今日、世界はアメリカ・トランプ大統領の関税賦課をはじめ、その発言・行動に振り回されている感がある。
日本が欧米と初めて対峙した江戸時代の末期、関税自主権の喪失となった日米修好通商条約を思い出した。当時の江戸幕府から政権を引き続いた明治政府まで、条約改正に苦労した。
日本とアメリカとの関係を見ていると、ペリーに行きつく。170年前のことだ。
*江戸幕末期における、忍び寄る海外列強の目
マシュー・ペリーひきいるアメリカ合衆国(アメリカ)の艦船が江戸湾の入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に現れたのは、1853(嘉永6)年のことだった。
現れた艦船は蒸気船2隻を含む4隻で、浦賀周辺はもとよりたちまち江戸でも大騒ぎとなる。
やって来たペリーは、開国を促すアメリカ合衆国大統領の親書などを幕府に渡し、翌年の日米和親条約締結に至ることになる。
これより江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還の1867(慶応3)年までを、一般的に“幕末”と呼ぶ。
突然、浦賀沖にやって来たアメリカの艦船は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の船とはまったく違うものであった。黒塗りの船体の4隻のうち2隻は、帆以外に外輪を備え煙突からはもうもうと煙を上げている蒸気船だった。
それを見て、日本人は「黒船」と呼んだ。
幕末当時は、スペイン、ポルトガルがけん引した大航海時代に取って代わって、専業革命で力をつけたイギリスをはじめとした欧米列強国の植民地・市場獲得の競争の時代だった。
イギリス、フランスなどのヨーロッパの先進国が、アフリカ、南アメリカ大陸からインドや東南アジアを拠点に、さらなる市場の拡大を争っていた。
アメリカといえば、ヨーロッパの移民のもとに北アメリカ大陸の東海岸に生まれた国である。1776年のイギリスからの独立後、北アメリカ大陸(現在のアメリカ合衆国)の西部に向けた開発・領土拡大にエネルギーを傾けていたこともあって、海外進出は出遅れていた。
当時のエネルギーに目を向けると、産業革命により石炭の重要性は高まっていたが、石油はまだ開発が始まったばかりである。
そこで、灯火用や機械の潤滑油の油として、おもにマッコウクジラの鯨油が多く使用されていた。このため、欧米の国々は世界中の海で捕鯨を盛んに行っていて、アメリカの捕鯨船は太平洋の日本の沿岸にもやってきていた。
しかし当時日本の江戸幕府は事実上鎖国を敷いていたので、捕鯨船は容易には日本の領土へは入れなかった。
アメリカは、捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保も必要であった。
江戸幕府は、アヘン戦争(1840~1842年)で中国・清が敗れ、西洋列強国の強さを知ることになる。そこで、1842(天保13)年、忍び寄る西洋の列強国といくらかでも諍いごとを避けるため、異国船打払令を廃止し遭難船を救済する薪水給与令を定めた。
西洋の列強国の出方に神経を注いでいた矢先の、1853年、アメリカ、ペリーの黒船到来であった。
*ペリーの黒船は、アメリカからどうやって浦賀にやって来たのか?
最初に浦賀沖に来航したペリーの艦隊は、旗艦「サスケハナ」(外輪蒸気フリゲート)、「ミシシッピ」(同)に、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていた。
翌1854年、ペリーは再び3隻の外輪蒸気フリゲート「ポーハタン」、「サスケハナ」、「ミシシッピ」と帆走スループ「レキシントン」、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「サラトガ」、「サプライ」の5隻、外輪汽帆補給艦「サザンプトン」、計9隻で浦賀沖に現れた。
当時は、世界の海では帆船から蒸気船へ移行する過度期であった。
イギリス、フランス、アメリカなどが、スクリューや高圧エンジンの開発など、技術革新にしのぎを削っていた。
また、その後、燃料も石炭から石油へと移行していく。
横浜開港資料館に「ペリー提督・横浜上陸の図」がある。
1854(嘉永7・安政元)年、ペリー率いる艦隊が横浜に上陸したときの様子を描いた図で、作者は艦隊専属の記録を務めたドイツ系アメリカ人の画家である。2度目の来日のときの図であろう。
黒船が、なぜ浦賀にやって来たか?は、外国に門戸を閉ざしていた日本を開港させるためで、その内実は日本との交易のほか、本命の中国(清)の足場となる前進基地、補給基地の確保のため等、多くの思惑があったとされている。
ペリーの黒船はなぜ日本に来たのか?は、歴史教科書にも書いてあったので大体わかる。
しかし、以前からすっきりしない疑問があった。
黒船は、どうやってアメリカから浦賀に来たのか?である。
世界地図を見ると、日本とアメリカは広いとはいえ太平洋を隔てて隣同士である。
アメリカのペリーの黒船は、太平洋を渡って日本の浦賀にやって来た。
多分、アメリカの西海岸、サンフランシスコ辺りから太平洋を渡って来たのだろう。地理上から、それ以外にないだろうと漠然と思っていた。
しかし、確信はなかった。教科書にも書いていなかったからだ(今の教科書は知らないが)。
長年、そんな思いを抱いていたときのことだ。
「アメリカ・イン・ジャパン――ハーバード講義録」(吉見俊哉著、岩波新書)を見た(見たのだ)。そこに、思わぬことが書かれていた。
先に書いたように、アメリカが独立したのは1978年で、北アメリカ大陸の東海岸の一角、今のボストン、ニューヨーク、ワシントン辺りの13州からである。
当然、主な政府機関、軍港などは、その地域一帯にあった。
ペリーが西海岸から太平洋を渡ってやって来たとなると、捕鯨等の漁港はあったとしても、西海岸にすでに軍港があったことになりはしないか。
西海岸に軍艦を造るだけの港がなかったとしたら、東海岸の軍港から出港して西海岸に至ることになる。
となると、東海岸から西海岸の太平洋に出るには、まだパナマ運河は開通していないから、南米大陸を沿ってアルゼンチン、チリの最南端(オルノス岬)を通って出たのか?
南米最南端、ここから太平洋を渡って日本を目指すのは、地図を見ただけでも大航海で、困難な航路だと想像つく。
では西部開拓の空想の域を出ないが、アメリカの東海岸から西海岸へ陸路による船の運搬を考えてみる。しかし、最初の大陸横断鉄道が開通したのが、ペリー来日のずっと後の1869年である。
東海岸から西海岸へ、陸路で戦艦を運ぶことはありえない。
つまり、ペリーの黒船は東海岸から出発したのである。ということは、大西洋に向かって出港したのである。
「アメリカ・イン・ジャパン」には、世界地図付きで、ペリーの航海図が載っている。
1852年に、アメリカ東海岸ノーフォークを出港したペリーの艦隊は、大西洋に出て、アフリカ西海岸を沿って最南端の喜望峰を渡り、インド洋から中国・香港へ北上したのである。
う~ん、何と大航海時代のポルトガル、スペインと同じ航路ではないか。
アメリカの東海岸を出港したのが1852年の11月で、香港に到着したのが翌53年の4月であるから5か月近くを要している。
ペリーの黒船が、大西洋からアフリカ喜望峰を周ってインド洋から南シナ海を経て、浦賀にやって来たとは、思いもよらぬ驚きと発見であった。
帰りもその逆航路で、ペリーは太平洋を渡ってはいなかったのだ。
*咸臨丸と使節団は、どうやってアメリカへ行ったのか?
ペリーによる日米修好通商条約の締結を経て1859(安政6)年、日本は横浜開港を迎える。
翌1860(万延元)年1月、日本の使節団が条約批准書交換のためアメリカへ向かった。ペリー来航から8年後である。
このときの、咸臨丸の初めての太平洋横断によるアメリカ渡航で有名だ。
しかし、そのとき行ったのは咸臨丸だけではなかった。アメリカのポーハタン号との2隻で、分乗しアメリカへ向かったのだった。
咸臨丸は、オランダで造られた幕府の西洋式軍艦である。ポーハタン号は、1854年ペリーが再来日したときの旗艦船である。
咸臨丸は正使鑑ポーハタン号の随行という護衛艦の役割だった。
アメリカ人を除くポーハタン号に乗った日本の使節団は、正使の新見豊前守正興、副使の村垣淡路守範正、目付の小栗豊後守忠順をはじめとする77名である。
咸臨丸には、軍艦奉行木村摂津守はじめ、艦長の勝麟太郎(海舟)、福沢諭吉、ジョン万次郎など日本人96人、アメリカ人11人の107名が乗っていたとされる。
しかし不思議なのは、咸臨丸がポーハタン号の護衛艦でありながら、この2隻は別々の日程、違った航路でアメリカに行っている。
咸臨丸は、使節団の乗ったポーハタン号より1日遅れて浦賀を出港。ポーハタン号が悪天候によって船舶が損傷したのを修理するためハワイに寄港する間も、別の航路で航海を続け、ポーハタン号より12日前にサンフランシスコに入港している。
咸臨丸の往路は、38日の航海だった。
使節団の役割は条約批准書の交換だから、政府機関のある東海岸、ワシントンに行かなければならない。
一行が、西海岸から東海岸へどうやって行ったのかもわからなかった。
使節団はサンフランシスコで9日を過ごしたのち、ポーハタン号で南下してパナマまで行く。当時はまだ運河ができていなかったので、ここでポーハタン号を降りて陸路、パナマ地峡経由で大西洋側へ向かう。一行は、ここで初めて蒸気機関車に乗っている。
太平洋側で待っていたアメリカのロアノーク号に乗り換え、アメリカ東海岸のワシントンに向かった。
う~ん、こういう手があったのか?
アメリカの東海岸まで行ったのは使節団のメンバーたちで、咸臨丸およびその乗船人はサンフランシスコに留まっていたのだ。
使節団は条約の批准書を交換し、ワシントン、フィラデルフィア滞在した後、ニューヨークから帰途に向かった。
その間、咸臨丸はサンフランシスコで船の損傷の修理をし、しばらく滞在した後、太平洋、ハワイ経由で1860年5月に帰国している。復路は45日の航路であった。
一方、ニューヨークを出港した使節団は同年6月、米艦ナイアガラ号に乗り、大西洋からアフリカ喜望峰を経由して日本に向かう。浦賀にやって来たペリーと同じ航路である。
喜望峰からインド洋、バタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)、香港を経由し、同年11月に品川沖に帰着した。
“日本の咸臨丸、使節団の一行、アメリカへ行く”は、想像を超える苦難と曲折の航海だった。
※写真は、「ペリー提督・横浜上陸の図」(横浜開港資料館パンフレット・歴史が見える)と「アメリカ・イン・ジャパン――ハーバード講義録」(岩波新書)。
*
なお、日露戦争のときのロシア・バルチック艦隊も、大航海時代の長い航路であった。
1904年(明治37)年10月バルト海を出た艦隊は、ヨーロッパ西端を周り、スエズ運河経由でインド洋に出る計画であったが、本隊は重量オーバーでスエズ運河を渡れず(一部の小型艦はスエズ運河経由)、アフリカ喜望峰を周ることとなった。
喜望峰からインド洋、東シナ海の長旅を経て、途中で支隊と合流したバルチック艦隊は、疲弊して翌1905(明治38)年5月に日本海へたどり着き、「日本海海戦」に突入した。
様々な歴史が刻まれている大西洋、ヨーロッパからのアジア、極東への航海、長い道のりは、輝ける大航海時代の偉大な荒波に憑りつかれているかのように思われる。
日本が欧米と初めて対峙した江戸時代の末期、関税自主権の喪失となった日米修好通商条約を思い出した。当時の江戸幕府から政権を引き続いた明治政府まで、条約改正に苦労した。
日本とアメリカとの関係を見ていると、ペリーに行きつく。170年前のことだ。
*江戸幕末期における、忍び寄る海外列強の目
マシュー・ペリーひきいるアメリカ合衆国(アメリカ)の艦船が江戸湾の入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に現れたのは、1853(嘉永6)年のことだった。
現れた艦船は蒸気船2隻を含む4隻で、浦賀周辺はもとよりたちまち江戸でも大騒ぎとなる。
やって来たペリーは、開国を促すアメリカ合衆国大統領の親書などを幕府に渡し、翌年の日米和親条約締結に至ることになる。
これより江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還の1867(慶応3)年までを、一般的に“幕末”と呼ぶ。
突然、浦賀沖にやって来たアメリカの艦船は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の船とはまったく違うものであった。黒塗りの船体の4隻のうち2隻は、帆以外に外輪を備え煙突からはもうもうと煙を上げている蒸気船だった。
それを見て、日本人は「黒船」と呼んだ。
幕末当時は、スペイン、ポルトガルがけん引した大航海時代に取って代わって、専業革命で力をつけたイギリスをはじめとした欧米列強国の植民地・市場獲得の競争の時代だった。
イギリス、フランスなどのヨーロッパの先進国が、アフリカ、南アメリカ大陸からインドや東南アジアを拠点に、さらなる市場の拡大を争っていた。
アメリカといえば、ヨーロッパの移民のもとに北アメリカ大陸の東海岸に生まれた国である。1776年のイギリスからの独立後、北アメリカ大陸(現在のアメリカ合衆国)の西部に向けた開発・領土拡大にエネルギーを傾けていたこともあって、海外進出は出遅れていた。
当時のエネルギーに目を向けると、産業革命により石炭の重要性は高まっていたが、石油はまだ開発が始まったばかりである。
そこで、灯火用や機械の潤滑油の油として、おもにマッコウクジラの鯨油が多く使用されていた。このため、欧米の国々は世界中の海で捕鯨を盛んに行っていて、アメリカの捕鯨船は太平洋の日本の沿岸にもやってきていた。
しかし当時日本の江戸幕府は事実上鎖国を敷いていたので、捕鯨船は容易には日本の領土へは入れなかった。
アメリカは、捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保も必要であった。
江戸幕府は、アヘン戦争(1840~1842年)で中国・清が敗れ、西洋列強国の強さを知ることになる。そこで、1842(天保13)年、忍び寄る西洋の列強国といくらかでも諍いごとを避けるため、異国船打払令を廃止し遭難船を救済する薪水給与令を定めた。
西洋の列強国の出方に神経を注いでいた矢先の、1853年、アメリカ、ペリーの黒船到来であった。
*ペリーの黒船は、アメリカからどうやって浦賀にやって来たのか?
最初に浦賀沖に来航したペリーの艦隊は、旗艦「サスケハナ」(外輪蒸気フリゲート)、「ミシシッピ」(同)に、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていた。
翌1854年、ペリーは再び3隻の外輪蒸気フリゲート「ポーハタン」、「サスケハナ」、「ミシシッピ」と帆走スループ「レキシントン」、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「サラトガ」、「サプライ」の5隻、外輪汽帆補給艦「サザンプトン」、計9隻で浦賀沖に現れた。
当時は、世界の海では帆船から蒸気船へ移行する過度期であった。
イギリス、フランス、アメリカなどが、スクリューや高圧エンジンの開発など、技術革新にしのぎを削っていた。
また、その後、燃料も石炭から石油へと移行していく。
横浜開港資料館に「ペリー提督・横浜上陸の図」がある。
1854(嘉永7・安政元)年、ペリー率いる艦隊が横浜に上陸したときの様子を描いた図で、作者は艦隊専属の記録を務めたドイツ系アメリカ人の画家である。2度目の来日のときの図であろう。
黒船が、なぜ浦賀にやって来たか?は、外国に門戸を閉ざしていた日本を開港させるためで、その内実は日本との交易のほか、本命の中国(清)の足場となる前進基地、補給基地の確保のため等、多くの思惑があったとされている。
ペリーの黒船はなぜ日本に来たのか?は、歴史教科書にも書いてあったので大体わかる。
しかし、以前からすっきりしない疑問があった。
黒船は、どうやってアメリカから浦賀に来たのか?である。
世界地図を見ると、日本とアメリカは広いとはいえ太平洋を隔てて隣同士である。
アメリカのペリーの黒船は、太平洋を渡って日本の浦賀にやって来た。
多分、アメリカの西海岸、サンフランシスコ辺りから太平洋を渡って来たのだろう。地理上から、それ以外にないだろうと漠然と思っていた。
しかし、確信はなかった。教科書にも書いていなかったからだ(今の教科書は知らないが)。
長年、そんな思いを抱いていたときのことだ。
「アメリカ・イン・ジャパン――ハーバード講義録」(吉見俊哉著、岩波新書)を見た(見たのだ)。そこに、思わぬことが書かれていた。
先に書いたように、アメリカが独立したのは1978年で、北アメリカ大陸の東海岸の一角、今のボストン、ニューヨーク、ワシントン辺りの13州からである。
当然、主な政府機関、軍港などは、その地域一帯にあった。
ペリーが西海岸から太平洋を渡ってやって来たとなると、捕鯨等の漁港はあったとしても、西海岸にすでに軍港があったことになりはしないか。
西海岸に軍艦を造るだけの港がなかったとしたら、東海岸の軍港から出港して西海岸に至ることになる。
となると、東海岸から西海岸の太平洋に出るには、まだパナマ運河は開通していないから、南米大陸を沿ってアルゼンチン、チリの最南端(オルノス岬)を通って出たのか?
南米最南端、ここから太平洋を渡って日本を目指すのは、地図を見ただけでも大航海で、困難な航路だと想像つく。
では西部開拓の空想の域を出ないが、アメリカの東海岸から西海岸へ陸路による船の運搬を考えてみる。しかし、最初の大陸横断鉄道が開通したのが、ペリー来日のずっと後の1869年である。
東海岸から西海岸へ、陸路で戦艦を運ぶことはありえない。
つまり、ペリーの黒船は東海岸から出発したのである。ということは、大西洋に向かって出港したのである。
「アメリカ・イン・ジャパン」には、世界地図付きで、ペリーの航海図が載っている。
1852年に、アメリカ東海岸ノーフォークを出港したペリーの艦隊は、大西洋に出て、アフリカ西海岸を沿って最南端の喜望峰を渡り、インド洋から中国・香港へ北上したのである。
う~ん、何と大航海時代のポルトガル、スペインと同じ航路ではないか。
アメリカの東海岸を出港したのが1852年の11月で、香港に到着したのが翌53年の4月であるから5か月近くを要している。
ペリーの黒船が、大西洋からアフリカ喜望峰を周ってインド洋から南シナ海を経て、浦賀にやって来たとは、思いもよらぬ驚きと発見であった。
帰りもその逆航路で、ペリーは太平洋を渡ってはいなかったのだ。
*咸臨丸と使節団は、どうやってアメリカへ行ったのか?
ペリーによる日米修好通商条約の締結を経て1859(安政6)年、日本は横浜開港を迎える。
翌1860(万延元)年1月、日本の使節団が条約批准書交換のためアメリカへ向かった。ペリー来航から8年後である。
このときの、咸臨丸の初めての太平洋横断によるアメリカ渡航で有名だ。
しかし、そのとき行ったのは咸臨丸だけではなかった。アメリカのポーハタン号との2隻で、分乗しアメリカへ向かったのだった。
咸臨丸は、オランダで造られた幕府の西洋式軍艦である。ポーハタン号は、1854年ペリーが再来日したときの旗艦船である。
咸臨丸は正使鑑ポーハタン号の随行という護衛艦の役割だった。
アメリカ人を除くポーハタン号に乗った日本の使節団は、正使の新見豊前守正興、副使の村垣淡路守範正、目付の小栗豊後守忠順をはじめとする77名である。
咸臨丸には、軍艦奉行木村摂津守はじめ、艦長の勝麟太郎(海舟)、福沢諭吉、ジョン万次郎など日本人96人、アメリカ人11人の107名が乗っていたとされる。
しかし不思議なのは、咸臨丸がポーハタン号の護衛艦でありながら、この2隻は別々の日程、違った航路でアメリカに行っている。
咸臨丸は、使節団の乗ったポーハタン号より1日遅れて浦賀を出港。ポーハタン号が悪天候によって船舶が損傷したのを修理するためハワイに寄港する間も、別の航路で航海を続け、ポーハタン号より12日前にサンフランシスコに入港している。
咸臨丸の往路は、38日の航海だった。
使節団の役割は条約批准書の交換だから、政府機関のある東海岸、ワシントンに行かなければならない。
一行が、西海岸から東海岸へどうやって行ったのかもわからなかった。
使節団はサンフランシスコで9日を過ごしたのち、ポーハタン号で南下してパナマまで行く。当時はまだ運河ができていなかったので、ここでポーハタン号を降りて陸路、パナマ地峡経由で大西洋側へ向かう。一行は、ここで初めて蒸気機関車に乗っている。
太平洋側で待っていたアメリカのロアノーク号に乗り換え、アメリカ東海岸のワシントンに向かった。
う~ん、こういう手があったのか?
アメリカの東海岸まで行ったのは使節団のメンバーたちで、咸臨丸およびその乗船人はサンフランシスコに留まっていたのだ。
使節団は条約の批准書を交換し、ワシントン、フィラデルフィア滞在した後、ニューヨークから帰途に向かった。
その間、咸臨丸はサンフランシスコで船の損傷の修理をし、しばらく滞在した後、太平洋、ハワイ経由で1860年5月に帰国している。復路は45日の航路であった。
一方、ニューヨークを出港した使節団は同年6月、米艦ナイアガラ号に乗り、大西洋からアフリカ喜望峰を経由して日本に向かう。浦賀にやって来たペリーと同じ航路である。
喜望峰からインド洋、バタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)、香港を経由し、同年11月に品川沖に帰着した。
“日本の咸臨丸、使節団の一行、アメリカへ行く”は、想像を超える苦難と曲折の航海だった。
※写真は、「ペリー提督・横浜上陸の図」(横浜開港資料館パンフレット・歴史が見える)と「アメリカ・イン・ジャパン――ハーバード講義録」(岩波新書)。
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なお、日露戦争のときのロシア・バルチック艦隊も、大航海時代の長い航路であった。
1904年(明治37)年10月バルト海を出た艦隊は、ヨーロッパ西端を周り、スエズ運河経由でインド洋に出る計画であったが、本隊は重量オーバーでスエズ運河を渡れず(一部の小型艦はスエズ運河経由)、アフリカ喜望峰を周ることとなった。
喜望峰からインド洋、東シナ海の長旅を経て、途中で支隊と合流したバルチック艦隊は、疲弊して翌1905(明治38)年5月に日本海へたどり着き、「日本海海戦」に突入した。
様々な歴史が刻まれている大西洋、ヨーロッパからのアジア、極東への航海、長い道のりは、輝ける大航海時代の偉大な荒波に憑りつかれているかのように思われる。