かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

さまよえる日本語を語る、「だめだし日本語論」

2017-08-15 02:58:59 | ことば、言語について
 言葉や文字の発生について、時々考える。
 人類は、まったく違った脳の発想をしていたのか。そもそも、国や地域によって、言葉もその構造(文法)もまちまちだし。
 どうして、アルファベッドや漢字、アラビア文字など、こうも違っていて、いまだいろいろな文字が様々なところで、生きて活用しているのか。
 そんなことをふまえて日本語を考えると、底なし沼に足を踏み込んだような気分に陥り、身動きがとれなくなるように感じる。どうして日本語はこうなんだろう。
 日本語はいくつもの顔を持ち、いつしかヤドカリのように母屋を借用し動き出したかと思うと、時に爬虫類のように尻尾を切り離しても活動し、軟体動物のようにくねくねと変化もし、まるで鵺(ぬえ)のようである。

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 鬱陶しい雨と猛暑の日、動くのも億劫なので本でも読もうと思って手にしたのが、「だめだし日本語論」(太田出版)。
 橋本治と橋爪大三郎の対談形式の日本語についての話だから、どんな内容なのだろうかぐらいの好奇心からである。
 橋本治は、あの全共闘が華やかな時代、大学在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」という東京大学駒場祭のポスターで注目された。それから小説「桃尻娘」などを書いた後も多くの本を著しているが、僕は熱心に読んではいない。
 橋爪大三郎は、大ヒットした大澤真幸との対談集「ふしぎなキリスト教」、それに大澤真幸、宮台真司との鼎談集「おどろきの中国」を読んで知っているくらいである。

 この本「だめだし日本語論」の紹介文は、
 「日本語は、そもそも文字を持たなかった日本人が、いい加減に漢字を使うところから始まった――成り行き任せ、混沌だらけの日本語の謎に挑みながら、日本人の本質にまで迫る。あっけに取られるほど手ごわくて、面白い日本語論」

 話は、日本人が中国から文字としての漢字を借用し、それより平仮名、片仮名を生み出し、どうやって日本語が変化、成長してきたかを、多くの古典を渉猟しながら、主に橋爪が問いかけ橋本が答えるという形で進んでいく。
 日本語に関する基本的な問題や変遷はすでに学者などが言っていることであるが、それを裏付けようとして答える橋本のディテールの引用が当意即妙でなるほどと思わせ、いくつかの発見があった。

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 言葉というのは、通常「話し言葉」が先に生まれるものである。
 文字は、その後必要に応じて生み出されるか、他から借用して発達する。まだ文字がなかった日本には中国の文字が入ってきた。
 本書では、文字の生みの苦労を具体的に話している。
 ――困難はいくつもございましたが、その最大の問題は、文字のことです。
 ――まさに太安万侶は、稗田阿礼の口承を書き記すという、日本語における最初の言文一致体を生み出す苦難のすえ、『古事記』を書いたわけです。

 最初は、日本語は漢文で書かれた。つまり発音も構造(文法)も違う中国語で書かれたのだから無理があろう。その無理を解消しようと表音文字の仮名が生み出された。やがて、漢字と仮名が併用して綴られて、今日に至っている。
 しかし、「古事記」や「日本書紀」は読んだことがないし、高校のときに習った「枕草子」や「源氏物語」は、日本語の文なのに外国語のように対訳付きでないとはっきりとは分からないときている。
 当時は気づかなかったが、源氏物語について橋本治は次のように言っている。

 ――平安時代の敬語は尊敬と謙譲だけで、丁寧はありません。だから「源氏物語」をそのまま現代語訳すると、乱暴に響いてしまうのです。
 ――日本語から敬語を取っ払ったら、どれだけ日本の内実がわかりやすくなるかと思いますね。やってみてわかったのですが、「枕草子」は逐語訳できても、「源氏物語」はできません。「源氏物語」には丁寧の敬語がなくて、今の日本語の「語尾」がないからです。「いづれの御時にか」だけで終わっている。だからたいていは「いつのことだったでしょうか」と丁寧の敬語を入れて訳す。そうしないと上品で優美な感じがしないのです。「いつのことだったか」だけだと、男言葉みたいになっちゃう。

 僕にとって「源氏物語」は、高校時代の古文以来である。
 有名な桐壷の章「光源氏の誕生」の冒頭の文である「いづれの御時にか」である。これを「いつのことだったか」だけでなく、日本語特有の変幻自在に付け足し言い表すことが可能だから、同じ日本語訳で谷崎潤一郎版や円地文子、瀬戸内寂聴版など違ったニュアンスの訳本が生み出されるのだ。
 橋本治は自分でも「窯変源氏物語」を書いている。これでの他の訳者との一番の違いは、最初の部分は、なんと光源氏本人の言葉で語られていること。そして後半の宇治十帖は紫式部が語り手になっているというのだ。
 タイトルの頭に「窯変」を付けるとは、たいしたものである。僕はすぐに国宝の「窯変(曜変)天目」の日本(世界)に3つしかない茶碗を想起する。

 *

 橋本は、日本語は話し言葉として発達してきた。それに無理やり書き言葉を当てはめてきたと話す。
 ――日本語は日本語として一つであるというのは、現代的かあるいは近代的な考え方で、「話す」と「書く」が別箇に存在して発達したのが日本語ですから、一つにするのは無理です。 雑多なものを野放しにしておいて、大体わかればいいじゃないかというのが日本語のあり方だったのだと思います。

 社会学者の橋爪は、日本語の文体そのものに苦言を呈する。
 ――常日頃不満なのが、まず、「ですます体」と「である体」。この2つがあることになっているけれど、いったいこれは何だ。英語にはこんなものはない。
 橋本はこれにこう答えている。
 ――文章を文章として成り立たせるための助動詞が日本語にしかないということですね。叙述が「……です」という形で終わるということは、その文章自体が「です」という行為をしていることになって、本当はへんなのです。だから、平安朝の文章に「叙述自体を表す動詞や助動詞」は存在しません。「です」「ます」とか「である」という、叙述自体を管轄する助動詞は、丁寧の敬語の登場と関連すると思いますね。
 ――敬語は、神様に対して使うものだったのが、だんだん下へと降りてくる。敬語のカジュアル化が、その反作用として上に対する過剰化も生む。

 現代では、「~させて頂く」などの過剰なへりくだりや、おかしな敬語表現も生んでいる。

 *

 橋爪は、曖昧な日本語の人称代名詞に対して次のようにも言っている。
 ――理想としては、一人称は「われ」、二人称は「なれ」、三人称は「それ」、不定称は「だれ」に統一して、新しい日本語として、学校で教えるべきだと私は思うのです。

 確かに一人称代名詞を見ても、英語やフランス語や中国語などがほとんど1つであるのに、日本語は様々な言葉があり、様々な使われ方がなされている。
 実際、この文では一人称は「僕」を使っていて、場合によっては他の文では「私」を使うときもある。話し言葉では「俺」を使う場合もあり、子どもの頃は九州だったので「おい」「おいどん」を使っていた。
 女性では「あたし」「あたい」や「うち(内)」も使うだろうし、少し前には「われ」(我、吾)、「わがはい」(吾輩)、「せっしゃ」(拙者)、「当方」なども使っていた。いや、こまかく方言も拾っていったらきりがないぐらい多いはずだ。
 地方や階級でそれぞれ違う言葉が使われていたのが、近代化とともに統一されるべきなのがそのままになっていて今日に至ったのだろう。
 そもそも日本で共通語の必要性に迫られ、標準語なるものが論議されたのは明治以降である。
 だから、それ以前までは、例えば九州と東北地方のように地域が違う人が話しても外国語のようだったに違いない。半分も通じたのだろうか。今でも方言で話しているお年寄りの言葉が分からないことも多々あるのだから。

 この人称代名詞を統一しろという橋爪の論に、橋本は、もう遅い、日本語はこういう特徴として今日に至ったのだからと、次のように言う。
 ――それは「言葉を論述の言葉だけにしろ」と言うようなもので、「日本語はやめて漢文にしろ」とか「フランス語にしろ」と言うのと同じです。 

 日本語としての平仮名とカタカナの使われ方に、橋本は歴史的に幅広く言及している。
 ――明治になると国語の教科書がまずカタカナで始まります。でも、寺小屋で教えていたのはひらがなでした。なぜ教育がカタカナから始まったのかといえば、明治政府にとってはカタカナが文章を書く文字だったからなのではないか。
 ――「枕草子」も「源氏物語」もほとんどひらがなで書かれています。ひらがなは「女手」(おんなで)とも呼ばれ、女性が主に使っていた。
 カタカナは漢文の訓点からはじまり、カタカナとひらがなは出自は違いますが、表音文字としては同じですね。文章の表記には原則として漢字とひらがなを用い、カタカナは外来語など特殊な場合に用いるスタイルが、公文書も含めて確立したのは、戦後です。

 日本語のたどった運命のようなものが、手っ取り早くわかったような気がした。もちろん、橋本が言うように、 日本語における正しい答えはないのだろうが。
 橋本治の次の言葉は名言だろう。
 「実は日本人というのは話し言葉を記録しようとする人々です」

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