多摩市のパルテノン多摩では、不定期だが新日本フィルハーモニーの演奏会を開いている。
去年そのことを知った僕は、去年の秋、9月にドイツ人であるインゴ・メッツマッハ―指揮の演奏会を聴きに行ったのだった。メインの曲は、チャイコフスキーの「交響曲第5番ホ短調」であった。
あれから約1年がたっていた11月16日、再び新日フィルの演奏会を聴く機会を得た。
実は、僕の前のヴァイオリンの先生が出演するというものだ。「前の」と書いたが、そうなんである。先の9月で、僕が習っている多摩の音楽教室でのヴァイオリンの先生が多忙のため教室を辞められたのだ。
かつてブログでも書いたことがある、マンハイマー・カルテット(クインテット)としても活動されている宇野友里亜先生である。
今回の新日本フィルの演奏会の指揮は、高関健。曲は、マーラーである。
最初の曲目は、「亡き子をしのぶ歌」で、歌曲である。テキストの詩は、フリードリヒ・リュッケルトの作品。
歌手はメゾソプラノの加納悦子。
愛児を亡くした悲しみを歌ったもので、哀しみを湛えた曲だ。
次に演奏されたのがマーラーの「交響曲第5番嬰ハ短調」。
マーラーはあまり聴いたことがなく馴染みがなかったが、素晴らしかった。
5楽章に分かれていて、第1楽章「葬送行進曲、正確な歩みで、厳粛に」、第2楽章「嵐のように激しく動いて」、第3楽章「スケルツォ、力強く、急ぎ過ぎずに」、第4楽章「アダージェット、きわめてゆっくりと」、第5楽章「ロンド・フィナーレ、生き生きと」と、解説の注釈に書かれていた。これを見てもわかるように、全編に血が通っているように生き生きとしていた。
演奏時間約80分は、大きな波風のある一篇の物語を読むように、あっという間に過ぎていた。
先生は、ヴィオラ奏者として演奏されていた。今回は、客員演奏者として招聘されたのだ。
演奏会が終わった後、外へ出てみると、パルテノン多摩から駅に続く広いなだらかな道は、イルミネーションに彩られていた。近くのサンリオ・ピューロランドからやって来たのか、お馴染みの大きなキティーちゃんも光り輝いている。
パルテノン多摩の階段上の高台から、多摩センターに続く道を見つめた。(写真)
イルミネーションを見ていると、また今年も暮れに近づいたのだと実感する。1年がたつのは速い。いや、若い時はその速度を振り返り考えることもしなかったが、人生は速い。
街のイルミネーションのきらびやかな光の中に、若い時は見えなかった一抹の哀しさが灯っているようだ。
去年そのことを知った僕は、去年の秋、9月にドイツ人であるインゴ・メッツマッハ―指揮の演奏会を聴きに行ったのだった。メインの曲は、チャイコフスキーの「交響曲第5番ホ短調」であった。
あれから約1年がたっていた11月16日、再び新日フィルの演奏会を聴く機会を得た。
実は、僕の前のヴァイオリンの先生が出演するというものだ。「前の」と書いたが、そうなんである。先の9月で、僕が習っている多摩の音楽教室でのヴァイオリンの先生が多忙のため教室を辞められたのだ。
かつてブログでも書いたことがある、マンハイマー・カルテット(クインテット)としても活動されている宇野友里亜先生である。
今回の新日本フィルの演奏会の指揮は、高関健。曲は、マーラーである。
最初の曲目は、「亡き子をしのぶ歌」で、歌曲である。テキストの詩は、フリードリヒ・リュッケルトの作品。
歌手はメゾソプラノの加納悦子。
愛児を亡くした悲しみを歌ったもので、哀しみを湛えた曲だ。
次に演奏されたのがマーラーの「交響曲第5番嬰ハ短調」。
マーラーはあまり聴いたことがなく馴染みがなかったが、素晴らしかった。
5楽章に分かれていて、第1楽章「葬送行進曲、正確な歩みで、厳粛に」、第2楽章「嵐のように激しく動いて」、第3楽章「スケルツォ、力強く、急ぎ過ぎずに」、第4楽章「アダージェット、きわめてゆっくりと」、第5楽章「ロンド・フィナーレ、生き生きと」と、解説の注釈に書かれていた。これを見てもわかるように、全編に血が通っているように生き生きとしていた。
演奏時間約80分は、大きな波風のある一篇の物語を読むように、あっという間に過ぎていた。
先生は、ヴィオラ奏者として演奏されていた。今回は、客員演奏者として招聘されたのだ。
演奏会が終わった後、外へ出てみると、パルテノン多摩から駅に続く広いなだらかな道は、イルミネーションに彩られていた。近くのサンリオ・ピューロランドからやって来たのか、お馴染みの大きなキティーちゃんも光り輝いている。
パルテノン多摩の階段上の高台から、多摩センターに続く道を見つめた。(写真)
イルミネーションを見ていると、また今年も暮れに近づいたのだと実感する。1年がたつのは速い。いや、若い時はその速度を振り返り考えることもしなかったが、人生は速い。
街のイルミネーションのきらびやかな光の中に、若い時は見えなかった一抹の哀しさが灯っているようだ。