かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

紀伊半島一周⑥ 紀伊半島の突端、串本から潮岬

2024-11-06 02:18:34 | ゆきずりの*旅
 10月24日、奈良から紀伊半島の突端、串本に行くことにした。
 奈良駅発の不慮の列車の遅れによって、予定していた奈良・王子から和歌山線にて和歌山駅へ、そこから紀勢線で串本に行くというコースをやめて、大阪・天王寺駅に行き、そこから阪和線・紀勢本線にて串本に行くことに変更。

 遅れた列車は、11時頃に天王寺駅に着いた。
 それで、時刻表を見て、この日の目的地、紀伊半島の突端である串本まで、阪和線・紀勢本線を普通列車で行くと仮定した。すると、次の通りである。
 ・天王寺駅11時10分発→(阪和線・関空快速)・和歌山駅着12時27分。
 ・和歌山駅13時0分発→(以降紀勢線)・御坊駅着14時8分/・御坊駅14時20分発→・紀伊田辺駅着15時5分/・紀伊田辺駅16時51分発→・串本駅18時16分着。
 串本駅着が18時16分ではもう日が暮れている。これでは、行きたい(行かねばならない)潮岬に行くには暗い夜道となり、行けるかどうかわからない。

 それで、「特急くろしお」に乗ることにした。
 天王寺駅11時32分発「くろしお9号(白浜行き)」・白浜駅13時47分着/・白浜駅13時55分発→・串本駅15時6分着。
 この切符を買おうとしたら、売り切れであった。駅員の説明によると、この前の特急「くろしお」が運休になったので、その客がこの列車に移ったためと説明した。
 それで、当初の予定で和歌山駅から乗ろうと思っていた「くろしお11号(新宮行き)」にした。
 ・天王寺駅13時18分発→・串本駅着15時40分。

 当初の予定である「奈良駅→(関西本線)王子駅→(和歌山線)和歌山駅→(紀勢本線)串本駅」が、「奈良駅→(関西本線)天王寺駅→(阪和線)和歌山駅→(紀勢本線)串本駅」になったのである。
 予定変更のおかげで、大阪・天王寺で300メートルの高いビルの昇ることができた。
 ※ブログ→「紀伊半島一周④大阪で最も高いビルに昇る」参照。
 それに、そもそもの命題である紀伊半島一周において、半島の根元である大阪からスタートすることとなったのも正解と考えよう。

 *海と山の間…紀勢本線を走る

 天王寺駅から、特急「くろしお11号」(新宮行き)に乗る。
 列車は、天王寺駅から大阪湾に沿ってなだらかに南下すると和歌山駅に着く。ここからが、本格的な「紀勢本線」の始まりである。
 「海南」駅あたりから海が見え始め、海岸方面に工場地帯と思しき建物が見える。こんなところに、山陽本線の徳山や鹿児島本線の八幡あたりに見られるような工業地帯があったのかと新鮮だ。
 「箕島」駅を過ぎたとき、すぐに簑島高校を思い出した。甲子園のアイドルとなった太田幸司に次いで、“コーちゃん”ブームを巻き起こした島本講平(のちに南海ホークスに入団)のいた高校である。弟の島本啓次郎も、江川卓とともに東京6大学野球で活躍した。
 箕島は、今は「有田」市となっている。
 列車の右手の車窓を見ていると、途切れ途切れに海が現れ、リアス式の海岸線を走っているのがわかる。ところが、左側を見ると、緑の木々の山が続く。先は奥深い紀伊山地なのだ。
 山の手前にところどころ平地が散在し緑の木々がある。よく見ると、ミカンの木だ。そうだ、このあたり、和歌山の有田といえばミカンの産地なのだ(佐賀の有田は磁器の産地だ)。
 昨晩、奈良のスーパーで早生のミカンを買った。まだ青く新鮮な酸味があって、とても美味かった。ここ有田産のミカンかもしれない。
 近年の果実はなにもかも糖度を高くして甘くしたものが多いが、個人的にそれは好みではない。やはり、果実は酸味があった方がいい。
 「御坊」駅を過ぎてしばらく走ると、はっきりと海が見える。そして海辺の街が現れ、やがて「紀伊田辺」駅に着く。
 各駅停車の普通列車はほとんどがこの駅止まりだ。時刻表を見ても、これから先に行く列車は本当に少ない。特急の停まらない駅に住む人は不便だろうと思う。

 列車のなかで、この日は串本で泊まるつもりなので、スマホのネットでホテルを探した。すぐに潮岬に行きたいので、できるだけ串本駅の近くのホテルをと検索したら、観光地の白浜や勝浦のホテルが多く出てくる。そのなかで何とか、串本駅前のビジネスホテルを見つけたので予約した。

 *本州最南端駅の串本

 「紀伊田辺」駅を過ぎ、さらに温泉で有名な観光地「白浜」駅を素知らぬふりで通り過ぎると、ようやく紀伊半島の突端「串本」駅である。
 串本は、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡串本町とある。「東牟婁」はなかなか読めない。
 串本駅に15時40分に着いた。
 列車を降りて駅のホームを見渡してみると、ホームの向こう側の線路べりに「本州最南端の駅」と書いた看板が素っ気なく立ててあった。
 駅構内の観光案内所で地図をもらい、駅を出ると、人気はないがバスターミナルになっていた。本州最南端の街という雰囲気は感じられないごく普通の駅前である。
 バス停のところに行って、潮岬方面に行くバスはないかと案内板を探したら、潮岬を周る串本町コミュニティバスが走っていた。その時刻表を見ると、次のバスが16時ちょうど発で、その次は最後の便で1時間以上も後だ。時計を見ると、バスの発車まであと10分もない。
 あわてて駅前を見渡して、列車内で予約したホテルを探し出し駆け込んだ。すぐにチェックインだけして、バッグをカウンターに預けてバス停へ走った。
 なんとか間にあってバスに乗り込んだ。駅前のホテルでよかったと胸をなでおろした。

 串本町の串本駅は、紀伊半島の突端の先が尖り細くなったところにあり、さらにその先に陸続きの小さな四国の形状地がくっ付いている。その南の太平洋に面して東西二つの突端を持った四国の、西側の突端である足摺岬の部分(もう一つの反対側の突端は室戸岬)が潮岬である。
 バスは、駅前から細く延びた町の中心街を通り、四国でいえば北の先の香川・高松の部分で二股に分かれる。さらに南下し四国部分に入ると人家も途絶え、20分ほど走ったところで観光用とすぐわかる円筒形の建物が目に入った。
 その「潮岬観光センター」のバス停で降りた。バスには町の人と思しき数人の客が乗っていたが、降りたのは、私一人だった。
 そこは、この観光センターのビルと隣の売店以外に目立った建物はなく、田舎の草原のような風景の先に海が広がっていた。本州最南端に来たという実感が湧いた。
 帰りのバスの時刻を案内板で確認した。これから先の便は17時28分、19時16分である。
 すると、売店の人が出てきたので、潮岬灯台までの方角と所要時間を訊いた。目の前に通っているバスの道を歩いて10分ぐらいだという。最後の便が19時過ぎなのでゆっくりできると言ったら、19時はもう真っ暗で何も見えないですよ。その前の17時28分でないと、と言われた。

 *本州最南端の道「潮岬 夕日が丘」

 「潮岬観光センター」の前には、水平線に続くかのような1本の道が延びていた。
 この道は「潮岬周遊線」と呼ばれている。この潮岬へ行く道は、今は誰も人はなく、先ほど私が乗ってきたバスが過ぎたあとは車も通っていない。
 まっすぐに延びた道を歩き始めた私は、いい道だと思い入った。ひとり、青春映画の主人公を俯瞰しているように感じた。ただ、一本の道、本州最南端の岬に続く道の風景に酔っていただけなのだが。
 しばらく歩いて延びた道が下ったところに、逸れて潮岬灯台に行く道があった。
 そこを歩き進むと「潮岬灯台」に出た。白い灯台は、学校の門のような石柱のなかにひっそりと、それでいて威厳を持って立っていた。時間が遅かったのか、灯台の門は頑丈な横引きシャッターで閉められている。

 「潮岬灯台」は、幕末にアメリカほか3か国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)に基づき建てられた8か所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の1つである。
 1870(明治3)年、完成した当初の灯台は八角形の木造であった。現在の石造灯台は、1878(明治11)年に造られたものである。

 青い空が少しずつ陰りだしてきたようだ。潮岬灯台をあとにしてバス道に戻り、潮岬観光タワーのところへ向かって、再びあの一本の道を歩き始めた。
 すると、海の方に向かってきれいに芝生で囲った公園のようなところがあった。行くときは素通りしたところである。その入り口あたりに「この付近でのキャンプを禁止します」とあり、奥の海辺のところに碑のようなものが建っていた。
 おもむろに、なかに入ってみた。奥の碑には「和歌山県朝日夕陽百選 潮岬」とあった。
 そこからは、太平洋の海が広がっていた。それに、今まさに海に落ちる夕日を影にした潮岬灯台がひっそりと立っているのが見える。偶然とはいえ、この景色が見たかったのだ。
 まさに、夕日百選の潮岬に遭遇したのだった。(写真)
 ここは観光案内所でもらった串本町の地図にも載っていない。しかし、灯台をも含めて潮岬の海を眺める最適の場所である。
 「潮岬 夕日が丘」とでも名付けて売りだそう!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀伊半島一周⑤ 紀伊半島の幹線、紀勢本線

2024-10-31 02:14:44 | ゆきずりの*旅
 *紀伊半島の実態

 紀伊半島は鏃(矢じり)のような形をしていて、ほぼ日本の中心に位置し、日本で最大の半島である。
 地図を見た感じでの紀伊半島の左右(西東)の起点は、くびれからして大阪と名古屋といっていい。学術上の定義はさておき、これは私の勝手な見解であるが。
 紀伊半島の突端である潮岬に行くため、この紀伊半島を一周しようと思いたったのだが、距離はどのくらいなのだろう。目途として、ちょうどいい具合に半島の海岸線を鉄道が走っている。
 「JR時刻表」(2024年7月号)をもとに、私が辿る大阪から名古屋までの鉄道の距離を計算してみた。

 ・天王寺駅→(阪和線)61.3㎞・和歌山駅→(紀勢本線)159.1km・串本駅→(紀勢本線)41.6km・新宮駅→(紀勢本線)180.2km・亀山駅→(関西本線)59.9km・名古屋駅。
 メインの「紀勢本線」は、和歌山駅から紀伊半島をぐるりと周り三重・亀山駅までで、距離(和歌山駅~和歌山市駅間は入れない)は380.9km。
 半島の根元である大阪から紀伊半島を一周して反対側の名古屋に至る、大阪・天王寺駅から名古屋駅までの総距離は計502.1kmである。

 新幹線の東京駅から名古屋駅間が366kmだから、紀勢本線はそれより長いということである。
 大阪から紀伊半島を一周して名古屋に至る距離は、新幹線の東京から京都までの距離が513kmであるから、ほぼ東京~京都間である。
 大阪・天王寺駅からほぼ真っすぐ西に向かう関西本線(大和路線)で、奈良経由で名古屋駅に至る距離は171.4km。
 紀勢本線で紀伊半島を周ると、ほぼ直線で横断する距離の約3倍を走るということである。
 ちなみに、新幹線による新大阪駅から京都を経て名古屋駅へ至る距離は186.6kmである。

 *紀勢本線の不思議

 大阪から潮岬の串本方面に行く路線の、「JR時刻表」を見ていたときのことである。
 先に書いたように、天王寺駅から和歌山駅までは「阪和線」で、和歌山駅から紀伊半島の突端串本を周り反対側の三重の亀山までは「紀勢線」である。
 JR時刻表によると、天王寺駅から和歌山駅に向かう阪和線は「下り」となっている(京都・—関西空港・和歌山(阪和線・関西空港線・下り)の頁)。ところが、和歌山駅から先の別の頁にある紀勢線は「上り」となっている。
 阪和線と紀勢線は連続して繋がっている。私が天王寺駅から乗った「くろしお11号」も、新宮駅まで連続で走る。つまり、天王寺からの「上り」の列車が、和歌山駅から「下り」の列車になるということである。
 これは、ちと奇妙だ。

 *「上り」と「下り」の規定

 首都である東京へ向かう方向が「上り」で、首都・東京から遠ざかる方向が「下り」というのは知られている通りである。このことは、鉄道のみならず道路もそうである。
 いや、鉄道が敷かれる前からそうであった。であるから、明治になり首都が東京に移る遷都以前の江戸時代には、東海道は京都方面が「上り」で東京(江戸)方面が「下り」だった。
 関西の「上方落語」というのは、かつてのこの時代の名残である。

 鉄道の路線で、東京に向かっているかどうかあいまいな路線もある。この場合、どう扱っているのだろうか。
 鉄道は建設される場合、国に届出上、その路線の「起点」「終点」が定められる。例えば、東海道本線の場合は東京駅が起点で神戸駅が終点である。
 つまり、起点に向かう方向を「上り」、起点から遠ざかる方向を「下り」と呼ぶ。
 起点は、慣例として東京駅に近い方となった。

 阪和線は、起点は天王寺駅で終点は和歌山駅である。であるから、大阪・天王寺から和歌山方面が「下り」である。
 紀勢本線の起点は亀山駅で終点は和歌山駅である。したがって、和歌山駅から三重・亀山駅へ向かうのが「上り」である。
 であるから、天王寺から和歌山を過ぎる列車は「下り」から「上り」に変貌することになる。
 紀勢本線で少し複雑なのは、和歌山駅から新宮駅(和歌山県)まではJR西日本、新宮駅から亀山駅(三重県)まではJR東海の管轄ということである。
 時刻表を見ると、和歌山から串本・亀山方面に向かう列車は、普通列車は御坊駅か紀伊田辺駅止まりで、特急でも新宮駅が終点である。起点から終点の亀山~和歌山間を連続して走る列車はない。
 この紀勢線の変則的な形をとる列車を、JR西日本では列車運転の実情に合わせる形で、和歌山→新宮方面が「下り」、新宮→和歌山方面が「上り」としている。
 列車番号も、和歌山→新宮方面が「下り」の奇数番号、新宮→和歌山方面が「上り」の偶数番号になっている(列車番号は時刻表にも掲載されている)。

 紀勢本線はちょっとややこしいが、そんなところが胸をくすぐる路線ともいえる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀伊半島一周④ 大阪で最も高いビルに昇る

2024-10-23 01:55:24 | ゆきずりの*旅
 *予定外の電車の遅れで、和歌山線は……

 9月25日、奈良を出発して和歌山を経て、紀伊半島の突端串本へ行こうと思った。
 予定の行程は以下の通りである。

 奈良駅9時45分発(JR関西本線・天王寺行き)→王寺駅10時着/10時12分発(JR和歌山線・和歌山行)→和歌山駅12時36分着/13時18分発(紀勢本線「くろしお11号」新宮行き)→串本駅15時40分着。
 奈良駅から大阪の天王寺駅に向かう関西線の途中に王寺駅がある。この王寺駅から和歌山駅に向かう和歌山線が出ている。この和歌山線に乗ろうと思うのである。
 和歌山線は王寺駅から南下し、五条駅あたりから紀ノ川に沿って和歌山駅まで進む路線である。

 朝、奈良駅に来ると、9時45分発の天王寺行きが20分遅れるとある。そのうち、25分遅れ、30分遅れとなった。
 旅に出れば、よくとは言わないがしばしばあることだ。
 時刻表を見ると、王寺駅からの和歌山線は1時間に1本ぐらいと本数が少ない。これでは和歌山駅から串本に行く紀勢線の特急「くろしお11号」に乗り遅れてしまう。
 潮岬に行くには、串本駅には夕方までには着きたい。「くろしお11号」を逃すと、次に串本駅に着くのは18時過ぎとなってしまう。

 電車は35分遅れで奈良駅に到着した。
 それで、和歌山線で和歌山駅に行くのはやめて、王寺駅で降りずそのまま大阪の天王寺駅まで行くことにした。特急「くろしお11号」は新大阪駅始発で、天王寺駅から乗ることができる。それが早いのだ。

 改めて地図を見て驚いた。奈良市と大阪市は、緯度がほとんど同じなのだ。つまり、大阪市の真横に奈良市がある。奈良県全体が紀伊半島の中央部に延びているので、奈良市の方が大阪市よりずっと下(南)にあると思っていたのだ。これは私の思い勝手で、奈良市の位置は昔から変わってはいない。
 それで、奈良駅から天王寺駅には、ほぼ真横(西)に移動する(行く)ことになる。

 奈良駅を遅れて発車した電車は、大阪・天王寺駅に約11時に着いた。
 特急「くろしお11号」(新宮行き)は天王寺発12時32分である。くろしお号は全席指定なので駅で特急券を買ったが、約1時間の時間がある。

 *高さ300mのビル、「あべのハルカス」

 列車の発車まで約1時間あるので、天王寺駅近辺を散策しようと思いたった。大阪は何度も来ているが、天王寺近辺を歩いたことはない。
 JR天王寺駅を出て地下街を歩いていると、近鉄百貨店に出た。そして、そこが「あべのハルカス」だと知った。「あべのハルカス」は、駅に繋がっている駅ビルだった。
 「あべのハルカス」とは60階建て(地下5階)で高さ300mの、つい最近まで日本で最も高かったビルである。完成した2014年から、去年(2023年)開業の東京都・麻布台ヒルズ森JPタワー(高さ 325m)に抜かれるまで日本1位の高さであった。
 今でも、駅ビルとしては日本で最も高い。

 東京タワーの333mを考えると、ビルで300mとは異常なまでの高さである。日本のビルはタガが外れたようにどんどん高くなっている。

 展望台「ハルカス300」(58~60階)への案内掲示を見つけたとき、これだと思った。1時間の時間つぶしには絶好だ。“渡りに船”、“瓢箪から駒”とはこのことだろう。
 今まで建造物のなかで最も高いところへ上ったのは、東京タワーの展望台(250m)である。東京スカイツリーは昇っていない。
 展望台へのチケット売り場は16階にあり(料金は18歳以上で1,500円)、そこから高速エレベーターで60階まで一気に昇る。わずか45秒である。
 エレベーターを出ると、足元から天井までガラス張りの向こうに、300m上空からの大阪の風景が広がっている。
 外を見ながらガラス張りの回廊に沿って歩くと、東西南北、このビルを一周できる。つまり、360度大阪の街が見渡すことができるのだ。
 場所によって床もガラス張りになっていて、少しドキドキしながら300m下の地上を覗くことができる。
 セスナ機やヘリコプターに乗ったことがあるが、そこからの風景のようだ。
 この場所から見た景色の案内図と照合しながら、大阪の風景を見てまわる。ビルに囲まれた通天閣を探し出しホッとする。道頓堀はビルに埋もれてわからない。
 (写真は、通天閣や道頓堀のある大阪北西方面の風景)

 大阪で最も高いビル、いや、西日本で最も高いビル、去年まで日本で最も高いビル、日本で最も高い駅ビル…の最上階まで登ったことは、電車の遅れから起きた予定外のことで、偶然の賜物(たまもの)ながら嬉しい体験であった。

 時間がきたので、天王寺の駅に戻った。
 さあ、ここ大阪から紀伊半島の突端、串本へ行こう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀伊半島一周③ 奈良で発見した「氷室神社」

2024-10-21 01:03:55 | ゆきずりの*旅
 *さすらいの氷室神社

 奈良の大仏、東大寺をあとにして、その南にある興福寺に向かった。
 近鉄奈良駅に向かう登大路(のぼりおおじ)は、いろいろな店が立ち並ぶ。そこを歩き始めたら、通りに面して赤い鳥居に出くわした。
 「氷室神社」とある。珍しい名前の神社である。(写真)
 この近辺は、東大寺、興福寺、春日神社など有名な寺や神社が集まっている観光コースであるが、氷室神社はガイドブックでも見かけない神社である。
 「氷室」(ひむろ)とは、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管した施設のこと。昔は夏場の氷は貴重であり、献上品として重宝された。

 「氷室」とあるのを見て、すぐに胸に響くものがあった。
 小林旭である。
 日活、小林旭ファンはピンとくるであろう。
 1950年代後半から1960年代前半にかけて、日活で石原裕次郎と双璧の人気を誇っていた小林旭は、単発映画の裕次郎と違って、シリーズ物が多かった。当時は今では考えられないが、毎月のように旭主演の新作映画が公開された。共演者も浅丘ルリ子、笹森礼子はじめほぼ同じ顔ぶれが並び、内容も似たような無国籍的アクション映画であった。
 では、シリーズのどこが違うかといえば、主人公の名前である。
 「渡り鳥」シリーズは滝伸次、「流れ者」シリーズは野村浩次。「銀座旋風児」シリーズは二階堂卓也。そして、それらのあと作られた「賭博師」シリーズで、凄腕の賭博師なのが「氷室浩次」である。
 氷室神社に遭遇し、「さすらいの賭博師」氷室浩次が頭のなかを巡った。
 シリーズの最後の作品は1966年公開の「黒い賭博師 悪魔の左手」(監督:中平康)で、それを最後に氷室浩次は銀幕から姿を消した。それから半世紀以上が過ぎた。
 うむ、奈良のここで祀られていたのか、と思うと感慨深い。
 (そんな訳ない)。

 何はともあれ、これも何かの縁と氷室神社の鳥居をくぐった。鳥居の先には、両側に石灯籠が立ち並ぶ。
 黄昏時ということもあってか、観光客はいなく境内は静かだ。今までいた東大寺の混雑ぶりに比べれば、落ちついて見てまわれそうだ。
 途中、門のところの隅に四角い台があり、その上に四角い氷の塊が置いてあった。
 清めの氷なのだろうか、氷室神社らしいなと思った。しかし、氷の前に説明書きがあり、見ると「氷みくじ」とある。
 その氷は、おみくじ用のだった。おみくじを買い、それを氷に張りつけると文字(ご託宣)が浮かび上がるらしい。授与料200円とある。
 なるほど、氷室神社らしい。

 さらに門のなかに入ると、中央に拝殿があり、奥に本殿がある。
 そこに先客がいた。なんと、1匹の鹿がじっと立っていた。東大寺前の通りにわがもの顔でうろついていた鹿が、こんなところまで入り込んでいた。寺の人も追い出すようなことはしないのだろう。

 拝殿の前に、賽銭箱が置いてある。
 ここにも何やら説明書がある。読んでみると、賽銭箱上に設置されているコイン穴に100円を入れると、舞楽曲「賀殿」が流れるとある。
 つまり、ジュークボックスのような仕掛けである。氷室神社は、商売っ気がある。
 面白いので100円玉を入れてみると、雅楽が流れてきた。雅(みやび)な曲が境内に響き渡る。雅楽を聴きながら参拝するのも、これいかに!
 遠く曲に曳(ひ)かれてというのではないだろうが、観光客が数人、門をくぐってやってきた。雅楽効果というものもあるものだ。

 「氷室神社」(奈良市春日野町)は、奈良時代に春日山に造られた氷室を祀ったのが始まりとある。平安時代に、現在の地に移された。
 また、江戸時代、雅楽の伝承組織が制度化された。それにより、宮中方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)のそれぞれの楽所(がくそ)を三方楽所とし、楽人(雅楽家)は朝廷や幕府の行事に参勤した。
 氷室神社は南都方の楽人の拠点として、拝殿で舞楽を上演したとある。

 あの賽銭で流れてきた雅楽は、この伝統の舞楽に拠るものだったのだ。
 奈良の観光地の真ん中にあるのに、たぶん多くの人が知らない(知られていない)氷室神社を発見したのは僥倖だった。氷と雅楽にまつわる、知る人ぞ知る神社なのだろう。
 氷室なる神社は、ここ奈良市のほか京都市、天理市などに数社あるようだ。

 *黄昏の興福寺

 すでに日は暮れ、夜のとばりが下り始めた。氷室神社を出て、近くの興福寺に向かった。
 「興福寺」は、五重塔や三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が教科書に載っているような、有名な寺である。
 もとは藤原京(飛鳥時代)にあった寺で、平城京・奈良遷都とともに現在地に移され、名前も興福寺となった。
 歩いていると、薄暮のなかにクレーンを備えた工事中の高い建築物が浮かんで見える。現在、修理中の興福寺の五重塔である。
 五重塔の創建は730(天平2)年で、現存の塔は、1426(応永33)年の再建で6代目である。高さは50.1mで、京都の東寺五重塔に次いで現存する日本の木造塔としては2番目に高い。

 興福寺の中央にでんと構えているのは中金堂だ。時間が遅かったので、堂はもう閉まっている。
 中金堂を横目で見ながら進んでいくと、暗さのなかで明かりの灯った堂が見えた。小さいがきれいな形の南円堂である。
 南円堂をあとに境内を下りていくと大きな通りに出た。三条通りだった。

 *奈良の街の古き商店街

 三条通りを西の方に歩いていくと左手に、入口を派手に形作ったアーケードの商店街があった。親しみのある古い商店街である。
 商店街の名前は「もちいどのセンター街」とある。どういう意味かと考えていたら、漢字で書くと「餅飯殿センター街」である。これでも意味が分からない。
案内板にはこう書いてある。
 「奈良で最も古い商店街のひとつ「餅飯殿センター街」。「餅飯殿」の地名の由来は諸説ありますが、こんな伝説が残されています。
 今から千百年余り前、東大寺の高僧、理源大師が、大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになりました。そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かいます。そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、無事に大蛇を退治します。
 その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与えその労をねぎらいました。以来、この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったということです。」
 懐かしさを感じさせる「もちいどのセンター街」を先端まで歩いて再び三条通りに戻った。そして再び通りを進むと、すぐの右手に商店街が出てきた。通りに並ぶ建物の感じから、こちらの方が「もちいどのセンター街」よりも近代的に見える。
 「東向商店街」とあり、この商店街を進むと、近鉄奈良駅に出る。
 東向きとあるが、通りは南北に向いている。どうしてだろうと考えたがわからない。
 理由は、この通りの東には興福寺の伽藍である寺院が立ち並んでいたので、人家は西側にあり、みんな東側を向いていた。それでその名がついたそうである。
 この商店街も、名前の由来からして古い通りである。

 この三条通を西へまっすぐ突き進むと、予約したホテルに近いJR奈良駅である。
 腹が減っていたので、この三条通りを歩きながらどこか食事するところを見つけようと、東向商店街には入らず歩き始めた。
 それが失敗だった。三条通りに店はいくつかあったのだが、気をそそられる店が見つからずJR奈良駅まで来てしまった。歩き疲れたので、駅前の中華のチェーン店で、とりあえず腹を満たすという結果になった。

 明日は奈良を出て、和歌山の海岸線を走る紀勢本線に乗り、串本の潮岬を目指すことにしよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀伊半島一周② 東大寺、奈良の大仏に会う

2024-10-16 02:07:09 | ゆきずりの*旅
 *大阪、九州・佐賀経由で奈良へ

 懸案事項だった紀伊半島を一周する旅に出た。その前に、高校および中学校の同窓会に出席するために、九州・佐賀に行くことにした。
 「東京→大阪→武雄→佐賀・大町→大阪→奈良→串本(潮岬)→伊勢(三重)→名古屋→東京」という大まかなコースである。

 2024(令和6)年9月20日、東京を出発、大阪下車。兵庫・宝塚泊。
 9月21日、新神戸発、博多を経て佐賀着。佐賀泊。
 9月22日、佐賀・武雄市で高校同窓会出席。武雄泊。
 9月23日、佐賀・大町町で中学校同窓会出席。佐賀泊。

 9月24日の朝、佐賀を出発し、まずは紀伊半島の真ん中部の「奈良」に向かった。
 奈良は何度か行っているのだが、行くところは桜の吉野、石舞台や高松塚のある明日香、里山から離れた室生寺あたりで、教科書に載っている奈良の代表的な東大寺、法隆寺という有名な寺には行っていなかった。
 奈良に行って、法隆寺はともかくもなぜ東大寺に行かなかったのだろう。鎌倉の大仏は何度も見ているのに、奈良の大仏を一度も見ていないのは、何だか胸を張れないような気持になってきていた。
 日本の大仏といえば、まずは東大寺の大仏をあげざるを得ないだろう。ともかく、東大寺の大仏は見ておかねばと思ったのだ。

 「佐賀」駅8時48分発の列車に乗り、「博多」駅10時23分発の新幹線「さくら」で12時59分「新大阪」駅に着いた。大阪から奈良への列車を探した。
 奈良に着いたら、すぐに東大寺に行きたかったので、駅に近いところのホテルにしようと、列車のなかでスマホでホテルを探し、JR奈良駅のすぐ近くのホテルを予約した。
 スマホが普及して便利になったものだ。電波が届くところはどこででも、列車のなかでも電話連絡ができる。
 スマホがない時代は、私のように行き当たりばったりの旅人は、目的地に着いてから駅周辺の観光案内所に出向いて当地の案内書や地図をもらい、宿泊施設を紹介してもらったり調べたりした。小さな町で案内所がない場合や案内所がすでに閉まっているときは、自分で探すしかなかった。
 それはそれで何とかなるものだし、苦労や失敗もあるが、それも旅の一部だと思っている。そして、苦い経験や辛い体験ほど長く印象に残っていて、人生に彩りを与えているものだ。

 「新大阪」駅13時11分発、「おおさか東線」にて「久宝寺」駅13時43分着。久宝寺駅13時51時51分発、「関西本線」にて「奈良」駅14時18分着。

 *奈良・東大寺の大仏

 ホテルに荷物を預け、すぐに駅前のバスで東大寺に向かった。
 バスの中から鹿が見え隠れした。
 東大寺の参道近くでバスを降りると、観光客に交じって鹿がいる。いる、いる。参道を歩くと、もうあちこちに鹿がいる。人を恐れないどころか、観光客には寄ってきて愛嬌を振っている。最初は可愛いと思っていたのが、エサをせびりに寄ってくるたびに、だんだん煩わしくなってくる。
 それよりも、歩くのに注意が必要なのだ。というのも、道路にはあちこちに焦げ茶の塊りや丸い粒が落ちている。すでに踏みつぶされてか固まっているのもある。鹿の糞である。これを踏まないように足元を注意しながら歩かなければならないのだ。
 ニューデリーの道では、あちこち牛の糞が落ちていたのを思い出した。

 鹿を払いのけ足元に注意しながら参道を歩いていくと、大きな門に着く。
 「南大門」である。門の左右には、運慶、快慶等作とされる阿吽の金剛力士立像が見る者を睥睨している。
 南大門をくぐり、さらに進んで右手の鏡池を過ぎると中門がある。中門の先に、大仏が収められている「大仏殿」が現れる。長らく「世界最大の木造建築」といわれてきた、見るからに大きな伝統的建築物だ。

 さてと、ふと足首を返してスニーカーの裏底を見てみた。すると、注意しながら歩いてきたはずなのに底に黒いものが……。
 何とかしようと思って左右を見まわすと、中門から大仏殿に向かう道の右側に細い水路が延びている。浅く、水がゆっくりと流れているようである。スニーカーを浸すと底がちょうど浸かるぐらいなので、洗ってみたがきれいにとれない。
 その先、大仏殿の手前の右手に手水舎があった。そこで、手を洗う(清める)とともに、スニーカーの底を洗う、もとい、浄(きよ)める。

 いよいよ殿の中に入って、大仏を見た。いや、大きいので仰ぎ見たといった方が正しい。
 大仏は本尊一体だけではなかった。左右に、従わせるかのように金色に輝く菩薩像が置かれていた。(写真)
 中央の本尊である大仏は、全体に黒く、薄目で正面を見ている表情は優しいのか厳しいのかわからない。左手は開いて膝の上にのせ、右手は前に曲げた掌を正面を向けている。
 正面に向けた右手は、人々の恐れを取り除き安らぎをもたらす印らしいが、これ以上近づくなといっているように見える。
 しばらくじっと見ていたが、人を寄せつけないような威厳がある。

 「東大寺」は華厳宗の大本山で、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が建立した寺である。本尊の大仏は、正式には盧舎那仏(るしゃなぶつ)といい、大地震や戦火に2度あって、現在の像は江戸時代に修復されたものである。像の高さは約14.7m。鎌倉の大仏の像高は約11.4mであるので、こちらの大仏が幾分大きい。

 個人的感想でいえば、鎌倉の大仏の方に親しみが持てる。
 鎌倉の大仏は厳かな建物のなかに鎮座しているのではなく路上にあるので、後ろから見ると少し侘びしげもに見える(奈良の大仏は後ろ姿は見られない)。
 手は、両手で膝の上で組んだまま(状態)である。相手に説教するのでもなく、自我に没頭しようとしているように見える。
 鎌倉の大仏を見ると何だかほっとするが、奈良の大仏にはそれはない。威圧感の方が大きい。

 威厳のある大仏殿をあとにして、広い境内の東奥にある「二月堂」に向かった。
 二月堂の横には三月堂が、前には四月堂があった。
 階段を上がった二月堂からは、奈良市街が一望できるのびやかな風景が広がっていた。

 東大寺をあとに、近くにあるこれも有名な「興福寺」に向かうことにした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀伊半島一周① 誘惑する日本列島の突端、先端

2024-10-12 01:30:02 | ゆきずりの*旅
 *列車の旅の魅惑

 私は基本的に国内の旅では、飛行機は使わず列車である。飛行機による“点の旅”でなく、列車およびバスによる“線の旅”を旨としている。
 佐賀に帰省(帰郷)する際も、学生時代から年に2~3回帰っていたので、計150回くらい東京~九州を往復したことになるが、飛行機を利用したのは僅か3回である。もうずいぶん昔のことだが、東京(羽田)—福岡空港2回、東京—佐賀空港(開港時に)1回のみ。
 あと、船(東京港―徳島港―新門司港)で1回、夜行バス(東京—福岡)で1回がある。
 東京から九州・佐賀に行くのに、新幹線開通後は主に東京~博多間は新幹線を利用するのが多いが、ときに気紛れに山陰本線を各駅列車で乗り継いで関門海峡を渡ったり、寝台特急列車で四国へ行って、八幡浜あるいは宿毛から九州(大分県)へ船で渡り、そこから佐賀へ帰ったりもした。
 要は、鉄道オタクではないが列車が好きなのである。

 列車で、今までの景色を置き去りにして、新しい風景に分け入っていく感覚がいい。それに加えて、窓の外の景色を見ているという一つの状態で(例えば本を読んだり、食事(駅弁)をしたりお茶を飲んだり、他に何かをやったりしている状態でも)、目的地もしくはどこかに向かって移動しているという二重感覚が心地よい。
 旅するときは、軽い文庫か新書本を1冊バッグに入れていくのだが、ほとんど読んだことがない。本を読むのは家でもできると考えたら、そのときの通り過ぎ去る一瞬一瞬の風景、そこにいる状態が大切だと思えるのだ。
 前にも見た同じ場所・景色でも、季節やそのときの空が違うように、あるいは以前とそのときの自分の気持ちも違っているように、それは同じ景色ではない。通り過ぎる風景は、人生の時間のようだ。
 だから、列車は速ければいいというものでもない。

 *北の宗谷岬から下北半島、津軽半島の突端、終着駅

 人はなぜか突端、先端に好奇心を抱くものだ。そして、最果てという響きに心魅かれ、そこへ行ってみたいと思う。
 南極や北極を目指すのも、エベレストやマッターホルンに登るのも、その現れだろう。
 そんな地球規模、世界規模でなくとも、日本の国内でも地図を眺めていると、気になる突端、先端、最果て、行き場のない終着駅はあるものだ。

 列車が好きだといっても突端、先端を意識して周ったことはないのだが、思えば、何となくそこへたどり着いた、誘われるように行ってしまったということはある。
 地図を見ていると、突端、先端、それに終着駅は気になる存在ではある。

 終着駅の最たるところは、北の突端にある「稚内」駅であろう。北海道に行ったら、一度は行かねばと思わせる駅である。
 日本最北端の駅、北海道の「稚内」(宗谷本線)には2度行き、そこから利尻・礼文島にも渡ったが、今思えば近くの最北端の地、宗谷岬に行かなかったのが悔やまれる。

 本州の最北端といえば、北海道と向かい合う斧のような形の青森県の「下北半島」である。下北半島は、本州の最北端ということだけでなく、その形からして何だろう、何かあるなと思わせる。
 この半島は恐山に惹かれ2度行ったが、野辺地から大湊(おおみなと)線で終着駅の「大湊駅」で降りることになる。
 現在(2024年)は、その一つ手前の「下北駅」が緯度としては本州最北端の駅であるが、当時はそのことを知らなかったので下北駅は通り過ぎただけである。そのことは全く意識していなかったのだ。住んでいる近くの下北沢駅は何度も行ったというのに!
 恐山をあとにして、陸奥湾側から仏ヶ浦をなぞり突端の大間崎を周り下風呂温泉あたりにたどり着くという航路で、2回とも船で半島を周回した。
 下北半島は、何やら掴みづらい半島ではある。

 下北半島と向かい合っているのが「津軽半島」である。この半島と北海道の間に津軽海峡がまたがっている。
 かつて、この海峡を津軽連絡船が通っていた。津軽からこの船が離れるときに、船に乗っている人と陸地で別れを惜しむ人たちがテープを繋いで、手を振る姿が映し出されるたびに郷愁を抱いた。
 現在は青函トンネルが開通し、本州と北海道は列車で繋がっているが、トンネルが開通する前の1974年と1983年、津軽連絡船に乗って北海道へ渡った。
 1988(昭和63)年に開通した青函トンネルは世界最長の海底トンネルであり、2016(平成28)年にスイスのアルプス縦貫「ゴッタルドベーストンネル」が開通するまでは、世界最長のトンネルであった。

 1997(平成9)年のこと。札幌へ行く途中、青森から津軽線の終着駅で降りたった。竜飛(たっぴ)崎を遠く見ながら、凧あげをしていたのを眺めるなどしばらく時間を費やしたあと、青函トンネルで函館へ渡る「海峡線」に乗った。
 海底を通る海峡線に乗った私は、トンネルの途中の駅「竜飛海底駅」で降りた。トンネル内に「竜飛海底駅」(青森県側)と「吉岡海底駅」(北海道側)という2つの海底駅があったのだ。
 降りたといっても、そこに街があり住人がいるわけではない。世界的にも珍しい海底トンネルの見学のための駅である。
 竜飛海底駅は本州最北端の駅だった。そして、吉岡海底駅は北海道最南端の駅だったし、海面下149.5mの世界一低い位置にある鉄道駅であった。
 過去形で書いたのは、2014(平成26)年、北海道新幹線開業に伴い駅は廃止され、今は緊急時の避難施設となり、両駅はなくなったのだ。
 今にして思えば、世にも貴重で稀有な海底のトンネル駅だった。

 *九州最南端、最西端の駅

 2016(平成28)年、霧島へ行ったとき、鹿児島から九州の最南端を走る大隅半島の終着駅「枕崎駅」、その先の「坊津」(ぼうのつ)に行くため、指宿枕崎線に乗った。そのとき途中の駅「西大山駅」が日本最南端の駅(普通鉄道)と知った。開聞岳が目の前に見える素朴な駅だった。
 ※2003(平成15)年、沖縄都市モノレールが開通し、モノレールも含めると「赤嶺駅」が日本最南端の駅になる。

 長崎の平戸島に行くとき降りたのが松浦鉄道西九州線「たびら平戸口駅」である。ここが日本最西端の駅(普通鉄道)である。
 この近くにある煉瓦造りの田平天主堂には、なんとフランスにある「ルルドの泉」が造られている。

 *紀伊半島の突端「潮岬」への想い

 地図で四国を見ると、カニを上から見たような形をしている。そして、下(太平洋)の方の両サイドに尖った先端(岬)が脚のように出ている。
 四国へ行ったときである。
 高松から徳島、牟岐線を経て、高知の太平洋・土佐湾の右(東)サイドの尖った先端である「室戸岬」へ行って、予土線で宇和島へ行き、八幡浜から船で九州(別府)へ帰ってきたとき、もう一つの左(西)の先端「足摺岬」が気になった。
 それで、次に四国に行ったとき、室戸岬を通って、土佐くろしお鉄道で「足摺岬」へ行った。そして、宿毛から船で九州(佐伯)へ渡った。
 そのとき、漠然と「潮岬」の存在が浮かんできた。
 紀伊半島の先端である潮岬に行かねばならない、と思った(義務ではないのに)。和歌山市や新宮・那智には行ってはいるのだが、紀伊半島の突端には行っていないのだ。
 そう思っているうちに何年かが過ぎていった。人生とは、そうやって老いていくものだなぁと、少し寂しくもなった。振り返れば、やり残したものがいっぱいあるのだ。
 この秋、紀伊半島に行こうと決意した。

 *紀伊半島とは

 日本列島の地図を見ると、南の太平洋側には、いくつかの半島が突き出ているというより垂れ下がっているようにある。房総半島(千葉)も、伊豆半島(静岡)も、紀伊半島も、似たような形をしている。
 そのなかでも、日本列島のほぼ中央にある紀伊半島の大きさは目につく。この半島こそ、日本の最大の半島なのである。
 それでは、紀伊半島はどこからどこを言うのだろう。
 半島のくびれから見ると、西は大阪(大阪府)あたりで、東は津(三重県)あたりだろうか。
 半島の内陸部にはでんと奈良県があり、奈良の西、大阪から南は和歌山県が太平洋岸まで延びている。奈良の東、和歌山の北に三重県があり、名古屋(愛知県)へ続く。
 半島の中央部には、千メートル以上、2千メートル近い山が連なる紀伊山地が横断している。紀伊は木の国からきているといわれているように、内陸部は山でおおわれている。それを包むように海が広がり、その先端が太平洋を望む「潮岬」なのである。
 (写真は、この度行った潮岬と本州最南端の潮岬灯台)

 この秋に紀伊半島に行こうと思っていた矢先に、9月に九州の佐賀の出身高校、武雄で同窓会を行うという知らせが来た。東京から帰ってくる者がいるからと、その隣町の出身中学校、大町町で相乗りの形で、次の日に中学校の同窓会を開くことになった。

 ということで、九州に行った帰りに、紀伊半島を周ることにした。
 「東京→大阪→武雄→佐賀・大町→大阪→奈良→串本(潮岬)→伊勢(三重)→名古屋→東京」という大まかなコースを想い描いた。
 とりあえず、宿泊ホテルも決めずに地図を頼りに出発した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ジタン」の香り…を探って

2024-09-18 01:37:45 | 人生は記憶
 「アラン・ドロンのいた時代」を書いたあと、書かなかったことが気になっていた。
 ※ブログ「アラン・ドロンのいた時代」(2024-08-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/bd76b23b284ab180e2b0bda4d5dc0c9f

 それは、A・ドロンが主演した映画の一つ「ル・ジタン」である。
 「ル・ジタン」(Le Gitan)は、1975年に公開されたフランス映画で、犯罪のなかに身を置く“ジタン”と呼ばれる男の生きざまを描いた、いわゆるフィルム・ノワールである。
 気になっていたのは、映画の内容ではない。「ジタン」という言葉、その響き。そして、それが持つ独特の香りである。

 「ル・ジタン」(le gitan)はフランス語で、「ル」(le)は冠詞で、「ジタン」(gitan)は「ジプシー」(gypsy)のことである。
 「ジプシー」にはヨーロッパ各国で呼び名があり、スペイン語での「ヒタノ」(gitano)、ドイツ語の「ツィゴイナー」(zigeuner)も同様の意である。それらの呼称は自称ではなく外名であり、現在は「ロマ」(Roma)と呼称されている。
 サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」(Zigeunerweisen)も、「ツィゴイナー(ジプシー)の旋律」という意味になる。この曲は、サラサーテ本人によって演奏されたレコードも残されている。
 それを題材にして書いた小説が内田百閒の「サラサーテの盤」で、さらにそれを原案として鈴木清純が「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)という特異な映画を作った。この映画の出演者の原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代という顔ぶれを見ただけで、この映画の幻惑性が滲み出ている。

 *1975年ごろ、「地下室のメロディー」での「ジタン」のこと

 あの頃、つまり、アラン・ドロンの「ル・ジタン」が封切られた1975年ごろのことである。
 私が出版社に勤めていたときで、社屋ビルの地下に組合事務室が設けられていた。ガリ版刷りのインクの臭いがする日の当たらない暗い部屋だった。その頃、たまたまその委員長になって(選ばれて)しまった。それで、私はその事務室を勝手に「地下室のメロディー」と名づけた。
 このことは、「アラン・ドロンのいた時代」にちらと書いた。

 そのころ、1970年代だが、日本は急速な経済成長とともに全国的に組合活動も活発だった。特に出版業界はそうだったように思う。
 去年(2023年)、百貨店そごう・西武の労働組合がストライキを実施したとして話題になったように、近年、日本ではほとんど行われていないようだが、当時はストライキも労働争議も珍しいことではなかった。フランスでは、今でも頻繁にストライキを行っているが…。

 それで「地下室のメロディー」の話の続きだが、労使による団体交渉の時は、会議室にて双方の代表者がお互いテーブルに向き合って座った。
 春のベースアップや夏季と冬季のボーナス(賞与)のときは、話し合いの交渉はしばしば深夜に及んだ。交渉の大詰め段階では、最終決定権を持つ社長が出席する。
 会議室において、社長を真ん中にした経営者陣と委員長を真ん中にした組合執行委員が対峙する構図になる。
 室内は、タバコの煙でけむったい。当時、稀に喫(す)わない者もいたが、男性はほとんど喫煙者だった。もちろん、私も喫っていた。
 テーブルの上にライターを置いた。
 “フランスかぶれ”だった私は、その前年(1974年)初めてパリに行き、唯一自分の贅沢品として買ってきたカルティエのライターを。
 前を見ると、社長のテーブルの脇にもライターが置かれている。それもカルティエだった。思えば、私よりはるかに人生の先輩である、初老の社長は年季の入ったフランス好きの洒落者だ。
 ※あとで、組合委員の一人が、「社長と委員長がカルティエのライターを横に言い争っているから、おかしくなっちゃったよ」と言って笑いあった。
 (そして、時間は過ぎていくなか)
 私は、ポケットから煙草(タバコ)を取り出した。
 それは「ジタン」だった。
 つまり、ここで私はライターのカルティエを自慢したくて書いているのではなく、この煙草の「ジタン」を言いたかったのだ。

 *「ジタン」を喫ったことはある?

 「ジタン」(GITANES)は、フランスの煙草である。
 日本の縦長のパッケージ(箱)と違ってやや横長の大きさである。絵柄は、紫煙を思わせる青い空と白い雲が波うつなかで、タンバリンか扇を舞いながらフラメンコを踊っている女性のシルエットが描かれている。
 フランスのタバコ「Gitanes」は、日本では「ジタン」と呼ぶが、正しくは女性名詞複数であるから「ジタンヌ」である。
 「ジタン」はアラン・ドロンも喫っていたらしいし、名前もそうだが見た目も格好いい。

 私は、学生時代は安い両切りの「しんせい」(当時20本入り40円)か「いこい」(20本入り50円)を買っていて、社会人になってからフィルター付きの「ハイライト」(20本入り70円)か「ロングホープ」(20本入り80円)を喫うようになった。
 あるとき、会社のカメラマンがこの「ジタン」の煙草を持っているのを見て、気障(きざ)なやつだと思ったが、日本でも「ジタン」が手に入るのかと心が動いた。
 私はすぐさま「ジタン」を買った。
 そして喫ってみたが、クセがあって結構きつい。日本のソフトな煙草に慣れてしまっていた身としては、続けては喫えなかった。
 それで、やはりフランス製の「ゴロワーズ」(Gauloises)を試してみたが、こちらの方がもっと喫いづらかった。
 であるから、「ジタン」はポケットに入ったままが多く、喫うのは格好つけるバーやスナックなどであった。
 しかしそれも長続きせずに、そのうち「ジタン」は買うのもやめてしまった。

 *
 そして、ほどほどの中年になったとき、世間の健康志向に負けて、何度かの試みのあと禁煙をした。
 そうではあったのだが、禁煙直後のころ、インドに行ったときに安い「ビディ」という原始的な煙草を見つけた。私は、インドだけの例外措置として、それを喫ってみた。焦げた葉や木を喫っているようで、旨くはない。
 この「ビディ」は、煙草の葉(スパイスの実も入っている)を木の葉で細く巻いて糸で括ったもので、身体に悪そうだが煙草の根源的な味がする。
 この「ビディ」を自分の土産に、日本に数個持ち帰った。そして、それを全部喫い終わったら完全禁煙にしようと改めて決意した。
 ところが、この「ビディ」を喫い終えたら、案の定、煙草が恋しい。すると、捨てる神あれば拾う神あり(適切な例えではないが)。当時、銀座中央通りにあったインド政府観光局の人が、そのビルの上にあるインド料理店「アショカ」に「ビディ」を売っていると教えてくれた。
 私は、こんな幸運なことがあろうかと、それでも自分に後ろめたさを感じながら、「ビディ」がなくなるたびに、これで最後と弱く心に誓いつつ、「アショカ」に料理は食べなくとも定期的に通うことになってしまった。
 禁煙と言いながら、「ビディ」喫煙状態が1年以上続いた。

 *フラメンコ・ロックの「ジタン」

 1970年代半ば、「ジタン」を格好だけで喫っていたころである。
 1975年、カルメン(Carmen)というロック・バンドが、「舞姫」(Dancing in a cold wind)なるアルバムを発売した。
 「カルメン」というグループ名に表れているように、演奏はフラメンコ・ロックという異色のロック・バンドだった。
 その曲よりも目をひいたのは、そのジャケットである。まったく煙草の「ジタン」のパッケージ・デザインそのものである。
 「カルメン」といえばメリメの小説をもとにしたビゼー作曲のオペラが有名である。これはスペインのセビージャが舞台の物語で、主人公カルメンはジプシー(ジタンヌ)である。
 (写真はカルメン「舞姫」のジャケット。その左下にあるのが煙草「ジタン」)
 確かに「カルメン」というグループのイメージにピッタリの絵柄ではあるが。

 *「ジタン」と、異国の香りの音楽

 そのころ1970年代後半、日本ではエキゾチックな内容の曲が流れ、ヒットした。
 「いつか忘れていった こんなジタンの空箱……」
 庄野真代が歌う「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也、作曲:筒美京平、1978年)が、耳に心地よかった。
 「ジタン」を喫っていた気障な男はどうしたのだろう? バーで知りあった行きずりの乾いた恋なのか?
 「ジタン」と「イスタンブール」は、異国のエキゾチックな関係なだけ?

 「そこに行けば どんな夢もかなうというよ……」と、まだ見ぬところ、知らない国へ誘う歌。私たち(私と友人)は、その歌を恥じらいを含んで口ずさみながら、夜のネオンの輝く街を徘徊した。
 ゴダイゴの歌う「ガンダーラ」(Gandhara、作詞:奈良橋陽子・日本語詞:山上路夫、作曲:タケカワユキヒデ、1978年)は、シルクロード・ブームの火付け役となったようだ。

 すると、久保田早紀の「異邦人」(作詞・作曲:久保田早紀、1980年)が追いかけてきた。
 このエキゾチックな曲は「シルクロードのテーマ」として売り出された。
 「……ちょっとふり向いてみただけの異邦人」

 そして、1980年、東京はどこかの街、TOKIOになる。
 「空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突きぬけ 星になる……」「TOKIO」(作詞:糸井重里、作曲:加瀬邦彦、1980年)
 「……TOKIOが空を飛ぶ」

 やがて、糸井重里のコピーによる西武百貨店のイメージCM「不思議、大好き」を人々が漠然と共有し、「おいしい生活」の世界観へ繋がっていく。
 日本は、この1980年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(Japan as Number One: Lessons for America)と称され、いつしか後にバブルと呼ばれる時代に浸っていく。

 惜しむなかれ、あのフランス煙草「ジタン」は、もう日本での発売は終えている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラン・ドロンのいた時代

2024-08-24 02:59:27 | 映画:フランス映画
 稀代の二枚目、フランスの俳優アラン・ドロン(Alain Delon、1935-2024年)が、去る8月18日に亡くなった。88歳だった。
 個人的好みを踏まえて言うと、アラン・ドロンは私が生きてきた世代のなかで最もハンサムな男だった。彼の前の世代の、同じフランス人の色男、ジェラール・フィリップ(Gérard Philipe、1922-1959年)と入れ替わるように、A・ドロンは登場した。
 数多くの映画に出演・主演し、数多くの女性と浮名を流した。

 アラン・ドロンを世界的に一躍有名にしたのは、1960年公開されたルネ・クレマン監督の映画「太陽がいっぱい」(Plein soleil)である。
 地中海の港町を舞台に、浅はかな野望を持つ貧しい若い男(アラン・ドロン)の前にいるのは、贅沢な遊び人の男(モーリス・ロネMaurice Ronet)とその美しい恋人(マリー・ラフォレMarie Laforêt)。
 青い空と波に漂う、欲望が生み出す嫉妬と計略。眩しい陽が照らすヨットの上での情事と殺人。ニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽が青い空と波間に流れる。
 華と哀愁のある美男子のスターの誕生だった。

 ※「太陽がいっぱい」が封切られた1960年は、昭和35年である。第2次世界大戦の戦後傷跡も癒えつつ経済復興のさなかにあった日本は、この年、安保闘争で大揺れしていた。
 そのころ九州の田舎の中校生だった私は、アラン・ドロンの上半身裸でヨットを操る映画ポスターと哀愁を帯びたメロディーは脳裏に残っているが、そのときは映画「太陽がいっぱい」は観ていず、私のヒーローは日活の小林旭の“渡り鳥”であった。「太陽がいっぱい」を観たのは後の再上映館だった。私がリアルタイムでA・ドロンの映画を観たのはジャン=ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールと称される「仁義」(1970年)あたりからである。

 *初期アラン・ドロンを彩った女優たち

 アラン・ドロンは、1957年、「女が事件にからむ時」で映画デビュー。1958年に「恋ひとすじに」(Christine)で共演したロミー・シュナイダー(Romy Schneider)と同棲し婚約するも、1963年に破棄することになる。
 別れた後も二人の交友は続き、1968年、A・ドロンの手引きで「太陽が知っている」で再び共演を果たしている。

 1959年、「太陽がいっぱい」が封切られる前年であるが、アラン・ドロンの主演した「お嬢さん、お手やわらかに!」(Faibles Femmes)がフランスで大ヒットする。
 この映画で特筆すべきは、まだ新人ともいえるA・ドロンを取り巻く3人の若手女優たちの華々しさである。今では忘れられているかもしれないが、パスカル・プティ、ミレーヌ・ドモンジョ、ジャクリーヌ・ササールという名前が並ぶ。
 パスカル・プティ(Pascale Petit)は、1960年代はフランスでは特別な人気だったブリジッド・バルドーに次ぐぐらいの人気だった。後に、「妖姫クレオパトラ」(1962)や「ボッカチオ」(1972)にも主演している。
 ミレーヌ・ドモンジョ(Mylène Demongeot)は、「悲しみよこんにちは」「女は一回勝負する」(1957)などに出演している、こちらも艶っぽい人気の実力派女優である。
 ジャクリーヌ・ササール(Jacqueline Sassard)は、「芽ばえ」(1957年)「三月生れ」(1958年)などで、当時、その清楚な雰囲気が大人気だった。「三月生まれ」の衣装から日本のアパレルメーカーが売り出した、ダスター・コートの「ササール・コート」は当時話題となった。
 ということで、A・ドロンと共演した彼女たちの当時の人気度を知るために、私の手元にある「スクリーン特別版・映画ファンが選んだ生涯忘れられない名作と愛しの名優たち。」(近代映画社刊)を開いてみる。
 「1959年度の人気女優」編では、1位のオードリー・ヘプバーンに次いで、2位がミレーヌ・ドモンジョ、3位がパスカル・プティ、9位がジャクリーヌ・ササールである。
 若手人気女優を散りばめさせたこの映画の配役を見るだけで、A・ドロンに対する期待がわかる。
 この年、「人気男優」編ではアラン・ドロンは4位に登場しているが(1位はヘンリー・フォンダ)、「太陽がいっぱい」が封切られた翌1960年度は1位となっている。以後、長年ベスト10のトップを含め上位を続ける特別な俳優となる。

 さらに特質すべきは、1959年にもう1本アラン・ドロン主演の映画が封切られたことだ。この「学生たちの道」(Le Chemin des Ecoliers)の共演者が、フランソワーズ・アルヌールである。
 フランソワーズ・アルヌール(Françoise Arnoul)は、「フレンチ・カンカン」(1954年)、「ヘッドライト」「過去をもつ愛情」(1955年)などの出演で見るとおり人気と実力を備えた女優で、当時、日本では最も人気のある女優であった。ちなみに、上記の「人気女優」編での、1955年度はグレース・ケリーに次ぐ2位となっていて、1959年度では7位である。

 *転機となったルキノ・ヴィスコンティ監督との出会い

 いつも個性派監督と大物俳優が、アラン・ドロンに寄せられるように近くに現れた。
 「太陽がいっぱい」が封切られた1960年、アラン・ドロンはルキノ・ヴィスコンティ監督に認められて「若者のすべて」(Rocco e i suoi fratelli)に出演する。ヴィスコンティはイタリア出身の貴族出の監督である。この映画出演によって彼は、単なる二枚目の人気スターとは言い切れない側面を生み出したと言っていい。
 その2年後、ヴィスコンティ監督は「山猫」(Il gattopardo )でA・ドロンをまったく新しい役柄で起用する。
 両作品とも、イタリアのやはり新人女優だったクラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)と共演している。
 ※実は、私はクラウディア・カルディナーレが最も好きな女優の一人である。もう一人は、ドミニク・サンダ(Dominique Sanda)。

 *どこにあった?「地下室のメロディー」

 ちょっとしたスター俳優は、他の大物俳優との共演を嫌うものだが、アラン・ドロンは男優、女優に限らず、大物との共演をいとまなかったし、むしろ好んでいたように見える。おそらく、自分に自信があったのだろう。
 当時、フランス映画界では、「現金に手を出すな」(1954年)「ヘッドライト」(1956年)などで有名な、ジャン・ギャバン(Jean Gabin)という大物男優がいた。世界的に知られていた、誰もが一目置く渋い個性を持った男優だ。
 アラン・ドロンは、彼と1963年「地下室のメロディー」(Mélodie en sous-sol)で初共演し、その後「シシリアン」(Le clan des Siciliens、 1969年)、「暗黒街のふたり」(Deux hommes dans la ville 、1973年)と共演した。
 「地下室のメロディー」は、老ギャングであるJ・ギャバンと若者A・ドロンがカンヌのカジノの地下金庫から大金を強奪する物語だが、タイトルが気にいっていた。

 ※あの頃、つまり1970年代の中ごろ、私が出版社勤務の頃のことである。社屋ビルの地下1階は主に出版物の倉庫フロントであった。その一角に組合の事務室が設けられていた。日も当たらない、ガリ版刷りのインクの臭いのする暗い小さな部屋である。
 あの頃、たまたま私はその委員長になって(選ばれて)しまった。そのとき関係者に、私はその陰気(インキ)臭い事務室を、ここを「地下室のメロディー」と呼び方を変えると(勝手に)宣告した。何ごとも格好良くありたい時代だったのだ。
 そして、当時ガリ版刷りで作っていた機関誌とは別に、「地下室のメロディー」という名の新しい内容の小紙を発行しようと想い巡らせた。しかし、「地下室のメロディー」は発行することなく、私が長をやめた後は「地下室のメロディー」という呼称もいつしか地下の暗闇に消えていた。

 *アラン・ドロンの新しい一面、フィルム・ノワール

 1967年、アランドロンはジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画「サムライ」(Le Samouraï)で、死と隣り合わせに生きる暗い男を演じた。この映画はフィルム・ノワールの歴史を変えた作品といわれ、その後多くの監督に影響を与えた。
 メルヴィル監督とアラン・ドロンは、その後、「仁義」(Le Cercle rouge、1970年)、「リスボン特急」(Un flic、1972年)を作っている。
 「リスボン特急」では、フランス女優のなかで最も美人だと思うカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)と共演している。
 カトリーヌ・ドヌーヴは、「シェルブールの雨傘」(1964年)「昼顔」(1967年)、「終電車」(1980年)、「インドシナ」(1992年)、「8人の女たち」(2002年)と並べてみても、長く主演女優を張っていて、今も現役のようで、息の長い女優だ。
 ※写真は、当時、日比谷スカラ座で観たときの「リスボン特急」のパンフレット。C・ドヌーヴをA・ドロンとダブル主演のように扱っている。もちろん、キャスト欄ではA・ドロンが先であるが。

 *
 アラン・ドロンは、ロミー・シュナイダーとの長い春のあと、1963年、「黒いチューリップ」を撮影中にナタリー・バルテルミー(のちにナタリー・ドロン)と恋に落ち、1964年に結婚する。
 ナタリー・ドロン(Nathalie Delon)は、1967年にアラン・ドロンが主演した『サムライ』でA・ドロンの相手役として映画初出演。翌1968年、ルノー・ヴェルレー(Renaud Verley)との共演作「個人教授」(La leçon particulière)で人気が上昇した。
 しかし、A・ドロンとは1969年離婚した。
 ※当時、「個人教授」公開後、ルノー・ヴェルレーは日本ではアイドル的人気だった。実際、1971年「愛ふたたび」(監督:市川崑、浅丘ルリ子共演)、1972年「恋の夏」(監督:恩地日出夫、小川知子共演)と、巨匠監督による日本映画で主演している。
 ちなみに、1970年度の「人気男優」編では、1位、アラン・ドロン、2位、ロバート・レッドフォードという錚々たる名前が並ぶなかで、ルノー・ヴェルレーは8位に名前を出している。
 この年の「人気女優」編では、1位はロバート・レッドフォードとの「明日に向かって撃て!」が大ヒットしたキャサリン・ロス、2位がカトリーヌ・ドヌーヴである。

 ナタリー・ドロンとの別れ話の最中のころ、アラン・ドロンはジャン・エルマン監督の「ジェフ」(1969年)で、ミレーユ・ダルク(Mireille Darc)と共演。以降、二人は長い恋人関係にあった。

 音楽面では、1973年に、ダリダとの共演「あまい囁き」(Paroles, Paroles)がヒット。日本では、中村晃子と細川俊之のカバー曲もヒットした。

 *アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドがいた時代

 あの頃、いやつい最近まで、フランスにはアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドの2人の男優スターがいた。
 日本ではアラン・ドロンが圧倒的な人気だが、本国では2人は遜色ないぐらい、いやベルモンドの方が人気があるのではというぐらい、双璧ともいえる2人である。

 ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933ー2021年)は、アラン・ドロンより2歳半ほど年上である。亡くなったのは2021年9月、A・ドロンと同じ88歳であった。
 映画界への進出はA・ドロンとほぼ同じころの1957年で、演技力が認められていたがベルモンドも当初は端役での出演だった。1958年公開のギイ・ブドス監督の『黙って抱いて』では、無名時代のA・ドロンとともに出演している。
 同年、ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)監督の短篇映画『シャルロットとジュール』に主演(フランスでの一般公開は1961年)。1959年、クロード・シャブロル監督の「二重の鍵」に出演し、注目された。
 1960年、ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(À bout de souffle)が公開される。この映画は、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作として大ヒットし、主演したベルモンドを一躍人気スターの座に押し上げた。
 アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」とジャンポール・ベルモンドの「勝手にしやがれ」が登場した1960年はなんという年だろう。この年の「人気男優」編では、1位はアラン・ドロンで、3位にジャンポール・ベルモンドである。
 ベルモンドのゴダール監督映画への出演は、アンナ・カリーナとの共演「女は女である」(Une femme est une femme、1961年)、そして名作「気狂いピエロ」(Pierrot le fou、1965年)と続く。
 ※フランス・ヌーヴェル・ヴァーグに酔っていた私にとって、アルチュール・ランボーの「また見つかった、何が? 永遠が、海と溶けあう太陽が……」で終わる「気狂いピエロ」は、私の好きな映画Best1である。

 ベルモンドは、ヌーヴェル・ヴァーグでの個性派俳優と見なされた一方、派手なアクションをスタントマンなしで演じた「リオの男」(1963年)、「カトマンズの男」(1965年)、やコミカルで陽気な味のある演技も併せ持った。

 アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドが画面上で実際に共演したのは、ルネ・クレマン監督による『パリは燃えているか』(1966年)であるが、この映画はオールスター映画である。
 名実ともに大スターになっていた二人の実質上の共演は、1970年公開の「ボルサリーノ」(Borsalino)である。1930年のマルセイユが舞台で、2人の若者が裏社会でのし上ろうとする姿を描いた。
 ※「ボルサリーノ」とはイタリア製の帽子で、つばがありトップのクラウンは少しくぼみがありサイドのクラウンにはリボン(黒)が巻いてある。当時から被った姿が格好良いと思っていたが、若いと気障なので年とってからボルサリーノ製ではないが、そのスタイルの帽子を買った。しかし、被る機会がない。

 *
 2019年、アラン・ドロンは第72回カンヌ国際映画祭で長年の功績に対し、名誉パルムドール賞を授与された。
 A・ドロンは1960年の「太陽がいっぱい」以降、長い間、国際的なスターであり続けてきた。アメリカ・ハリウッド以外のヨーロッパの俳優では異例であった。近年はスクリーンから遠ざかっていたにもかかわらず、その存在は輝きを失ってはいなかった。

確かに、「アラン・ドロンのいた時代」があった。
つい、最近のことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴジラの手? いや、いや、「亀の手」!

2024-07-30 20:34:28 | 気まぐれな日々
 ここのところ(2024年7月下旬)、日中は30度を超す暑い日が続く。日本も、どうやら亜熱帯地方になったかや?
 食事を作るのも面倒になるが、そうも言ってはいられない。ひとり身としては、たまに外食するが、毎日なにがしかの料理を習慣として作っている。もう修行のようである。
 生きるために食うのか、食うために生きるのか、わからなくなってきた。

 先日、行きつけのスーパーの魚売り場を物色しているときである。
 いつものごとくその日の魚やエビなどが並べてある棚に、見慣れない妙なものが置かれていた。それは、何気なく並んでいた。
 平然と、そこにある……
 私は足をとめた。うむ? これは、異様だ。
 まるで、ゴジラの小さな子どもの手だ。ゴツゴツした爪のようなものの下に、コモドドラゴンの鎧の手足のような脚(胴)?が伸びている。
 大きさは3~5㎝ぐらいで、もっと小さいのもそばにくっついている。それらが、いくつか詰まってパックに入っている。
 食いものとは思えないが、値段も貼ってあるので、ちゃんとした売り商品である。
 名前を見ると「亀の手」とある。
 長年魚売り場担当の顔なじみのおばさんに、「これは、亀の手?」と疑問符を投げかけてみた。
 すると、おばさんも「そうなのよ。売り場に出たのは初めてよ。私も初めてなの。これ、どうやって食べるの?」と、逆に訊かれてしまった。
 私も知るわけがない。
 すぐに携帯スマホで検索してみると、甲殻類の一種だとある。つまり、カニやエビの仲間だということだ。
 長年魚売り場を担当してきたおばさんが初めて見たというから珍品に違いない。これは、買って食べなければならない、とすぐに思った。
 愛知県産とあるから国内産である。値段を見ても安いではないか。100g=198円である。私は、1パック184g(税込393円)を買った。

 家に帰ってよく洗い、皿に並べた。どう見ても、食いものには見えない。(写真)
 釣りが好きで、食いもの、特に魚には目のない関西に住んでいる弟に電話して、この亀の手について訊いてみた。すると弟は、こともなげにこう言った。
 「亀の手は、時々食うよ。甲殻類だけど、タニシやホウジャ(佐賀県の方言でカワニナ)みたいなものだよ。海辺の浅瀬の岩にくっついているんだ。最近は、テトラポットにくっついていることもある。それを剥がして(採って)、帰って食べたりするよ」
 「こっち(関西)でも、スーパーで見たことないなあ。知っている人は知っているけど、料理屋でも出てこないね」
 肝心の、食べ方を訊いてみた。
 「俺は酒蒸しにするね。食うところはちょっとしかないんだが、ビールのつまみにいいんだ」

 私は家に日本酒は置いていないが、ずいぶん前に買った安いワインがあるのを思いだした(安くてもフランス産、腐ってもボルドーである)。
 ということで、ワイン蒸しにした。
 「カメノテのワイン蒸し」である。
 食べるときは、爪の下のコモドドラゴンの脚状のところを指で裂いて引っ張ると、クリーム色の細長い身が出てくる。カニの脚を折ると中から身が出てくるように。
 指でやるのが嫌だったら、小さなナイフで裂けばいい。出てきた身を啜(すす)るか、摘まんで口の中に入れる。
 プリッとした食感で、エビやカニというより、味は貝に近い。
 身は小さくて食べごたえはないが、酒飲みにはいい肴なのだろう。ワインにもいい(料理に使ったワインだが)。
 ワインに蒸す前に、オリーブオイルでまぶした方がよかったかもしれない。それにニンニク、ショウガなどを刻んだりしたらどうだったか。(次に食する機会があったときの課題だ)

 人生は経験のたまものだ。
 たまたまだが、ここで稀なゴジラの手を、もとい、亀の手を食べられたのは貴重な体験だった。

 調べてみると「亀の手」(カメノテ)は、スペインやポルトガルでは、海鮮料理によくでるとのことである。特にポルトガルでは「ペルセベス」として有名で、シーフードレストランには必ずといっていいほど置いてある、高級食材だという。
 イギリス在住で「ペルセベス」(カメノテ)を食べにわざわざポルトガルのリスボンに行った女性のレポート(2023年投稿)によると、カメノテの最高級品だと1㎏=€200(約33,000円・現在換算値)もするという。
 彼女が訪れたリスボンの老舗レストランでは100g=8.76€(約1,500円)だったそうだ。

 世のなか、「亀の手」(カメノテ)を食べに飛行機に乗る、あるいは船に乗る、はたまた列車に乗る、という旅もあるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エマニュエル・トッド……が示す、「人類の終着点」

2024-06-29 01:26:56 | 本/小説:外国
 *世界はどこへ向かっているのか?

 現在、世界がどう動き、どうなるのかは予測がつかない。
 予期せぬパンデミック(世界的感染症流行)が終息したかと思うと、ロシアのウクライナ侵攻、それにイスラエルとパレスチナ・ハマスとの戦闘状態は終息の目途を見ない。
 今まで世界をリードしてきたアメリカは、明らかにかつての強い影響力を失くしていて、前大統領トランプの出現以来、米国民の分断はより深くなっているようだ。
 ヨーロッパも、イギリスの離脱(ブレグジット)があったにせよ、EU(欧州連合)の旗のもと、国による思惑の違いを踏まえて曲がりなりにもより良い方向・世界へと連動していたはずだった。しかし、このところ各国の動きがおかしい。
 世界は、今までとは違った方向へ動いているように感じる。それは、あたかも地球の地盤が少しずつずれて地殻変動を起こすときのように。

 6月9日夜、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は欧州議会選挙でマリーヌ・ル・ペン氏率いる極右政党「国民連合」が同国で大勝する見通しとなったことを受け、議会下院を解散し総選挙を実施すると発表した。
 フランスに限らず欧州では右翼、右派政党が伸長しており、これらの勢力はEUの理念である欧州統合に疑問を投げかけ自国第一主義を唱えて、ウクライナの支援には消極的なのが特徴である。
 パリ・オリンピックを前にして総選挙を強行するという事態に、フランス現実の不透明感と焦燥を感じさせる。
 6月16日には、ロシアの全面侵攻を受けるウクライナの和平の道筋を協議する「平和サミット」が、100カ国・機関が参加してスイスでの2日間の日程を終え「共同声明」を採択し、閉幕した。
 中国が欠席したなかで、国連憲章と国際法を順守する必要性を強調したが、一部の国は同意しなかった。共同声明は幅広い支持を得るために意見が分かれる問題が一部排除されたにもかかわらず、グローバルサウスと呼ばれるインド、インドネシア、南アフリカ、サウジアラビアやBRICSを構成する国々が署名を見送った。
 ウクライナを一方的に侵略するロシアを、世界は悪者国家とみなし嫌われていると思い込んでいたが、そうとばかり言いきれないという世界状況が現れてきた。
 ここのところの世界の動きは、あるべき姿を見失ったかのようである。いや、各国が内向きの視線になっているようである。

 *「人類の終着点―戦争、AI、ヒューマニティの未来」

 このような複雑な世界情勢のさなか、「人類の終着点―戦争、AI、ヒューマニティの未来」(朝日新書)を読んだ。
 本書の主な発言は、エマニュエル・トッド、フランシス・フクヤマ、マルクス・ガブリエルの現代の知の巨匠ともいえる思想家、経済学者、哲学者である。
 私は、トッドの「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春新書、2022年)を読んで以来、彼の発言、著作に注意を払ってきた。
 ※ブログ→「今の世界は、「第三次世界大戦はもう始まっている」のか?」(2022-9-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/460823bdfcdac29864fe0d5f6c5dbf9a

 本書「人類の終着点」の発売が2024年2月であるから、当然彼らの発言はそれ以前のことである。それを踏まえて読むと、「自らを自由民主主義の価値観の旗手だと考える西側諸国は完全に時代遅れだ」「アメリカのさらなる悪化に備えなければならない」と説くトッド氏の発言は、近未来を的確に見つめていると思わせる。
 トッドはこう言う。
 「当然ながら、戦争はロシアの侵攻によって始まりましたので、人々は「ロシアは悪者」「ウクライナ人は善人」と考える傾向を持っています。しかし、私が基本的に関心を持っているのは、経済的な観点から見た「現実への落とし込み」です」
 そのうえで、戦争が長引く現況を読み解く。
 圧倒的な経済力を持っていると思われた西側諸国による経済制裁によって、ロシアへの経済打撃は相当重いものでロシアがたちまち疲弊するであろうと、アメリカをはじめとする西側諸国は予想していた。が、最初の想定・想像とはかけ離れていたことは現状を見ると明らかで、そのことを数字をあげて解いていく。
 長引く戦争の疲弊や焦燥は、西側諸国の行動に表れ始めているのだ。そのことを、西側諸国以外の国々が冷静に見ているのだ。

 エマニュエル・トッドはフランス人である。そして、イギリス(ケンブリッジ大学)でも学んでもいる。その西洋人の視点からの発言として、「西洋人が今気づいたことは「西洋は、私たちが思っていたほど好かれていない」という事実です」と述べる。
 このことは、先にあげたウクライナ「平和サミット」における、グローバルサウスやBRICSの行動に見てとれる。

 それを踏まえて、驚くべきことだがここ数年、「世界中の人々はアメリカを嫌っている」ということが、少しずつ見えてきた。もっと一般的に言うと、西側のネガティブな動きを考慮すれば、ウクライナ戦争とは関係なく、アメリカのさらなる悪化に備えなければならないと、アメリカの動向を憂う。
 そして、アメリカの現状を語る。
 「現在のアメリカは、不平等の国です。1980年代以降、経済的不平等が増大し、世界史上、他に例を見ないほどです。2010年以降も経済格差は悪化していき、その格差は、平均寿命の差にまで転化されました。アメリカでは死亡率が上昇していないのに、です。
 つまり、アメリカにおける大規模な社会的・経済的後退は、アメリカを歴史上の何か別のものに変えてしまいました。今のアメリカはもはや、1950年代、60年代、あるいは70年代に、私たちが愛したアメリカではありません。不平等が広がり、自由民主主義が変容した結果、私が「リベラルな寡頭制」と呼ぶものに、アメリカは変わってしまいました。」
 ※寡頭制とは、国を支配する権力が少数の人や政党に握られる政治体制のことである。

 *世界の民主主義は機能しているのか?

 エマニュエル・トッドは言う。
 「西側諸国は自らを「世界における自由民主主義の価値観の旗手」だと考えているけれども、それは完全に時代遅れだということです。
 欧米はもはや民主主義の代表ではなく、少数の人や少数の集団に支配された、単なる寡頭政治になってしまったのです。
 西側諸国の民主主義は、機能不全どころか、消滅しつつあります。ヨーロッパの共同体(EU)に関しては、もはや完全に寡頭制です。一部の国が他国より強く、一部の国には力がない。ドイツがトップにいて、フランスが下士官、その一方でギリシャは存在感がないといった具合のグローバルシステムです。
 ウクライナ戦争も同様です。ヨーロッパは民主主義の価値のために戦っているふりをしているだけで、これは完全な妄想です。そして驚くべきことに、私たちはそれに気づいていません。自分たちの国について話すときには、「民主主義の危機を抱えている」と言っているにもかかわらず。」

 では、問われている「民主主義」とは何なのか?
 民主主義(democracy)とは、直接的あるいは間接的に人民(people)によって決定される統治システムである。
 古代ギリシャの都市国家で行われたのが最初といわれており、英語のdemocracy(デモクラシー)は、古代ギリシャ語の「人民」と「権力」を合わせた言葉(dēmokratía、デーモクラティアー)に由来する。
 要は、現代の民主主義国家では国民が主権者となって政治を行なう形態のことである。人々は選挙権を行使して自らの代行者を選び、選ばれた代行者は人々の意思を代行して権力を行使する。
 つまり、選挙で代表を選ぶのが民主主義であるなら、今ほど民主主義が広まった時代はないだろう。
 ロシア・ウクライナ侵略戦争に関して、民主主義対権威主義の戦いと称されてきたが、民主主義の意味合いからすれば、ロシアも民主主義国家なのである。

 現代の民主主義という政治制度は資本主義という経済制度に密接に結び付いている。
 資本主義の特徴である市場経済は、豊かさ(利潤)を求めるがゆえに格差と貧困を生み出し、民主主義そのものをも揺るがしかねない構造となっている。
 現代は、民主主義に対する失望感が増大し、民主主義そのものが問われている。それにもかかわらず、人々はその解答を見出してはいない。

 かのイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは名言を残している。
 「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする