かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

古都の香り、慶州・仏国寺--韓国への旅⑤

2008-05-30 01:28:31 | * 韓国への旅
 5月16日(金)、日も暮れて暗くなった頃、仏国寺からホテルのある慶州のバスターミナルに戻った僕は、食事をするところを求めて灯りのある通りを散策した。
 バスターミナル周辺が、慶州の街の中心だろうか。いくつも交錯する路地には、ぽつりぽつりと灯りが点り、食堂や小さなお店やコンビニが点在するのだが、人通りが少ない。歩いて感じるのは、若い人が集まる店がないのだ。だから、華やかさ、陽気さがない。
 やはり、この街は遺跡や寺院を見てまわるところなのだ。僕のように、街の猥雑さに引かれて旅する者には物足りない。

 路地を歩きまわった末に、地元の人間が何人か食事している食堂に入った。玄関の上の壁には、何種類かの料理の写真が並んでいる。地元の人間が食べている店だから、まずくはないだろう。
 店に入ると、壁にハングルと値段が書いてある紙が貼ってある。しかし、見てもさっぱり分からない。テーブルに座った僕が、主人にメニューないかと言うと、主人は玄関を指さした。あの壁に貼ってある写真を見ろというのだ。
 美味そうな鍋の写真を指さし、あれをくれと言うと、主人はあれはやめた方がいいというジェスチャーをした。
 僕は、テーブルに戻りガイドブックを取りだし、写真によく似たキムチジョングル(キムチ鍋)を指さし、これはないですかと訊いた。
 すると、主人は、これは4人前で、1人は無理だと重ねて言った。主人が話すのは韓国語だから、意思伝達がもどかしい。散々やりとりをしたあと、主人が勧める○△□にした。
 出てきたのは、小さな鍋で、豚の骨付き肉と野菜をキムチ味の汁で煮込んだカムジャタンのようなものだった。ご飯とキムチが出され、鉄の箸とスプーンが置いてある。一人用にはちょうどいい量だ。
 僕が、豚の骨付きをかぶりついていると、僕が店に入ってきたときからずっと僕を見ていた、前のテーブルにいた男が、こうして食うのだと箸を持って、手本を示そうとする。男には連れの別の男がいたのだが、もう話すこともなく飽きていたところに、僕が入ってきたのだろう。すでに、相当焼酎も飲んでいるようだ。野卑な顔だが、悪い人間ではなさそうだ。
 僕が、うんうんと頷くと、皿にご飯はこの鍋にスプーンで入れるのだと、男は僕のテーブルまでやって来て、僕の手にスプーンを握らせようとする。
 僕も、面白いから、彼の言葉としぐさに頷いていたら、彼は僕に焼酎はどうかと勧めた。僕はビールを飲んでいたので、断わった。それでも、彼は僕の食べるのをまじまじと見るのをやめず、どうだコリアン、グーだろうと、目が合うたびに女お笑い芸人のように「グー」を連発した。
 そのうち、男の連れも帰り、僕もあまり見られるのにうんざりしたので無視を決め込んだら、男は名刺を取りだし僕に渡した。それをうんうんと受け取って見たが、FM○○と数字番号がいくつか書かれていたが、どんな職業かよく分からない。想像するに、書いてあるのはFMラジオの周波数で、運転しながらそこに合わせるための数字で、長距離運転手ではないかと、勝手に思った。
 彼は、連れもいなくなり、僕も反応(対応)しなくなったので、やることがなくなり、酒ももういっぱいになったようで、「テレフォン、テレフォン」と僕に言って出ていった。
 店の主人は、苦笑いをしていた。
 
 慶州の街をよく知らずして、その夜はホテルに帰って寝ることにした。バスの運転手が紹介した僕が泊まるホテルは、モーテルである。
 やはり、モーテルはカップルで入るところかなと思った。というのも、ベッドの前の台に避妊具が置いてあるではないか。何だか複雑な気持ちでベッドに入った。
 でも、運転手は何の注釈もなく、好意で僕にこのモーテルを紹介したし、受付のお姉さんも、何の違和感も抱かせず、にこにこと受け付けた。
 韓国では、モーテルは、シングルでもカップルでもいいのだろう、多分。そして、車でも徒歩でも。

 *

 慶州は、長年、新羅の王朝があったところである。
 日本がまだ倭と呼ばれていた時代、朝鮮半島は、百済、任那と新羅がしのぎを削っていた。そして、北の方からは高句麗が進出してきていた時代である。7世紀、新羅は朝鮮半島(北の方を除き)をほぼ統一する。
 紀元前1世紀から10世紀、新羅が高麗に取って代わられるまで、慶州に都があった。当時は金城といっていて、高麗太祖によって935年、慶州となった。
 ところが何と、歴史を紐解くと、987年から1012年まで慶州は東京と改称している。その後、再び慶州と戻したが、東京のまま今日までいたなら、日本の東京(明治に江戸から改称)はなかったであろう。
 だが、よく調べてみると、ベトナムのハノイが歴史的に東京城と呼ばれ、ヨーロッパ人がトンキン王国と呼んでいた時代があった。
 ちなみに、北京、南京は中国にあり、東京は日本である。残りの西京は、どこにもないようだ。
 室町時代、京都の西で栄えた山口を、明治期に遷都した東京に対し京都を、それぞれ西京と言ったことがあるようだが正式名称ではない。
 
 慶州は、あちこちに遺跡が残っている。
 バスの中からでも、あちこちに円墳が見える。
 慶州の古い街並みと、仏国寺は、両方とも世界遺産である。
 23年前に来たときは、遺跡を見てまわったが、今回は慶州の遺跡巡りはやめて、仏国寺を見るだけにした。

 翌、5月17日(土)、慶州から三たび仏国寺に行った。
 仏国寺は、新羅時代に建てられた韓国第一級の名刹である。当時の建物は、文禄、慶長の役で消失したが、その後再建されたものである。
世界遺産だけあって、広い境内にいくつかの寺院と多宝塔があり、そのいずれもが美しい。
 韓国の寺院は、日本の寺と違って、軒先のます組や垂木、破風などの装飾に緑と橙色を使った色彩豊かなものが多い。
 建物の間を歩いていると、「チャングムの誓い」の世界だ。

 仏国寺を見回ったあと、慶州駅に行き、15時29分発の列車で釜山に行くことにした。釜山には、17時37分着の予定だ。
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仏国寺に浮かぶ月--韓国への旅④

2008-05-27 18:10:44 | * 韓国への旅
 5月16日(金)、朝9時にソウルの清涼里駅を発った列車は、慶州を過ぎて、夕方15時42分、仏国寺駅に着いた。
 慶州では何人かが降りたったが、仏国寺駅で降りたのは僕一人だった。多くの人が、慶州からバスで世界遺産であるお寺の仏国寺へは行くのだ。バスで、慶州から仏国寺までは約30分の距離だ。
 仏国寺駅で一人降りたった僕は、太った若い駅員に、寺へ行くバスはどこで乗ればいいのか訊いたら、駅を出てまっすぐのあそこですと街中を指さした。すると、横にいた若い女性の駅係員に脇をつつかれて、私が案内しますからと歩いていき、バス停まで連れてきてくれた。
 本当に、韓国人は親切だ。
 とりあえず、仏国寺の寺へ行こう。そして、その近くにホテルをとろうと思った。
 23年前に来たときは、寺の近辺にはホテルは豪華なコーロン・ホテルと仏国寺観光ホテルしかなく、もちろん僕は後者に泊まったのだった。
 ガイドブックを見ると、今は慶州から仏国寺の間にある普門湖周辺に、現代やヒルトンなど豪華なホテルが乱立している。
 しかし、仏国寺の周辺はいまだホテルはコーロンと仏国寺観光ホテルだけだが、ユースホステルがいっぱい建っていた。
 寺のあるバス停で降りた。
 すぐにインフォメーションに行って、この近くのホテルを探しているのだが、仏国寺観光ホテルは空いているかと訊いてみた。ガイドブックには休館中とあったが、もう開いているかもと思ったのだ。係の女性はすぐに電話で問い合わせてくれたが、やはりホテルはまだクローズしていた。
 コーロン・ホテルの方はどうかと訊かれたが、そんな豪華ホテルに泊まる気はない。係員は、ほかは歩いてユースでも探すしかないが、今日はここはやめた方がいいと言った。
 それでも、歩いてユースでもどこでも探すかと地図を見ながらぶつぶつ言っていたら、係りの女性が、「あの停まっている大型バスを御覧なさい。今日は金曜日だし、学生の団体がいっぱい来ています。ですから、この辺のユースはどこも学生でいっぱいで、それに泊まれてもとてもノイジーだと思いますよ。この季節、週末はいつもいっぱいです。ここはやめて、慶州のバス・ターミナル周辺に戻った方がいいですよ。そこには、新しいホテルがいっぱい建っていますから」と言った。
 確かに、バスの停車場(駐車場)には、貸切の大型バスが10台近く並んでいた。
 僕がそれでも、この近辺で探したいと言うと、係員は「私はいいアイデアは持ちあわせていない」と苦笑した。
 僕は、仕方なく慶州に戻ることにした。
 
 慶州のバス・ターミナルへ行くためにバスに乗った。
 僕が、運転手に「慶州、バス・ターミナル?」と、たどたどしく訊き、料金もいくら払うのか戸惑っていたので、運転手は僕が日本人の旅行者とすぐに分かったらしく、千W札を出したところで、それでOKと合図した。
 僕はバスに乗るときは、なるべく運転手の反対側の一番前の席に座ることにしている。景色が前と横と最もよく見えるからだ。
 一番前の座席に座って前方を見ていると、運転手が日本語で話しかけてきた。なかなか流暢な日本語だった。
 「日本語が上手ですね。どこで勉強したのですか」と訊くと、彼は、自分の子どもが小さいとき、日本人の留学生をホームステイさせていたと話した。今は、子どもが大きくなって、各々部屋を独り占めにしたから、できないけどねと続けた。
 僕が、「バス・ターミナルの近くにホテルはありますか?」と訊くと、新しいホテルがたくさんできていますよと答えた。
 「よかったら、私が案内しますよ。どうせ、降りて食事に行きますから」と言ってくれた。
 バスが、終点のターミナルに近くなると、インフォメーションの係員や運転手が言ったように、ホテルの名前が付いた高層ビルが目に付いた。
 ターミナルに着くと、彼はすぐ裏のホテルに僕を連れて行った。できたばかりというように、玄関に開店祝いの花輪が飾ってあった。それは、フランスの有名なミュージカル映画にもなった地名を名前に付けたモーテルだった。
 窓口には、がっちりした体格だが明るい愛嬌のある女性がいた。運転手が韓国語で何やら言ってくれた。料金は五千Wだった。
 「高ければ、もっと安いところもありますよ」と運転手が言ったが、僕はここでいいと、鍵をもらった。
 運転手は、紙に電話番号を書いて、「何かあったら、私に電話してください」と言って、僕に手渡して、「私は食事に行きますから」と、歩き始めた。
 僕が、「この荷物を部屋に置いてきますから、僕もまだ食事していないので一緒に食事しましょう」と言ったら、彼は、「いや、あの二階に社員食堂があってそこで食べますから、あまり美味しくはないですけど。それに次のバスが何時何分ですので、あまり時間がないので、ごめんなさい」と言って歩いていった。
 僕は、ホテルを紹介してくれた親切に、食事ぐらいご馳走しようと思っていたのだが、それを期待してもいないので、この人はいい人だなと再確認したのだった。

 部屋に荷物を置いて、再びバスで仏国寺に行った。
 バスに乗ったら、料金は今度は千五百W取られた。
 仏国寺に戻っては来たものの、寺を見てまわる時間は過ぎているのは明らかだった。もうインフォメーションも閉まっていた。
 仏国寺の周辺は人も少なくなり、空が赤く燃え、日が落ち始めた。寺も閉門したのか、観光客は帰り始めたようだ。僕も慶州に戻ろうと思った。
 その前に、気になることがあった。
 
 *

 23年前、この仏国寺にやってきたとき、お土産屋に案内された。そこのお土産屋の女性が、かつて日本に住んだことがあるということで日本語が少し達者だった。 その女性と、店が終わったあと、コーロン・ホテルでショーを見て、お茶を飲んだのだった。
 コーロン・ホテルは当時外国人専用のホテルで、カジノもあり、現地の韓国人は勝手には入れず、外国人と同伴でないと入れないと、あとで彼女から聞いたのだった。
 その彼女がいたお土産屋を覗いて見ようと思った。
 お土産屋があるところに行ってみたが、記憶は曖昧である。
 お土産屋が集まっている辺りを歩くのだが、はっきりと思い出せない。お土産屋は高麗を冠した漢字の店名だったのだが、今並んでいる店はすべてハングルである。
 歩いている現地の人に、お土産屋と彼女の名前を書いた紙を見せて、どこか訊いてみた。その人は首を傾げているので、やはり店仕舞いしたのだろうなと思って諦めて帰ろうとしたら、そこを通った年配の人に、僕が訊いた人が僕のメモ紙を見せた。年配の人はそれを見ていて、あの店だと指差した。そう言われれば、そこだったかもしれないという店だった。
 店に行ってみると、奥から赤ら顔のおばちゃんが出てきた。
 僕が、店と女性の名前を書いたメモを見せると、おばちゃんは頷いた。僕が、メモの名前を指さして、「あなたが、この人か?」と訊いたら、そうだと頷いた。
 どう見ても、面影が見つからない。あの優しい表情やしぐさはどこにもない。写真にも撮ってあったのだ。
 当時27歳だったから、今50歳である。
 パズルのように繋ぎ合わせようとするのだが、どうしても繋がらない。ジグソーパズルの刳り抜いた型に、持ってきた型がどう動かしてもちゃんと合わないときの苛立ちに似た感情だ。
 そんなに、人は変わるものなのか。
 僕は、まじまじと彼女の顔を見つめた。
 そして、「僕は、23年前、ここに来て、あなたとコーロン・ホテルに行ってお茶を飲んだが、覚えているか?」と訊いたら、やはり頷いた。
 やはりそうなのか。それにしては、感情が表われていないように思われる。懐かしいとか久しぶりだという表情が、ちらとも表われない。彼女は頷いてはいるが、もう忘れたのかもしれない、ただ話を合わせるために相づちを打ったのかもと思った。店の名前も彼女の名前も、そうだというのなら、そうなのだろう。
 それにしても、あのときの女性がこの人かと思うと、センチメンタルな気分はすっと消えていった。
 日も落ち、辺り一面、暗くなってきた。
 おばちゃんは、暗くなるから早くバスに乗りなさいとバス停を見ながら言った。僕は、「明日また来るから」と言って、バス停に向かった。
 
 バス停で、バスが来るのを待ちながら空を見ると、白い月が出ていた。
 年月は残酷だと思った。
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列車で、慶州へ--韓国の旅③

2008-05-23 14:41:51 | * 韓国への旅
 韓国の鉄道は、高速鉄道のKTXのほかに、KOREIL(旧韓国鉄道公社)がある。日本でいえば、新幹線以外の在来線がKOREILといえよう。
 今日5月16日(金)は、ソウルを発って、慶州へ向かうことにした。
 高速列車やセマウル号で釜山まで行き、釜山から慶州へ行くのが速いのだが、今度は別ルートでゆっくり行くことにした。
 ソウルから半島の南の方を周る中央線といわれるもので、提川、栄州、安東、氷川を経て慶州へ行くコースである。
 ソウルのターミナル駅は4つあり、中央線の発着駅はソウル駅でなく清涼里駅である。時刻表を見てみると、この中央線で慶州まで行くのは、朝と夜の2本しかな かったので、朝9時清涼里発の列車に乗ることにした。
 韓国の乗車券は、普通列車でも座席指定となっている。だから、普通列車だからといって飛び乗りはできない。予め窓口で行き先を言うと、座席指定の切符をくれる。
 僕は、福岡―釜山の船の往復と韓国鉄道パス5日間のセットを買ったので、釜山駅の窓口でもらった鉄道パス(日本での指定券と韓国の鉄道窓口でパスを交換するシステムになっている)を見せて、目的地までを言えば切符をもらえることになっている。

 *

 ソウルの清涼里駅から慶州までの切符を受け取って、列車に乗った。
座席は、通路を挟んで2席ずつである。
 僕は運よく窓側であった。
 ところが、僕の隣り横と、通路を挟んだ2人が一緒の3人グループのおばちゃんだった。おばちゃんのグループは苦手だなと思って座った。案の定、べちゃべちゃとしたおしゃべりが始まった。
 列車が、静かに動き出した。
 すると、隣りに座っているおばちゃんが、僕にいきなり「コーヒー飲むかい?」と言った。韓国語で言ったので、おそらくそう言ったのだ。僕は、思わずうなずいた。すると、紙コップに、ポットから注いで、僕に渡したのだ。
実は、朝のコーヒーが飲みたかったのだ。
僕は嬉しくなって、覚えたばかりの「カムサ・ハムニダ」(ありがとう)を連発した。
 お返しに、昨日南大門の市場で買った干しフルーツを配った。
 本当に、韓国人は見ず知らずの人間にも親切だ。おばちゃんであろうと、だ。
僕はおばちゃんに、時刻表を見せながら、どこへ行くのか訊いてみた。ヨ○△□ジュと言っているようだが、どこだかさっぱり分からない。僕が、栄州(ヨンジュ)を指差して、ここですかと訊くと、うんうんと頷いている。
 そうか、4時間ぐらいかかるところなので結構遠くまで行くのだなと思っていると、意外と1時間ぐらいで、「さよなら」と言って降りていった。時刻表を見てみると、楊平(ヤンピョン)であった。う~ん、韓国の地名、発音は分からん。
 それからは、隣りに座る人もなくずっと一人旅だったので、昨晩買っておいたリンゴや干しフルーツをかじりながら、気楽に車窓を楽しんだ。
 僕の後ろの席には、韓国の古式豊かな服を着たご老人が座っていた。渋い。
 韓国の中央部は、高層ビルもなくのどかな風景が続いた。時折、古くても門構えがしっかりした家に出くわした。

 この列車は、慶州が終着駅だと思っていた。というのは、このページの最初(始発駅)はソウルの清涼里で、最後は慶州になっていたからだ。しかしよく見ると、最後が慶州だが、その先は○ページを見よとなっている。そのページを開いてみると、慶州の先に続いていて釜山の釜田駅まで行く列車だった。
 慶州の次が仏国寺である。慶州で降りて、すぐに仏国寺に行く予定だったので、車掌をつかまえて、切符を見せて、仏国寺まで行きたいので変更してくれと申し出た。
 棟方志功を若くしたようなまじめそうな車掌は、はいはいと言って、電子手帳みたいなものを出して、なにやら打ち込んでいた。しかし、なかなかうまくいかなかったのか、ちょっと待ってくれと言って、奥へ引っ込んだ。
そして、30分ぐらいして、やって来た。
 そして、僕の隣りに座って、また電子手帳に打ち込み始めた。少し要領は悪いが、まじめな人なのだ。
 悪戦苦闘して、僕に電子手帳に写った仏国寺の文字を見せ、これでいいのだなというようなことを言った。僕がうなずくと、印字した紙(レシート)が出てきた。それには、ハングルに交じって慶州、仏国寺という文字が見え、700W(約70数円)と書かれていた。
 僕に、追加料金の700Wを払えと言っているようだ。
僕のパスは、韓国鉄道はどこでも乗れるフリーパスだから、仏国寺まで延長しても払わなくてもいいはずだと言い張った。車掌は、いや、そうではないと熱心に唾を飛ばさんばかりに、彼も言い張った。
 彼は韓国語オンリーだから、何を言っているのか詳しくは分からない。だけど、両手でバッテンを繰りかえし、700Wは正当だというジェスチャーを繰り返すのだった。
 このままではにっちもさっちもいかないし、大きな額ではないので、僕は千W札を出した。といっても、額の問題ではないと思っていたので、頭を傾げながらであった。
 彼は、それを受け取って300Wの釣りを渡した。
 それでも納得していない僕は、これはフリーパスなのにおかしいと頭を傾げ、納得はしていないといった態度を彼に示した。すると、彼は少し眉をひそめ、僕に千W札を戻し、300Wを返すように言った。
 今度は、僕が驚いて、いや、いいですよと言った。彼の態度を見ても、彼は納得して戻そうとしているのではないと分かったからだ。彼は僕に千Wを手渡し、僕の手から300Wを取って、その紙(レシート)を仏国寺で見せればOKだからと言った。 そして、彼は去っていった。
 少し、気まずい思いが残った。
 彼が正しいのかもしれない。わけの分からない頑固な日本人旅行者のために、彼が身を引いたのかもしれなかった。
 あの電子手帳に残った700Wは、どう処理されるのだろうか、と考えた。

 慶州を過ぎて、列車は15時42分、仏国寺駅に着いた。
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ソウルの街の灯り――韓国の旅②

2008-05-22 00:53:16 | * 韓国への旅
 5月14日の夜、釜山から列車でソウルに着いた僕は、すぐにソウル随一の繁華街明洞(ミョンドン)に向かった。
 23年前も、明洞にあるホテルに泊まったのだった。
 そのときのことだ。夜、この通りを一人歩いた。新宿のようの猥雑さを感じて、僕は好きな街だと直感した。まだ街としては混沌としていたが、エネルギーが漂っていた。本屋には、日本のファッション雑誌が並んでいた。
 ぶらぶらと明洞の通りを歩いていると、若い男が近づいてきて「日本人ですか?」と訊いてきた。僕は、「どうして、僕が日本人と分かったのか?」と訊き返した。すると、その男は僕の足を指差して、少しにやりと笑って、どうですとばかりに言った。「その靴は、韓国では売っていません」。
 そのとき僕は、レノマのツートンカラーのカジュアルな靴を履いていた。そして、なるほど、こんなところまで見ているのかと、妙に感心したのだった。
 その頃、韓国人は西欧の風俗に飢えていたのかもしれない。かつての日本がそうだったように。

 今の韓国は、日本と同じでどんなブランドものでもあるだろう。
 いや、通りの露店では、ヨーロッパの有名なブランド品が日本では買えない超格安で売っている。いや正確に言うと、ブランドモドキであるが。
 明洞に、ユニクロもあった。何だか、高級品店の雰囲気である。まあ、ユニクロが銀座4丁目に進出する時代であるから、どこにあっても驚くことはないだろう。
 ソウルの発展は、ドラマ「冬のソナタ」の街並みで垣間見ることができた。
 明洞の通りを歩いていると、ここが韓国だということを忘れてしまうほどだ。行き交う人も顔も日本人と変わらない。ハングル文字だって、東京の赤坂や新宿・大久保通りを通れば氾濫している。

 明洞の1軒の料理店に入って、海鮮鍋を食べた。
 様々なキムチが付け出しとして、並べられるのがいい。
 韓国では、ご飯や麺を頼んでも、何種類かのキムチが自動的に付く。それに、このキムチはお代わり自由だから、なんとも嬉しい。インドでターリー(定食)を頼むと、何種類かのカレーのおかず皿が付くのと同じだ。
 キムチは当然辛いので、ビールが美味い。いや、ビールがすすむ。
 でも、韓国のビールは少し水っぽいと感じる。料理が辛いからばかりとは言えない気がする。アルコール度数は、4.5度と表示。
 明洞の夜は、いつまでも暮れないのではと思うように、ネオンがきらめいていた。(写真)

 翌5月16日は、明洞から南西にある南大門の方へ歩いてみる。
 南大門は、韓国国宝1号(事務上の意味だが)で、今年放火で門の上の建物が消失したところだ。
 行ってみると、復元修復のため囲ってあり、その囲いには元の姿の絵が描かれていた。車で通り過ぎたなら、そこにそんな建物があっただろうと思わせるような、おそらく原寸大の絵なのだろう。復元までには22億円の費用と数年を要するそうだ。
 南大門の近くには市場がある。
 ここはすごい。アメ横をもっと路地裏っぽくした感じで、露店がひしめいている。それに、安い。特に、海苔は小さな箱入りになっていて、抱えるように積まれて日本円で500円とかの値段だ(さらにもっと安い値段のところもあるようだ)。

 南大門から北に歩いて行くと、徳寿宮があった。
 正面に、大漢門が聳えている。秀吉の壬辰の乱(文禄の役)で、一度すべての宮殿が焼かれたのだが、その後、皇宮となったところだ。
 いきなり、古式豊かな服を着た将校の行進が始まった。旗を持ち、剣を持っている。服装も華やかだ。あの「チャングムの誓い」の王の将校のようないでたちである。
 守門将交代式が行われたのだった。
 通行人や観光客はみんな足を止め、門の前は通行止めになるほどの人だかりとなった。
 モナコの王宮でも、定刻にこの式が行われるが、規模と華やかさでは韓国が勝っている。
 日本の皇居でも行われれば、観光としてもっと人気になるのではと、思ってしまった。

 夜は、再び明洞に戻り、プルコギにキムチである。
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釜山港へ帰れ -- 韓国への旅①

2008-05-20 02:42:36 | * 韓国への旅
 1970年代後半に、「演歌の源流を探る」と銘打って、韓国の歌手、李成愛が歌った「釜山港に帰れ」が日本で流れた。それまで、「アリラン」などの古い歌が紹介されることはあったものの、韓国の歌が日本で流れるのは珍しいことだった。
 「釜山港へ帰れ」は、あたかも日本の流行歌のように歌われた。その李成愛がレコードのPRのために来日した際、当時雑誌で音楽欄を担当していた僕のところに、レコード会社の宣伝担当が彼女を連れてきた。会うと、彼女が日本語を流暢に話したのには驚いた。それに、かなりのインテリだった。
 しかし、残念なことに彼女はすぐに結婚し、あっさり歌手を引退してしまった。 その曲が日本でヒットしたのは、それよりしばらくたった80年代になってからで、当時の韓国人気歌手チョー・ヨンピルによってだった。
 僕が歌にひかれて、韓国へ旅したのは1985年のことだった。
 当時まだ韓国は近くて遠く国で、ビザが必要な国だった。それに複雑な歴史関係もあって、海峡を越えるには何か二の足を踏むものがあった。日本には韓国の現実を知る文化や風俗の情報はほとんど入ってこなかったし、韓国でも日本の歌や映画などの文化の流入は一部を除いて規制していた。
 それでも、何か惹かれるものが存在していた。
 「椿咲く、春なのに……トラワヨ、プサンハンヘ……」
 僕は、一人船で釜山へ渡った。
 当時、下関(山口)から釜山へ、週3便の船が行き来していた。下関の港は、国際港の風景とは程遠く、侘しささえ漂わせていた。
 夕方、下関を出た船は、翌日の早朝釜山の港に入っていった。
 そのときは、釜山から慶州、そしてソウルに行き、再び釜山へ戻る旅だった。

 *

 最近は、福岡から釜山までフェリーが出ていて、気軽に韓国に行けるのは知っていた。
 この5月、佐賀の実家に帰っていた僕は、佐賀の駅前でそのフェリーのチラシを見て、ふと釜山へ行くことを思いたった。
 5月14日(水)福岡港10時15分発、釜山港13時10分着の便を予約した。5日間のお得なチケットを買った。とりあえず、その日に釜山から列車でソウルまで行こうと計画した。

 5月14日、僕にしては早く家を出た。というのも、特急の停まらない佐世保線の在来線は本数が少ないのだ。
 最寄りの駅を7時1分に出て、肥前山口発7時14分発の特急みどり2号に乗ると、博多駅に8時11分に着く。博多駅前から港へはバスで15分ぐらいで着くので余裕の時間だ。
 肥前山口駅を出て次の佐賀駅の間の列車の中で、パスポートを入れている小さなショルダーバッグを家に置いてきているのに気づいた。ああ、何としたことだ。
 戻るしかない。
 戻るとなると、予約したチケットは無駄になり、計画を立て直さないといけないと思った。
 佐賀駅から肥前山口を経由して家に戻ったとき、時計を見たら8時30分だった。このまますぐ次の8時42分発の列車に乗り、肥前山口で特急に乗り換えても、博多駅着は9時53分で、博多港の出航時間10時15分に間に合わないだろう。
 船の案内書を改めて見たら、出航45分前にチェックインを済ませるように、30分前に出国審査を済ませるように、15分前までに乗船口に入るようにと記載されている。
 そして、船の時刻表を見たら、あいにくその日(水曜日)の次の便は15時発までなく、それに乗ると18時ごろに釜山着で、その日のうちにソウルに行くのが難しくなる。
 それで仕方ないと思い直し、次の便の席が空いているかどうか、家に着いて船の予約センターに電話を入れた。
 「すみません、10時15分発の船に乗る予定なのが遅れまして、電車が博多駅に着くのが9時53分で、それからそちらに行ったのでは、出航手続きは無理ですよね。間に合いそうもありませんので、キャンセルしたいのですが」
 すると、電話に出た受付の人が、「当日キャンセル料の払い戻しは出航時間の10時15分前までに申し出てください。間に合うかどうかは、私のほうでは分かりませんから、来てからにしてください」と、意外な返事が返ってきた。
 要するに行ってみることだ、と思わせた。いや、一瞬そう思った。
 僕は、もう一度時間を巻き戻すように、再び家を出て最寄りの駅に走った。
そこから肥前山口9時7分の特急みどり6号に乗り換え、博多駅に着いたのが定刻通り9時53分。
 すぐに駅前でタクシーを拾って、運転手さんに「すみません、10時15分の船に乗りたいのですが、博多港国際ターミナルまで急いでくれませんか」と言うと、運転手は「10時まであと2分しかないので、それは大変ですな」と他人事のように言いながら(まあ、他人事であるのだが)、追い越し車線を要領よく突っ走ってくれた。
 博多港に着いたのが、10時5分。
 走って、乗船カウンターのところへ向かった。見えるのは、受付け嬢がカウンターに3人並んでいるだけで、もちろん客は誰一人としていないがらんどうだ。
 「10時15分の船に乗りたいのですが」とカウンターで僕が予約チケットを差し出すやいなや、受付嬢は船内に電話連絡している。指示されるまま、僕にしては迅速で無駄のない動きで矢継ぎ早の出国手続きを行い、完了が10時10分。
 汗をかきながら船に乗ったのは、出航4分前だった。
 出航は、定刻通り。
 何はともあれ、諦めかけていた予定の船に乗れたのだった。
 やれやれ、出発前から波乱含みであった。

 *

 13時10分、船は釜山港に滑り込んだ。
 23年前の「釜山港へ帰れ」の哀愁はない。
 あのときはハングルも分からず(今でも分からないが)、英語も日本語も通じないであろうという不安が胸をよぎっていた。それに、一人何の目的もなく、ぶらりとバッグを下げて船を降りる人間もいなかった。

 港内の銀行で、適当な額をウォンに両替して(円との交換比率は、100円が973ウォン(W)であった)、港を出た。
 釜山の街は一変していた。遠く、高層ビルが筍のようににょきにょきと聳えている。
 とりあえず、ソウルへの高速列車(KTX)やセマウル号の発着駅である釜山駅に行くことにした。それには、地下鉄が一番便利なようだ。地図を見ながら、近くの地下鉄中央洞駅に出た。
 地下鉄の改札口の自動販売機の前で、ぼんやり路線図を見ていたら、すぐに「どちらへ行くのですか」と訊いてくれる人が出てきた。そして、こうするのだと、やり方を示してくれた。路線図は、ハングルのほか漢字も併記されているので分かりやすい。
 韓国の地下鉄は、まず路線図で行き先の料金を確認して、ボタンを押して金額が表示されたら、お金を入れるというものだ。初乗りは大体1,000Wか1,100Wである。
 コインしか通用しないところもある。そういうところでは、窓口で買えばいい。
 改札は、チケットを切符穴に入れて、ハンドルのようなバーを回転させて中へ入り、出てきたチケットを取るというもの。あのパリのメトロと同じ、古いタイプだ。

 釜山駅に着いた。
 駅も、近代的な建物に豹変していた。
 駅ビルの中の本屋で、すぐに時刻表を買った。韓国の時刻表は、表の左渕にハングルで、同じ行の右渕に漢字で地名が載っているので分からないことはない。
 列車は速ければいいというものではないが、夜あまり遅くならないうちにソウルに着きたかったので、KTXに乗ることにした。KTXは、フランスのTGVシステムを導入した高速列車で、ソウルと釜山を結んでいる。ソウルからの帰りに、ゆっくりした普通列車に乗ればいい。
 窓口で、ソウルまでのKTXのチケットを頼むと、「14時台は無理なので、15時30分発はどうですか」と係りの女性が言った。そして、「通路側ですがいいですか」と訊いた。
 僕が、「窓側はないですか」と頼んでいると、僕が日本人だと分かった隣りにいた年配の係りの女性が、僕に応対していた係りの席に近づいてきてパソコンをいじりながら、「この列車は座席が後ろ向きになりますが、次の15時50分の列車でしたら前向きで窓側が取れます。それに、ソウルに着く時間は大して変わりません」と、日本語で口出ししてくれた。
 時刻表を見ると、20分遅れの発車なのに、到着は3分遅れにしか過ぎなかったので、その列車に決めた。
 韓国人の親切なおせっかいもいいものだ。

 KTXは、車幅は普通列車と変わらなく通路を挟んで2座席ずつだ。赤いジャケットを着たアテンダントが車内を案内する。
 僕の隣に座ったのは中年のおじさんで、すぐに茹でたスルメを取り出して食べだした。大分食べてから、僕にどうですかと裂いて渡した。僕が結構ですと断ると、バッグからお菓子(ビスケット)を取り出して、それを渡した。僕が、またいいですと断るジェスチャーをすると、彼はバッグから同じ菓子を取り出し、まだあるんだよという素振りをして笑った。僕は、今度は快く受け取った。
 そして、おじさんは名刺を出して、自分の仕事のことを韓国語とかたことの英語を交えながら喋りだした。僕は、時折頷きながら、車窓に目を取られていた。
 釜山を離れると、美しい田園がここかしこに広がった。流線的な不規則な棚田が、アナログ的な韓国人の人間性を表しているように見えた。
 KTXは、釜山から東大邸、大田に停まっただけで、ソウルに18時33分に着いた。
 ソウルに着くと、すぐに地下鉄で明洞(ミョンドン)に行き、その近くでホテルをとった。ソウルは、明洞から始まると言っていい(と思っていた)。

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