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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本発祥の地を求めて、横浜⑨ 野毛坂から野毛山へ

2025-01-24 04:57:32 | * 東京とその周辺の散策
 流れてきたのか 流されたのか
 どこへ行こうか気の向くままに メリケン波止場が見える丘
 ここは横浜 日ノ出 野毛坂 桜木町

 *野毛坂から野毛山公園へ

 伊勢山皇大神宮から成田山横浜別院をあとにして、野毛坂へやってきた。
 野毛坂の交差点から「野毛坂」を登ったところに緑の小高い丘がある。ここが動物園もある「野毛山公園」である。
 「野毛山」は、明治のころは横浜の豪商たちの邸宅や別荘地帯であった。ところが関東大震災によって崩壊し、その後、公園として整備された。
 1887(明治20)年、野毛山にイギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマーによって横浜水道の配水池が設置され、日本初の近代水道が始まった。

 野毛坂を登りはじめたところに、黒い鉄の筒のようなものが飾られてある。古い大砲の筒かと思った。
 ・「日本近代水道・最古の水道管」
 これは、明治の日本政府に依頼されたヘンリー・スペンサー・パーマーの指導によって作られた水道管の一部の筒だった。

 野毛坂からすぐのところで公園のなかに入っていくと、石碑があった。
 ・「中村汀女句碑」(野毛山公園内)
 中村汀女は、明治生まれの昭和の代表的な俳人である。
 熊本生まれで、官僚だった夫の転勤とともに東京、横浜、仙台、名古屋など転々とし、後に東京に定住した。どうしてここに碑があるのだろうと思った。
 横浜にも一時住んでここで俳句を作ったというのであれば、ちょっと弱い理由ではなかろうか。弘法大師とは違うのだから。

 さらに公園の奥に入っていくと、また幕末の知識人の碑がある。
 ・「佐久間象山顕彰碑」(野毛山公園内)
 佐久間象山は、江戸時代後期の信濃松代藩士の思想家で、朱子学、洋学、蘭学、砲術などあらゆるジャンルに長けた知識人であった。吉田松陰、勝海舟らに強い影響を与えた。開国佐幕のために奔走したが、京都で攘夷派により暗殺された。
 横浜開港を強く唱えたということで、ここに顕彰碑が建てられた。

 この近くに常夜燈のようなものが建っている。
 昭和初期、ラジオが普及し始めたころ、全国に建てたラジオの発信塔だという。このような塔は、初めて目にした。
 ・「ラジオ塔」(野毛山公園内)
 説明板には以下の文が記してある。
 「このラジオ塔はラジオの聴取契約者が百万人を越えた記念に、日本放送協会が昭和七年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ、昭和七年度から昭和八年度中に四十一ヵ所が完成して、その中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。
 正式名/公衆用聴取施設 全高/三メートル 建塔/昭和七年十一月十九日」
 ※説明文には読点(、)がなかったので筆者が付した。

 この区域を離れ「野毛山動物園」のところへ移ったが、動物園には入らなかった。ちなみに、動物園は入場無料となっている。

 *野毛山公園展望台の丘へ

 動物園地区から道路上に架かっている吊り橋を渡って、南の展望台のある区域に入った。
 しばらく歩くと、外国人の胸像があった。
 ㉚「ヘンリー・スペンサー・パーマー胸像」(野毛山公園内)
 1887(明治20)年、横浜に日本最初の近代水道が創設された。この場所は野毛山貯水場の跡であり、「近代水道発祥の地」となっている。
 野毛山公園に入ったすぐのところに、「日本近代水道・最古の水道管の筒」があった。イギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマーはその生みの父である。
 当時、海辺を埋め立てて造られた横浜は、いい水ではなかった。パーマーの設計・監督により、相模川と道志川の合流点(現・津久井町)に求めた水源から44Km離れた野毛山の貯水場に運ばれた水は、浄水され市内に給水された。
 パーマーは、横浜のほかにも大阪、神戸、函館、東京などの水道計画にも貢献したとある。

 さてとこの一帯を見まわすと、中央部分に何やらモニュメントのようなものが建っている。
 ・「オリンピック記念碑」(野毛山公園内)
 1964(昭和39)年開催された東京オリンピックの記念碑である。
 この記念碑には3面に競技のレリーフが飾られている。まず目に入ってくるのは、記念の題字とともにバレーボールをしている女子選手の像である。そして、サッカー、バスケットボールをしている選手像がある。
 女子バレーボールは、当時、“東洋の魔女”と呼ばれて日本中を熱狂させ、金メダルを獲得したのだから、正面に飾られて当然だろう。
 面白いのは、躍動している選手像の右上に競技名が、例えば「バレーボール」、「バスケットボール」と描かれているのだが、ボールを蹴(け)っているサッカーのところは「蹴球」となっているのである。
 つまり、フットボールであるが、まだサッカーが日本では定着していなかったためか漢字になっている。これではラグビーと区別がつかない。ちなみに、日本のプロサッカーリーグ(Jリーグ)が開始・開催されたのは1993(平成5)年である。
 ところで、なぜ東京の代々木競技場でなく、ここに東京オリンピックの記念碑があるのかと思っていたら、バレーボール、サッカー、バスケットボール(予選)の3種目が横浜市で行われたとのこと。これを記念して、1966(昭和41)年に設立されたものである。

 その先に、3階建てのコンクリート枠組みの建築物がある。
 ・「野毛山公園展望台」
 野毛山公園自体が高い丘になっているので、さらにその上の見晴らし台からは、少し殺風景な建物ではあるが、見晴らしがよさそうである。
 1階にトイレがあり、上に行くには階段だけでなくエレベーターも備えてある。が、ここは歩いていく。
 上からは、四方の横浜の街並みが見えた。
 みなとみらいのランドタワーも観覧車も見える。
 横浜港の方からぐっと右(南東)の方に、街並みの彼方に、何やら並んだ3つの塔が見える。
 うん? 異様だ。いや、威容だ。街並みから、あの塔だけが浮いている。いや、家やビルの乱立する街並みから置き去りにされている。
 あれは見たことがある、と思いだした。横浜港の南、確か根岸方面だ。よく見れば、塔の周りは緑に囲まれている。だとすると、根岸公園の旧競馬場の廃墟に違いない。
 あたかも、森(ジャングル)の繁みのなかにポツンとあるマヤ文明の遺跡のようだ。
 (写真)
 ※「日本発祥の地を求めて、横浜⑦ 根岸の旧競馬場の廃墟」(2023-09-18)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/4336444ad59110b65ff8f20735a84a15?fm=entry_awc

 野毛山公園を出て、「横浜迎賓館」を見ながら、日ノ出町の駅に向かった。
 そこから、細い急な下り階段である「天神坂」を下りて、「日ノ出町」駅に出た。
 日ノ出町駅から桜木町の駅に向かった。
 野毛大通りより大岡川寄りの脇の通りを歩き、もうすっかり日が落ちて、灯りがともる「野毛小路」の飲み屋が連なる通りを歩いた。

 *

 桜木町から石川町までJRの電車で移動し、中華街の満州(中国東北)料理店に向かった。
 ビールのあと紹興酒を飲みながら、この日の料理は以下の通り。
 まず、「羊肉」「手羽先」「豚マメ」3種の串焼き。
 「パクチー、ネギ、青唐辛子の東北和え」
 「きのこと牛肉のオイスターソース炒め」
 「ラム肉、カキ、漬け白菜の酸味土鍋」
 最後に、「焼きビーフン」
 今回、野菜類を一つと思って、「パクチー、ネギ、青唐辛子の東北和え」をとった。生の野菜を良い加減の味に和えてあったのだが、何せ青唐辛子がその美味しさを失わせるほど辛い。
 しばらく顔をしかめて食べたあと、青唐辛子を除いて(あるいは微量に残して)食べればいい感じの柔らかい味になるとわかった。そして、残った青唐辛子は味の薄いビーフンなどに付け交ぜれば、これまたいい味に変容するとわかった。
 それと、タイ料理ではないカメムシ臭いのパクチーの味も収穫だった。これから、自分で家で作る料理にも使おうと思った。

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日本発祥の地を求めて、横浜⑧ 桜木町から伊勢山、野毛坂方面へ

2025-01-20 02:53:23 | * 東京とその周辺の散策
 港の灯りに背を向けて 路地をすり抜け 坂道歩けば
 潮の香りが追ってくる
 ここは横浜 岩亀 伊勢山 野毛小路

 *なぜか、横浜を歩きまわっていた

 横浜を散策する小さな旅は、気紛れながらも続いている。
 これも、同行の湘南の士による詳細な立案に負うところが大きい。それに、歩いた後の最終地となる中華街での満州(中国東北地)料理を食する楽しみも、この横浜散策が続いている要因および魅力の一つと言える。

 まず3年前、山下公園から港に沿って“みなとみらい”へ歩いたことから始まった。
 ※「ブルーライト・ヨコハマ① まずは山下公園から埠頭へ」(2022-01-20)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/5d153e97a33b9e1aeaa3088c726d24ae
 そこから、横浜の魅力といえる“初めての地”巡りとして、「日本発祥の地を求めて、横浜」のシリーズが開始した。
 「山下公園」周辺から始まり、「みなとみらい」の横浜港をなぞって「山手公園」「港の見える丘公園」から「馬車道」、そして「根岸公園」へと歩いた。
 ※「日本発祥の地を求めて、横浜① 山下公園から日本大通りへ」(2022-05-28)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/cbbad74131a40782120cf42a1f57bc98

 それに、「横浜・盛り場ブルース」が加わり、「黄金町」から「寿町」「伊勢佐木町」などを歩いた。
 ※「横浜・盛り場ブルース① 裏横浜をあるく」(2024-02-29)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/435897bdc1f312f87df142d360f010b2?fm=entry_awc
 そのとき、今回歩いた野毛界隈も歩いた。
 ※「横浜・盛り場ブルース③ ディープな野毛から福富町界隈」(2024-04-01)

 *桜木町から掃部山公園、伊勢山皇大神宮、成田山横浜別院へ

 今回の目的地は、野毛坂界隈である。だが、その途中に誘惑に充ちたところがあちこちにある。
 1月7日の午後、JR桜木町駅の南口から出発した。
 線路に沿って続く国道を、横浜駅方面(北西)へ歩く。歩き始めるとすぐに、道路わきに何かの残壁か、例えば咄嗟に東西ドイツのベルリンの壁を思い浮かべたが、そう思わせるような塀が続いている。何だろうと塀に沿って歩くと、その先に高架の線路跡の道路が続いていた。下に、「東横線跡地」とあり、上向きの矢印とともに「遊歩道」とある。
 ・「東横線・廃線跡」(桜木町駅線路沿い)
 現在、東急東横線は渋谷駅と横浜駅を結んでいるが、かつては横浜駅より先の桜木町駅が終点だった。
 2004(平成16)年、みなとみらい線の横浜~元町・中華街間が開業して、東横線との直通運転が始まり、これに伴い東横線の横浜~桜木町間は、高島町駅とともに廃止されている。
 このJR線に沿った廃線跡は、東横線の跡なのだ。
 東横線跡地による「遊歩道」の看板がある先は、フェンスが設置されていて入ることはできない。

 国道を歩いた先の「雪見橋」のところで、国道に沿って走っている新横浜通りを左斜めに入っている「岩亀横町」へ。
 しばらく歩いていくと、通りの喫茶店の隣に稲荷神社の幟が目についた。
 ・「岩亀(がんき)稲荷」(西区戸部町)
 通りの「岩亀稲荷」の幟がなびいているところに鳥居はないが、上に小さな瓦屋根があり、そこが神社の入口であることを教えてくれる。その建物と建物の間の細い路地を入っていくと、行き止まりになっていて、そこに小さな神社が祀ってある。
 この神社の由縁はというと、以下のとおりである。
 横浜開港直後の横浜に、外国人向けに設けられた遊郭が「港崎(みよざき)遊郭」(現・横浜公園辺り)で、その後吉原町(現・羽衣町辺り)、高島町に移った。当時、この遊郭一の規模を誇った遊女屋が「岩亀楼」である。
 そこの遊女たちが病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、そこで祀られていた稲荷さまが起源といわれている。
 移転を重ねた遊郭は、真金町、永楽町の「永真遊郭街」として戦後まで続くことになる。
 ※「横浜・盛り場ブルース⑤ トワイライト・ヨコハマ!」(2024-04-24)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/01f1f4456da5212b9b8079d5fa3669f3

 この通りの戻った雪見橋寄りのところに「温故知新のみち」という説明版の柱が立っている。
 ここの緩やかな坂を上がっていくと、「掃部山(かもんやま)公園」である。
 この公園のなかに、幕末に活動した歴史上有名な徳川幕府老中の銅像がある。
 ・「井伊直弼像」(掃部山公園内)
 ここは、かつて明治初期には鉄道関係の施設が立てられていたことから鉄道山と呼ばれていた。その後、横浜開港5 0年記念に開港に貢献した井伊直弼の記念碑(銅像)を建てる運びとなり、そのとき旧彦根藩(井伊家)の所有になった。そして大正時代に、市に寄付され「掃部山公園」となった。
 公園の名前の由来は、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)からとったもの。
 銅像は第二次世界大戦中、政府の金属回収令で取り払われたが、1954(昭和29)年に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。

 掃部山公園の一角に「横浜能楽堂」がある。
 1996(平成8)年)に竣工した立派な建物であるが、現在は改修工事のため閉館していた。

 掃部山公園をあとに、県立音楽堂を右に見て進むと、右手に県立青少年センターがある。
 その前に、ポツンと唐突に石碑が建ててある。
 ・「神奈川奉行所跡」(西区紅葉ケ丘)
 ここに、江戸末期、神奈川奉行所が置かれていた。
 周りの風景からして歴史的背景は感じられないし、なぜここに奉行所がと疑問に思った。坂を上った高台であることから、かつては重要なエリアだったのだろう。この辺りは県立図書館ほか神奈川県の公的施設が多いのが、その名残の現れか。
 紅葉坂の県立青少年センターの先を左折すると、左手に緩やかな坂の通りがあり、その先に鳥居が見える。

 ・「伊勢山皇大神宮」(いせやまこうたいじんぐう)(西区宮崎町)
 この通りは、伊勢山皇大神宮の裏参道とある。裏と名乗っているだけあって、少しうら寂しい。
 境内に入ると、絵馬が飾ってあり受験シーズンとあってそれらしい人が多い。
 「皇大神宮」という豪壮な名前からみて、なにやら由来があるだろうと思った。
 調べてみると、武蔵国の国司が勅命によって、伊勢神宮から勧請したと伝わる戸部村海岸伊勢の森の山上の神明社を、1870(明治3)年、現在地に遷座し横浜の総鎮守とした、とある。
 それに、「伊勢山」と冠名が付いている。この地は、もともとは野毛山と呼ばれていたが、遷座の際に伊勢山と改められたらしい。しかし、今はその地名は残っていない。
 とはいえ、伊勢神宮から由来していると思われる伊勢は残っている。
 本殿は、伊勢神宮と同じ茅葺の神明造りである。去年の秋、伊勢神宮に行ってきたばかりなので、つい本家と比較してしまう。
 本殿をあとに階段を降り、表参道を歩いた。これで、裏参道から表参道へと歩いたことになる。
 (写真)
 伊勢山皇大神宮をあとに歩き進むと、すぐにまた派手やかな“謹賀新年”の幟を掲げた建物に出くわした。

 ・「成田山 横浜別院 延命院」(西区宮崎町)
 成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院である。1870(明治3)年建立とあるから、伊勢山皇大神宮と同時期に建てられたことになる。
 東西の人気の伊勢神宮と成田山新勝寺に縁を持った寺社が、明治の初期にここ横浜に建てられたということは、開港により横浜に外国人が居留したことに無関係ではあるまい。
 この時期、すごい勢いで流入してきた、新しい、それもエネルギーに充ちた西洋の文化や宗教に対峙する必要が生まれたのだろう。
 こうして、横浜には独特の文化が生まれた。

 さて、ここから「野毛坂」へ向かおう。


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「東京建築祭2024」に誘われて、「築地本願寺」の中へ

2024-06-08 03:15:29 | * 東京とその周辺の散策
 *思い出の日比谷「三信ビルディング」

 東京では、街の再開発と称して今まで建っていた建物やビルが壊され、新しく超高層ビルがあちこちに出現している。
 私が好きな日比谷界隈でも、2018年に竣工した地上35階の東京ミッドタウン日比谷が日比谷公園を見下ろすように聳えている。この東京ミッドタウン日比谷があるところには、もともと何が建っていたかというと、日比谷三井ビルディングとその向かい側にあった三信ビルディングである。
 私は、この三信ビルディングが好きだった。この近辺に来たときには、何の用がなくともついフラリと入ったものだった。
 「三信ビルディング」は、1929(昭和4)年の竣工で、当時のモダンさを感じさせる建物だった。1階は、2階までの吹き抜けのアーチ型天井を持つアーケードの商店街が貫いていた。そして、1階から見上げてみると、2階柱部分には鳥の彫刻が施されていた。さらに立ち止まらざるを得なかったのは、通路の中ほどにある扇場に並んだクラシカルなエレベーターの壮麗さであった。
 そのアーケードの商店街には、フレンチ・レストランやスナック風カフェもあった。であるから、ビルの中に入った途端、パリの街中に紛れこんだような気分になれるのだった。
 あの辺りを歩いていると今でも、よくあんなビルがあったものだ、幻のようなビルだったなあと懐かしく思い出す。
 有名な名所旧跡でなくとも、いいなあと思っていたり、何となく気にいっているといった建物を誰もが持っていることだろう。しかし人と同じく、どんな建物でもそこにいつまでも在るわけではない。いつの間にかなくなっていることも多い。

 *今年から始まった「東京建築祭」

 個性的な建物がなくなりつつあるなか、それを惜しむように、東京の個性的な建物を見て廻ろうという「東京建築祭2024」が5月25、26日を中心に行われた。
 今年が初めての催しである「東京建築祭」は、主に日本橋・京橋、丸の内・大手町・有楽町、 銀座・ 築地のエリアにある建築を見て回るイベントである。 普段見られない建物を自由に見学できる特別公開や、専門家による案内人の説明を聞きながら見学できるガイドツアー(申込制)などのプログラムも用意されていた。

 今回、参加する30件以上の建物のなかで、特別公開は以下の18件。
 <日本橋・京橋>エリア
 「日証館」、「三井本館」、「三越劇場」(日本橋三越本店)、「江戸屋」、「丸石ビルディング」
 <銀座・ 築地>エリア
 「築地本願寺」、「カトリック築地教会」、「旧宮脇ビル」(川崎ブランドデザインビルヂング)、「井筒屋」、「SHUTL」(中銀カプセルタワービル カプセル再活用)
 <丸の内・大手町・有楽町>エリア
 「東京ステーションホテル」(東京駅・丸の内駅舎)、「新東京ビルヂング」、「国際ビルヂング」、「堀ビル」(goodoffice新橋)、「明治生命館」(丸の内 MY PLAZA)
 <神田>エリア
 「安井建築設計事務所 東京事務所」、「神田ポートビル」、「岡田ビル」

 *築地本願寺の中へ入ってみた

 5月25日午後、築地地域の特別公開建築を見て廻った。地下鉄・東銀座駅から西の築地方面に出発する。

 ・「築地本願寺」(中央区築地3-15-1)
 築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の関東における拠点の寺院である。
 今まで、築地本願寺の前を通り過ぎることはあっても、中に入ったことはなかった。しかし、外から何度見ても威容、偉容というより、寺としては異様と思える建物である。
正面の学校の入口を思わせる門を入り、初めて寺の中に入った。
 普段は寺の中には人はあまり見受けられないのに、この日は多くの人がいるし、テントを並べた出店のようなものまである。外国人も多く目につくし、建築に興味がない人でも、祭りとあればこうやって集まってくるのだ。
 正面の奥にある本堂である建物の前には階段があり、その上に構える本堂は西洋建築を思わせる列柱が並び、そこにインド様の飾りを施した半円状の屋根が乗っかっている。
 その本堂は、左右に延びていて、両翼にストゥーパ(仏塔)のごとき塔を擁している。正面階段の両側には、狛犬ならぬ羽を持った獅子が睨みをきかしている。
 威風堂々。外観は、西洋様式かインド洋式かわからない日本の寺である。(写真)

 正面右手に行列ができていたので係員に訊いたら、特別公開の貴賓室を見る列だというので、この日しか見られないのであるから仕方なく並んだ。ここに似合わないコスプレのような服を着た少女たちもいたが、それも祭りならではのほほえましい光景だ。
 40分以上並んでやっと室内に入り、貴賓室のある2階にたどり着いた。
 まず貴賓室の前にある控え室を見て、そして貴賓室に入った。貴賓室はテーブルと椅子が並んでいて、思ったより大きな部屋ではない。天井からは派手ではないシャンデリアが下がった瀟洒な感じの部屋であった。
 寺の外や、寺の中の室内のいたるところに、獅子のほかに馬や牛などの動物の彫像があるのも異端といえば異端なのかもしれないが、それを見つめるのも楽しい。

 貴賓室を見たあと、正面の本堂に入った。
 思ったより広々とした堂内は、畳敷きではなく椅子が並ぶ。正面には阿弥陀如来像が鎮座していて、天井にシャンデリアが下がり、出入口の上部には教会のようにパイプオルガンが置かれている。
 仏の説教も讃美歌も共存している異空間である。ここにシルクロードの痕跡が見えてくる。

 築地本願寺をあとに、聖路加国際病院を横切ってカトリック築地教会へ向かった。

 *カトリック築地教会、井筒屋、旧宮脇ビルを廻る

 ・「カトリック築地教会」(中央区明石町5—26)
 外からパッと見るとパリのマドレーヌ寺院のようで、ギリシャ建築の神殿を思わせる。
 もともと外国人居留地だったこの場所に、1874(明治7)年、東京で最初のカトリック教会である築地教会が建てられた。現在の聖堂は1927(昭和2)年に建てられたもので、東京都選定歴史的建造物に指定されている。
 通りにギリシャ式門柱の門があり、その門を入った敷地のなかに、フランスから送られたという鐘が置かれている。
 清楚かつ威厳を持った白い壁の聖堂の中に入ると、穏やかな空気が漂っていた。正面に十字架が掲げてあり、脇にキリストを抱いたマリア像がある。
 ここも中は人がいっぱいだ。

 カトリック築地教会を出て、銀座方面に進むとその前に新富町に行き着く。

 ・「井筒屋」(中央区新富2-4-8)
 新富町駅の近くのビルの間に、置き忘れられたようにひっそりと佇んでいるのが井筒屋である。
 約100年前の大正時代の後期に建てられた木造3階建てで、見るからに朽ち果てようとしている。空き家かと思いしや、最近2024(令和6)年1月に、「the design gallery」として再生されたとのことである。

 井筒屋を出て、銀座1丁目に入った昭和通りの角に、そのビルはあった。

 ・「旧宮脇ビル」(川崎ブランドデザインビルヂング)(中央区銀座1-20-17)
 高いビルが並ぶこの通りでは目につく低層の3階建ての建物が、旧宮脇ビルである。
 茶色のレンガ調の外観は、珍しい加飾タイル張りというもので、建物に温かい雰囲気を醸し出している。
 1932(昭和7)年に建てられたこのビルは、当初は「五十鈴商店」という油を売る店だったが、その後は、小料理屋の「小鼓」(こつづみ)という店だった。
 2013(平成24)年に、老朽化が進み解体するところを、内部を改修して「銀座レトロギャラリーMUSEE」として再スタートし、現在も活動している。
 この日は窓を開けて外から内部が見られるように配慮してあったので、3階の天井の木造の梁がよく見えた。

 *
 「東京建築祭」というイベントを機に、築地本願寺をはじめ築地界隈の建築を散策したが、エントリーされた以外の建物に足を止めることもしばしばあった。
 東京は再開発という名のもと、古い建物が壊され続けている。新宿の小田急ビルも、まだ工事中ではあるが、いつの間にかあの大きなビルがなくなっていた。
 日本の建物は、木造に限らず鉄筋コンクリート建物でも欧米の建物に比べると寿命が短いようにみえる。
 先ほど、全国の「消滅可能性都市」というレポートが発表されたが、街も建物もいつ消えるかわからないので、できる限り見ておいて、記憶、記録に留めておかなくてはいけない。

 日も暮れたこの後、新富町のフレンチのビストロに行った。

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横浜・盛り場ブルース⑤ トワイライト・ヨコハマ!

2024-04-24 01:02:17 | * 東京とその周辺の散策
 いつかどこかに 忘れた匂い 
 昨日見た夢 今宵も見る夢
 ここは横浜 真金 寿 伊勢佐木町

 *横浜橋商店街から旧・永真遊郭街へ

 JR関内駅を出発し、伊勢佐木町での「伊勢佐木町ブルース」歌碑を見たあと、隣の通りの「若葉町」のタイ街を確認し、再び伊勢佐木町に出た。そこを東に向かうとグリーンベルトの「大通り公園」に出る。
 そこに「歌丸桜」と名付けられた桜がある。笑点の司会をやっていた落語家、桂歌丸が通りの先の真金町の出身であるよしみで植えられた桜で、花見時期には賑わうという。
 その大通り公園沿いの横浜橋商店街入口から、丸い屋根を持ったアーケードの「横浜橋商店街」(横浜橋通商店街)へ入る。
 この商店街は、食料品、生活用品、普通の食堂など様々な店が並んでいて、懐かしさを感じさせる。こんな今どきの再開発ブームに抵抗しているようなレトロな商店街が、いまだ活気溢れているのが気持ちいい。

 この商店街の中ほどのところから北へ出たところの「真金町」に、「金刀比羅(ことひら)・大鷲神社」がある。
 幕末期の横浜開港にあたり設けられた「港崎遊郭」(みよざきゆうかく)の、「岩亀楼」主人である岩槻屋佐吉が讃岐の金毘羅大権現を勧請し祭祀したのが起源とされている。
 現在の横浜公園にあった港崎遊郭は大火で移転し、吉原町遊廓、高島町遊廓、永真遊廓など、移転のたびに呼び名が変わった。しかし売春防止法の成立によって、1958(昭和33)年に赤線(公認売春地域)が廃止された。
 この金刀比羅・大鷲神社の鳥居の先の通り一帯が、かつて「永真遊廓街」(永楽町および真金町)だったというので、その面影を探したがもうない。今は、静かな住宅街である。 

 この旧・永真遊郭街を北へ歩くと、銭湯「永楽湯」があった。レンガを積んで造ったようなタイル張りの玄関入口が渋い。
 永楽湯の開業は1951(昭和26)年ということだから、売春防止法施行より前から営業していたことになる。遊女も通ったのであろうか。
 全国で、銭湯もめっきり減ってきている。
 永楽湯から横浜橋商店街に戻って、再び商店街を歩いた。
 横浜橋商店街の行きつく先は中村川にぶつかる。ぶつかった通りの角に「三吉演芸場」がある。ここは戦前からある、一時は映画の上映もやっていた大衆演劇の劇場である。

 ここから、中村川に沿って北東の石川町方面に向かって歩く。
 前に「日本発祥の地を求めて、横浜」で、坂東橋駅から中村川に沿って歩き、山手公園、元町公園、港の見える丘公園方面を散策した。
 そのときは、この中村川の対岸である東側の「中村町」を歩き、「車橋」の交差点を右(東南)に曲がって、横浜駅根岸道路を打越の方に進んで山手公園に向かった。
 今回は、中村川の西側を歩き、「車橋」交差点のところ、つまり「長者町」1丁目になるのだが、そこで左(西)の通りへ入り、すぐの通りを右(北東)の「石川町」駅方面へ進んだ。
 そこが「寿町」だった。

 *ドヤ街と称される寿町を歩く

 横浜の「寿町」は、東京の山谷(東京都台東区)、大阪の釜ヶ崎(大阪市西成区あいりん地区)と並び称される「ドヤ街」である。
 ドヤとは「宿・やど」の逆読みで、簡易宿所が多く立ち並んでいる地区をドヤ街といった。

 私は寿町に何の知識もなかった。そして、横浜の有名繁華街の近くにこの街があることも知らなかった。JR石川町の駅からもすぐのところである。
 ドヤ街と聞けば日雇労働者がたむろしている少し物騒な街のイメージを抱きそうだが、寿町に足を踏み入れても何の変わりもなかった。いや、むしろ静けさが漂っているとさえ感じた。息を潜めているかのように、人の通りもない。
 しばらく歩くと、古い飲み屋が並んでいる一角に出た。まだ陽が残っている夕方だったので店はどこも開いてなく、それゆえ時代から切り離されて、そこに置かれているというイメージだ。(写真)
 近くに行ってみた。黄金町の旧ちょんの間通りの飲み屋街に似た空気がある。
 並んでいる家と家の間に狭い通路(通り)があり、その奥にも飲み屋があった。ここも、ロウソクの火のような小路である。
 建物と建物の間の狭い通りを歩いていると、確かに呼吸している空気の鼓動が伝わってきた。日の当たらない小路の中の店で飲むのも味があるというのは、経験上知ってはいる。

 飲み屋小路を出た通りには、建物はまちまちだが簡易宿所と思しき建物があちこちに目についた。
 通りの先に、この街では異色のモダンな建物が目に入った。それが「健康福祉交流センター」であった。名前の通り、いかにも健全そうな建物だ。
 建物には、ラウンジがあり、なかには図書コーナー、診療所、はたまた銭湯(公衆浴場)もある。その横に、ハローワーク(公共職業安定所)がある。
 寿町は、福祉の街になっていた。日雇い労働者はいないようだが、ドヤ(簡易宿所)は、街のそこらにあり、ドヤ街は静かに活(い)きていた。

 健康福祉交流センターの先(北)の通りを中村川の方に進んだところに1軒、居酒屋「浜港」があった。何やら謂れがある店のようだ。なかを覗いてみると昔の居酒屋然としているのに、奥にポツンと場違いな感じでジュークボックスが置いてあった。
 懐かしいオールディーズでも流れているのだろうか。

 *若葉町でのタイ料理

 寿町をあとにして、この日の出発点の西(関内・伊勢佐木町)方面に向かった。
 寿町から、縦の南北の通りの「扇町」、「翁町」、「不老町」、「万代町」を突っ切り、「大通り公園」を渡って、「蓬萊町」、「羽衣町」、「末広町」を過ぎて、「伊勢佐木町」に出た。
 この辺りは、通りが町の名前になっているので、町のオンパレードだ。
 伊勢佐木町を南下し、タイ街の「若葉町」に行った。日も暮れたし、せっかくだからタイ料理を食おうという細(ささ)やかな魂胆である。
 前に通ったとき見た、タイの古い国名の「シャム」(SIAM)という名が気にいったので、その店に行ったら閉まっていた。それで、タイの王宮らしい店構えの「J's Cafe' & Restaurant ジェイズカフェ&レストラン」の扉を開いた。
 店内は明るく、男1人と2人の女性、数人の中年女性グループがいた。座ってメニューを見ながら観察すると、客はすべてタイ人であった。女性グループは近所に住むタイの奥様仲間なのだろう、陽気なおしゃべりに花が咲いていた。
 料理は、中華料理風のメニューが多く、味も中華に近い味であった。とはいえ、タイ特有の甘辛い「トム・ヤム・クン」は欠かせない。中華風タイ料理を堪能して、店を後にした。
 ところで、男1人と2人の女性の客であるが、女性同士は話をしなかった。一人は普通の平凡な感じで、もう片方は化粧が濃かった。3人はどういう関係なのか、最後までわからなかった。注意深く観察していたわけではないが、すぐ後ろに座っていたので、何となく……。言葉もわからず、訊くわけもいかず。どうでもいいことではあるが。
 
 タイ料理店をあとに伊勢佐木町の通りに戻り関内駅に向かう途中、「長者町」との交わるところで見つけたのが、「シネマリン」という古い歴史を持つ名画座である。
 入口辺りだけで、いかにも風雪に耐えた映画館という風情がある。上映スケジュールを見ると、新旧織り交ぜた個性的な内容で通好みなのがわかる。近くに住んでいたら、通っていただろう。

 伊勢佐木町からJR関内駅に着いた。
 今回、横浜の関外の大岡川と中村川の間の、裏の横浜というべき通りや盛り場を主に歩いた。そこで、関内の「ブルーライト・ヨコハマ」とは別の奥深い魅力を知ることになった。

 この得体のしれない地域の横浜を、「トワイライト(twilight)・ヨコハマ」と呼んでおこう。
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横浜・盛り場ブルース④ 「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を求めて

2024-04-10 03:42:25 | * 東京とその周辺の散策
 街の灯りを 求めてさ迷う
 どうせ気紛れ あてもなく
 ここは横浜 長者 福富 伊勢佐木町

 先の1月に「横浜・盛り場ブルース」の関外・散策を行った。
 大岡川沿いの黄金町からスタートし、末吉町、若葉町、宮川町、長者町、日ノ出町、宮川町、野毛町、福富町、伊勢佐木町と巡った。
 帰った後、青江三奈のヒット歌謡、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑があることを知った。すぐに、一緒に歩いた湘南の士から「伊勢佐木町まで行ったのに、その1本隣にある「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を見なかったということは、近々リベンジしないといけないですね」と連絡があった。
 それで、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を求めて、「横浜・盛り場ブルース」リベンジ行を実施した。

 *関内から出発して、伊勢佐木町へ

 2024年2月14日、JR関内駅を午後出発し、まず関内の基原ともいえる「吉田橋」へ。そこから、伊勢佐木町を歩いた。

 「伊勢佐木町」は、関内・吉田橋ふもとから南北(地図上では上下)に延びた通りに即した横浜市中区の町である。
 吉田橋のふもとから伊勢佐木町1丁目が始まり、通りの東側通りは「末広町」で、西側通りは「福富町」である。2丁目で東西(地図場では左右)に延びる通りの「長者町」に遮(さえぎ)られる。
 分断された長者町の通りを超えたら伊勢佐木町は3丁目となり、4、5丁目と延びていく。伊勢佐木町の東側は「曙町」、西側は「若葉町」と変わり、西側はその先でさらに「末広町」に変わるが、伊勢佐木町はその先7丁目まで延びて南区の「南吉田町」と接する。通りの長さは約1.4km。
 現在、長者町に遮られるまでの1丁目と2丁目は「イセザキモール」と呼ばれ、3丁目から 7丁目は「伊勢佐木町商店街」と呼ばれている。

 *「伊勢佐木町ブルース」の歌碑

 街の並木に 潮風吹けば 
 花散る夜を 惜しむよに 
 伊勢佐木あたりに 灯かりがともる

 明るく賑やかなイセザキモールを過ぎ、伊勢佐木町4丁目の通りに、まるで忘れもののように突然、「伊勢佐木町ブルース」(唄:青江三奈、作詞:川内康範、作曲:鈴木庸一)の歌碑があった。
 歌碑はよく見られる歌詞が刻まれた石碑ではなく、グランドピアノをモチーフとしたモダンな作品のようなものだった。歌詞とともに歌っている青江三奈のレリーフが刻まれている。青江三奈の死去から約1年後の、2001年に建てられた。
 歌碑の後ろの歩道に沿って青江三奈の写真が掲示してある。歌碑とセットでのカメラの写し映えを狙ったものであろう。(写真)
 台座部分にあるスイッチを押してみた。すると、あの伊勢佐木町ブルースの歌が流れてきた。
 「あなた知ってる 港ヨコハマ……」
 この歌詞が始まる前に、「あふん」とか「うふん」とか、吐息というかため息が流れる。
 街中に、しかも朝や昼からでも流れるものであるから、ため息は少し控えめの軽い声になってはいるが、やはり省いてはいなかった。伊勢佐木町ブルースといえば、このため息抜きにはありえない。
 この歌が発売されたのは1968(昭和43)年であるが、初めて聴いたときは多少の驚きは隠せなかった。誰もがそうだっただろう。
 いきなり、ハスキーな女性の声で「あふん」である。よく放送禁止にならなかったなあと思う。いろいろ物議をかもしたが歌は大ヒットし、歌った青江三奈はスター歌手になった。
 同時期「女のためいき」でデビューした森進一と共に、「ため息路線」と呼ばれた。

 青江三奈の歌では、私はその翌年の1969年に発売された「池袋の夜」(作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)が好きである。
 「……美久仁(みくに)小路の 灯りのように 待ちますわ 待ちますわ さようならなんて 言われない 夜の池袋」
 池袋は何度も行って飲食しているのに美久仁小路には足を踏み入れていないので、ぜひ行かなくてはいけないとずっと思っている。
 つまり、路地裏のような「小路」が好きなのである。

 街の灯りがともるころは、かつての伊勢佐木町は今よりずっと艶っぽかったのだろう。
 ため息の街、伊勢佐木町。
 通りを歩きながら、ため息をついてみた。

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