かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 下妻物語

2006-05-30 03:43:07 | 映画:日本映画
 嶽本野ばら原作 中島哲也監督 深田恭子 土屋アンナ 篠原涼子 樹木希林 2004年制作

 下妻とは、茨城県の下妻市のことである。つくば市の北、関東平野の中央に位置する。この周り一面田圃の農道を、ベビードールのドレスにボンネット、それにフリルの付いたパラソルを持って歩く一人の女の子。このロリータ・ファッションの女の子、深田恭子は、「ロココ時代に生まれたかった」という、下妻に似ても似つかない女の子である。
 そこから電車で3時間かけて、聖地である代官山にドレスを買いに行く。この女の子と気が合ったヤンキー、土屋アンナは、この地の小さなヤンキー・グループを仕切っている。まったく性格も好みも違う二人の友情物語である。
 
 嶽本野ばらの原作で、内容は劇画的である。時折、エピソードをアニメで挿入したりしたところが新しい工夫といえようが、これは成功しているとは言えない。しかし、これは深田恭子のための映画であるといっていい。
 少しおつむは良くないかもしれないが、それを上回るとぼけた可愛らしさの役どころでは他の追随を許さない深田恭子を見てみようと思った程度だったが、意外と楽しめるコメディー映画になっていた。
 やはりフランス人形みたいな深田恭子には、このロリータ・ファッションはよく似合っていて、頭の構造はともかく、この道の王道を歩いているかのような小倉優子も遠く及ばないだろう。
 彼女の「人生なんて甘いお菓子と同じ」と、好きなことをやったらいいという奔放な人生観が、田舎の風景とミスマッチしていてこの映画の大きな暗喩にもなっている。
 こんな彼女に、この地の人たちは、何も東京まで行かなくても、郊外にある大型スーパー店(イオン)に行けば、何でもあるよと言う。町の人たちの、安いという価値観だけでこの手の大型商店を評価しているのを皮肉っているが、それを否定しているのではない。笑いに昇華し、群れることを否定しているのだ。個性を大切にしないといけない、と言っているのだ。

 いや、郊外の幹線道路にある大型スーパー店が創り出す人工的な商店街の典型が、下妻というシチュエーションなのかもしれない。今や全国的に、この手の郊外大型商店が、旧来の駅前の商店街、スーパーを衰退させ、街を形骸化さしている。
 そして、郊外には必ずファーストフード、大型パチンコ店がある。それらの足は車である。それ故、電車やバスなどの公共交通は衰退の一途である。地方都市は、都会と違って車が不可欠になっていて、その利便的な車が街を衰退化させているという皮肉な一面が起こっている。
 地方に行けば、気がつくはず。地方の街は、急速に変わってきている。郊外、車、大型スーパー店、パチンコ店、ファーストフード、このようなキーワードが、現在の地方都市を表わしていると言える。
 この映画から汲み取れるのは、情報や品物は、都市とりわけ東京と地方は時間差がなくなってきているのに、内実はどんどん乖離しているということである。
 田園の中のフリフリのファッション、縁側のある畳と障子の家の中のロココ趣味は、地方が都市を追いかけて表面だけを囓り取った結果、歪曲的に成長しているのを表わしているのではなかろうか。
 地方の良さを守れといったところで、それは無理である。歴史が、それを証明している。文明とは、あるいは資本の論理とは、津波のようなもので、何もかも飲み込んでいってしまう。津波で荒廃した跡地には、「のようなもの」が新しく建ち並び、似ても似つかないものになるのである。
 
 映画の最後は、ロリータ少女がヤンキーのグループと派手な喧嘩の末、自分の才能を開くために仕事をやろうかという教訓めいた暗示話で終わるのが意外であった。
 喧嘩の場所は、牛久の巨大大仏の前である。確か日本一、いや世界一の大仏である。奈良の大仏が手の平にのるほどの巨大大仏が田園の中にある。いつ、誰が建てたのだろう。
 
 地方は、どこへ行こうとしているのだろう。そして、どうなるのだろうと思ってしまった。
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◇ 佐賀のがばいばあちゃん

2006-05-24 17:08:41 | 映画:日本映画
 島田洋七原作 倉内均監督 吉行和子 工藤夕貴 浅田美代子 山本太郎 三宅祐司 2006年作品
 
 第1次漫才ブームは何年前だったのだろうか。当時のお笑いのスケールや熱気やタレントの才能などは、今のお笑いブームの比ではない。そのとき、人気を2分していたのがビートたけしのツービートと島田洋七のB&Bであった。島田神助などは、この島田洋七に憧れてお笑い界に入ったと後述している。
 その島田洋七の少年時代の回顧作が『佐賀のがばいばあちゃん』である。一昨年だったか、文庫(徳間文庫)が出たときに、読んだらあまりの面白さに、感嘆したものだった。その後、佐賀の本屋で、洋七が映画化を熱望していて、自分で監督にも熱意を持っているというビラがあった。
 そして、ようやく映画が完成し、公開となった。監督は洋七ではないが、奔放な洋七ではないことは、それはそれでよかったのだろう。しかし、たけしに対抗して洋七の監督作品というのも見てみたいという気持ちも残った。おそらく、大成功か大失敗かのどちらかのような気がする。
 まずは『佐賀のがばいばあちゃん』は、佐賀をはじめとした九州公開の後、6月から東京などで全国公開する予定だという。
 
 佐賀滞在の日が少なくなったので、東京での公開を待たずに、佐賀市の松原神社近くの映画館に観にいった。佐賀で映画を観るのは、本当に久しぶりだ。おそらく学生時代以来だ。

 物語の内容は、広島で母子家庭であった小学生の洋七が、佐賀のおばあちゃんの家で育てられることになる。その彼の小学校から中学を卒業するまでの、佐賀でのおばあちゃんとの生活や学校でのエピソードの数々の話である。
 成人した洋七(映画では三宅祐司)が、列車での母親との別れで泣いている少年に、かつての自分を見る。
 映像では、丹念に昭和30年代の生活の断片が映し出される。かまどでの炊飯、鉄屑拾い、蒸気機関車、そしてその頃の遊びの花形であった草野球。グローブが買えない草野球は哀しくも楽しい。
 
 突然始まった洋七少年の佐賀での生活は、広島でも貧しかったけど、ここはもっと貧しいと言わせるものだった。しかし、それを救い支えていたのは、がばいばあちゃんであった。
 「がばい」とは、とてもとか大変とかの意味の副詞であると同時に、すごいといった形容詞にも使う佐賀の方言である。
 そのがばいばあちゃんを、吉行和子が熱演している。ばあちゃんが漏らす台詞が、素朴だが輝いていて、陰湿な内容になるところを逆に笑いにしている。
 ばあちゃんの家は、爪に火を灯すような生活をしている。「ケチはいかん、ばってん節約は天才ばい」
 洋七少年は訊く、どうしてうちは貧乏なの?「貧乏には2種類ある。明るい貧乏と、暗い貧乏。うちは明るい貧乏たい。しかも、代々貧乏の伝統ある貧乏ばい」
 洋七少年が自転車にぶつかり目を傷め、病院に行き治療する。そのときお金を持たなかったので、病院の先生は治療代は要らない、今日はバスで帰りなさいとバス賃まで洋七に渡す。「それはもらうわけにはいかん。今すぐ、治療代とバス賃を返しに行こう。うちは、人の助けを借りんで、ちゃんと生きてるばい」
 
 ばあちゃんは貧乏でも、使うときは使うのである。洋七少年が、中学のとき野球部のキャプテンになった。そのことを伝えに来た担当教師からキャプテンとは主将であり、つまり大将のようなものですと言われ、大喜びしたばあちゃんは、大切にしまっていたなけなしの1万円札を箪笥の中から引き出す。そして、夜中であるのにかまわず洋七を連れて、運動具店に行き、店主(島田神助)を起こして、洋七が欲しがっていたスパイクを今すぐ売ってくれと頼む。
 ばあちゃんは、「一番高いスパイクを出してくれ」と、1万円札を差し出す。運道具屋は、何でこんな時間にと、眠そうな顔をこすりながらも、奥からスパイクを取り出し、「これが一番高いので、2千250円」と答える。ばあちゃんは、「そこを何とか、1万円で」とお願いする。運道具屋は、「そう言われても、2千250円が一番高いので」と言うのに、ばあちゃんは「そこを何とか1万円で」と頼むのであった。

 映画の中では、緒形拳の豆腐売り、島田神助の運道具屋、山本太郎の教師など、脇役がいい味を出している。
 佐賀のがばいばあちゃんは、普遍的な懐かしい祖母や母の姿である。
 映画が終わり、がばいばあちゃんも歩いたであろう黄昏時の佐賀市の街を歩いた。かつて賑やかであった市の中心街の唐人町、白山通り辺りは人通りも少なく寂しさを漂わせていた。
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海の街、呼子

2006-05-14 20:02:52 | ゆきずりの*旅
 唐津から玄界灘に沿って、北へバスで30分ぐらい行くと呼子という漁港に着く。いかにも地方の港といった雰囲気のある、この女の子のような名前の街が僕は好きである。
 港には、イカ釣り船や漁船が何艘も停泊していて、海辺では何軒かの家で、魚やイカを干していて、その場で売ってもくれる。料理屋が、民家の間に何軒か看板を掲げている。もちろん、獲りたての魚を料理してくれるのである。港のすぐのところに海に向かって神社があり、海の安全を見守っているかのようである。
 ここは、映画『男はつらいよ』シリーズの第14作目(1974年作)の舞台にもなった。マドンナは十朱幸代である。

 もうずいぶん前のことである。休みで佐賀の実家に帰ったときに、ある晴れた日、初めて僕は呼子に行った。そこで、腹が減っていたので「河太郎」という変わった料理屋に入った。
 注文すると、店の人が、店内にある船のような大きな生簀で泳いでいるイカを掬って調理場へ持っていく。そこで、そのイカをさっと下ろして造りにして出してくれた。薄く切られた身は、まだ透き通っている。足が動いているのを見ながら、その身を食するのだ。 
 その店を出て、海辺を歩いていると、漁船とは違ってやや大きな船が停泊していた。その船舶には「壱岐行き」と書かれていた。ここから、壱岐行きの船が出ていることを知った僕は、思わずそれに飛び乗った。
 壱岐は、のどかな島だった。牧場があり、今はいるかどうか知らないが海女(あま)さんがいて、海に潜って漁をしていた。
 壱岐で1泊して、再び船に乗って呼子へ帰った。午後のけだるい船の甲板で、うつらうつらと眠ってしまった。
 呼子から唐津へ行って、夜そこで飲んで帰ろうとバッグを見たら、財布がない。ポケットもどこを探してもないのだ。どこかで落としたのか、甲板で眠っている間にすられたのか、とにかく1銭もないのだから、飲むどころかわが家にも帰れない。唐津から実家のある駅まで、詳しくは覚えていないがおそらく600円ぐらいかかった。
 仕方なく、唐津の警察署に行き、事情を説明して、お金を借りることにした。千円までは貸してくれるという話を聞いたことがあったのだ。
 僕を応対したのは若い警察官だった。僕が、実家の住所と名前を書くと、その若い警察官は、「かつてその地域の所轄にいたとき、あなたのお父さんにお世話になったので、お宅はよく知っていますよ」と言って、気持ちよく千円貸してくれた。
 警察署を出た僕は、何だかこのまま帰るのが癪になってきた。それで、パチンコで勝って、とりあえずお金を返して帰ろうと思った。あわよくば、飲み代までも浮くかもしれないと考えたのだ。
 そんな虫のいいように、事が運ぶはずがない。用心深く100円ずつ玉を買っていたのだが、あっという間に手の中には百円玉3個しか残っていなかった。僕は、さらに落ち込んだ。自分のふがいなさと言うよりだらしなさに。
 仕方がないと、僕は残った金額分の乗車券を買って、電車に乗った。そして、壱岐で買った焼酎「天の川」を取り出し、ちびりちびり飲んだ。
 車窓からの夜景が切なく、酒はほろ苦くも美味かった。

 今回も、呼子に着くと、海辺の「河太郎」に行った。イカの生き造りは、変わらず美味しい。何より、窓から見える呼子港が旅情をそそる。
 店を出て、魚を干しているところで、アジの味醂干しを買いに行った。呼子に着いたすぐに、家の前でおばさんが魚を干しているのをのぞいたら、とても美味しそうなのだ。
 「いくらね」とおばさんに聞くと、「10匹、500円」と言うので、「イカを食ってきて、帰りによるけん」と言っておいたのである。
 イカを食べたあと、そこへ行くと魚は干してあるが、おばさんがいない。すぐ後ろの家を見ると横の玄関は開いているので、呼んだらおばさんが出てきて、きょとんとした顔で僕を見た。僕がアジを買いにきたと言ったら、やっと思い出してくれた。そして、「イカは美味かったろー、どこの店に行ったね」と訊きながら家を出てきた。
 僕が行った店の名前を言うと、「あそこはうまかろー?」と言いながら、板の上に乗っているアジを見わたした。「こっちが、昨日干したので、あっちが今日干したの。どっちにすっね」と訊いた。僕は、「今日干したの」と言うと、「そいがよかかもしれん」とアジをつかみ始めた。
 アジを数えながら袋に入れているおばさんに、僕が冗談に、「1匹ぐらい間違えて多く入っととやなか?」と言うと、おばさんは笑いながら、「そいじゃ、間違えとこー」と言って1匹多く入れてくれた。そして、「こいも間違えとこー」と言いながら、隣の板で干していた小イワシを3匹袋に入れた。

 呼子のあと、名護屋城を通って、玄海町の原発を見に行った。
 名護屋城は、呼子の先の鎮西町にあり、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄、慶長の役)の際、拠点として築いた城である。全国の有力各藩の陣地も置かれ、当時は広範囲で大規模な城郭が出現していた。今は、崩れた石垣がわずかに残っているだけである。その哀しげな石垣は、黒澤明の映画『乱』の舞台になった。

 玄海町の原発は、最近計画が持ち上がりながらもストップしている各県に先駆けて、佐賀県がプルサーマル計画に初めて同意して新聞紙上を賑わしたところである。
 原子力発電所というものを一度も見たことなかったので、一度見ておきたかった。施設は、植物庭園が覆うようにして、なかなか見えなかった。近くの小高い丘から、やっと円い半円の建物が見えた。
 それに初めて知ったのだが、不思議なことに、原発の近くに風車が何台か不規則に建てられていた。風車は風力発電で、自然の力を利用する、いわば原子力発電の対極とも言えるものである。そういえば、青森の竜飛岬にも風車があった。青森には原発再処理工場のある六ヶ所村がある。少しでもバランスを取ろうという意図なのであろうか。

 玄海町を出て、日が暮れたので、唐津の湊というところにある海の見える店で、唐津に住んでいるケイさんとビールを飲んだ。海を見ながら飲めるのはいい。
 いつまでもぐだぐだと飲んでいたい気持ちだったが、田舎の終電車は早い。何と僕の家に着く最終電車は、唐津発21時24分なのだ。
 また、夜景を見ながらの列車である。
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柳川、水天宮の祭りと檀一雄の面影

2006-05-07 01:14:53 | * 九州の祭りを追って
 ゴールデン・ウイークには、柳川に行く。柳川は、佐賀市からバスで約40分、筑後川を渡っていく。筑後川には、珍しい旧国鉄佐賀線(現在廃線)の昇降橋があり、それを眺めながらバスは佐賀から福岡県大川市に入っていく。
 昇降橋とは、高い船が通る時には真ん中の橋桁が持ち上がるのだ。現在も昇降橋は健在で、歩道橋として活躍している。
 柳川では、この時期、水天宮の祭りをやっているのだ。水天宮は、市内に張り巡らされた掘割の南西端、沖端川近くにある。川下りのほぼ終着点で、すぐそばには旧立花藩主の別邸「御花」、また北原白秋の生家がある。
 
 このお祭りは、日本の祭りの原点といえるものがある。
 水天宮の脇の掘割の周りには、ずらりと縁日の屋台が並ぶ。トウモロコシ、たこ焼き、金平糖、リンゴ飴、アイスクリームなどの食べ物。また、お面、子どものおもちゃなどの祭りの定番から、籠や包丁などの刃物を並べた店もある。金魚掬い、矢投げ、籤(くじ)屋もある。
 そして、掘割には、この祭りの主役ともいえる、6艘の舟に支えられた大きな屋形船が浮かべてある。その船は、甲板が舞台になっていて、夕暮れ時から、音が聴こえ始める。きちんと整列した子どもたちが、演奏するのだ。三味線に笛、それに太鼓で奏でられるメロディは、単調だがリズミカルで妙に哀歓がある。
 時折、旅芸人による歌と踊りが入る。子どもの演奏のあとは、大人の演奏になる。
 舞台に上って演奏する子どもは、小学3年から中学1年までとの決まりがあると、今日演奏する子どもが教えてくれた。まだあどけない顔の子どもでも、和服を着て三味線をひいていると何だか色っぽく見えてくる。
 この柳川の情景を、福永武彦が「廃市」という情緒深い小説にしている。

 しかし、柳川といって僕が一番深い思い入れを抱くのは、檀一雄だ。この柳川(檀の祖父母の実家がある)出身ともいえる放浪の作家の生き方に、僕は憧れてきた。檀は、父の仕事の関係であちこち引越ししながらも、子ども時代、正月は必ず柳川で過ごしている。
 
 柳川の掘割をなぞった遊歩コースの途中に、檀の文学記念碑が建っている。そこには、檀の次のような「有明海陸五郎の哥」という詩が刻まれている。
  ムツゴロ、ムツゴロ、なんじ
  佳(よ)き人の湯の畔(ほとり)の
  道をよぎる音、聴きたるべし。
  かそけく、寂しく、その果てしなき
  想いの消ゆる音
 
 僕は若い時、柳川を歩いていて、偶然に入った寺で檀一雄の墓を見つけた。それは、赤い石を四角に彫刻した、周りの墓石とはまったく違った形で、墓碑銘が刻んであった。最近、柳川に行くたびにその墓のことを思い出すのだが、それがどこだったか思い出せないでいた。
 今回、やっとその寺を見つけたのだ。その寺は、立花氏の菩提寺である福厳寺だった。
 墓石は、僕の記憶のままだった。墓碑銘には、次のように刻まれていた。
  石ノ上ニ雪ヲ
  雪ノ上ニ月ヲ
  ヤガテ我ガ
  殊モ無キ
  静寂ノ中ノ
  想ヒ哉
 
 僕は、檀の墓に敷きつめられていた小さな白い石を1個拾ってポケットに入れた。
 
 この墓碑銘を刻んだ墓石を見て、ポルトガルのサンタ・クルス村を思い出した。檀が、一時住んだ村で、海の見える広場に檀の石碑が建って、ここにも檀の一篇の詩が刻まれている。こちらも赤い石で、形は円い。
 1996年、僕が会社を辞めて1人ポルトガルを旅したときのことだ。ふと思い立って、海辺のこの村を訪ねた。
 その村で、檀が通ったという小さな居酒屋の戸を開いた。檀と親しかった居酒屋の主ジョアキンは、檀と同じ日本人で同じ名前(Kazuo)の僕を歓迎してくれた。彼は、ポルトガルの「ダン」という銘柄のワインを取り出して、僕のグラスに注いだ。
 夜が更けるとともに居酒屋に集まってきた地元の酔っ払いの男たちは、誰もが檀を知っていて親しみを持って彼のことを語った。僕は、言葉も分からないまま、夜が更けるまで彼らに紛れて飲んだのだった。

 2000年の暮れ、博多湾に浮かぶ能古の島に渡った。檀が晩年暮らしたところだ。その白い家は少しポルトガル風で、丘の上に博多湾を見下ろすように建っていた。すでに主のいない家の庭で、僕は実をつけているボンタン(ざぼん)を千切りながら、檀の気持ちを測った。
 檀は、能古の島で倒れ、福岡の九大病院に入った。『火宅の人』が最後の仕事だった。そして、それが檀の代表作ともなった。

 柳川の壇の墓石の裏の墓名には、真っ先に「律子」と刻んである。檀の作品『リツ子・その愛/その死』の、先妻の人である。その次は「次郎」である。『火宅の人』の冒頭に出てくる檀の次男である。
 そして、檀一雄は、1912年2月3日生まれで、1976年1月2日没とある。老いても豪快な姿しか記憶にないので、もっと長生きしたと思っていたら、何と64歳で彼は死んでいた。

 檀の『風浪の旅』の中の「小値賀島の女」ほど、面白い旅はない。深夜、東京で酔ってバーから出てきた檀の前にいた名前も知らない女(あとでバーの女と知る)と、その晩思いつきで、当時あった深夜飛行機「ムーン・ライト」で二人して福岡に行き、その足で彼女の故郷である長崎の小値賀島に行く話である。
 この話は壇も好きなようで、『火宅の人』にも登場させている。

 僕も、檀のような旅がしたいといつも思っていた。水天宮の祭りの音色に後ろ髪を引かれながら、早い時刻の終バスで佐賀に戻った僕は、佐賀の酒場で飲んだ。

  ゆきずりの まぼろしの 花のうたげ
  くるしくも たうとしや    壇一雄「恋歌」
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有田の陶器市

2006-05-06 02:20:48 | * 九州の祭りを追って
 佐賀のゴールデン・ウイークといえば、有田の陶器市である。この期間、九州各地からはもちろん、近年では全国から大勢の人がリュックサックやバッグを持って、この市にやってくる。
 しかし、この陶器市という表現は正しくない。有田といえば、陶器でなく磁器なのである。日本では、磁器も含めて焼き物をおしなべて陶器と言っていたので、こういう一般的な呼び方にしたのだろう。同じ佐賀でも唐津焼は、陶器である。
 かつて、なかなか磁器の作成方法がわからなかった日本で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀肥前藩が連れてきた李参平という朝鮮の陶工が、この有田で磁器の原料となる石山(泉山)を発見したのが有田焼の歴史の始まりである。以来、肥前鍋島藩は鎖国内鎖国のような厳重な秘密裏のうちに、磁器である有田焼を完成させ発展させた。それらは、伊万里港から積み荷発送されたので、伊万里とも呼ばれた。
 当時磁器は大変貴重なもので、各藩の大名はこぞって手に入れようとしたし、まだ磁器が作成されていなかったヨーロッパにも、オランダの東インド会社を通して輸出された。当時ヨーロッパでは、宝石と同じ価値で取引されたという。
 
 佐賀の田舎に帰っていた僕は、有田に出かけた。この時期、佐賀に帰っていた時はいつも陶器市に行って、何やら買って帰るので、家の中は焼き物がいっぱいである。もう、必要で買いたいものはない。今年は、ただ見物だけのつもりで出かけた。
 昼ごろ、有田駅を降りたら、もうすごい人込みである。延々と続く出店と人並み。見るだけでも大変な労力である。しかし、こうして一堂にあらゆる有田の品が見られるのは滅多にあるものではない。有田のほとんどの窯や問屋や小売の店が、有田駅から上有田駅までのほぼ3キロの道路の両側に出店を出すのだから、その量たるや圧巻である。1件ずつ丹念に見て回っていたら、1日で見終われない。
 何といっても、陶器市で楽しいのは、掘り出し物の発見である。20年ぐらい前までは、「ただ」とか「10円」などと書かれた品が、籠に入れられていた。傷物であるが、さすがに今日そんな品物は置いてない。
 いい物を高い料金で買うことは容易なことだ。金があれば、誰にでもできる。しかし、楽しいのは、いい買い物をした時である。ここで言ういい買い物とは、その価格にしては絶対買えない特別に安い物という意味と、自分がとても気に入った物、探していた物という両方の意味である。
 
 今回は、買うつもりはなかったが、いいコーヒーカップがあったら買おうと思っていた。有田駅から上有田駅に向かって、店をのぞきながら歩いた。3分の2ぐらいまで来たところで時刻を見ると、もう3時間を過ぎて夕方である。次の電車で帰ろうと決心した。
 あと30分しかないから、少し歩くのを速めようと思ったところで、ある店でコーヒーカップに目がとまった。ハーブの花が描かれたかわいい感じのもので、ジャスミンやラベンダー、カモミールなど何種類かある。カップの裏を見ると、底に「MADE IN JAPAN TOYO CERAMICS ARITA」と欧文で書かれている。こういうのも珍しい。
 店の人に、底を見ながら「輸出用なんですか」と聞いてみた。すると、年配のおばさんは、「いや、そういうのがここの社長が好きなんですよ」と笑いながら言った。そして、「ほれ、その人」とあごで示した。そのあごの先を見ると、苦笑いしている中年のおじさんがいた。夫婦のような印象を受けた。そうでなくとも、家内制手工業のような、この雰囲気は何だかほほえましい。
 そのカップを5種類(5客)買った。
 その店を出て、駅までの通りにある香蘭社で、足を止めた。ここと深川だけはいつものぞいている。しかし、今回は時間もないので、香蘭社だけ駆け足で見るだけのつもりで店内に入った。すると、すぐに、1つのコーヒーカップに釘付けになった。
 丈が高くスマートな見た目だが、容量が大きいのでマグカップといえるものだ。白磁に淡いブルーの丸みをおびた葉がいくつか、そこに小さな南天のような赤い実が数個。
 それも買わずにはいられなかった。
 
 小さな欲望であれ、人間の欲望は限(きり)がない。
 しばらくは、買ったコーヒーカップを眺めて楽しんでいる。
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