かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

アラン・ドロンのいた時代

2024-08-24 02:59:27 | 映画:フランス映画
 稀代の二枚目、フランスの俳優アラン・ドロン(Alain Delon、1935-2024年)が、去る8月18日に亡くなった。88歳だった。
 個人的好みを踏まえて言うと、アラン・ドロンは私が生きてきた世代のなかで最もハンサムな男だった。彼の前の世代の、同じフランス人の色男、ジェラール・フィリップ(Gérard Philipe、1922-1959年)と入れ替わるように、A・ドロンは登場した。
 数多くの映画に出演・主演し、数多くの女性と浮名を流した。

 アラン・ドロンを世界的に一躍有名にしたのは、1960年公開されたルネ・クレマン監督の映画「太陽がいっぱい」(Plein soleil)である。
 地中海の港町を舞台に、浅はかな野望を持つ貧しい若い男(アラン・ドロン)の前にいるのは、贅沢な遊び人の男(モーリス・ロネMaurice Ronet)とその美しい恋人(マリー・ラフォレMarie Laforêt)。
 青い空と波に漂う、欲望が生み出す嫉妬と計略。眩しい陽が照らすヨットの上での情事と殺人。ニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽が青い空と波間に流れる。
 華と哀愁のある美男子のスターの誕生だった。

 ※「太陽がいっぱい」が封切られた1960年は、昭和35年である。第2次世界大戦の戦後傷跡も癒えつつ経済復興のさなかにあった日本は、この年、安保闘争で大揺れしていた。
 そのころ九州の田舎の中校生だった私は、アラン・ドロンの上半身裸でヨットを操る映画ポスターと哀愁を帯びたメロディーは脳裏に残っているが、そのときは映画「太陽がいっぱい」は観ていず、私のヒーローは日活の小林旭の“渡り鳥”であった。「太陽がいっぱい」を観たのは後の再上映館だった。私がリアルタイムでA・ドロンの映画を観たのはジャン=ピエール・メルヴィル監督のフィルム・ノワールと称される「仁義」(1970年)あたりからである。

 *初期アラン・ドロンを彩った女優たち

 アラン・ドロンは、1957年、「女が事件にからむ時」で映画デビュー。1958年に「恋ひとすじに」(Christine)で共演したロミー・シュナイダー(Romy Schneider)と同棲し婚約するも、1963年に破棄することになる。
 別れた後も二人の交友は続き、1968年、A・ドロンの手引きで「太陽が知っている」で再び共演を果たしている。

 1959年、「太陽がいっぱい」が封切られる前年であるが、アラン・ドロンの主演した「お嬢さん、お手やわらかに!」(Faibles Femmes)がフランスで大ヒットする。
 この映画で特筆すべきは、まだ新人ともいえるA・ドロンを取り巻く3人の若手女優たちの華々しさである。今では忘れられているかもしれないが、パスカル・プティ、ミレーヌ・ドモンジョ、ジャクリーヌ・ササールという名前が並ぶ。
 パスカル・プティ(Pascale Petit)は、1960年代はフランスでは特別な人気だったブリジッド・バルドーに次ぐぐらいの人気だった。後に、「妖姫クレオパトラ」(1962)や「ボッカチオ」(1972)にも主演している。
 ミレーヌ・ドモンジョ(Mylène Demongeot)は、「悲しみよこんにちは」「女は一回勝負する」(1957)などに出演している、こちらも艶っぽい人気の実力派女優である。
 ジャクリーヌ・ササール(Jacqueline Sassard)は、「芽ばえ」(1957年)「三月生れ」(1958年)などで、当時、その清楚な雰囲気が大人気だった。「三月生まれ」の衣装から日本のアパレルメーカーが売り出した、ダスター・コートの「ササール・コート」は当時話題となった。
 ということで、A・ドロンと共演した彼女たちの当時の人気度を知るために、私の手元にある「スクリーン特別版・映画ファンが選んだ生涯忘れられない名作と愛しの名優たち。」(近代映画社刊)を開いてみる。
 「1959年度の人気女優」編では、1位のオードリー・ヘプバーンに次いで、2位がミレーヌ・ドモンジョ、3位がパスカル・プティ、9位がジャクリーヌ・ササールである。
 若手人気女優を散りばめさせたこの映画の配役を見るだけで、A・ドロンに対する期待がわかる。
 この年、「人気男優」編ではアラン・ドロンは4位に登場しているが(1位はヘンリー・フォンダ)、「太陽がいっぱい」が封切られた翌1960年度は1位となっている。以後、長年ベスト10のトップを含め上位を続ける特別な俳優となる。

 さらに特質すべきは、1959年にもう1本アラン・ドロン主演の映画が封切られたことだ。この「学生たちの道」(Le Chemin des Ecoliers)の共演者が、フランソワーズ・アルヌールである。
 フランソワーズ・アルヌール(Françoise Arnoul)は、「フレンチ・カンカン」(1954年)、「ヘッドライト」「過去をもつ愛情」(1955年)などの出演で見るとおり人気と実力を備えた女優で、当時、日本では最も人気のある女優であった。ちなみに、上記の「人気女優」編での、1955年度はグレース・ケリーに次ぐ2位となっていて、1959年度では7位である。

 *転機となったルキノ・ヴィスコンティ監督との出会い

 いつも個性派監督と大物俳優が、アラン・ドロンに寄せられるように近くに現れた。
 「太陽がいっぱい」が封切られた1960年、アラン・ドロンはルキノ・ヴィスコンティ監督に認められて「若者のすべて」(Rocco e i suoi fratelli)に出演する。ヴィスコンティはイタリア出身の貴族出の監督である。この映画出演によって彼は、単なる二枚目の人気スターとは言い切れない側面を生み出したと言っていい。
 その2年後、ヴィスコンティ監督は「山猫」(Il gattopardo )でA・ドロンをまったく新しい役柄で起用する。
 両作品とも、イタリアのやはり新人女優だったクラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)と共演している。
 ※実は、私はクラウディア・カルディナーレが最も好きな女優の一人である。もう一人は、ドミニク・サンダ(Dominique Sanda)。

 *どこにあった?「地下室のメロディー」

 ちょっとしたスター俳優は、他の大物俳優との共演を嫌うものだが、アラン・ドロンは男優、女優に限らず、大物との共演をいとまなかったし、むしろ好んでいたように見える。おそらく、自分に自信があったのだろう。
 当時、フランス映画界では、「現金に手を出すな」(1954年)「ヘッドライト」(1956年)などで有名な、ジャン・ギャバン(Jean Gabin)という大物男優がいた。世界的に知られていた、誰もが一目置く渋い個性を持った男優だ。
 アラン・ドロンは、彼と1963年「地下室のメロディー」(Mélodie en sous-sol)で初共演し、その後「シシリアン」(Le clan des Siciliens、 1969年)、「暗黒街のふたり」(Deux hommes dans la ville 、1973年)と共演した。
 「地下室のメロディー」は、老ギャングであるJ・ギャバンと若者A・ドロンがカンヌのカジノの地下金庫から大金を強奪する物語だが、タイトルが気にいっていた。

 ※あの頃、つまり1970年代の中ごろ、私が出版社勤務の頃のことである。社屋ビルの地下1階は主に出版物の倉庫フロントであった。その一角に組合の事務室が設けられていた。日も当たらない、ガリ版刷りのインクの臭いのする暗い小さな部屋である。
 あの頃、たまたま私はその委員長になって(選ばれて)しまった。そのとき関係者に、私はその陰気(インキ)臭い事務室を、ここを「地下室のメロディー」と呼び方を変えると(勝手に)宣告した。何ごとも格好良くありたい時代だったのだ。
 そして、当時ガリ版刷りで作っていた機関誌とは別に、「地下室のメロディー」という名の新しい内容の小紙を発行しようと想い巡らせた。しかし、「地下室のメロディー」は発行することなく、私が長をやめた後は「地下室のメロディー」という呼称もいつしか地下の暗闇に消えていた。

 *アラン・ドロンの新しい一面、フィルム・ノワール

 1967年、アランドロンはジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画「サムライ」(Le Samouraï)で、死と隣り合わせに生きる暗い男を演じた。この映画はフィルム・ノワールの歴史を変えた作品といわれ、その後多くの監督に影響を与えた。
 メルヴィル監督とアラン・ドロンは、その後、「仁義」(Le Cercle rouge、1970年)、「リスボン特急」(Un flic、1972年)を作っている。
 「リスボン特急」では、フランス女優のなかで最も美人だと思うカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)と共演している。
 カトリーヌ・ドヌーヴは、「シェルブールの雨傘」(1964年)「昼顔」(1967年)、「終電車」(1980年)、「インドシナ」(1992年)、「8人の女たち」(2002年)と並べてみても、長く主演女優を張っていて、今も現役のようで、息の長い女優だ。
 ※写真は、当時、日比谷スカラ座で観たときの「リスボン特急」のパンフレット。C・ドヌーヴをA・ドロンとダブル主演のように扱っている。もちろん、キャスト欄ではA・ドロンが先であるが。

 *
 アラン・ドロンは、ロミー・シュナイダーとの長い春のあと、1963年、「黒いチューリップ」を撮影中にナタリー・バルテルミー(のちにナタリー・ドロン)と恋に落ち、1964年に結婚する。
 ナタリー・ドロン(Nathalie Delon)は、1967年にアラン・ドロンが主演した『サムライ』でA・ドロンの相手役として映画初出演。翌1968年、ルノー・ヴェルレー(Renaud Verley)との共演作「個人教授」(La leçon particulière)で人気が上昇した。
 しかし、A・ドロンとは1969年離婚した。
 ※当時、「個人教授」公開後、ルノー・ヴェルレーは日本ではアイドル的人気だった。実際、1971年「愛ふたたび」(監督:市川崑、浅丘ルリ子共演)、1972年「恋の夏」(監督:恩地日出夫、小川知子共演)と、巨匠監督による日本映画で主演している。
 ちなみに、1970年度の「人気男優」編では、1位、アラン・ドロン、2位、ロバート・レッドフォードという錚々たる名前が並ぶなかで、ルノー・ヴェルレーは8位に名前を出している。
 この年の「人気女優」編では、1位はロバート・レッドフォードとの「明日に向かって撃て!」が大ヒットしたキャサリン・ロス、2位がカトリーヌ・ドヌーヴである。

 ナタリー・ドロンとの別れ話の最中のころ、アラン・ドロンはジャン・エルマン監督の「ジェフ」(1969年)で、ミレーユ・ダルク(Mireille Darc)と共演。以降、二人は長い恋人関係にあった。

 音楽面では、1973年に、ダリダとの共演「あまい囁き」(Paroles, Paroles)がヒット。日本では、中村晃子と細川俊之のカバー曲もヒットした。

 *アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドがいた時代

 あの頃、いやつい最近まで、フランスにはアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドの2人の男優スターがいた。
 日本ではアラン・ドロンが圧倒的な人気だが、本国では2人は遜色ないぐらい、いやベルモンドの方が人気があるのではというぐらい、双璧ともいえる2人である。

 ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933ー2021年)は、アラン・ドロンより2歳半ほど年上である。亡くなったのは2021年9月、A・ドロンと同じ88歳であった。
 映画界への進出はA・ドロンとほぼ同じころの1957年で、演技力が認められていたがベルモンドも当初は端役での出演だった。1958年公開のギイ・ブドス監督の『黙って抱いて』では、無名時代のA・ドロンとともに出演している。
 同年、ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)監督の短篇映画『シャルロットとジュール』に主演(フランスでの一般公開は1961年)。1959年、クロード・シャブロル監督の「二重の鍵」に出演し、注目された。
 1960年、ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(À bout de souffle)が公開される。この映画は、ヌーヴェル・ヴァーグの代表作として大ヒットし、主演したベルモンドを一躍人気スターの座に押し上げた。
 アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」とジャンポール・ベルモンドの「勝手にしやがれ」が登場した1960年はなんという年だろう。この年の「人気男優」編では、1位はアラン・ドロンで、3位にジャンポール・ベルモンドである。
 ベルモンドのゴダール監督映画への出演は、アンナ・カリーナとの共演「女は女である」(Une femme est une femme、1961年)、そして名作「気狂いピエロ」(Pierrot le fou、1965年)と続く。
 ※フランス・ヌーヴェル・ヴァーグに酔っていた私にとって、アルチュール・ランボーの「また見つかった、何が? 永遠が、海と溶けあう太陽が……」で終わる「気狂いピエロ」は、私の好きな映画Best1である。

 ベルモンドは、ヌーヴェル・ヴァーグでの個性派俳優と見なされた一方、派手なアクションをスタントマンなしで演じた「リオの男」(1963年)、「カトマンズの男」(1965年)、やコミカルで陽気な味のある演技も併せ持った。

 アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドが画面上で実際に共演したのは、ルネ・クレマン監督による『パリは燃えているか』(1966年)であるが、この映画はオールスター映画である。
 名実ともに大スターになっていた二人の実質上の共演は、1970年公開の「ボルサリーノ」(Borsalino)である。1930年のマルセイユが舞台で、2人の若者が裏社会でのし上ろうとする姿を描いた。
 ※「ボルサリーノ」とはイタリア製の帽子で、つばがありトップのクラウンは少しくぼみがありサイドのクラウンにはリボン(黒)が巻いてある。当時から被った姿が格好良いと思っていたが、若いと気障なので年とってからボルサリーノ製ではないが、そのスタイルの帽子を買った。しかし、被る機会がない。

 *
 2019年、アラン・ドロンは第72回カンヌ国際映画祭で長年の功績に対し、名誉パルムドール賞を授与された。
 A・ドロンは1960年の「太陽がいっぱい」以降、長い間、国際的なスターであり続けてきた。アメリカ・ハリウッド以外のヨーロッパの俳優では異例であった。近年はスクリーンから遠ざかっていたにもかかわらず、その存在は輝きを失ってはいなかった。

確かに、「アラン・ドロンのいた時代」があった。
つい、最近のことだ。
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