5月17日(土)、仏国寺を見回ったあと、慶州駅に行き、15時29分発の列車で再び釜山に行くことにした。
列車は、偶然にも、昨日ソウルから乗ってきた同じダイヤ(列車)だ。釜山には、17時37分着の予定だ。
駅に着いたら時間があったので、駅前の道に並んでいる露店を見て歩いた。昨日、バスの運転手が2と7の日は市がたつと言ったのを思いだした。リンゴを1個買ったが、日本と同じくここでもリンゴは高い。
列車が来る時間を見て駅のフォームに出たが、列車は20分近く遅れて到着すると掲示に出ていたので、時間を持て余した。何人かの人間がフォームで待つことになった。旅行者だろうか、大きなキャリーバッグを持っている女性がいる。彼女とベンチで、列車を待った。
列車は空いていた。釜山の到着駅は、釜山駅ではなく北の方の釜田駅である。
釜山に近づいてきたので、ホテルを探すためにガイドブックを見た。泊まるホテルは、とりあえず着いた釜田駅の近くにしようと、それらしいホテルに見星を付けた。
同じ車両に乗っていた、僕と同じく慶州から乗った、大きなキャリーバッグを持った女性に、つたない英語で、そのホテルの位置を訊いたら、韓国語が返ってきた。よく分からなかったが、彼女はすぐに携帯電話を取り出して、ガイドブックに載っているホテルの電話番号に電話をかけ始めた。
そして、僕に電話を替わった。電話口に日本語の分かるホテルマンが出て、釜田駅からすぐ近くだと話した。僕は、部屋が空いているかを尋ね、ではこれから行きますのでと答えた。
そこへ、近くに座っていたおばちゃんが何やら口を出した。すると、もう1人のおばちゃんもそれに加わり、最初に訊いた女性と3人で、何やら話し出した。僕の知らないところで(韓国語なので何を話しているかよく分からない)、僕のホテルについて話しているようだった。
すると、再び最初に訊いた女性が携帯電話をかけて何やら話だし、また僕に替わった。電話口のホテルマンは、僕に、「電話した女性が、あなたをホテルまで連れてくると言っています」と言った。
僕は驚いた。いや、1人で大丈夫と言ったが、彼女は、私もそこで降りるし、ホテルは近くだからと言った。韓国語だから、おそらくそのような内容であった。
大きなバッグを持っていたので、あなたも慶州を旅行したのかと訊いたら、彼女は中国に行ったと言って、バッグから箱を取り出した。そして、箱を開いた。そこには、四角い小さなお茶の缶が何箱か詰まっていた。このような中国紅茶の缶を見たことがあったから、すぐにお茶だと分かった。
彼女は、その缶を一つ取って僕に渡した。僕が断わったら、彼女はにこにこしながら、僕の手に缶を押しつけた。
本当に、韓国の人は親切だ。どうして、こんなに親切なのだろう。
こうして、僕は彼女と釜田駅を降りた。駅を出ると、彼女はまたにこにこしながら携帯から電話をかけていた。おそらく、そこからまたホテルへの道順を訊いているようであった。
駅を出ると、広い道が続いていて、その道には露店が並んでいた。野菜や果物や、魚も並んだ。僕は、それらを見ながら歩いた。僕が珍しがっているのを見て、彼女は笑った。笑うと、大きなえくぼができた。
途中の露店で、数個盛ってあるミカンを買って、彼女にどうぞと渡したが、彼女はこれだけでいいと1個だけ受け取った。歩きながら、二人でミカンを食べた。韓国のミカンは、糖分が多く甘かった。
ホテルは、大きな幹線道路から路地に入った、飲食店や小さな店が並んでいるところにあった。改装したばかりのようで、1階にクラブ、そしてコーヒーと書いてあったが、まだ内装工事中だった。4階がホテルのフロントで、その上が客室であった。
彼女はフロントまで来てくれた。宿泊料は、慶州のモーテルより安かった。僕は、すぐに部屋に荷物を置いて、彼女をまた幹線道路まで送っていった。
彼女は、荷物があったので、そこでタクシーを拾った。僕は何度も「カムサハムニダ」と言って、去っていくタクシーに手を振った。
*
僕はすぐにその足で、釜山の新しい繁華街西面(ソミョン)に出た。釜山港近くの旧繁華街の南浦洞(ナムポドン)に対して、新しく開けた繁華街で、23年前は見るべきものはなかったところだ。
そこは、驚くほど発展していた。放射線状に延びた道にはネオンが輝き、店が並んでいた。ロッテのデパートもでんと構えていた。地下には、長々と地下商店街が続いている。
韓国の幹線道路はたしかに道幅が大きい。道路の反対側に渡るのは一苦労だ。というのも、ソウルもそうだが、陸橋がないのだ。
その理由は、有事に道路は滑走路になるためだということを、かつて聞いたことがある。
陸橋がないので、地下道を渡ることになる。だから、広い道路の下は地下街が発達している。
西面(ソミョン)の大きな幹線道路である中央路に出ると、人がやたらに多い。それに、道路脇にはロウソクの灯りを持っている人が大勢いる。
何が行われているのだろうかと思って、何やらきゃっきゃっと騒いでいる女子高生のグループに、今日はお祭りか、それとも誰かを待っているのかと英語で訊いてみた。
すると、彼女たちは、懸命の英語で、キャンドル・デモンストレーションだと言った。タレントかスターに対してか、ぺ・ヨンジュンあたりが来るのかと訊くと、それは、大統領だと言った。この国の大統領が、アメリカから帰国したのを祝うデモンストレーションということのようだった。
う~ん、日本で総理大臣に対して、こうした歓迎の意を表するのは見たことがないなあと、お国柄の違いを思った。
歩き疲れて、その夜はホテル近くの食堂で、またまたビールを飲みながらプルコギを食べた。
何を食べるか迷ったら、すき焼き風のプルコギで、昼間だったらビビンバである。韓国では、どんな食事にでも、何種類かのキムチが付くので、白米がうまいし、ビールに合うのだ。
*
翌5月18日(日)、釜山港の近くへ行った。
地下鉄チャガルチ駅で降りる。ここは、海の近くだ。
海岸の方に歩いていくと、潮の匂いが漂ってきて、すぐに魚や貝を所狭しと広げた露店が、両側に並んだ道に行き着く。ヒラメや太刀魚、それにマントーを広げたようなエイもある。タコやイカに交じって、赤い手榴弾のような形をしたホヤも多い。
市場の中に入ると、ブースに分けたように、生け簀とテーブルを置いた店が連なっていた。ここでは、目の前で生け簀の魚介をすぐにさばいて刺身にしてくれるのだ。
ヒラメを食べようかと思ったが、一人で1匹は多いので、ウニと鮑(アワビ)と、ホタテを食べることにした。付け出しに、キムチと生ニンニクの輪切りがでた。このニンニクが、噛んだだけでピリピリと舌を刺激する強烈なものだった。本当のニンニクとは、かくも刺激的なものなのだ。
市場をあとにして、15時釜山港発の船に乗る。もう17時55分には福岡に着くのだ。
かつての「釜山港に帰れ」の哀愁はない。
福岡の港に着くと、高校生のグループが、二人組みになって大きな丸い袋を汗をかきながら運んでいる。「釜山で、和太鼓を叩いてきたんです」と、若者はにこやかに言った。
釜山は近くなった。
そして、釜山の街は変わった。少しごみごみした街という印象はなく、若い人が集まる繁華街はソウルに劣らない近代的な街に変貌していた。
韓国の近代化の速度は、早い。
久しぶりの韓国の旅は、どこの街に行っても、韓国人の親切心が身に染みた。
韓国は、街は近代化しているのに、人の心は素朴さを保留したままでいると感じた。
それに、なにより食が美味しい。
列車は、偶然にも、昨日ソウルから乗ってきた同じダイヤ(列車)だ。釜山には、17時37分着の予定だ。
駅に着いたら時間があったので、駅前の道に並んでいる露店を見て歩いた。昨日、バスの運転手が2と7の日は市がたつと言ったのを思いだした。リンゴを1個買ったが、日本と同じくここでもリンゴは高い。
列車が来る時間を見て駅のフォームに出たが、列車は20分近く遅れて到着すると掲示に出ていたので、時間を持て余した。何人かの人間がフォームで待つことになった。旅行者だろうか、大きなキャリーバッグを持っている女性がいる。彼女とベンチで、列車を待った。
列車は空いていた。釜山の到着駅は、釜山駅ではなく北の方の釜田駅である。
釜山に近づいてきたので、ホテルを探すためにガイドブックを見た。泊まるホテルは、とりあえず着いた釜田駅の近くにしようと、それらしいホテルに見星を付けた。
同じ車両に乗っていた、僕と同じく慶州から乗った、大きなキャリーバッグを持った女性に、つたない英語で、そのホテルの位置を訊いたら、韓国語が返ってきた。よく分からなかったが、彼女はすぐに携帯電話を取り出して、ガイドブックに載っているホテルの電話番号に電話をかけ始めた。
そして、僕に電話を替わった。電話口に日本語の分かるホテルマンが出て、釜田駅からすぐ近くだと話した。僕は、部屋が空いているかを尋ね、ではこれから行きますのでと答えた。
そこへ、近くに座っていたおばちゃんが何やら口を出した。すると、もう1人のおばちゃんもそれに加わり、最初に訊いた女性と3人で、何やら話し出した。僕の知らないところで(韓国語なので何を話しているかよく分からない)、僕のホテルについて話しているようだった。
すると、再び最初に訊いた女性が携帯電話をかけて何やら話だし、また僕に替わった。電話口のホテルマンは、僕に、「電話した女性が、あなたをホテルまで連れてくると言っています」と言った。
僕は驚いた。いや、1人で大丈夫と言ったが、彼女は、私もそこで降りるし、ホテルは近くだからと言った。韓国語だから、おそらくそのような内容であった。
大きなバッグを持っていたので、あなたも慶州を旅行したのかと訊いたら、彼女は中国に行ったと言って、バッグから箱を取り出した。そして、箱を開いた。そこには、四角い小さなお茶の缶が何箱か詰まっていた。このような中国紅茶の缶を見たことがあったから、すぐにお茶だと分かった。
彼女は、その缶を一つ取って僕に渡した。僕が断わったら、彼女はにこにこしながら、僕の手に缶を押しつけた。
本当に、韓国の人は親切だ。どうして、こんなに親切なのだろう。
こうして、僕は彼女と釜田駅を降りた。駅を出ると、彼女はまたにこにこしながら携帯から電話をかけていた。おそらく、そこからまたホテルへの道順を訊いているようであった。
駅を出ると、広い道が続いていて、その道には露店が並んでいた。野菜や果物や、魚も並んだ。僕は、それらを見ながら歩いた。僕が珍しがっているのを見て、彼女は笑った。笑うと、大きなえくぼができた。
途中の露店で、数個盛ってあるミカンを買って、彼女にどうぞと渡したが、彼女はこれだけでいいと1個だけ受け取った。歩きながら、二人でミカンを食べた。韓国のミカンは、糖分が多く甘かった。
ホテルは、大きな幹線道路から路地に入った、飲食店や小さな店が並んでいるところにあった。改装したばかりのようで、1階にクラブ、そしてコーヒーと書いてあったが、まだ内装工事中だった。4階がホテルのフロントで、その上が客室であった。
彼女はフロントまで来てくれた。宿泊料は、慶州のモーテルより安かった。僕は、すぐに部屋に荷物を置いて、彼女をまた幹線道路まで送っていった。
彼女は、荷物があったので、そこでタクシーを拾った。僕は何度も「カムサハムニダ」と言って、去っていくタクシーに手を振った。
*
僕はすぐにその足で、釜山の新しい繁華街西面(ソミョン)に出た。釜山港近くの旧繁華街の南浦洞(ナムポドン)に対して、新しく開けた繁華街で、23年前は見るべきものはなかったところだ。
そこは、驚くほど発展していた。放射線状に延びた道にはネオンが輝き、店が並んでいた。ロッテのデパートもでんと構えていた。地下には、長々と地下商店街が続いている。
韓国の幹線道路はたしかに道幅が大きい。道路の反対側に渡るのは一苦労だ。というのも、ソウルもそうだが、陸橋がないのだ。
その理由は、有事に道路は滑走路になるためだということを、かつて聞いたことがある。
陸橋がないので、地下道を渡ることになる。だから、広い道路の下は地下街が発達している。
西面(ソミョン)の大きな幹線道路である中央路に出ると、人がやたらに多い。それに、道路脇にはロウソクの灯りを持っている人が大勢いる。
何が行われているのだろうかと思って、何やらきゃっきゃっと騒いでいる女子高生のグループに、今日はお祭りか、それとも誰かを待っているのかと英語で訊いてみた。
すると、彼女たちは、懸命の英語で、キャンドル・デモンストレーションだと言った。タレントかスターに対してか、ぺ・ヨンジュンあたりが来るのかと訊くと、それは、大統領だと言った。この国の大統領が、アメリカから帰国したのを祝うデモンストレーションということのようだった。
う~ん、日本で総理大臣に対して、こうした歓迎の意を表するのは見たことがないなあと、お国柄の違いを思った。
歩き疲れて、その夜はホテル近くの食堂で、またまたビールを飲みながらプルコギを食べた。
何を食べるか迷ったら、すき焼き風のプルコギで、昼間だったらビビンバである。韓国では、どんな食事にでも、何種類かのキムチが付くので、白米がうまいし、ビールに合うのだ。
*
翌5月18日(日)、釜山港の近くへ行った。
地下鉄チャガルチ駅で降りる。ここは、海の近くだ。
海岸の方に歩いていくと、潮の匂いが漂ってきて、すぐに魚や貝を所狭しと広げた露店が、両側に並んだ道に行き着く。ヒラメや太刀魚、それにマントーを広げたようなエイもある。タコやイカに交じって、赤い手榴弾のような形をしたホヤも多い。
市場の中に入ると、ブースに分けたように、生け簀とテーブルを置いた店が連なっていた。ここでは、目の前で生け簀の魚介をすぐにさばいて刺身にしてくれるのだ。
ヒラメを食べようかと思ったが、一人で1匹は多いので、ウニと鮑(アワビ)と、ホタテを食べることにした。付け出しに、キムチと生ニンニクの輪切りがでた。このニンニクが、噛んだだけでピリピリと舌を刺激する強烈なものだった。本当のニンニクとは、かくも刺激的なものなのだ。
市場をあとにして、15時釜山港発の船に乗る。もう17時55分には福岡に着くのだ。
かつての「釜山港に帰れ」の哀愁はない。
福岡の港に着くと、高校生のグループが、二人組みになって大きな丸い袋を汗をかきながら運んでいる。「釜山で、和太鼓を叩いてきたんです」と、若者はにこやかに言った。
釜山は近くなった。
そして、釜山の街は変わった。少しごみごみした街という印象はなく、若い人が集まる繁華街はソウルに劣らない近代的な街に変貌していた。
韓国の近代化の速度は、早い。
久しぶりの韓国の旅は、どこの街に行っても、韓国人の親切心が身に染みた。
韓国は、街は近代化しているのに、人の心は素朴さを保留したままでいると感じた。
それに、なにより食が美味しい。