先日、出版社から新刊の1冊の本が送られてきた。
「戦後日本映画史―企業経営史からたどる」(新曜社)という書で、著者は井上雅雄。
彼は2019(令和元)年3月に亡くなったので、この本は晩年力を入れて執筆していた遺稿集である。
経済学者であった井上雅雄が、戦後の日本映画の隆盛と衰退を、映画産業という視点から分析した500頁に及ぶ力作である。
彼が真の映画好きだったことを、私はよく知っている。誰よりも知っているといっていい。
私に最も影響を及ぼした、かつて青春を共有した井上雅雄のことを書いておきたい。
<断章1> 東京へ――人間万事塞翁が馬
偶然と必然は、風に舞う落葉の裏と表なのか。
人生は思っているように行くとは限らない。いや、予想通りにいかないのが人生であり、そこにも道が延びている。
高校のとき、東京へ憧れていたわけでも、とりわけ東京へ行きたいと強く思っていたわけでもない。予期せぬ出来事なのか予定された行方なのか、佐賀の田舎から東京での生活が始まった。
1964(昭和39)年春、私は佐賀の田舎の高校から結局、大学は東京の私立大に行くことになった。東京・市ヶ谷(東京都千代田区)にある法政大学経済学部である。
半年前には予想だにしなかった行末であった。
経済学部を選んだ訳は、当時、大学の文系学部といえば、今のように細分化されていず、文学、法学、経済学部ぐらいであった。文学は好きだったが小説や本は個人で読めばいいと思っていたし、法学は六法全書を暗記しなくてはいけないと思うだけで憂鬱になった。となると、結局、経済学部となる。
入学して、第2外国語を選択しなくてはいけなかった。経済学部は圧倒的にドイツ語選択者が多かったが、私はドイツよりフランスの方が洒落ているというぐらいの気持ちでフランス語を選択した。他に、ロシア語、中国語を選択する人が何人かいた。
クラスは第2外国語の選択によって分けられていて、マンモス大学のマンモス学部であるのにフランス語選択クラスは2クラスしかなく、そのなかで幸運にも私のクラスに女性が集っていた。といっても8人だったのだが。あと女性は、ドイツ語クラスに数人いたかどうかであった。
つまり、当時、女性の進学先は文学部、教育学部や家政学部(女子大)がほとんどで、経済学部に行く女性は極めて少なかったのだ。
経済学部に入ったものの、たいして読んではいなかったが詩や小説とは離れがたく、とりあえず文芸研究会のクラブに入ってみた。
これらのいきさつは、ずいぶん前にこのブログで、「いつも本がそばにあった」の続編として書いた。
※「外濠公園通りの青春➀ 1964年東京と本との関わり」( 2019-9-12 )
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/c/dedb79e60a66ab2587d8b01ebecdc86a
結果的に東京の法政大へ行ったこと、つまり東京での学生生活が、私の人生の大きな分岐点となり出発点となった。
骰子は投げられた!
放たれた矢は、何に向かって、どの方向に行くのか、定かではない。
<断章2> 井上雅雄との邂逅
人生は長い旅のようなもの。出会いは、旅の途中に出向いてくる。
私は1964(昭和39)年の4月、佐世保発の急行列車「西海」に乗って上京した。
その頃、日本は高度経済成長のただ中にいたし、東京はアジア初のオリンピックを迎えて覇気に満ちていた。
今までの高校生活と違って、大学は個人の意思と責任に委ねられて自由だった。そこには、何かがあると感じさせた。
大学に入って驚いたことは、クラスはあったが高校までの学校と違ってクラス教室がなかったことだ。つまり、個人の決まった教室・机はなく、教科によって予め指定された教室にそれぞれ出向くのだった。
個人の教室はなかったが、あらゆる教室が自分の教室になりえた。
授業・講義は必須の語学はクラス単位であったが、それ以外の教科はクラスを超えた人間が受講するので、マンモス大学ならではの数百人規模の大教室での講義も多かった。
教科は1、2年の多くが必須の教養課程と3年からの専門課程に分かれていて、教養課程は経済学や哲学などもあったが、おおよそ高校の延長のようなものだった。
教科は各人が自由に選択するようになっていて、どうしても時間はバラバラになり、同じクラスの人間といえども、必須教科以外は会わないこともよくあることだった。必須教科とて、顔を出さない輩も多くいた。
*
それは、入学後の間もない頃の、大教室での最初の「経済学」の講義での事だった。
1960年代当時、経済学はマルクス経済学が主流だったが、1、2年の教養課程の必須の経済学は近代経済学だった。
中年の丸い黒縁のメガネをかけた地味な教授の授業が始まった。
教授は、まず初めに君たちに言っておこうみたいな調子で、現在のマルクス経済学への批判を始めた。それは徐々に大学への批判が絡み、品性を欠く嫌味と感じるに及んでいった。
しばらくした時だった。一人の学生が突然立ち上がって、質問というより抗議をし始めた。それは近代経済学への批判から、それに続く教授そのものへの批判に進んでいった。
教授は最初は軽くあしらうかのように返答していたが、熱く勢いがとまらない学生の理論的な抗議・質問に、次第に狼狽を隠せなくなっていった。
私と同じ新入生なのに、凄いやつがいるなと思った。よく見ると、その男は私と同じクラスの男だった。それが、井上雅雄だった。
この教授と学生のいきさつを、私と同じような一般学生は感心するように、あるいは感嘆するように見守るばかりだった。
ところが、ここで終わらないのが、大学というところだと思った。
この教授と学生の討論というか口論の間(ま)があいたところで、別の男が立ち上がった。そして、落ち着いた口調で井上にこのようなことを問うた。
「君の言おうとしていることはわかる。しかし、僕たちはまだ学び始めたばかりの新入生なんだ。近代経済学もマルクス経済学も、両方学んだあとに各人が結論を出すべきじゃないか。だから、異論は別にしてここは講義を聴こうではないか」
まだ経済学に対して白紙だった私は、その通りだ。いや、凄いやつはいるものだ、とまたまた思ってしまった。
最初の経済学の講義は、こうして波乱のうちに終わった。
井上雅雄との交友は、ここから始まったといっていい。
ちなみに、授業が終わった後、立ち上がったもう一人の男に、廊下で私は声をかけた。彼はフランス語専攻の別のクラスの学生だった。落ち着いた言動の彼は、2年社会人を経て入学したというから、大人びているはずだ。
<断章3> 1964年当時の法政大の教授陣
「学而不思則罔 思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し)
現在の新しいビルに建て替えられる前の、55年館校舎の511大教室前の壁に掲げられていた、元大学総長の大内兵衛の揮毫による「論語」(為政篇)のなかの文である。
私が法政大に入学した時の総長は、哲学者の谷川徹三(文学部)だった。当時の法政大には有名な教授が多くいた。一部だが、記憶に残るところをあげてみる。
文芸評論家として一線で活躍していた小田切秀雄 (文学部)、荒正人(文学部)、本多顕彰(英文学)、福田定良(哲学)、乾孝(心理学)、千葉康則(生理学)、詩人でフランス文学の宗左近(フランス語)、詩人でのちに作家になる清岡卓行(フランス語)等々。
経済学部は、東大の大内兵衛門下をはじめ錚々たる名が連ねられていた。
宇佐美誠次郎、時永淑(経済学史)、中野正(経済原論)、日高普(経済原論)、芝田進午(哲学・社会学)、渡邉佐平(金融論)、良知力(社会思想史)、大島清(農業経済論)、鈴木徹三(経済政策論)、川上忠雄(恐慌論)、尾形憲(教育経済論)等々。
宇野経済理論で有名な宇野弘蔵も社会学部の教授だった。
「有朋自遠方来 不亦楽乎」(朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや)
旧校舎58 年館の学生ホールに掲げられていた「論語」( 学而第一 )の一節である。
<断章4> 政治の季節から文化カルチャーの季節へ
二十歳、それが人生で最も美しい季節だと誰が言えよう。言えるとすれば、それが二度と戻ってこない儚い時だと知ってからのことだ。
井上雅雄は情熱家であった。喋り出すと激して熱くなるが、普段は静かな神経質でナイーブな男だった。北海道・札幌の高校出身で、すでに高校時代から雑誌「世界」や「朝日ジャーナル」を読んでいる社会派だった。
1960年代、大学は政治の季節でどこも学生運動が活発だった。大学は活気と熱気に充ちていた。
理論派で熱弁家の井上は、すぐさま学内の活動家も一目置く存在となった。しかし、彼は運動に没入することを抑え、迸る情熱の出口を模索していた。
井上は社会派ではあったが、彼は政治・経済だけに関心をもっていたわけではなく、文学的感性も隠すことはなかった。そういう感性に私は共鳴した。
私たちは当時の潮流であった大江健三郎や吉本隆明も話題にした。そんななかで、井上が私に勧めた樺美智子の「人しれず微笑まん」と奥浩平の「青春の墓標」は、たちまち奥浩平の言葉を暗誦するほど、私の青春の書となった。
樺美智子も奥浩平も学生運動に身をおき、若くして命を落とした。それぞれ、その二人の遺稿集である。
*
井上の影響でデモに行ったりしたが、彼はほどなく学生運動に見切りをつけて離れると、それに歩調を合わせるかのように好きだった映画に傾注し、それはすぐに私に感染した。
当時、フランス・ヌーヴェルヴァーグが日本にも押し寄せていた。秘かな日活ファンだった私は、井上の影響もあってヌーヴェルヴァーグの波に呑み込まれるように、ジャン・リュック・ゴダールやアラン・レネ、フランソワ・トリュフォーの映画に熱中した。
私は、今でもジャン・ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ主演のゴダールの「気狂いピエロ」は最高の傑作映画だと思っているし、ブリジット・バルドー主演の「軽蔑」は原題の「ル・メプリ(Le Mépris)」という言葉を繰り返し口ずさんでいたほどだった。
また、レネの「去年マリエンバートで」は心の奥深くに澱を残している。
文学的香りを持つトリュフォーは好きな監督で、「突然炎のごとく」「恋のエチュード」は忘れがたい。
他に、フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」、ミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」、アンリ・コルピの「かくも長き不在」は記しておきたい。
個人的に好きだった映画は、クラウディア・カルディナーレとジョージ・チャキリスが主演した「ブーベの恋人」(監督:ルイジ・コメンチーニ)である。
日本の映画界でも大島渚をはじめ吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーヴェルヴァーグと称される監督たちが松竹を飛び出し、次々と前衛的な映画を発表した。
私たちは、名画座やATG(アートシアター)を見て周った。飯田橋や新宿の喫茶店の片隅で、井上はとうとうと映画芸術論を語りまくった。
政治の季節の後にやって来たその季節、井上それに私は、映画の魅力に熱中していた。
専門課程の3年になると、私は鈴木徹三ゼミに入った。ゼミに入るにあたっては何を研究・勉強するかは問題でなく、人間味のある先輩が多くいたからだ。
井上雅雄は、2年時から難関ゼミといわれていた時永淑ゼミに入ったが、教授と喧嘩して途中でゼミをやめてしまった。厳格な花形教授が相手とて、井上は臆することなく自己主張をやめることがなかった。
振り返ると、私は専門の経済学に対しては不本意ながら本腰で勉強しなかった。
専門はと訊かれれば、自称「経済学部文学科」と言うように、文学や映画に精神的愉悦を得ていた。ときに酒の席では、「恋愛専科」だと付け加えた。スザンヌ・プレシェットの主演映画を揶揄してのことだが。
私は、経済学はもとより文学(本)よりも、当時観た映画により多くの影響を受けたといってよい。
<断章5> 演劇「愛奴」の衝撃
私たちは、夢の在処を求めて模索していたのかもしれない。
あるとき、井上雅雄が衝撃を受けた演劇があるといって誘った芝居が、劇団人間座の「愛奴」だった。
スタッフを見ると、作:栗田勇、演出:江田和雄、美術:金森馨、音楽:一柳慧、衣装:コシノ・ジュンコ、ヘアーデザイン:伊藤五郎と、当時各界気鋭のメンバーだった。
六本木の俳優座劇場で観た「愛奴」は、私にも衝撃だった。
「もう二度と、あの女、愛奴に会えないのだろうか。あの肉の快楽(けらく)、いやいや、魂の愛……そうでもない。あの別の世界での悦楽をなんと呼んでいのか……」
自宅に送られた教え子と称する学生の書いた手記を、老教授が語り出し、それに対する私見を呟きながら、「断章-」と記して分かれた手記の物語が芝居として展開する構成となっている。その学生が書いた手記物語は、現実のこととも妄想の話ともつかない、悦楽に彩られた話である。
文学的で斬新な芝居もさることながら、主演した当時早稲田の学生だった金沢優子に、私たちは酔ったものだ。
井上雅雄は、それ以後、俺は芝居の演出をやると言って、劇団人間座に入った。情熱で動く彼の行動力はいつも速かった。
人間座に入った彼は、すぐに劇団青俳に移った。劇団青俳にはすでに名のある団員はいたが、彼と同じ演出部には蜷川幸雄がいた。俳優に、のちに大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」や根岸吉太郎監督の映画「遠雷」に出た横山リエがいた。
若いときは、夢はどんな風にもあり、実現可能だと思ったものだ。それがすぐにでも壊れる脆いものだと知ることになったとしても。
<断章6> 演劇から学者の道へ
夢で生きていた季節に終わりは来る。
それでも、道を求めて歩き続けなければならない。
学生生活も卒業を控えた時期になると、現実を見据えた就職活動となる。
私は、退潮期に入っている映画界は募集もしていないこともあって、自分には向いていると思う出版界へ入った。
劇団青俳に入っていた井上雅雄は、演劇では食っていけないと言って、定時制高校の教師をしながら大学院に行った。彼は、学者の道を目指したのだった。
立教大学の経済学研究科修士課程を経て、東京大学の経済学研究科博士課程を出た。情熱家だけでなく努力の人間でもあった。
その後、東京都立労働研究所研究員を経て、37歳で佐賀大学助教授になったときに彼は私に言った。
「おれはここ10年以上、好きな小説や映画は全然見ていない。勉強でそんな暇はなかった」と、悔しさを滲ませながら心情を吐露した。
そして、新潟大学教授を経て立教大学教授となり、定年まで立教大の教授を務めた。
最初の著作「日本の労働者自主管理」(東京大学出版会、1991年)が刊行されたときは、はにかみながらも喜びを隠さなかった。
専門は労働経済学だったが、彼の根にあった映画界へも専門分野からアプローチしていった。それは、まず「文化と闘争―東宝争議1946-1948」(新曜社、2007年)として刊行された。
そして最後の本となった「戦後日本映画史―企業経営史からたどる」に、彼の映画界への情熱と精神の痕跡を見ることができる。
この本は、井上雅雄が死を見すえながら、病床で「あとがき」を書いた遺稿集となった。
人生は長いようで短い。
苦(にが)みを含んだ熱い青春の季節は、過ぎてしまえば、青い果実と見紛うように甘酸っぱく変容している。
限りなく夢を語っていた誰もが、老いてやがて消えていく運命にある。いつしか誰からも忘れられようとも、それぞれの儚い足跡を残して。
風に転がる枯葉のように……。
「戦後日本映画史―企業経営史からたどる」(新曜社)という書で、著者は井上雅雄。
彼は2019(令和元)年3月に亡くなったので、この本は晩年力を入れて執筆していた遺稿集である。
経済学者であった井上雅雄が、戦後の日本映画の隆盛と衰退を、映画産業という視点から分析した500頁に及ぶ力作である。
彼が真の映画好きだったことを、私はよく知っている。誰よりも知っているといっていい。
私に最も影響を及ぼした、かつて青春を共有した井上雅雄のことを書いておきたい。
<断章1> 東京へ――人間万事塞翁が馬
偶然と必然は、風に舞う落葉の裏と表なのか。
人生は思っているように行くとは限らない。いや、予想通りにいかないのが人生であり、そこにも道が延びている。
高校のとき、東京へ憧れていたわけでも、とりわけ東京へ行きたいと強く思っていたわけでもない。予期せぬ出来事なのか予定された行方なのか、佐賀の田舎から東京での生活が始まった。
1964(昭和39)年春、私は佐賀の田舎の高校から結局、大学は東京の私立大に行くことになった。東京・市ヶ谷(東京都千代田区)にある法政大学経済学部である。
半年前には予想だにしなかった行末であった。
経済学部を選んだ訳は、当時、大学の文系学部といえば、今のように細分化されていず、文学、法学、経済学部ぐらいであった。文学は好きだったが小説や本は個人で読めばいいと思っていたし、法学は六法全書を暗記しなくてはいけないと思うだけで憂鬱になった。となると、結局、経済学部となる。
入学して、第2外国語を選択しなくてはいけなかった。経済学部は圧倒的にドイツ語選択者が多かったが、私はドイツよりフランスの方が洒落ているというぐらいの気持ちでフランス語を選択した。他に、ロシア語、中国語を選択する人が何人かいた。
クラスは第2外国語の選択によって分けられていて、マンモス大学のマンモス学部であるのにフランス語選択クラスは2クラスしかなく、そのなかで幸運にも私のクラスに女性が集っていた。といっても8人だったのだが。あと女性は、ドイツ語クラスに数人いたかどうかであった。
つまり、当時、女性の進学先は文学部、教育学部や家政学部(女子大)がほとんどで、経済学部に行く女性は極めて少なかったのだ。
経済学部に入ったものの、たいして読んではいなかったが詩や小説とは離れがたく、とりあえず文芸研究会のクラブに入ってみた。
これらのいきさつは、ずいぶん前にこのブログで、「いつも本がそばにあった」の続編として書いた。
※「外濠公園通りの青春➀ 1964年東京と本との関わり」( 2019-9-12 )
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/c/dedb79e60a66ab2587d8b01ebecdc86a
結果的に東京の法政大へ行ったこと、つまり東京での学生生活が、私の人生の大きな分岐点となり出発点となった。
骰子は投げられた!
放たれた矢は、何に向かって、どの方向に行くのか、定かではない。
<断章2> 井上雅雄との邂逅
人生は長い旅のようなもの。出会いは、旅の途中に出向いてくる。
私は1964(昭和39)年の4月、佐世保発の急行列車「西海」に乗って上京した。
その頃、日本は高度経済成長のただ中にいたし、東京はアジア初のオリンピックを迎えて覇気に満ちていた。
今までの高校生活と違って、大学は個人の意思と責任に委ねられて自由だった。そこには、何かがあると感じさせた。
大学に入って驚いたことは、クラスはあったが高校までの学校と違ってクラス教室がなかったことだ。つまり、個人の決まった教室・机はなく、教科によって予め指定された教室にそれぞれ出向くのだった。
個人の教室はなかったが、あらゆる教室が自分の教室になりえた。
授業・講義は必須の語学はクラス単位であったが、それ以外の教科はクラスを超えた人間が受講するので、マンモス大学ならではの数百人規模の大教室での講義も多かった。
教科は1、2年の多くが必須の教養課程と3年からの専門課程に分かれていて、教養課程は経済学や哲学などもあったが、おおよそ高校の延長のようなものだった。
教科は各人が自由に選択するようになっていて、どうしても時間はバラバラになり、同じクラスの人間といえども、必須教科以外は会わないこともよくあることだった。必須教科とて、顔を出さない輩も多くいた。
*
それは、入学後の間もない頃の、大教室での最初の「経済学」の講義での事だった。
1960年代当時、経済学はマルクス経済学が主流だったが、1、2年の教養課程の必須の経済学は近代経済学だった。
中年の丸い黒縁のメガネをかけた地味な教授の授業が始まった。
教授は、まず初めに君たちに言っておこうみたいな調子で、現在のマルクス経済学への批判を始めた。それは徐々に大学への批判が絡み、品性を欠く嫌味と感じるに及んでいった。
しばらくした時だった。一人の学生が突然立ち上がって、質問というより抗議をし始めた。それは近代経済学への批判から、それに続く教授そのものへの批判に進んでいった。
教授は最初は軽くあしらうかのように返答していたが、熱く勢いがとまらない学生の理論的な抗議・質問に、次第に狼狽を隠せなくなっていった。
私と同じ新入生なのに、凄いやつがいるなと思った。よく見ると、その男は私と同じクラスの男だった。それが、井上雅雄だった。
この教授と学生のいきさつを、私と同じような一般学生は感心するように、あるいは感嘆するように見守るばかりだった。
ところが、ここで終わらないのが、大学というところだと思った。
この教授と学生の討論というか口論の間(ま)があいたところで、別の男が立ち上がった。そして、落ち着いた口調で井上にこのようなことを問うた。
「君の言おうとしていることはわかる。しかし、僕たちはまだ学び始めたばかりの新入生なんだ。近代経済学もマルクス経済学も、両方学んだあとに各人が結論を出すべきじゃないか。だから、異論は別にしてここは講義を聴こうではないか」
まだ経済学に対して白紙だった私は、その通りだ。いや、凄いやつはいるものだ、とまたまた思ってしまった。
最初の経済学の講義は、こうして波乱のうちに終わった。
井上雅雄との交友は、ここから始まったといっていい。
ちなみに、授業が終わった後、立ち上がったもう一人の男に、廊下で私は声をかけた。彼はフランス語専攻の別のクラスの学生だった。落ち着いた言動の彼は、2年社会人を経て入学したというから、大人びているはずだ。
<断章3> 1964年当時の法政大の教授陣
「学而不思則罔 思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し)
現在の新しいビルに建て替えられる前の、55年館校舎の511大教室前の壁に掲げられていた、元大学総長の大内兵衛の揮毫による「論語」(為政篇)のなかの文である。
私が法政大に入学した時の総長は、哲学者の谷川徹三(文学部)だった。当時の法政大には有名な教授が多くいた。一部だが、記憶に残るところをあげてみる。
文芸評論家として一線で活躍していた小田切秀雄 (文学部)、荒正人(文学部)、本多顕彰(英文学)、福田定良(哲学)、乾孝(心理学)、千葉康則(生理学)、詩人でフランス文学の宗左近(フランス語)、詩人でのちに作家になる清岡卓行(フランス語)等々。
経済学部は、東大の大内兵衛門下をはじめ錚々たる名が連ねられていた。
宇佐美誠次郎、時永淑(経済学史)、中野正(経済原論)、日高普(経済原論)、芝田進午(哲学・社会学)、渡邉佐平(金融論)、良知力(社会思想史)、大島清(農業経済論)、鈴木徹三(経済政策論)、川上忠雄(恐慌論)、尾形憲(教育経済論)等々。
宇野経済理論で有名な宇野弘蔵も社会学部の教授だった。
「有朋自遠方来 不亦楽乎」(朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや)
旧校舎58 年館の学生ホールに掲げられていた「論語」( 学而第一 )の一節である。
<断章4> 政治の季節から文化カルチャーの季節へ
二十歳、それが人生で最も美しい季節だと誰が言えよう。言えるとすれば、それが二度と戻ってこない儚い時だと知ってからのことだ。
井上雅雄は情熱家であった。喋り出すと激して熱くなるが、普段は静かな神経質でナイーブな男だった。北海道・札幌の高校出身で、すでに高校時代から雑誌「世界」や「朝日ジャーナル」を読んでいる社会派だった。
1960年代、大学は政治の季節でどこも学生運動が活発だった。大学は活気と熱気に充ちていた。
理論派で熱弁家の井上は、すぐさま学内の活動家も一目置く存在となった。しかし、彼は運動に没入することを抑え、迸る情熱の出口を模索していた。
井上は社会派ではあったが、彼は政治・経済だけに関心をもっていたわけではなく、文学的感性も隠すことはなかった。そういう感性に私は共鳴した。
私たちは当時の潮流であった大江健三郎や吉本隆明も話題にした。そんななかで、井上が私に勧めた樺美智子の「人しれず微笑まん」と奥浩平の「青春の墓標」は、たちまち奥浩平の言葉を暗誦するほど、私の青春の書となった。
樺美智子も奥浩平も学生運動に身をおき、若くして命を落とした。それぞれ、その二人の遺稿集である。
*
井上の影響でデモに行ったりしたが、彼はほどなく学生運動に見切りをつけて離れると、それに歩調を合わせるかのように好きだった映画に傾注し、それはすぐに私に感染した。
当時、フランス・ヌーヴェルヴァーグが日本にも押し寄せていた。秘かな日活ファンだった私は、井上の影響もあってヌーヴェルヴァーグの波に呑み込まれるように、ジャン・リュック・ゴダールやアラン・レネ、フランソワ・トリュフォーの映画に熱中した。
私は、今でもジャン・ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ主演のゴダールの「気狂いピエロ」は最高の傑作映画だと思っているし、ブリジット・バルドー主演の「軽蔑」は原題の「ル・メプリ(Le Mépris)」という言葉を繰り返し口ずさんでいたほどだった。
また、レネの「去年マリエンバートで」は心の奥深くに澱を残している。
文学的香りを持つトリュフォーは好きな監督で、「突然炎のごとく」「恋のエチュード」は忘れがたい。
他に、フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」、ミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」、アンリ・コルピの「かくも長き不在」は記しておきたい。
個人的に好きだった映画は、クラウディア・カルディナーレとジョージ・チャキリスが主演した「ブーベの恋人」(監督:ルイジ・コメンチーニ)である。
日本の映画界でも大島渚をはじめ吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーヴェルヴァーグと称される監督たちが松竹を飛び出し、次々と前衛的な映画を発表した。
私たちは、名画座やATG(アートシアター)を見て周った。飯田橋や新宿の喫茶店の片隅で、井上はとうとうと映画芸術論を語りまくった。
政治の季節の後にやって来たその季節、井上それに私は、映画の魅力に熱中していた。
専門課程の3年になると、私は鈴木徹三ゼミに入った。ゼミに入るにあたっては何を研究・勉強するかは問題でなく、人間味のある先輩が多くいたからだ。
井上雅雄は、2年時から難関ゼミといわれていた時永淑ゼミに入ったが、教授と喧嘩して途中でゼミをやめてしまった。厳格な花形教授が相手とて、井上は臆することなく自己主張をやめることがなかった。
振り返ると、私は専門の経済学に対しては不本意ながら本腰で勉強しなかった。
専門はと訊かれれば、自称「経済学部文学科」と言うように、文学や映画に精神的愉悦を得ていた。ときに酒の席では、「恋愛専科」だと付け加えた。スザンヌ・プレシェットの主演映画を揶揄してのことだが。
私は、経済学はもとより文学(本)よりも、当時観た映画により多くの影響を受けたといってよい。
<断章5> 演劇「愛奴」の衝撃
私たちは、夢の在処を求めて模索していたのかもしれない。
あるとき、井上雅雄が衝撃を受けた演劇があるといって誘った芝居が、劇団人間座の「愛奴」だった。
スタッフを見ると、作:栗田勇、演出:江田和雄、美術:金森馨、音楽:一柳慧、衣装:コシノ・ジュンコ、ヘアーデザイン:伊藤五郎と、当時各界気鋭のメンバーだった。
六本木の俳優座劇場で観た「愛奴」は、私にも衝撃だった。
「もう二度と、あの女、愛奴に会えないのだろうか。あの肉の快楽(けらく)、いやいや、魂の愛……そうでもない。あの別の世界での悦楽をなんと呼んでいのか……」
自宅に送られた教え子と称する学生の書いた手記を、老教授が語り出し、それに対する私見を呟きながら、「断章-」と記して分かれた手記の物語が芝居として展開する構成となっている。その学生が書いた手記物語は、現実のこととも妄想の話ともつかない、悦楽に彩られた話である。
文学的で斬新な芝居もさることながら、主演した当時早稲田の学生だった金沢優子に、私たちは酔ったものだ。
井上雅雄は、それ以後、俺は芝居の演出をやると言って、劇団人間座に入った。情熱で動く彼の行動力はいつも速かった。
人間座に入った彼は、すぐに劇団青俳に移った。劇団青俳にはすでに名のある団員はいたが、彼と同じ演出部には蜷川幸雄がいた。俳優に、のちに大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」や根岸吉太郎監督の映画「遠雷」に出た横山リエがいた。
若いときは、夢はどんな風にもあり、実現可能だと思ったものだ。それがすぐにでも壊れる脆いものだと知ることになったとしても。
<断章6> 演劇から学者の道へ
夢で生きていた季節に終わりは来る。
それでも、道を求めて歩き続けなければならない。
学生生活も卒業を控えた時期になると、現実を見据えた就職活動となる。
私は、退潮期に入っている映画界は募集もしていないこともあって、自分には向いていると思う出版界へ入った。
劇団青俳に入っていた井上雅雄は、演劇では食っていけないと言って、定時制高校の教師をしながら大学院に行った。彼は、学者の道を目指したのだった。
立教大学の経済学研究科修士課程を経て、東京大学の経済学研究科博士課程を出た。情熱家だけでなく努力の人間でもあった。
その後、東京都立労働研究所研究員を経て、37歳で佐賀大学助教授になったときに彼は私に言った。
「おれはここ10年以上、好きな小説や映画は全然見ていない。勉強でそんな暇はなかった」と、悔しさを滲ませながら心情を吐露した。
そして、新潟大学教授を経て立教大学教授となり、定年まで立教大の教授を務めた。
最初の著作「日本の労働者自主管理」(東京大学出版会、1991年)が刊行されたときは、はにかみながらも喜びを隠さなかった。
専門は労働経済学だったが、彼の根にあった映画界へも専門分野からアプローチしていった。それは、まず「文化と闘争―東宝争議1946-1948」(新曜社、2007年)として刊行された。
そして最後の本となった「戦後日本映画史―企業経営史からたどる」に、彼の映画界への情熱と精神の痕跡を見ることができる。
この本は、井上雅雄が死を見すえながら、病床で「あとがき」を書いた遺稿集となった。
人生は長いようで短い。
苦(にが)みを含んだ熱い青春の季節は、過ぎてしまえば、青い果実と見紛うように甘酸っぱく変容している。
限りなく夢を語っていた誰もが、老いてやがて消えていく運命にある。いつしか誰からも忘れられようとも、それぞれの儚い足跡を残して。
風に転がる枯葉のように……。