純愛映画には系譜がある。
その映画のヒロインを、代々その時代を反映している、いわゆる青春(アイドル)スターが演じる、そういう映画があるのだ。
まずあげられるのは、「伊豆の踊子」(原作:川端康成)だろうか。
戦前の1933年に田中絹代と大日方傳で作成されて以来、戦後になって、2代目、美空ひばり、石浜朗。3代目、鰐淵晴子、津川雅彦。4代目、吉永小百合、高橋英樹。5代目、内藤洋子、黒沢年男。6代目、山口百恵、三浦友和のコンビと継承された。
三島由紀夫原作の「潮騒」も、あげなくてはいけない映画であろう。
初代は、1954年制作の、青山京子、久保明。以後、2代目、吉永小百合、浜田光夫。3代目、小野里みどり・朝比奈逸人。4代目、山口百恵、三浦友和。5代目、堀ちえみ、鶴見辰吾と続いた。
そして、「絶唱」(原作:大江賢次)を記録にとどめよう。
1958年に製作された「絶唱」(監督:滝沢英輔)は、浅丘ルリ子と小林旭の実質初コンビ主演作である。2代目は、和泉雅子と舟木一夫。3代目、山口百恵、三浦友和。
*
東京・調布市で、先日、浅丘ルリ子と小林旭の「絶唱」の映画会があった。調布には、かつて日活の撮影所があったこともあってか、「調布シネサロン」と銘打って、日活映画の映写会を毎月無料で開いている。
「絶唱」は、山陰地方の大地主の息子と山番の娘の美しくも儚い恋物語である。
当初、デビューしたての小林旭をどのように売り出そうかと迷っていた日活だが、「芸術祭参加作品」という文芸作品で、それまで主演ではないが共演のあった浅丘ルリ子とコンビを組ませた。この映画で、二人のその後花咲く絶妙なコンビの蕾を見ることができる。
学生服詰襟姿の小林旭と絣の着物姿の浅丘ルリ子は、初めての出会いのように初々しい。誰もが、こんな時期があるのだ。
印象深いのは、二人が歌う吉野木挽き唄である。
「ハアー 吉野吉野と訪ねてくればよ 吉野千本 サア 花盛りよ…」
離れ離れになっているとき、同じ時間に二人はこの唄を歌う。
すでに「女を忘れろ」(のちに映画化)などの歌の吹込みをやっていた小林旭だが、映画の中で歌ったのは、この映画が初めてではないだろうか。この「吉野木挽き唄」はレコード化されていないが、その後、映画の中で主題歌が必ずといっていいほど歌われ(日活の映画の多くがそうであった)、多くのヒット曲を生み出した。
ちなみに、2代目の舟木一夫が「絶唱」をレコード化してヒットさせている。
かつて日活映画の黄金時代は、石原裕次郎と北原三枝、小林旭と浅丘ルリ子といったコンビが存在していた。その後、浜田光夫と吉永小百合といったコンビに引き継がれるのだが、最も相性がよく印象深いのは、小林・浅丘のコンビだろう。
このコンビは、大ヒットした「渡り鳥」「流れ者」「銀座旋風児」などのシリーズで微笑ましくも哀愁を持たせた格好のコンビだったのだが、映画の中と同様二人の恋は結ばれることなく別れることとなる。
「絶唱」のラストは、結婚式と葬式が同時に行われるという何とも切ないシーンである。
青春映画の系譜は、オリジナルとなる初代のあとは、吉永小百合、山口百恵と引き継がれたのが主流のように思える。山口百恵引退のあと30年になるが、系譜となる映画が続かないのは、清純派と呼ばれるスターが誕生していないのだろうか。いや、そうとも言えまい。そのような映画(物語)が、時代に合わなくなったのだろう。
戦後の青春映画の本流に、原作者としては「青い山脈」をはじめとする石坂洋次郎の世界があった。とうに石坂文学が読まれなくなったのだから、青春の形態が変わったのだろう。
その映画のヒロインを、代々その時代を反映している、いわゆる青春(アイドル)スターが演じる、そういう映画があるのだ。
まずあげられるのは、「伊豆の踊子」(原作:川端康成)だろうか。
戦前の1933年に田中絹代と大日方傳で作成されて以来、戦後になって、2代目、美空ひばり、石浜朗。3代目、鰐淵晴子、津川雅彦。4代目、吉永小百合、高橋英樹。5代目、内藤洋子、黒沢年男。6代目、山口百恵、三浦友和のコンビと継承された。
三島由紀夫原作の「潮騒」も、あげなくてはいけない映画であろう。
初代は、1954年制作の、青山京子、久保明。以後、2代目、吉永小百合、浜田光夫。3代目、小野里みどり・朝比奈逸人。4代目、山口百恵、三浦友和。5代目、堀ちえみ、鶴見辰吾と続いた。
そして、「絶唱」(原作:大江賢次)を記録にとどめよう。
1958年に製作された「絶唱」(監督:滝沢英輔)は、浅丘ルリ子と小林旭の実質初コンビ主演作である。2代目は、和泉雅子と舟木一夫。3代目、山口百恵、三浦友和。
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東京・調布市で、先日、浅丘ルリ子と小林旭の「絶唱」の映画会があった。調布には、かつて日活の撮影所があったこともあってか、「調布シネサロン」と銘打って、日活映画の映写会を毎月無料で開いている。
「絶唱」は、山陰地方の大地主の息子と山番の娘の美しくも儚い恋物語である。
当初、デビューしたての小林旭をどのように売り出そうかと迷っていた日活だが、「芸術祭参加作品」という文芸作品で、それまで主演ではないが共演のあった浅丘ルリ子とコンビを組ませた。この映画で、二人のその後花咲く絶妙なコンビの蕾を見ることができる。
学生服詰襟姿の小林旭と絣の着物姿の浅丘ルリ子は、初めての出会いのように初々しい。誰もが、こんな時期があるのだ。
印象深いのは、二人が歌う吉野木挽き唄である。
「ハアー 吉野吉野と訪ねてくればよ 吉野千本 サア 花盛りよ…」
離れ離れになっているとき、同じ時間に二人はこの唄を歌う。
すでに「女を忘れろ」(のちに映画化)などの歌の吹込みをやっていた小林旭だが、映画の中で歌ったのは、この映画が初めてではないだろうか。この「吉野木挽き唄」はレコード化されていないが、その後、映画の中で主題歌が必ずといっていいほど歌われ(日活の映画の多くがそうであった)、多くのヒット曲を生み出した。
ちなみに、2代目の舟木一夫が「絶唱」をレコード化してヒットさせている。
かつて日活映画の黄金時代は、石原裕次郎と北原三枝、小林旭と浅丘ルリ子といったコンビが存在していた。その後、浜田光夫と吉永小百合といったコンビに引き継がれるのだが、最も相性がよく印象深いのは、小林・浅丘のコンビだろう。
このコンビは、大ヒットした「渡り鳥」「流れ者」「銀座旋風児」などのシリーズで微笑ましくも哀愁を持たせた格好のコンビだったのだが、映画の中と同様二人の恋は結ばれることなく別れることとなる。
「絶唱」のラストは、結婚式と葬式が同時に行われるという何とも切ないシーンである。
青春映画の系譜は、オリジナルとなる初代のあとは、吉永小百合、山口百恵と引き継がれたのが主流のように思える。山口百恵引退のあと30年になるが、系譜となる映画が続かないのは、清純派と呼ばれるスターが誕生していないのだろうか。いや、そうとも言えまい。そのような映画(物語)が、時代に合わなくなったのだろう。
戦後の青春映画の本流に、原作者としては「青い山脈」をはじめとする石坂洋次郎の世界があった。とうに石坂文学が読まれなくなったのだから、青春の形態が変わったのだろう。