かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

怪獣「ゴジラ」復活

2014-07-31 01:38:10 | 映画:日本映画
 「水爆怪獣ゴジラ現る」
 こういう見出しで書かれているのは、「昭和史全記録」(毎日新聞社刊)のなかの、1954(昭和29)年11月の事項である。(写真)
 この年の11月2日には、次のように記されている。
 「“水爆大怪獣映画”「ゴジラ」(東宝、監督本田猪四郎)公開。「水爆実験で200万年の眠りからさまされた丸ビル大の原始怪獣だ、口から怪白光を吐きすべてを焼きつくすという」
 映画のなかの一場面である写真は、東京の銀座に現われたゴジラである。国電の電車をわしづかみにし、食いちぎっている。後方左手に見えるのは、旧日劇(有楽町マリオン)で、右手に見えるのは、銀座4丁目の服部時計店(和光)である。
 丸ビルと比較されているゴジラだが、当時東京駅前の丸ビルは地上9階(地下1階)建てで、まだ今のように超高層ビルがない時代では、昭和30年代までは最も大きな建造物の象徴であった。
 現在大きさを表すのに、例えば東京ドーム何個分と言ったりするが、かつて長い間、丸ビル何個分と言っていた。

 ゴジラが誕生して60年という。
 第1作の映画「ゴジラ」(東宝)公開は、1954(昭和29)年である。
 新しいゴジラ映画「ゴジラ」(GODZILLA)が米ハリウッドで作られ、今、日本でも公開されている。ゴジラ映画はアメリカでは1998年以来2作目で、日米合わせて30作だという。いつの間にこんなに作られたのかと思う。
 私は子どもの時に見たゴジラの記憶を思い起こすと、最初のゴジラ登場の第1作と、ゴジラと闘うアンギラスが出てくる第2作「ゴジラの逆襲」(1955年)と、ラドンが出てくる映画で、そのあとはもう見ていない。
 阿蘇山の火口の地底から飛び立つ翼竜ラドンを覚えているが、この映画「空の大怪獣ラドン」(1956年、東宝)にはゴジラは登場しないので、同じ怪獣映画でもゴジラ映画のシリーズではないようだ。
 ゴジラとは、陸のゴリラと海のクジラの合成語である。

 *

 第1作目の「ゴジラ」(監督:本多猪四郎、特殊技術:円谷英二、音楽:伊福部昭、出演:宝田明、河内桃子、平田昭彦、志村喬)のデジタル復刻版を見た。
 映画は、のどかな海を航海する船の上が映し出され、その船が突然閃光を浴びて燃えて沈没するという場面から始まる。当時行われていた水爆実験の被害にあったことを想起させる。
 その頃、日本の漁船が米国の水爆実験に巻き込まれて被曝した第五福竜丸事件が起き、そのことが、人々の脳裏に生々しく焼きついていた時代である。
 伊豆諸島先の太平洋沖での相次ぐ原因不明の船の遭難、事故に、日本国内は慌てふためき、すぐに調査が行われるが、謎と憶測が不安をかきたてるのであった。
 そんな時、遭難からたった一人生き残った男が、筏で島(大戸島)に流れ着き、息たえだえに「やられただ、○○(意味不明)に」とつぶやく。
 村の長老は、昔から言い伝えのあるゴジラのせいに違いないとつぶやく。その時は、誰もゴジラの存在など信じていなかった。

 しばらくして、島に調査に来た調査団の前に、ゴジラが姿を現す。調査に来た博士は、驚いた顔で、確かにジュラ紀の生物だと言う。
 博士は東京に戻った調査報告の席で、この生物を大戸島の伝説にちなんで、仮の呼び名でゴジラと呼ぶ。ゴジラが公になった瞬間だ。
 そして、何日か後に、ついに日本本土にゴジラは現われる。
 ゴジラ対策が検討され、その年、警察予備隊から保安隊、警備隊をへて自衛隊となった戦闘隊が大砲、戦車などでゴジラに応戦するが歯がたたず、ゴジラは次々と街を破壊する。
 ゴジラは、何かに怒り狂っているようだ。

 映画では、まだ戦後の風景が色濃い1954(昭和29)年当時の、日本および東京の状景が描かれていて興味深い。
 港で、遭難した船の安否を不安でもって海を眺める、島の人たちが映る。筏がたどり着く場面だ。場所は、太平洋上の大島あたりの海辺だろうか。海を見ている地元の人たちのなかに、何人か上半身裸の女性がいる。おそらく海女さんと思われるが、乳房も露出したままで海を見ている。誰もそれを不自然だとは思っていないのだ。
 時々、ニューギニアやアマゾンの奥地で原始的生活をしている人種のルポルタージュで、乳房を出した女性が映りだされることがあるが、日本でも戦後もまだ海女さんの生活はそうだったのだろうと少し驚いた。
 戦後の東京の街も映し出される。銀座の街も破壊されるし、国会周辺も瓦礫と化す。その火の海と化した瓦礫の先に、議事堂だけが残っているのが印象的である。
 実況放送をしているテレビ塔(電波塔)もゴジラの手によって倒される。東京にテレビ塔があったのだ。
 テレビ塔に代わって東京タワーができるのは、ゴジラの出現から4年後のことである。

 最後に、ゴジラは海の中で死ぬ。
 そして、博士の次のようなつぶやきで映画は終わる。
 「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が世界のどこかに現われてくるかもしれない」
 ゴジラは、理由があって怒っているのだ。
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戦後とは何なのかを問う、「愛と暴力の戦後とその後」

2014-07-19 00:06:56 | 本/小説:日本
 デビューしたころの赤坂真理の文を読んだとき、気取ったぎこちない文という印象を持った。だからその後の作品を読むことなく遠ざかっていたのだが、だいぶんたって話題作となった「東京プリズン」を読んで、その印象は払拭された。そして、かつて翻訳調のような文のぎこちなさと感じたのは、彼女がアメリカにひと時留学したのが影響していたのだと、腑に落ちるものがあった。
 中学卒業してすぐにアメリカに単身留学し、1年で帰国したとはいえ、思春期の多感な時期のその出来事が、彼女の思想の形成に多大な影響を及ぼしたことは自身もそう言っているように否めないだろう。

 赤坂真理の「東京プリズン」(河出書房新社刊)は、読む者を迷路に落ち込ませたように、スリリングな文学の醍醐味を味わわせてくれる小説であった。
 このブログに、「1Q45年の、「東京プリズン」」(2013.5.22)として記述した。
 http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201305
 この本は、現在と過去、史実と幻を重ね合わせて、戦後、われわれ日本人が目をつぶってきた問題に、正面から入り込んでいき、物語となしている。著者の個人の歴史と世界史を巧みに絡めた、社会文明問題提起小説と言ってもいい。

 赤坂真理著、「愛と暴力の戦後とその後」(講談社刊)は、著者の個人史と日本の戦後史を絡めたものである。その意味では、小説「東京プリズン」を客観視させたものと言っていい。
 この本で、彼女が疑問に思っていた戦後の現象や出来事、事件などが語られている。敗戦、憲法、安保と学生運動、オウム事件、3・11等々。

 この本で印象的だったのは、日本とアメリカの関係を、言葉に表すことが難しい感覚表現でとらえようとしているところだ。
 彼女は、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」(Embracing Defeat:Japan in the Wake of World War II)を、再三引き合いに出している。
 「ジョン・ダワーの占領期研究の鮮やかさは、まずそのタイトルに込められた視点にあったと思う。「抱きしめて」は、原語では“Embracing”という。Embraceは、「抱擁する」と訳されたりもするが、「抱きしめる」という日本語よりはずっと、性的なニュアンスが強い。性交の含みさえ、そこにはある。ここにも、翻訳のギャップの問題は横たわる。
 日本人は――もちろん私にとって自国民であるけれど――なぜ、昨日までの敵をあんなに愛したのか。」

 第2次世界大戦後、アメリカは日本を占領した。占領国・被占領国の関係としては、その友好性において奇跡的だといわれている。
 私は、ジョン・ダワーの本を読んでいないのでその感覚的視点は新鮮だった。

 赤坂真理は安保条約の省察において、その日米関係の微妙な感覚を察知する。
 日米安全保障条約、つまり安保条約は1951年、サンフランシスコ平和条約の一環として締結された。
 彼女は、最初の51年の安保条約の、英語の原典に当たっている。訳は、分かりやすく語順に従っている。以下にその文を本書より引用してみる。
 「まず、前文から。
 「Japan desires a Security Treaty with the United States of America
 日本国は欲する/アメリカ合衆国との間に安全条約を結ぶことを」
 続いて条文の第1条。
 「Japan grants, and the United States of America accepts to dispose United States land, air and sea forces in and about Japan
 日本国は保証し、アメリカ合衆国はこれを受け入れる/陸、空、海の武力を日本国内と周辺に配置することを」

 日本が欲し、アメリカ合衆国にお願いする。
 日本が保証し、アメリカ合衆国は受け入れる。
 決して、逆では、なく。
 それをアメリカ合衆国が、書く。
 他人の手で、ありもしない欲望を、自分の欲望として書かれること。まるで「共犯」めいた記述を。入れ子のような支配と被支配性。ほとんど、男女関係のようだと思う。」

 そして、赤坂真理は思う。2020年の東京オリンピックの誘致プレゼンテーションでの、スチュワーデス(キャビン・アテンダント)を想わせた滝川クリステルの「お・も・て・な・し」の発言を聞いて。ジョン・ダワーの「占領期の日本には何か性的な匂いがした」と書いた一節を。
 「私は理解した。占領期の日本とは、来る者への「お・も・て・な・し」だったのかと!」と、彼女は書く。

 すでに、戦後69年を迎えようとしている。
 戦後の日米の複雑な心理の上に立った蜜月のような関係は、その渦中にいた人とて論理的に書くのは難しい。
 現代は、なかなか本音を言えない、率直に心象を描けない時代である。そんななかで、赤坂真理は本音を発している稀な作家、表現者といえよう。

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女の目から見た、ゆるい性を描いた「ホテルローヤル」

2014-07-11 01:07:16 | 本/小説:日本
 「ローヤル」という言葉は、日本語としては何だか締まりがない感じがする。受けた印象が、ゆるいのだ。
 英語でのRoyal、王を表すときには概ねが「ロイヤル」である。イギリスでは王室関係の言葉としロイヤル・ファミリー(royal family)とかロイヤル・ウエディング(royal wedding) とか使われている。
 「ロイヤルホテル」とあれば、なんとなく格式あるホテルを想像する。王立でなくとも、この語に堂々たるという意味もあるので、この名を使っていいのだろう。
 日本には、これまた王立と関係ない「プリンスホテル」がある。西武グループのこの名を冠したホテルは、もともとは旧皇族の土地に建てたのが名前の由来というから、あながち無関係とはいえないのかもしれない。

 芥川賞、直木賞の受賞作品は、かつては発表されるやすぐさま読んでいた。その時代の文学上の基準や指針としてとらえていて、自分に照らしあわせて、受賞作の作者の才能にときめいたり、この程度かと失望したりした。
 しかし、最近はそんなに慌てて読まなくてもと思うようになってきた。話題作は読むのだが、そのうちに読まないで過ぎていく作品も多くなった。年に2回も多いと思うようになってきた。感動する作品が少なくなったというのは、読まない弁明だろう。

 *

 「ホテルローヤル」(桜木柴乃著、集英社刊)は、2013(平成25)年上半期の直木賞を受賞した小説である。
 1周遅れの読書ということになる。
 「ホテルローヤル」とは、ラブホテルのことである。ラブホテルとしては、この名が相応しいように思う。
 ディズニーのアニメに出てきそうな、白い壁でピンクの屋根の、小さな城のようでいて、どことなく格式が欠けている。街から少し外れたところにライトアップされて浮かび上がる、どこかの町で、いつか見たことがある建物だ。
 「ホテルローヤル」は7つの短編からなり、舞台は北海道の湿原が広がる釧路の街はずれである。
 いずれも男と女の性が描かれているが、年齢も職業も男女の関係性もまちまちで、何の関連もない。そこに登場するのがホテルローヤルということである。ホテルは、すでに廃墟になっている場合もあれば、現役で活動しているのもある。
 ここに登場する男女の性は、胸をときめかすような恋愛でも涙する失恋の物語でもない。どこかにありそうな、日常の延長の性愛である。そういう意味では、タイトルと同じく、内容もゆるい。
 登場する男は、社会的もしくは生理的に少し逸脱しているか欠陥がある。そんな男と物語の女性は対峙している。
 読んでいて、男が書く性愛、つまりセックスと、女性が書くセックスは違うなあと思った。

 その中で、私が最も面白く印象に残ったのは、唯一「ホテルローヤル」が登場しない、高校の教師と生徒の関係を描いた「せんせぇ」である。
 先生である主人公は結婚していて家は札幌にあるのだが、妻を札幌に残して函館の南の木古内という町に単身赴任している。その妻を紹介し仲人までした前の学校の校長が、実は妻と不倫の関係だったのを知ったのが、この地に転勤する今から1年前だった。その妻の不倫関係も、教師と生徒の時代から20年間続いていたということだった。
 主人公が、連休に急に思いたって、札幌の家に帰ろうと駅に向かった時から物語は始まる。そこへ、担任している組の女生徒が、列車に乗りこんで来て、彼の横に座る。見た目も成績も、言葉遣いも悪い落ちこぼれの生徒である。
 疎ましく思った彼だが、彼女は、私、今日からホームレス女子高生になったの、お金もないと言って、彼にまとわりついてきた。
 彼は、札幌駅に着くと女生徒をまいて自分の家であるマンションに行くが、そこで妻と校長がタクシーでやってきてマンションに入っていくのに遭遇する。立ちつくす彼の前に、例の女生徒がいつの間にか現れる。
 彼は黙って家をあとにし、女生徒は彼のあとをついてくる。
 その日は、二人はやむなく札幌ススキノの古いビジネスホテルに泊まるが、そこで性愛が行われることはない。
 彼は翌日、札幌から釧路行きの切符を2枚買う。女生徒が「せんせぇ、待って」と、追ってくる。そこで、物語は終わる。
 ここで、やっと「ホテルローヤル」の暗示が表れる。

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