最近、よく「霧のカレリア」という曲を聴いている。もう60年も前の懐かしい曲だ。
先の「西洋の敗北」①で、アメリカの「スプートニク・ショック」に触れた。
第2次世界大戦の終盤、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリン書記長の間で、「ヤルタ会談」が行われた。いわゆる、超大国による戦後体制の協議である。
この第2次世界大戦における太平洋戦争終盤、アメリカは1945年8月、広島、長崎に新型爆弾(当時の日本の呼称)を投下した。このことは、世界で初となる原子爆弾を開発・保持していることを世界に実証したことであった。
つまり、アメリカが核というそれまでの破壊力に比較にならない突出した戦力を持ったこと、それを開発した科学力があったことを示したのだった。
第2次世界大戦は連合国側の勝利に終わったといえ、戦場となったヨーロッパはどこも被害を負い国は疲弊した。そのなかで戦争に参加したとはいえほぼ本土は無傷のアメリカは、戦後、経済的にも戦力的にも一歩抜きに出た大国となった。
そしてこの後、「ヤルタ会談」での戦勝大国の一国だった共産主義国・ソ連も、1949年、核兵器を開発し、その戦力を保持・拡大していく。
こうして、アメリカとソ連は静かな覇権争いに突入して、アメリカと西側ヨーロッパ諸国の「NATO」(北大西洋条約機構)とソ連と東側ヨーロッパ諸国の「ワルシャワ条約機構」(WP)の対立へと発展していく。
そして、世界は冷戦下へ移っていく。
*地球の片隅にまで届いた、「スプートニク」の衝撃
戦後、鉄のカーテンが引かれた冷戦下の世界。
それでも、あらゆる面でアメリカは抜きに出ているように見えたし、アメリカ自身もそう自負していたように写った。
そんななか、1957(昭和32)年10月4日、ソ連によって人工衛星が打ち上げられたというニュースが全世界に発せられた。その名の「スプートニク1号」は、地球を周回する人類最初の人工衛星であった。
当時、私は小学6年生であったが、大きな衝撃を受けた。矢のようなアンテナを持った丸い物体が空の彼方へ地球を抜け出て、それが月と同じように地球を周っているということに驚いた。
突然、それまで宇宙という想像・空想、物語の世界が身近なものとなった出来事だった。
このスプートニク1号は、九州の片隅の少年にまで衝撃を与えたのだから、おそらく威信を傷つけられたアメリカの受けた衝撃は計り知れない。
この「スプートニク・ショック」も醒めやらぬ1か月後の1957年11月3日、ソ連は今度は犬(ライカ犬)を乗せたスプートニク2号を打ち上げた。
人工衛星に生きた犬が乗っているのである。ということは、人間が乗って宇宙に行くのもまったく夢物語ではなくなったということを意味していた。
九州の少年にとっても、さらなる驚きだった。
そのときの心情は、その2か月後(1958年1月)の私の年賀状に表れている。スプートニクが描かれているのだ。
正確には、版木に掘られた彫刻画(版画)である。小学生でも年賀状を出していたのだな、誰に出していたのだろうか、と振り返る。
当時、年賀状は彫刻刀で木版に彫った版画にしていた。1958(昭和33)年が戌年だったので、犬の版画を作ることにした。1957年の12月に彫ったのだろう。
物置の奥に残っていた木版を取り出して見ると、忘れていたのだが1958年の版画が3枚ある。一つは、標本画のような平凡な犬の版画である。それにもう一つは、獅子舞の衣装を着飾った少年の前に座った犬の版画(これは今見ても凝った絵柄である)。
しかしこの2枚を作った後、あのスプートニクのライカ犬がひらめいたのだろう。いや、あのライカ犬はどうなったのだろうと、頭の中で忘れられなかったのかもしれない。
そして、決定版として、ライカ犬のスプートニクの版画を作ったのだ。今回その版画を、墨をすってハガキ大の紙に摺ってみた。墨の写りが悪いのは勘弁としよう。(写真)
今思えば、テレビもネットもなかった時代である。どうして私はスプートニクの細かな情報を知り得ていたのだろう。ラジオと新聞からであろうか。
*切手と歌に表れた「スプートニク」
人工衛星スプートニクが打ち上げられた1957年はどんな年だったのか?
前にも書いたが、私は切手少年でもあった。だから、記念切手で日本の大きな出来事を知ることもあった。この年の記憶に残った記念切手をあげてみる。
・国際連合加盟記念 国際連合加盟
1966年12月、日ソ共同宣言が成立したことを受けて、日本の国際連合加盟が実現。日本は80か国目の加盟国となった。
・地球観測年記念 南極観測 昭和基地で開始
観測船「宗谷」で南極に向かった日本の南極観測隊は、1月、白瀬中尉以来45年ぶりに南極大陸に上陸し日章旗を掲げた。昭和基地が設営され、西堀栄三郎越冬隊長以下11人が越冬し、日本の南極観測の歴史が始まった。
・原子炉完成記念 東海村で原子炉に火がともる
茨城県東海村で日本最初の原子の火をともす歴史的な作業が行われ、8月、研究用原子炉に火がついた。日本の原子力利用の第一歩を踏み出した。
この記念切手の出来事だけを見ても、日本は大きな変動期だったことが分かる。
そして、世界的には、世界初のソ連による人工衛星「スプートニク」の打ち上げである。
このスプートニクに関する切手が世界各国(主に東欧)で発行された。
私のコレクションの中にスプートニク関係が2枚あったので挙げてみよう。(写真参照)
写真・上は、「DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」とあるので、ドイツ民主共和国、かつての東ドイツの切手である。
写真・下は、ハングルがあるとおり、北朝鮮の切手である。これは驚きである。
*「スプートニクス」が広げた「霧のカレリア」
冒頭にあげた「霧のカレリア」は、1965年にスウェーデンのバンド、「ザ・スプートニクス」がリリースしたエレキ・ギターによるインストゥルメンタルである。
当時のエレキ・バンドといえばアメリカのザ・ベンチャーズが有名だが、この「ザ・スプートニクス」は、人工衛星スプートニクにちなんで宇宙服を着て演奏した、知る人ぞ知る人気バンドであった。
ここでいうカレリアとは、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる地方の名前である。曲中にロシア民謡の「トロイカ」がアレンジされて入っている。
また、「哀愁のカレリヤ」という曲があるが、こちらはザ・スプートニクスのメンバーがフィンランドで結成したフィーネーズの名でレコーディングしたもの。ほぼ「霧のカレリア」と同じ曲相である。
このように、「スプートニク」は、全世界の様々な方面に思わぬ影響を与え、広範に波及したのだった。
そして、人類が初めて宇宙飛行に成功したのは、スプートニク1号飛行の約3年半後の1961(昭和36)年4月12日、ソ連のボストーク1号に乗ったユーリ・ガガーリンによってであった。
先の「西洋の敗北」①で、アメリカの「スプートニク・ショック」に触れた。
第2次世界大戦の終盤、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリン書記長の間で、「ヤルタ会談」が行われた。いわゆる、超大国による戦後体制の協議である。
この第2次世界大戦における太平洋戦争終盤、アメリカは1945年8月、広島、長崎に新型爆弾(当時の日本の呼称)を投下した。このことは、世界で初となる原子爆弾を開発・保持していることを世界に実証したことであった。
つまり、アメリカが核というそれまでの破壊力に比較にならない突出した戦力を持ったこと、それを開発した科学力があったことを示したのだった。
第2次世界大戦は連合国側の勝利に終わったといえ、戦場となったヨーロッパはどこも被害を負い国は疲弊した。そのなかで戦争に参加したとはいえほぼ本土は無傷のアメリカは、戦後、経済的にも戦力的にも一歩抜きに出た大国となった。
そしてこの後、「ヤルタ会談」での戦勝大国の一国だった共産主義国・ソ連も、1949年、核兵器を開発し、その戦力を保持・拡大していく。
こうして、アメリカとソ連は静かな覇権争いに突入して、アメリカと西側ヨーロッパ諸国の「NATO」(北大西洋条約機構)とソ連と東側ヨーロッパ諸国の「ワルシャワ条約機構」(WP)の対立へと発展していく。
そして、世界は冷戦下へ移っていく。
*地球の片隅にまで届いた、「スプートニク」の衝撃
戦後、鉄のカーテンが引かれた冷戦下の世界。
それでも、あらゆる面でアメリカは抜きに出ているように見えたし、アメリカ自身もそう自負していたように写った。
そんななか、1957(昭和32)年10月4日、ソ連によって人工衛星が打ち上げられたというニュースが全世界に発せられた。その名の「スプートニク1号」は、地球を周回する人類最初の人工衛星であった。
当時、私は小学6年生であったが、大きな衝撃を受けた。矢のようなアンテナを持った丸い物体が空の彼方へ地球を抜け出て、それが月と同じように地球を周っているということに驚いた。
突然、それまで宇宙という想像・空想、物語の世界が身近なものとなった出来事だった。
このスプートニク1号は、九州の片隅の少年にまで衝撃を与えたのだから、おそらく威信を傷つけられたアメリカの受けた衝撃は計り知れない。
この「スプートニク・ショック」も醒めやらぬ1か月後の1957年11月3日、ソ連は今度は犬(ライカ犬)を乗せたスプートニク2号を打ち上げた。
人工衛星に生きた犬が乗っているのである。ということは、人間が乗って宇宙に行くのもまったく夢物語ではなくなったということを意味していた。
九州の少年にとっても、さらなる驚きだった。
そのときの心情は、その2か月後(1958年1月)の私の年賀状に表れている。スプートニクが描かれているのだ。
正確には、版木に掘られた彫刻画(版画)である。小学生でも年賀状を出していたのだな、誰に出していたのだろうか、と振り返る。
当時、年賀状は彫刻刀で木版に彫った版画にしていた。1958(昭和33)年が戌年だったので、犬の版画を作ることにした。1957年の12月に彫ったのだろう。
物置の奥に残っていた木版を取り出して見ると、忘れていたのだが1958年の版画が3枚ある。一つは、標本画のような平凡な犬の版画である。それにもう一つは、獅子舞の衣装を着飾った少年の前に座った犬の版画(これは今見ても凝った絵柄である)。
しかしこの2枚を作った後、あのスプートニクのライカ犬がひらめいたのだろう。いや、あのライカ犬はどうなったのだろうと、頭の中で忘れられなかったのかもしれない。
そして、決定版として、ライカ犬のスプートニクの版画を作ったのだ。今回その版画を、墨をすってハガキ大の紙に摺ってみた。墨の写りが悪いのは勘弁としよう。(写真)
今思えば、テレビもネットもなかった時代である。どうして私はスプートニクの細かな情報を知り得ていたのだろう。ラジオと新聞からであろうか。
*切手と歌に表れた「スプートニク」
人工衛星スプートニクが打ち上げられた1957年はどんな年だったのか?
前にも書いたが、私は切手少年でもあった。だから、記念切手で日本の大きな出来事を知ることもあった。この年の記憶に残った記念切手をあげてみる。
・国際連合加盟記念 国際連合加盟
1966年12月、日ソ共同宣言が成立したことを受けて、日本の国際連合加盟が実現。日本は80か国目の加盟国となった。
・地球観測年記念 南極観測 昭和基地で開始
観測船「宗谷」で南極に向かった日本の南極観測隊は、1月、白瀬中尉以来45年ぶりに南極大陸に上陸し日章旗を掲げた。昭和基地が設営され、西堀栄三郎越冬隊長以下11人が越冬し、日本の南極観測の歴史が始まった。
・原子炉完成記念 東海村で原子炉に火がともる
茨城県東海村で日本最初の原子の火をともす歴史的な作業が行われ、8月、研究用原子炉に火がついた。日本の原子力利用の第一歩を踏み出した。
この記念切手の出来事だけを見ても、日本は大きな変動期だったことが分かる。
そして、世界的には、世界初のソ連による人工衛星「スプートニク」の打ち上げである。
このスプートニクに関する切手が世界各国(主に東欧)で発行された。
私のコレクションの中にスプートニク関係が2枚あったので挙げてみよう。(写真参照)
写真・上は、「DEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIK」とあるので、ドイツ民主共和国、かつての東ドイツの切手である。
写真・下は、ハングルがあるとおり、北朝鮮の切手である。これは驚きである。
*「スプートニクス」が広げた「霧のカレリア」
冒頭にあげた「霧のカレリア」は、1965年にスウェーデンのバンド、「ザ・スプートニクス」がリリースしたエレキ・ギターによるインストゥルメンタルである。
当時のエレキ・バンドといえばアメリカのザ・ベンチャーズが有名だが、この「ザ・スプートニクス」は、人工衛星スプートニクにちなんで宇宙服を着て演奏した、知る人ぞ知る人気バンドであった。
ここでいうカレリアとは、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる地方の名前である。曲中にロシア民謡の「トロイカ」がアレンジされて入っている。
また、「哀愁のカレリヤ」という曲があるが、こちらはザ・スプートニクスのメンバーがフィンランドで結成したフィーネーズの名でレコーディングしたもの。ほぼ「霧のカレリア」と同じ曲相である。
このように、「スプートニク」は、全世界の様々な方面に思わぬ影響を与え、広範に波及したのだった。
そして、人類が初めて宇宙飛行に成功したのは、スプートニク1号飛行の約3年半後の1961(昭和36)年4月12日、ソ連のボストーク1号に乗ったユーリ・ガガーリンによってであった。