義下に育った私は、アメリカの栄光を感じて育ってきた。そのアメリカが時代とともに変貌していくなかで、個人的な思惑でアメリカを振り返っている。
*1962年のアメリカの青春は!
1950年代から1960年にかけての時代は、アメリカンポップスの黄金期といえよう。
ラジオから流れてくる海外の曲といえばアメリカのポップスだった。
当時、中学高学年から高校生時代の私は、街中で流れる日本の歌謡曲を聴きながらも、夜、ラジオから流れるアメリカの歌の、「ユー・アー・マイ・デスティニィ…(You are my destiny…」のポール・アンカの「君はわが運命(さだめ)」とか、「チューチュー・トレイン…」(Choo choo train…)のニール・セダカの「恋の片道切符」(One way ticket(to the blues)」を口ずさんでいた。
コニー・フランシスが、「ボーイ・ハント」 (Where the boys are)や「カラーに口紅」 (Lipstick on your collar)を歌っていた。
古き良き時代のアメリカだった。
この時代の、1962年のアメリカの青春を描いた映画が、10年後の1973年アメリカで公開された。
それが、「アメリカン・グラフィティ(American Graffiti)」である。
映画のアメリカでのキャッチ・コピーは、「Where were you in ‘62?」。つまり、「1962年、あなたはどこで何をしていましたか」である。
映画は、1962年の9月初めのアメリカ・カリフォルニアの田舎町を舞台に、高校を卒業した若者たちの最後の1日を、アメリカンポップスを背景に回転木馬のように描いている。
監督は、のちに「スター・ウォーズ」シリーズを監督、「インディ・ジョーンズ」シリーズを製作総指揮したジョージ・ルーカス。
J・ルーカスは、1944年生まれで、カリフォルニア州のサンフランシスコの東に位置するモデストで青春時代を送っているので、映画の時代背景や舞台も彼の青春を下敷きにしたものと思われる。
1962年9月といえば、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争本格突入の前の、アメリカがまだ陰りを見せていない、輝きのある最後の時代である。この年、ビートルズがデビューしているので、アメリカンポップスの最後の輝きの時代といっていい。
*曲目「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)
映画「アメリカン・グラフィティ」は、全編にわたり1950年代半ばから1960年代前半にかけてのアメリカンポップスが流れる。また、当時人気のあった実在のDJ、ウルフマン・ジャックを本人役で登場させている。
全曲が収録されたサウンドトラックは、日本でもヒットした。
※写真は、レコード・アルバムを縦に伸ばしたもの。後ろののぞいているのはライナーノーツで、人物写真の左がDJのウルフマン・ジャック。
主な挿入曲は以下の通り。曲の合間に時おりDJが登場する。
・「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ)
・「悲しき街角」(デル・シャノン)
・「サーフィン・サファリ」(ザ・ビーチ・ボーイズ)
・「煙が目にしみる」(プラターズ)
・「恋は曲者」(フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ)
・「ペパーミント・ツイスト」(ジョイ・ディー&スターライターズ)
・「エイント・ザット・ア・シェイム」(ファッツ・ドミノ)
・「踊ろよベイビー」(ボビー・フリーマン)
・「オンリー・ユー」(プラターズ)
この「アメリカン・グラフィティ」の1962(昭和37)年前後の日本では、カバー・ミュージックが大流行していた。アメリカンポップスおよびヨーロッパのポップスを日本語で歌う曲がヒット・パレードを賑わせていた。いわば和声ポップス、「ジャパニーズ・グラフィティ」である。
以下、代表的なヒット曲をあげてみる。
・「月影のナポリ」・「ズビズビズー」(森山加代子)
・「パイナップル・プリンセス」・「ビキニスタイルのお嬢さん」(田代みどり)
・「ヴァケーション」・「すてきな16才」(弘田三枝子)
・「ルイジアナ・ママ」・「悲しき街角」(飯田久彦)
・「可愛いベイビー」(中尾ミエ)
・「ロコ・モーション」・「恋の売り込み」(伊東ゆかり)
・「ヘイ・ポーラ」田辺靖雄と梓みちよ
*DJウルフマン・ジャックと赤塚不二夫
映画「アメリカン・グラフィティ」が日本で公開されたのは、アメリカ公開の翌年1974(昭和49)年である。
1976年、「アメリカン・グラフィティ」の映画の音楽的要(かなめ)を演じたDJのウルフマン・ジャックが来日した。
当時、私は男性雑誌の編集者だった。それで、彼を誌上に登場させて、面白い内容にしようと対談を企画した。対談相手はなんと、当時日本のギャグマンガ界の人気者、赤塚不二夫である。
対談内容は、「ロックエイジの時代だよ」——伝説的DJ、ウルフマン・ジャックとギャグゲリラ、赤塚不二夫が語り合ったこと――。
内容は、日本のロックの現状からUFOの話まで及んだ。二人とも印象とは違い、とても真面目な人だった。
1970年代、輝かしかったアメリカは社会的にも陰が現れ、イギリス出身のビートルズやローリング・ストーンズはじめ、ブリティッシュ・ロックの台頭に見られるように、音楽におけるポップス、ロックンロールも勢いが衰えているように見えた。
私の個人的趣向も、アメリカよりもヨーロッパ、特にフランスに向いていった。
フランスの歴史・社会学者のエマニュエル・トッドは、彼の近著「西洋の敗北」で、近代から現代を牽引してきたアメリカをはじめ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ大国を俎上にのせ、この国々の衰退化の現状を分析している。
つまり西洋といわれる国・世界の没落、しいては敗北しつつあることを、様々なデータを駆使して説いている。
戦後(第2次世界大戦後)民主主義下に育った私は、アメリカの栄光を感じて育ってきた。そのアメリカが時代とともに変貌していくなかで、個人的な思惑でアメリカを振り返っている。
*1962年のアメリカの青春は!
1950年代から1960年にかけての時代は、アメリカンポップスの黄金期といえよう。
ラジオから流れてくる海外の曲といえばアメリカのポップスだった。
当時、中学高学年から高校生時代の私は、街中で流れる日本の歌謡曲を聴きながらも、夜、ラジオから流れるアメリカの歌の、「ユー・アー・マイ・デスティニィ…(You are my destiny…」のポール・アンカの「君はわが運命(さだめ)」とか、「チューチュー・トレイン…」(Choo choo train…)のニール・セダカの「恋の片道切符」(One way ticket(to the blues)」を口ずさんでいた。
コニー・フランシスが、「ボーイ・ハント」 (Where the boys are)や「カラーに口紅」 (Lipstick on your collar)を歌っていた。
古き良き時代のアメリカだった。
この時代の、1962年のアメリカの青春を描いた映画が、10年後の1973年アメリカで公開された。
それが、「アメリカン・グラフィティ(American Graffiti)」である。
映画のアメリカでのキャッチ・コピーは、「Where were you in ‘62?」。つまり、「1962年、あなたはどこで何をしていましたか」である。
映画は、1962年の9月初めのアメリカ・カリフォルニアの田舎町を舞台に、高校を卒業した若者たちの最後の1日を、アメリカンポップスを背景に回転木馬のように描いている。
監督は、のちに「スター・ウォーズ」シリーズを監督、「インディ・ジョーンズ」シリーズを製作総指揮したジョージ・ルーカス。
J・ルーカスは、1944年生まれで、カリフォルニア州のサンフランシスコの東に位置するモデストで青春時代を送っているので、映画の時代背景や舞台も彼の青春を下敷きにしたものと思われる。
1962年9月といえば、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争本格突入の前の、アメリカがまだ陰りを見せていない、輝きのある最後の時代である。この年、ビートルズがデビューしているので、アメリカンポップスの最後の輝きの時代といっていい。
*曲目「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)
映画「アメリカン・グラフィティ」は、全編にわたり1950年代半ばから1960年代前半にかけてのアメリカンポップスが流れる。また、当時人気のあった実在のDJ、ウルフマン・ジャックを本人役で登場させている。
全曲が収録されたサウンドトラックは、日本でもヒットした。
※写真は、レコード・アルバムを縦に伸ばしたもの。後ろののぞいているのはライナーノーツで、人物写真の左がDJのウルフマン・ジャック。
主な挿入曲は以下の通り。曲の合間に時おりDJが登場する。
・「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ)
・「悲しき街角」(デル・シャノン)
・「サーフィン・サファリ」(ザ・ビーチ・ボーイズ)
・「煙が目にしみる」(プラターズ)
・「恋は曲者」(フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ)
・「ペパーミント・ツイスト」(ジョイ・ディー&スターライターズ)
・「エイント・ザット・ア・シェイム」(ファッツ・ドミノ)
・「踊ろよベイビー」(ボビー・フリーマン)
・「オンリー・ユー」(プラターズ)
この「アメリカン・グラフィティ」の1962(昭和37)年前後の日本では、カバー・ミュージックが大流行していた。アメリカンポップスおよびヨーロッパのポップスを日本語で歌う曲がヒット・パレードを賑わせていた。いわば和声ポップス、「ジャパニーズ・グラフィティ」である。
以下、代表的なヒット曲をあげてみる。
・「月影のナポリ」・「ズビズビズー」(森山加代子)
・「パイナップル・プリンセス」・「ビキニスタイルのお嬢さん」(田代みどり)
・「ヴァケーション」・「すてきな16才」(弘田三枝子)
・「ルイジアナ・ママ」・「悲しき街角」(飯田久彦)
・「可愛いベイビー」(中尾ミエ)
・「ロコ・モーション」・「恋の売り込み」(伊東ゆかり)
・「ヘイ・ポーラ」田辺靖雄と梓みちよ
*DJウルフマン・ジャックと赤塚不二夫
映画「アメリカン・グラフィティ」が日本で公開されたのは、アメリカ公開の翌年1974(昭和49)年である。
1976年、「アメリカン・グラフィティ」の映画の音楽的要(かなめ)を演じたDJのウルフマン・ジャックが来日した。
当時、私は男性雑誌の編集者だった。それで、彼を誌上に登場させて、面白い内容にしようと対談を企画した。対談相手はなんと、当時日本のギャグマンガ界の人気者、赤塚不二夫である。
対談内容は、「ロックエイジの時代だよ」——伝説的DJ、ウルフマン・ジャックとギャグゲリラ、赤塚不二夫が語り合ったこと――。
内容は、日本のロックの現状からUFOの話まで及んだ。二人とも印象とは違い、とても真面目な人だった。
1970年代、輝かしかったアメリカは社会的にも陰が現れ、イギリス出身のビートルズやローリング・ストーンズはじめ、ブリティッシュ・ロックの台頭に見られるように、音楽におけるポップス、ロックンロールも勢いが衰えているように見えた。
私の個人的趣向も、アメリカよりもヨーロッパ、特にフランスに向いていった。