かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

図らずも、「穴」に落ちるという体験

2017-11-27 04:33:07 | 気まぐれな日々
 人間は、生きているといろんな体験をするものだ。
 穴、あるいは深い窪みに落ちたことはないだろうか。そうでなくとも、深いところ、いわゆる「下」に「落ちた」ことはないだろうか。
 「落ちた」というのは、意識的に降りた、飛んだというのではなくて、意に反して重力のもと、体が下に行ってしまったということだ。

 下へ、下へ、下へ。
 このままどこまでもずっと落ちてくのでしょうか? 
 「今までもう何マイルくらい落ちたのでしょう?」
 Down, down, down.
 Would the fall never come to an end!
 `I wonder how many miles I've fallen by this time?'
  「不思議の国のアリスAlice's Adventures in Wonderland」

 *1

 僕は九州の佐賀に帰っていた。
 田舎に古い実家はあるのだけれど両親もいなくなり、僕も帰る頻度が少なくなって今は空き家同然なのだ。放置された庭の手入れもかねて、時折帰らないといけない。
 秋も深まった10月末に佐賀に帰った。東京から新幹線それに在来線の列車に乗り継いで、家の着くのは大体が夜である。
 春以来なので家の周りの庭は、わがもの顔に伸びた草と木で覆われていた。
 まずは、通りの家の入口から玄関までそんなに長くはないのだが、そこに行くのに蜘蛛の巣の糸が顔に貼りつく儀礼を受けることになる。夜なので、糸が見えないのだ。
 主(あるじ)がいない間に庭に無断侵入して育った草はといえば、ススキや茅や、名前はあるのだろうが名も知らない花をつけた草やマメ科の蔓や、はたまたドクダミなど、多種多様が蔓延っている。
 草だけでなく、木もやっかいである。もともと植えてある木以外に、草の間からハゼの木があちこちに顔を出ていて、これがまた成長が速いのだ。それに摘んでも切っても土中に延びた根からすぐに芽を出すので、苦労の元になっている。それにハゼは素手でさわるとカブレるので、取り扱いに注意が必要なのだ。
 田舎に帰ったら、この家の風景を見ただけで最近は、やれやれとうんざりするのだった。
 ということで近年は、田舎では草取りと木の伐採で精力をとられることになる。かといって足が遠のき帰ってくる期間が開くと、ますます厄介度も増すことになる。

 田舎では、食事にも苦労する。
 以前母がいて、帰った僕が長期滞在していたときは東京にいるときと同じく、多くは家で食事を作っていたのだけれど、町にあったスーパーマーケットがなくなったこともあって、最近は外で食べることが多い。買い物にも不自由するのだ。
 といっても、田舎では食べるところが少ないのだ。商店街に食堂があるのだが、この前行って主人に訊いてみたら、夜は6時ごろには店を閉めると言ったので呆れてしまった。僕は夜型なので、6時以前のそんな早くに夕食を食べる習慣はない。

 *2

 11月5日のことだった。
 伸びた庭の垣根のカイズカイブキを半分ほど切ったところで暗くなったのでやめて、休憩したあと、食事に行くことにした。
 7時過ぎだから、この時間でこの町で開いているところといえば、国道沿いにあるラーメン店ぐらいである。この店はチャンポンもあるし、千切り生キャベツのサービスもあるので、帰ったときには時々行っている。
 以前は自転車で行っていたが、田舎に来てジョギングをしていないので歩くことにした。急いで歩けば店まで、いつも多摩で歩いている20分ぐらいの距離である。

 もとの商店街のある旧長崎街道の町通りを歩く。しかし、今は昼間でもシャッター街となっていて、夜ともなれば店はどこも開いていない暗い通りである。
 暗い町通りから、長崎から鳥栖に向かう国道34号線に入る。国道沿いには、ポツンポツンと建物が建っている。
 ここいらあたりの国道34号線は、両脇に歩道はあるのだが一部を除いてガードレールはなく、しかも狭い。
 信号のある国道に出たら、しばらくすると進行方向右側に遠くラーメン店の明かりが見える。車道の右側の歩道を歩くが、歩道は狭いし対向車のライトが眩しい。
 僕はいつものように、腕を振って急ぎ足で大股で歩く。久しぶりのジョギングに、僕の脚も白いスニーカーも待ちくたびれていたけれど気持ちいいという反応をしているかのようだ。
 国道から少し奥まったところにある明々としたラーメン店が近づいてくる。店の手前に立て看板のたっている広い空間があり、そこは駐車場になっている。
 僕は、歩道から外れて駐車場の方向に、やや斜めに一直線に進むことにした。コンクリートの歩く先に黒い草むらがあり、そこを渡ったその先が駐車場で店に続いている。
 僕は駐車場の先の店に向かって、足の速さをとめないで進む。慣れない草取りの労働で腹も減っているのだった。
 今夜は、この店でいつも食べる僕の定番であるチャンポンと餃子にしよう、と決めてある。

 *3

 急ぎ早に歩く僕は、暗い草むらに踏み込んだ。その先には駐車場があり、もう店はすぐそこだ。
 その瞬間だ。僕は宙に浮いたような感覚になった。ふわりと浮いたと思ったら、そのまま体が下に沈んだ。
 下へ……。おや、どうしたんだ、と思った。そして、僕は瞬間、顔を上げた。上は暗い空だ。
 そうする間もなく、体は下に向かって枯れ草にガサガサと触れながら、右脚を固いものに掠ったかと思うと、ドスンと足を、それに続く連続作用のように尻を着いた。
 僕は、地に尻を着いている自分にすぐに気付いた。尻の下は、枯れ草のある土だ。左手の下は草のようで、右手の下は硬い石のようだ。周りは、暗くてよく見えない。
 僕は、穴に落ちたと思った。尻を着いたまま、手と脚を動かしてみた。動くし、痛みもない。骨折はしていないと思いホッとした。
 落ちた衝撃ですぐには立ち上がれない。眼の前には背の高い草のようなものが繁っている。上を見上げると夜の空があり、深い穴の下にいると感じた。
 落ちてきた後ろは堅いコンクリートである。脚は動くので、まずは立ち上がってみた。後ろのコンクリートにそって手を伸ばしてみたが、落ちた上の縁には到底届く距離ではない。天井ぐらいの高さだ。
 しばらく、顔を上げて暗い空を見ていた。

 ふと、村上春樹の新作「騎士団長殺し」のなかに出てくる深い穴が頭に浮かんだ。
 「騎士団長殺し」の穴は、こういうものだ。
 画家である主人公は、一人山あいの家を間借りして暮らしている。そのアトリエの奥のひっそりとした祠の下から、ある日より夜ごと鈴の音が聞こえてくる。誰もいないはずのその音のするところを、近所に住む免色(めんしき)という人の助けで掘り起こしてみると、そこには石で作られた穴が現われる。一人で上(登)り下(降)りすることができないほどの、深さ約3メートルの井戸のような丸い石室である。
 ある日、免色さんはその穴に一人で下りてみる。そして、上は蓋をしてもらう。穴の底には何もないのだが、その穴に何かあるかもしれない、何か起こるかもしれない、その何かを自分で感じてみるという行いだった。
 僕は今、実際深い穴のようなところに落ちていて、そのとき穴に入った免色さんは何を想ったのだろうと考えた。
 また、同じ村上の作品「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公は古い枯れ井戸の中に入り込む。
 ひっそりとした、誰も来ない穴の中。僕は自分がその状況にいると思うと、今が物語のなかのように感じるのだった。しかし、妄想でも夢でもなく現実であったので、なんでこんな奇妙なことを想うのだろうと思いながら、僕は何とかここから這い上がることをしないといけないと考えることにした。

 *4

 暗さに目が慣れてきて、少し周りが見えるようになってきた。
 注意深く見ると、前方は葦だかセイタカアワダチソウだかわからないが背の高い草が繁っていて、その前の黒い広がりは水のようだった。そして、左右は広がりが延びていた。左の方に国道が見え、時折車が通っていった。右は、遠く暗い広がりであった。
 僕がいるのは穴ではなく、そこはおそらく川であった。川でなければ、大きな用水路であった。

 僕は、ほぼ垂直に伸びている後ろの壁のようなコンクリートを見た。
 とりあえず、上に登ってここから抜け出さないといけない。なかなか足場がないなか、少しの凹みに片足をかけ反動で体を上げ、上の土手にある草を掴んで足をあげ登ろうとしたが、掴んだ草はすぐに抜け落ちるのだった。
 こんなことを繰り返しているとき、メガネがないのに気がついた。メガネをかけていないことすら気づかなかったのだ。ますます見えなかったはずだ。落ちた時に、どこかに飛んで行ったのだろう。
 メガネは、明日改めて昼間ここへ来て探そう、まずはここから這い上がることだと思った。しかし、明日またここに下りてこのコンクリートの塀を登るのはとても面倒なことだと思い直し、今メガネを探すことにした。
 ちょうどいいことに、肩から下げていたバッグにスマホを入れていたので、それを取り出して懐中電灯のようにあたりを照らしながら目を凝らし探した。すると前の草むらのなかでメガネを見つけた。手にとって見ると、運よくガラスに傷もなく、はめてみても柄が折れていることもなかった。

 さて、ここから上に登るのは難しいので、足場のいいところを探して移動しようと思って周りを見渡した。草の生い茂る前方は、その前に暗い水がありその深みを想像しただけで行けないのがわかった。奥の右の方に足を運んでみた。すると、ずぶずぶと足は湿った土の中に入って踝(くるぶし)あたりまで水に浸かった。左の方に足を持って行ったら、そこはもっと深い水が溜まっていた。
 困ったものだ。あたりは湿地帯のような状況である。よく見ると、僕が落ちたところあたりだけが水がなかった。
 しかたがない。ここから登る以外ない、と心を決めた。
 大声を出したとしても、近くに人はいない。遠く国道を車が走り去るだけで、人がこの土手近辺に来ることはあり得ない状況である。手元にはスマホがあるので、いざとなれば救急車を呼べば来てくれるだろうという思いが頭をよぎるが、それはみっともないと見栄っ張りの僕にはその選択肢はない。
 何しろ、骨折はしていないのだ(おそらく)。もう必死で登りきるしかない。

 足をかけてはずり落ちることを繰り返した。ボルダリングの方が、まだしっかりとした足場があると思った。それにしても、室内で人工壁を作りよじ登るあれが五輪に選ばれるとは、スポーツという競技概念も変わったものだ。本来、岩山の登山や、井戸や川に落ちた時のサバイバルで活かされる実践テクニックではなかろうか。まあ、こういう穴や川に落ちるという状況は滅多にないとしても。
 恨めしくも遊びでも競技でもない必要かつ実践としての、僕としては必死のクライミングあるいはボルダリングを繰り返すこと、何十分たっただろうか。腕や脚が疲れてくるのがわかる。
 上に上がることは無理かもしれないとの思いが芽生え始めた頃だ。コンクリートの壁から少し出ていた、排水用であろう丸い管を見つけた。僕は、遭難者が垂れ下がってきた命綱を見つけたかのように、そこに片足を伸ばし、反対の足を思いきり上の土手にのせ、伸ばした手はしっかりと土手の草をつかんだ。
 ここで上ることができなかったら、もう上がることはできないだろうと思い、力の限り一気に体を上げた。握った草も、ズルズルと土を崩しながらもかろうじて抜けずに持ちこたえてくれている。すると、何と体は土手に上がったのだった。
 そのとき、こうして上の土手で腹ばいになっているということは、本当に下から抜け出すことができたのだと、自分でも不思議な気持ちだった。
 後で振り返れば、たまたまできたことであり、火事場の馬鹿力だったのかも知れない。

 *5

 やっと、本来いるべき地上に出てこれた。やれ、やれ、である。
 見れば、白いスニーカーは泥んこで、ズボンのジーンズは膝下から濡れている。とりあえず上着に付いている雑草の枯葉を払って、ラーメン店に向かった。さすがに腹が減った。
 店の玄関を入ったら、すぐに「トイレを借ります」と言って、そそくさと真っ直ぐトイレに向かった。
 洗面所で、泥まみれの靴と靴下を脱いで洗った。濡れているジーンズも、はいたまま膝下を水洗いした。洗っている最中、トイレに一人入ってきたが、そんなことはかまっていられない。向こうも僕のことなど気にかけていないように、用を足したらそそくさと出ていった。
 上着のトレーナーにまだ付いている枯葉を取って、そのまま空いている席に向かった。下は裸足で、ズボンのジーンズの裾は踝から上に捲りあげた状態である。
 家族連れなど店の中に客はかなりいた。客観的に見たら、少し寒いこの季節、僕の格好は奇妙で不審者に見えたかもしれないが、かまうことはない。そんなことまで気にする状況でなかった。
 周りの客も店員も、僕の足元を見てどうしたんですかと訊く者もいなく、何事もないように振る舞っていた。とても、いい町だ。
 僕は、予定していたチャンポンと餃子を注文し、セルフサービスの生キャベツの千切りと、特別注文のおでんの鍋から厚揚げを皿にいれ、席に着いた。そして、この店でいつもするように、店に置いてあるスポーツ新聞を席に持ってきて見た。
 
 スポーツ新聞は、作日行われた福岡ソフトバンク・ホークスが横浜DeNAベイスターズを4-3で延長の末破り、日本シリーズの優勝を遂げた記事で満載だった。
 このシリーズは、戦力的にも財力的にもホークスの圧勝という見方が一般的であり、幕を開ければ予想通りホークスが3連勝したのだけれど、そのあとベイスターズが2連勝し、急に分からない展開となった。昨日の6戦目の試合も、ベイスターズが有利に試合を進め、もしベイスターズが勝ったなら、そのままシリーズ逆転優勝かと思われる勢いだった。
 結局ホークスの通算4勝2敗であったが、勝利はどっちに転ぶかわからないシリーズだった。
 ものごとは(目に見えなかった)ふとしたことで、どっちに転ぶかわからない、と思った。

 僕はきっと、うまくタイミングよく落ちたんだ。そして、もっとも損傷を負わないであろう絶妙な場所に。
 これが、窪みに対して少し遅く、あるいは少し早く足を踏み出していたら、土手のどこかに踏み出した足がつかえたりしたら、僕の体はどう転んでいたかわからない。もしかしたら、僕は頭から落ちていたかもしれないし、また、もう少し右に落ちていたら石の上で、もう少し左だったら水溜まりの中だっただろう。
 頭から落ちなかったとしても、どこかを強い打撲あるいは骨折もしたかもしれない。
 とりあえず大きな支障がどこもないのは、とても幸運だった。これ以上ないベストの落ち方だったのだろう。
 僕は、きれいに落ちる自分の姿をスローモーションのように想像した。いや、確かに落ちた瞬間は1秒もかかったかかからなかったか知れないが、ゆっくりとした動きのように思えたし、ゆっくりとした時間のように感じたのだった。
 
 しかし、一歩間違えば、いやまさに半歩間違えば、こうやってチャンポンを食べることなどできなかったかもしれない。
 チャンポンと餃子を食べて、僕は何事もなかったように普通に会計をすまして、家へ歩いて帰った。濡れた靴を履いて。

 *6

 家に帰ってきちんと脚を見たら、右の膝に掠り傷ができ、腿に擦り傷が走っていた。そして、尻にも掠り傷があるようだった。
 そして、右腿の筋肉が夜にしたがって痛みが出てきた。座るときに膝をおる(曲げる)と痛いのだ。落ちたとき、利き足である右足が少し先に着地し、すぐさま尻に重心が移ったのだ。
 僕は、傷口に家にあった軟膏を塗り、風呂に入って脚をもんで、早めに寝た。

 打撲の症状は次の日出てくることが多いのだが、翌朝、脚を見ると内出血で赤くはれているということはなかった。ただ、右脚をたたむときに太腿に痛みが走ったし、尾骶骨の上の臀部に痛みが忍んでいるのがわかった。しかし、歩くことに支障はない。

 *7

 田舎の家の庭の雑草刈りは虎狩のまま、僕は東京に戻った。
 その後、膝の擦り傷と脚と臀部の痛みは、約1週間でひいた。
 振りかえれば、あの穴(川)に落ちた事件(あえて事故とは言わないが)は何だったのだろうか、と思う。
 アリスのウサギ穴に落ちるような感覚、「騎士団長殺し」の免色さんの追体験感覚、図らずも幸運ともいえる体験だった。明日は何が起こるか、ものごとはどう転ぶかわからないものだ。

 ※参照:「穴の向こう側に行く旅、「騎士団長殺し」」→ブログ2017.10.10 

 (写真は、「不思議の国のアリス」のイラスト、Sir John Tenniel, 1866)
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