かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 東京タワー

2005-08-30 18:54:59 | □ 本/小説:日本
 リリー・フランキー著 扶桑社

  サブタイトルに「オカンとボクと、時々オトン」とあるように、母への思いを綴った自伝的小説である。
 後半の母が癌に冒され死にいく場面は確かに哀しいが、この本はそんなお涙頂戴の本ではない。僕が最も共感してページをめくるのをとめたところは、ストーリーの間の随所に散りばめられた著者の人生への溜息にも似た言葉だ。溜息だからといって湿ってばかりではない。そこには、少年時代から思春期を経て大人になっていく過程の、そして大人になってからも、不確かな人生の断片を見いだすことができるのだ。そして、この点こそが、この本を通俗的な本とは一線を画したものにしているといえる。

 著者が大学を卒業して何とか東京での生活も安定しだしたころ、郷里の福岡で一人住んでいる、病気で弱気になった母に「東京へ来るかい」と誘う場面がある。この場面は、というよりこの言葉は、僕の胸を締めつけた。

 僕の老いた母も、郷里の佐賀に一人で住んでいる。著者と同じく僕も東京で一人で生活していて、息子である僕と弟が郷里を出たあとは、ずっと母は父と二人で佐賀で生活していた。しかし、父は3年半前に死に、母は一人暮らしになった。
父が生きているときは、何も母のことを気にかけることはなかった。七十代後半だというのに、スクーターに乗って買い物に行ったりして、元気だった。しかし、一人になったら、急に母は衰えた。腰痛(骨粗鬆症)と骨折で入退院を繰り返し、すっかり腰が曲がって小さくなってしまった。
 僕も、母が一人になってからは母のことが心配で、いつも気になるようになった。

 僕は、ときどき郷里に帰っていたが、著者が言ったこの言葉がなかなか言えなかった。なぜなら、一人で介護をする自信が持てないでいたのだ。それと、老いた親を急に都会に連れてきたら、痴呆が進行するという話を聞いていて、それを言い訳にしている向きもあった。
 しかし、著者は母を東京へ呼んで一緒に暮らし始める。すると、母も元気になり、著者も活きいきとしだす。その後の母子の生活は蜜月のように見える。
 僕は羨ましかった。このような生活を夢見ていた。実は僕も、そっと母へ言ってみたのだ。「東京へ来るかい」と。母は、「いや、まだいい」と言った。
 まだいいとは、まだ元気だから、こちら(佐賀)にいるということだ。元気でなくなったら、寝たきりになるということじゃないか。そんなになって東京に来ても、病院にいるだけだ。だとしたら、東京へ来る意味がない。母の生まれ故郷の佐賀にいて、僕がしょっちゅう帰ってきたら、それでいいとも思ってしまう。佐賀には、近所の親しいおばさんたちもいて、親類もある。時々、元気? と、居間の窓から顔をのぞいてくれる。それでいいのではなく、それがいいとは、勝手な考えだろうか。
 そういうわけで、今は母は佐賀にいることを望んでいて、僕がしばしば佐賀に帰ることに僕は決めた。そして、帰ったときにはなるだけ長くいようと思う。しかし、帰ったとき長く一緒にいると、つい文句を言うときがある。なぜ、こんな簡単なことをやらないんだと。そして、いつもあとで後悔する。昔の母とは違うことを忘れているのだ。しかし、離れていると、今何をしているのだろうかと心配で、優しくなる。
 こうして、僕は東京と佐賀を不定期に行き来している。母は、ずっと僕が佐賀にいるのを望んでいるのだろう。しかし、言葉に出しては言わない。東京には、おまえの生活があるのだろうからと言う。東京の生活だって、たいした生活はないのに。
 母は、このあとますます老いる。認知症とはいえないが、物忘れは急に進行した。それに、いつまで今の状態が続くか分からない。いつか、そのときがやってくる。
 僕も、このあと、どうなるか分からない。分からないのが人生だ。

 本の最終部分で、母の棺の横で原稿を書く場面がある。締め切り日でもないのだが、出版社とタレントの事務所との関係で今日中にと言われ、タレントについて面白おかしい原稿を書くという場面だ。
 多くの書評が、このシーンを悲哀に満ちた感動話の頂点ように書いている。しかし、僕にいわせれば、それは少し違うだろうと言いたい。僕も出版関係で仕事をしていて分かるのだが、出版・マスコミ関係にいれば、親を看取り、きちんと葬儀をやって親を送れるのは、僥倖といっていい。仕事を断れないフリーならなおさらだ。僕の友人の中で、母の葬儀に出られなかった者がいるし、駆け足で葬儀の列にやっと加わった者もいる。
 葬儀の日であれ、母の横で原稿を書く、こんな幸せなことはないだろう。
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* ボルドー・ワインとサン・テミリオン

2005-08-30 18:48:38 | * フランス、イタリアへの旅
*なぜボルドーか

 ワインといえば真っ先に名前が挙げられるのがボルドー。ボルドーとブルゴーニュは、フランス・ワインの双璧である。
 ボルドーは、フランス南西部の大西洋に流れるジロンド川の河口にある。ローマ時代よりワインが生産されていたという記述があるから、古くからブドウの産地であったようだ。ボルドーが一躍歴史の表舞台に現れ発展したのは、中世期(12~15世紀)この一帯のワインの、イギリスへの積出港となってからである。18世紀には、このほかオランダや西インド諸島などの貿易港として莫大な富が集中したという。
 この時期、貴族階級にワイン産地の土地所有が移ったのが、ボルドー特有のシャトーというワイン醸造所の形態に大きな影響を与えているといえよう。また、商人階級の台頭によって、彼らは最初は仲買人であるネゴシアンとして活動するが、さらにはその中からシャトーの所有者となる人や組織も生まれるようになった。
 イギリスで重宝されたボルドーのワインは、次第に世界的に人気が高まり、その価値を確定的にしたのが、1855年のパリ万国博覧会のために行ったメドック、それにソーテルヌとバルサックの格付けである。この格付けがメドックのワインの信頼と評価をさらに高める結果になり、その後、グラーブやサン・テミリオンなどでも独自に格付けが行われるようになった。
 メドックの格付けは1級から5級まであり、今日までの約150年間、なくなったシャトーは別として、1973年にムートン・ロートシルトが2級から1級に格上げされたのを除き、まったく変更されていない。さらにこのほかに、数多くの格付けされていないシャトーや銘柄がしのぎを削っている。
 今でもこの一帯は、フランスの、いや世界中のどの地域よりも上質のワインを安定して生産し続けているが故に、その最高級の地位と名声を保ち続けているのだ。

 地理を見てみれば、フランス中央山岳地帯を源流に持つドルドーニュ川とスペイン国境のピレネー山地を源流とするガロンヌ川が、下流にあるボルドー市の北で合流しジロンド川となり、大西洋に注ぐ。この3つの川の流域が、いわゆるボルドー・ワインの産地である。
 この大西洋とメキシコ湾流の影響が、ボルドーの気候に大きな影響を与えている。さらに、この地は、地域によって石灰石、粘土質など、少しずつ違う地質を持っている。この気候、地質条件がブドウ栽培に適していたうえに、個性的なワインの醸造をもたらしているともいえる。
 この一帯には、各々特徴を持ったブドウ畑を持つ小さな村が数多くあり、大きく次の5つの地区に分けられる。
 ○メドックとオー・メドック
 ○グラーブ
 ○ソーテルヌとバルザック
 ○サン・テミリオンとポムロール
 ○アントル・ドゥ・スール

 フランスのワインは、ボルドーとかブルゴーニュとか大きくは産地名によって呼ばれて、さらにメドックやサン・テミリオンといった各地域に分けられる。さらに、その下に村名を付けたりして限定する場合(ヴィラージュ・ワイン)もある。
また、ボルドーでは、自己畑、自己醸造、自己瓶詰めができればシャトーを名のれる制度がある(ブルゴーニュでは、メドーヌという制度に当たる)。実際、ボルドー全域で約4千のシャトーが存在するといわれている。
 それら千差万別なシャトーの中から、高度な品質を保持するために、先にあげた地域によっては、厳格な格付け制度が行われているのである。

*サン・テミリオンの秘密

 そのボルドーの中で、ドルドーニュ川右岸にあるのが、サン・テミリオンだ。この村は、中世の名僧、聖エミリオンによって発展したので、その名がついた。以来、ワインにも、この名が冠してある。しかも、中世の街がそのまま現存している世界遺産の街でもある。

 ボルドー・ワインの中でも、サン・テミリオンのワインは少し異質といっていい。どこが違うのか。
 まず、地質であるが、この一帯は石灰分を含んだ土壌で水はけがよい。そして、土壌の質が変化に富んでいることがあげられる。
 かつて石灰石の石切場でもあったこの地は、地下の石切場跡をカーヴに利用しているシャトー(シャトー・ボーセジュール・ベコ)もある。石灰石による室内は、常に温度が18度に保たれるので、ワインの保存には格好の空間なのである。
また、ワイン生産地としての特徴は、他のボルドー地区に比べて、小さなクリュ(ワインの生産者、シャトー)が密集していることだ。
 プルミエ・グラン・クリュ・クラッセ格付けの最上級Aクラスの、シャトー・オーゾンヌ、シャトー・シュヴァル・ブランのほか、5,000ヘクタールの地区に、1,000ものクリュがひしめいている。
 さらに、ボルドー・ワインの中でも、決定的な特徴を持たせているのに、ブドウの品種、その配合をあげなければならない。
 基本的にブルゴーニュの赤ワインが、ピノ・ノワールの単一種で造られるのに対し、ボルドーの赤ワインは、3ないし4種のブドウ種で造られる。これらを、それぞれの地区や村の生産者(シャトー)ごとに、畑や土壌を考慮に入れて、各々の裁量でミックスされる。それ故、ボルドーは、多様な個性が生まれるのだ。
 具体的には、メドックをはじめボルドーの多くの地区では、カベルネ・ソーヴィニオン種が主体で、それにメルロ、カベルネ・フラン種などを混ぜる。
 ところが、サン・テミリオン地区では、メルロ種を主体として造られる。メルロから生まれるワインは、カベルネ・ソーヴィニオンより、タンニン(渋み)が少なくてアルコール度が高い。色も、ソーヴィニオン主体のボルドー・ワインよりも、赤が鮮明で、口当たりも柔らかい。それに、熟成が早く、それだけ早く飲めるということになる。

 つまり、サン・テミリオンのワインは、カベルネ・ソーヴィニオン主体のボルドー・ワインに逆らったボルドー・ワインなのだ。

*シャトー・モーカイユの実力

 私がボルドーのワイン・ツアーで訪ねたワイナリー、「Chateau Maucaillou」(シャトー・モーカイユ)は、メドック地区の中で最も小さな村のMoulisムーリに在る。
 しかし、のちに調べてみたところ、シャトー・モーカイユはメドックの格付けシャトー(グラン・クリュ)に入っていない。では、単なる小さな星屑のように点在する無名のシャトーの一つにすぎなかったのだろうか。

 格付けされているシャトーは歴史も古く数も限られ、いわばエリートである。しかも、格付けが変更されたのは、格付け発表以来150年間で1件だけである(あのロスチャイルド大資本傘下のシャトー)。格付けブランドが格付け名簿にあぐらをかいているのではなく、品質維持に努力を重ねているシャトーばかりだと思われる。
 そうであっても、そんなに長い間、メドックのワインは味や質の変動もなく推移してきたのであろうか。格付けからもれたものや新しいシャトーの中に、格付けワインより良いものが埋もれているか、生まれているはずと思うのは当然である。格付けからもれた、あるいは新興のシャトーの中で自負あるシャトーは、黙って無格付けのままで、手をこまねいて時に身を委ねていたのだろうか。
 やはり、そうではなかった。このメドックの難攻不落の格付けに対し、それならばと独自の格付け組織である、クリュ・ブルジョア(ブルジョア級)という格付けの動きが、1920年から始まったのだ。そしてブルジョア・シャトーの組合(サンジカ)が1966年、最初の格付けを正式発表し、78年改訂され、さらにはっきりとした基準が設けた。
 シャトー・モーカイユは、ここに顔を出していたのだ。

 ワインを調べようと思って開いた、『図説・フランスワイン紀行』(河出書房新社)の本の中で、まずいきなり、ボルドーの誇り高きクリュ・ブルジョアとして、グラン・クリュに入っていないが、独自の努力でそれらに匹敵する実力のあるシャトーを紹介していた。その中で、メドック最小面積のAOC村であるムーリ村での3羽ガラスの一つが、シャトー・モーカイユと紹介している。
 さらに、専門家に最も信頼のあるワインの本、ヒュー・ジョンソン著『ポケット・ワイン・ブック1993年版』(鎌倉書房、のち早川書房刊)を開いたら、「クリュ・クラッセ(格付け銘柄)の実力を持つ」と、二つ星で紹介している。
 さらに、デイヴィッド・ペパコーン著『ポケット・ブック/ボルドー・ワイン』(鎌倉書房、のち早川書房刊)を見ると、著者はかなりの入れ込みようだ。「1984年に、ムーリの79年度もののブラインド・テイスティングが行われたとき、私はモーカイユに最高点をつけた」とある。さらに、「ムーリの力強さに、見事な風味、真の素性の良さ、魅力が溶け合っているワインである。ブラインド・テイスティングで、クリュ・クラッセの好敵手になることが、しばしばある」と続くのだ。

 このように、シャトー・モーカイユは不本意ながらクリュ・クラッセに入ってはいないものの、実力によって格付けワインと同等の力があると、専門家に認めさせているのだった。
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7. シャトーへ、ボルドー

2005-08-27 00:16:41 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月4日>ボルドー  料理研究家、辻静雄氏は結婚して料理学校の校長になることになり、徹底して本場の最高級のフランス料理を食べ歩いた。羨ましいことと思いがちだが、職業ともなると苦行に似たストイックな行為に思えた。
 その辻静雄氏と一度だけ、一緒に食事をしたことがある。1973年1月だったか、私がまだおぼつかない編集者だったときである。かつて勤めていた出版社(鎌倉書房)で、氏の著書『フランス料理の手帖』を出版することになり、その装幀の画を受け取りに行ったときのことだ。指定された場所は、銀座のフランス料理店『煉瓦屋』。そこには、辻氏と装幀をしていただいた画家の佐野繁次郎氏、それに店の女主人がいた。私は、硬くなり今では何を食べたか覚えていない。当時の私の舌はまだ経験もたりず、僅かな尺度さえなかったのだ。
 辻氏をもってしても、舌の記憶は不確かなので折に触れて確認したいと、その著書で書いている。

 私は、昨晩の味の記憶がなくなるのが惜しいので、少し遅めの朝食をとりにサン・テミリオンの大鐘楼の下のレストランに行った。パンにジャム2種、クロワッサン、オレンジジュース、カフェオレで65フランは、昨晩の料理に比べれば安くない値段だが、やはりただのパンとはいえ美味しい。

 サン・テミリオンに来たからには、ワインの元締めの街ボルドーへ行こうと思った。
 ボルドーへ行くためには、まず鉄道の駅リボルヌへ出なくてはいけない。リボルヌへ行くバスを待っていたが、いつになっても来ない。大型の貸し切り観光バスはやって来たり、出発したりするのだが、乗り合いバスはいっこうに来る気配がないのだ。そのうちの1台の貸し切りバスの運転手に、リボルヌに行くかと訊いたら、その運転手が私に同情してそこを通るからと言って乗せてくれた。そして、道が二股に分かれるところでリボルヌの入口だと言って降ろしてくれた。
 そこは閑静な住宅街で、どう見ても駅が近くにあるようには見えない。しばらく歩いてバス停があったので停留所の名を見るとリボルヌの駅ではない。通りすがりのおばさんに訊くと、駅までは3キロはあるという。仕方がないので、そのバス停でバスを待つことにした。運よくすぐにバスがやってきてホッと息をついた。

 リボルヌからボルドーまで列車で行き、降りてすぐにインフォメーションに行ったが、本日はホテルの空きがないと言われた。仕方がない、足で探すしかないと駅前を歩いていると、テントが張られ制服を着た人が何人か座っている。その前で、日本人の若い女性二人が何やらしかめっ面でひそひそと頭をつけあわせて話しこんでいる。
 私が何があるのかその女性に訊いてみると、「私たちは二人でどうしようもないんです。席があと一つしか空いていないんです」と言う。詳しく聞くと、ワイン・シャトー巡りのバス・ツアーがすぐに出発するという。私は、運よく一人だし、今日の予定も未定だ。ついている。ホテル探しは戻ってきてからにするとして、すぐに申し込んで待っているバスに乗り込んだ。

 ボルドー・ワインとは、ボルドー市周辺の地域で生産されるワインを指す。ボルドーの街は、古くからこの地域のワインの出荷港として栄えた。それ故、この周辺から採れてここから出荷されたワインはボルドーと呼ばれるようになった。その意味では、伊万里に似ている。
 古伊万里といえば、古い有田焼の呼称であり、伊万里で焼かれたものではない。伊万里の南、有田で焼かれたものを伊万里の港から出荷していたので伊万里と呼ばれたのだ。
 ボルドーに流れる川は、もう一つの川と合流してジロンド河となり大西洋に流れる。これらの3つの川の周辺には葡萄畑が広がり、そこは数多くの村に分かれており、その村々では各々ワインが造られている。そのシャトー(醸造所)の数は、4千ともいわれ、各地域や村はおろか各シャトーによって、純然たる個性があるのだ。
 それに、メドック(地区)やサン・テミリオンでは格付けを行っており、それがボルドーの自尊心を高める効果を果たしている。

 バスは、ブドウ畑を抜けて、ジロンド河の河口に近いメドック地区の、プーリ村の一つのシャトーの中に入って停まった。「Chateau Maucaillou」(シャトー・モーカイユ)とあった。中では、まさに採りたてのブドウを選別している最中であった。地下の倉庫では樽が積んである。
 シャトーの中を見学したあと、中庭で1987年ものと1985年ものを試飲した。同じシャトーものなのに、85年ものが私でも分かる程度に微妙にコクがあってまろやかだ。
 次に行ったところは、やはりメドック地区のマルゴーにある「Chateau Gisours」(シャトー・ジスール)。ここは、明らかに格下といった感じだった。

 ワイン・ツアーに参加していた日本人で、名古屋のワイン研究会の3人組と親しくなった。スペインを廻ってボルドーにやってきたという若い女性2人に中年男性1人の楽しいグループだった。
 ツアーからボルドーの市内に戻ったときは、もう陽も暮れようとしていた。私が、「これからホテルを探さないといけない」と言うと、彼らは、「今日はここで大きな会合があったみたいで、どこもホテルはいっぱいみたいよ。私たちが泊まっているホテルで空きがないか訊いてあげましょうか」と言ってホテルに電話で問い合わせてくれた。空きがあったので、私にとっては少し高いが「ホリデー・イン」に泊まることになった。
 早速食事するために、4人で市内のレストランを散策した。食事よりもワインに金をかけようということで、何軒か廻った末に、定食(menu)75フランの店で決まった。ワインは、中の上ぐらいにしようと決まりかけたとき、一人の女性が「せっかくボルドーに来たのだから一番いいのにしましょうよ。日本では経験できないのだから」と言った。それもそうだとみんな納得して、ワイン・リストの最上段に書かれているのを頼んだ。サン・テミリオンのグラン・クリュ、「Chateau Tour Grand Faurie」(シャトー・トゥール・グラン・フォーリー)1994年。200フランである。ボルドーの最上級とはいかないが、これも舌の経験の一歩だ。
 レストランを出て、近くの酒屋でほどほどのワインを、スーパーマーケットで肴を買って、ホテルに帰ってから再び酒盛りとなった。おじさんは、若い女性たちのスケジュールにまかせっきりで、にこにこしていた。そんな旅もいいのかも知れない。

 ボルドーの街は、堅牢な上に装飾を施した建物が屹立していて、傲慢さをそこはかとなく見せる古都を感じさせた。予想していた商業の街にありがちな軽やかな喧噪さはなく、荘厳ささえ見せている。ワインの世界ではトップの地位を自負する、伝統とプライドが底辺に漂っていた。
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6. 芳醇な街、サン・テミリオン

2005-08-24 03:47:03 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月3日>サン・テミリオン
 思いがけず1週間の長居となったラコステのヴェルダル家を出発する日となった。のどかなフランスの田舎での生活と温かい家庭のぬくもりで、日にちがたつのを忘れていたようだ。
 私は、旅人だ。旅をしなければいけない。
 どこへ? 南へ。南フランスを廻ってイタリアへと。
 地図を見てみた。ここより、北の方に磁器の街リモージュがあるが、南西の方にボルドーがある。やはり、ワインの街をめざそう。地図をよく見ると、ボルドーの手前にサン・テミリオンがある。次は、トーマス・クックの鉄道時刻表と首ったけだ。
 日本と同じく、田舎の駅を通る列車は数が少ない。乗換駅の比較的大きい駅のブリーブ・ラ・ガイヤルド駅を7時38分の列車に乗らないといけない。そうすると、サン・テミリオンの隣駅リボームに9時31分に着く。
 
 薄もやの中、朝6時に家を出た。ポールとジャックが車で最寄りのブレド・ノー駅まで送ってくれた。
 別れ際に、ジャックが石膏彫刻の作品であるチーズを私のバッグにしのばせた。ポールの家に着いた日の宴会のとき、私のテーブルに持ってきて、さあ食べてと言うからナイフで切ろうとしたらカチンと硬い音がして、一杯食わされたと知ったチーズだ。そして、列車に乗るとき、ポールが紙でくるんだ包み一つを渡した。
 列車の中でポールが渡した包みを開けた。チーズと野菜が挟まれたバゲット(パン)とソーセージと赤カブが挟まれたバゲッド(パン)、それにリンゴ、昨晩お別れ会のときのガトー(ケーキ)が1切れ入っていた。まるで、遠足に行く子どもを送り出した母親のような心配りだ。私は、列車の中から窓の外の景色を見ていると、子どものとき母が作ってくれたおにぎりを持って一人汽車の旅をしたときの、嬉しさと心細さが甦ってきて甘酸っぱい気持ちになった。

 サン・テミリオンは世界遺産の街である。それと同時にワインの街でもある。
 社会人になって以来ずっと酒は飲んできたが、ことさら酒が好きというわけではなかった。酒の持つ雰囲気と空間が好きで、会社と家の間にいつもネオンがあり、しばしばその時女性がいた。ずっと、ワインにも特別な意識は持っていなかった。ビールやウイスキーや紹興酒などと同列で、そこにそれがあれば飲んだという「酒」のワン・オブ・ゼムに過ぎなかった。
 その中で、私が初めて知ったワインの名がサン・テミリオンだった。私がワインのワの字も酒の味もよく知らなかったころ、フランス通の当時の恋人が頼んだのがそれだった。だから、ほかの銘柄はともかく、この名前だけは覚えていて、のちにも時折「ワインはサン・テミリオンに限る」とほざいたりした。それなのに、かなり長い間サン・テミリオンが単にワインの一銘柄だと思っていたのだから、いかにワインに無頓着で無関心だったかが知れる。

 サン・テミリオンの街は、古い教会を中心に小さくまとまった街だ。街の中央の高台には、観光インフォメーションやレストラン、ホテル、ワインショップ、お土産物屋などが肩を並べ、12世紀に建てられたという大鐘楼が、街並みを見下ろすようにそびえている。街中の狭い丸石敷きの道を歩くと、両側に重厚な石造りの家がひしめき、時折、今にも崩れ落ちそうな壁や塀に出会う。その風景は、まるで街全体が時間を置き忘れたかのようだ。土産物屋の店先でブドウの苗の鉢を売っているのも、この地ならであろう。
 中世にタイムスリップしたような街並みから道路1本出ると、もうブドウ畑があたり一面広がる。古い中世の街並みとブドウ畑が溶け合った美しい景観は、まさに世界遺産の街でもある。
 
 朝からの小雨がやんだブドウ畑を歩いた。ここは、ボルドー地区の中でも小さなシャトーがいくつもあるのが特徴だ。
 可愛いアーチの飾り門を持ったシャトーの中に入っていくと、黒い子犬が吠えたてた。口笛を吹くとすぐに鳴き声をやめて、尻尾を振りながらついてきた。番犬にもなりはしない。ブドウ畑の中の畦道をクロと一緒に歩いた。誰かと散歩をしたかったのだ。あるいは、飼い主に袖にされたのか。そのシャトーの畑を越えて、違うブドウ畑まで行けどもついてくる。どこまでもついてくるので、逆にうまく帰れるかこちらが心配になった。1時間ぐらい歩いて大きな車道を渡ったところで、犬は残念そうな顔をして諦めた。
 ブドウ畑は、どこも丈は短く整えてあり、ブドウの粒はどれも小さいが黒くころころとしていた。契って口に入れてみると、渋い汁が口に広がった。私は、果実は酸味のある味が好きなのだ。
 遠く、まさしく城のようなシャトーの彼方に、赤く絵の具で染めたような夕焼けが空を染めた。そして、長く布のような雲が流れた。
 
 夜、大鐘楼から見下ろした広場の前にある小さなレストラン「Bouchon」で食べた夕食の定食は絶品だった。私が今まで食べた貧しい食の履歴の中では最高級と思われ、思わずメニューを書き写した。
 若いウサギの肉に野菜添え、鶏肉とリンゴの軽い油揚げ、フレッシュチーズあるいは赤い実の入ったクリーム(選択)。これで、95フランである。これに、もちろん当地のワインを飲んだ。シャトー・ラ・クロア・モントララル、シャトー・ケロー・ラ・マルタン。ワインは両方ともどの程度のものか知らないが、そんなことはどうでもよかった。

  空に真赤な雲の色
  玻璃に真赤な酒の色
  なんでこの身が悲しかろ
  空に真赤な雲の色   
           (北原白秋)
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5. フランス田舎の食卓

2005-08-21 01:01:30 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年9月30日>ロカマドール
 フランス人は古い建物が好きだ。200年前の家に住んでいるポールのヴェルダル夫婦だけがそうとも思えない。
 ここフランス中部の田舎では、新しい建物にぶつかることが滅多にない。古くなったから、住めなくなったからといって、壊して新しく建て替えることに積極的ではない。住める間は、なるだけ住もうという考えのようだ。
 古い家が建ち並んでいるから、そう言っているのではない。フランス人は、古い家を観賞するのも好きなようなのである。まるで、美術品を観賞するように、あるいは料理を味わうように、建築物を見つめるのだ。
 
午後から、ポールとジャックと私の3人で出かけようということになり、ついて行くとフィジャックの街の遺産となっているという家に着いた。昨日に続き、古屋敷見学だ。
 そこは、木造の門を開けて中に入ると原っぱのような空間があり、その奥に黒ずんだいかにも年代物の巨大な建物がでんと立ちはだかっていた。それは、水底にじっと佇んでいる巨大ナマズのように見えた。すでに話がついていたらしく、家人が出てきて中に通された。ここには、老夫婦とその息子が住んでいるようだ。
 1、2階はよく見かけるヨーロッパの古い屋敷という印象だったが、3階に上ると、そこはすでに朽ち果てる寸前の幽霊屋敷のごときであった。柱の骨格だけですでに窓にはガラスはなく室内は外気に曝されていて、床も軋んでいた。この建物全体は、何回か増改築されたようで、最も古い3階は14~15世紀に造られたという。新しいところでも18世紀のものだそうだ。このような家に、住んでいることに感心する。

 その足で、熱気球の大会をやっているというロカマドールへ向かった。しばらくすると、削り落とされたような岩山に沿って小道が連なり、岩肌を縫うように車は走った。ところどころに土産物屋がある。そこがロカマドールだった。奇岩ともいえる石灰岩の断崖の上には城が建っている。
 岩山を下りて、その麓の緑に囲まれた田園の中にある1軒の家で車は停まった。そこは、私がポールの家に着いた日にやってきた、モネのような顔をしたグレゴールの家だった。岩山を眺めるように、手を広げたような細長い家は佇んでいた。クリーム色の漆喰の外壁には、蔦が覆い、玄関の前には、芸術家の家らしく大きな切り株が門番のように立っていた。
 今日は、熱気球を楽しむ催しがあるというので、友人たちが集まっていた。岩山の周りに広がる青空に、3つ4つ熱気球が浮かび上がると、あちこちで歓声があがった。大の大人も子どものようにはしゃいでいる。球形のものだけでなく角張った宇宙ステーションのような形のものも浮かんでいる。

 しばし熱気球の鑑賞を楽しんだ後は、今日の本当の目的、料理と酒とおしゃべりだ。ここでも、みんなが集まって宴を催す理由には事欠かない。誰ともなく声をかけ、どこからともなく集まってくる。フランス人は、理由を作り出す名人だ。
 グレゴリーの家の中に入ると、室内は鰻の寝床のように伸びていて、中央にまさに開いた鰻のように長い1枚板のテーブルが寝そべっていた。テーブルの奥のキッチンには、ちょっとしたレストランでもかなわない本格的な調理道具が並ぶ。くりぬいた暖炉では、炭火で鍋が煮込まれている。こんなところも手を惜しまない。テーブルの上には、これまた大きな木の皿に盛られた野菜とフルーツが並べられている。キッチンの前のダイニング・テーブルには、肴が並ぶ。
 ワインが開けられ、部屋全体に甘いコクのある匂いが充ちてくる。そして、またフランス人が好きなワインと料理つきのお喋りが始まる。

○グレゴール家の料理の出し物
 ポトフ:ソーセージとビーン(豆)をクリーミーに煮込んだもの
 野菜の酢漬け:キュウリ、キャベツ、カリフラワー、ピーマン、ニンジン、オリ ーブ
 フルーツ:リンゴ、トマト、クルミ
 フロマージュ:カマンベール、ブルー
 ブレッド:いわゆるフランス・パン
 ガトー:クリーム添えアーモンド

<10月1日>
 田舎の一日は、いつの間にか始まり、いつしか終わっていく。今日は丘の家にずっといた。洗濯をして、絵葉書を書いた。こうやって、人生も終わっていくのであろうか。それも、いいものだ。
 昼頃、シモーヌばあさんが箱にトマトを詰めて持ってきた。もう腰も曲がっていて、年齢も70をとうに過ぎているはずなのに、一人でシトロエン2VCをゴトゴトと運転してきた。
 
 夕方頃、ポールが私に「いつ出発する?」と訊いた。私は出発する日を決めかねていた。居心地いいからといっていつまでもここにいるわけにはいかないし、もともと私は旅人だ。旅をしなければいけない。2、3日の滞在のつもりでいたのが、いつの間にか6日が過ぎていた。ポールも、いつまで私がここにいるのだろうと心配しだしたのかもしれない。いいタイミングでポールが言ってくれた。
 私は、「明日」というのは急すぎると思い、「明後日」と答えた。

<10月2日>
 昼間、婦人が訪ねてきて、一緒に昼食をした。ゴボウのクリーム和えに、私のために炊いたライスに煮込んだ豚肉を添えたもの。米はインディカ米で、芯が残って決して美味しくない。私はインディカ米は嫌いではないが、根本的な炊き方が間違っているようだ。フランス人がこれが米料理だと思っているとすると、米が普及することはないだろう。まあ、あえて米が普及する必要もない。フランスはパンが美味しいのだから。

 ここは田舎だからか、果実と野菜が新鮮だ。別に特別な料理というのはないが、フランス特有の煮込み料理が美味しい。ワインをうまく使ってあるのだろう。毎日の料理は決して贅沢ではない。しかし、家庭の味がする。

○ヴェルダル家の食卓をあげてみよう
 *朝食:パン;ジャムをつける フロマージュ;適宜ナイフで切って食べる カ フェオレ 果物(リンゴ)
 *昼食1:サラダ(レタス) ジャガイモ、セロリ、トマトの煮込みとソーセー ジ 果物(イチジク) ガトー(リンゴ、イチジクによる) フロマージュ パ ン カフェ
 *昼食2:サラダ(ラディッシュ) 牛肉、ニンジン、タマネギ、ほうれん草の 煮込み 果物(洋ナシ、ブドウ、) フロマージュ パン カフェ
 *夕食:サラダ(三ツ葉風野菜) カボチャのクリーム煮  小麦粉のナン風パ ンにクリーム添えサーモンを包む フロマージュ ワイン

 夕食のあと、私への送別の意味を込めて、リビングで家族での演奏会が始まった。久しぶりに家に帰っていた2男のエローラの笛とポールのピアノによる共演だ。
 私もフランス語の歌詞を見ながら、大好きなエンリコ・マシアスのシャンソン「恋心」(L’amour, c’est pour rien)を歌った。続いて、ポールが私へのサービスで、有名な「枯葉」を歌う。
 そこへ、3男のジュネが顔を出した。彼はアフリカの民族楽器のような小さな太鼓を取り出してきて、床にあぐらをかいた。そして、静かに両手で太鼓を叩きだした。音は、大きくなったり小さくなったり、波のように寄せたり引いたりし、リズムは変化と機知に富んでいた。それは物語のようだった。
 私が旅立つ、明日乗る列車の音だと言った。確かに、彼はポールが言うように、まだ開花した花の姿は分からないが芸術的な感性がうかがわれた。太鼓の音は、静かな夜の丘に溶けこんでいった。
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