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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

アメリカの夢① ペリー黒船は、どうやって浦賀に来たのか?

2025-08-20 03:25:04 | 本/小説:日本
 今日、世界はアメリカ・トランプ大統領の関税賦課をはじめ、その発言・行動に振り回されている感がある。
 日本が欧米と初めて対峙した江戸時代の末期、関税自主権の喪失となった日米修好通商条約を思い出した。当時の江戸幕府から政権を引き続いた明治政府まで、条約改正に苦労した。
 日本とアメリカとの関係を見ていると、ペリーに行きつく。170年前のことだ。

 *江戸幕末期における、忍び寄る海外列強の目

 マシュー・ペリーひきいるアメリカ合衆国(アメリカ)の艦船が江戸湾の入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に現れたのは、1853(嘉永6)年のことだった。
 現れた艦船は蒸気船2隻を含む4隻で、浦賀周辺はもとよりたちまち江戸でも大騒ぎとなる。
 やって来たペリーは、開国を促すアメリカ合衆国大統領の親書などを幕府に渡し、翌年の日米和親条約締結に至ることになる。
 これより江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還の1867(慶応3)年までを、一般的に“幕末”と呼ぶ。

 突然、浦賀沖にやって来たアメリカの艦船は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の船とはまったく違うものであった。黒塗りの船体の4隻のうち2隻は、帆以外に外輪を備え煙突からはもうもうと煙を上げている蒸気船だった。
 それを見て、日本人は「黒船」と呼んだ。

 幕末当時は、スペイン、ポルトガルがけん引した大航海時代に取って代わって、専業革命で力をつけたイギリスをはじめとした欧米列強国の植民地・市場獲得の競争の時代だった。
 イギリス、フランスなどのヨーロッパの先進国が、アフリカ、南アメリカ大陸からインドや東南アジアを拠点に、さらなる市場の拡大を争っていた。
 アメリカといえば、ヨーロッパの移民のもとに北アメリカ大陸の東海岸に生まれた国である。1776年のイギリスからの独立後、北アメリカ大陸(現在のアメリカ合衆国)の西部に向けた開発・領土拡大にエネルギーを傾けていたこともあって、海外進出は出遅れていた。

 当時のエネルギーに目を向けると、産業革命により石炭の重要性は高まっていたが、石油はまだ開発が始まったばかりである。
 そこで、灯火用や機械の潤滑油の油として、おもにマッコウクジラの鯨油が多く使用されていた。このため、欧米の国々は世界中の海で捕鯨を盛んに行っていて、アメリカの捕鯨船は太平洋の日本の沿岸にもやってきていた。
 しかし当時日本の江戸幕府は事実上鎖国を敷いていたので、捕鯨船は容易には日本の領土へは入れなかった。
 アメリカは、捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保も必要であった。

 江戸幕府は、アヘン戦争(1840~1842年)で中国・清が敗れ、西洋列強国の強さを知ることになる。そこで、1842(天保13)年、忍び寄る西洋の列強国といくらかでも諍いごとを避けるため、異国船打払令を廃止し遭難船を救済する薪水給与令を定めた。
 西洋の列強国の出方に神経を注いでいた矢先の、1853年、アメリカ、ペリーの黒船到来であった。

 *ペリーの黒船は、アメリカからどうやって浦賀にやって来たのか?

 最初に浦賀沖に来航したペリーの艦隊は、旗艦「サスケハナ」(外輪蒸気フリゲート)、「ミシシッピ」(同)に、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていた。
 翌1854年、ペリーは再び3隻の外輪蒸気フリゲート「ポーハタン」、「サスケハナ」、「ミシシッピ」と帆走スループ「レキシントン」、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「サラトガ」、「サプライ」の5隻、外輪汽帆補給艦「サザンプトン」、計9隻で浦賀沖に現れた。
 当時は、世界の海では帆船から蒸気船へ移行する過度期であった。
 イギリス、フランス、アメリカなどが、スクリューや高圧エンジンの開発など、技術革新にしのぎを削っていた。
 また、その後、燃料も石炭から石油へと移行していく。

 横浜開港資料館に「ペリー提督・横浜上陸の図」がある。
 1854(嘉永7・安政元)年、ペリー率いる艦隊が横浜に上陸したときの様子を描いた図で、作者は艦隊専属の記録を務めたドイツ系アメリカ人の画家である。2度目の来日のときの図であろう。

 黒船が、なぜ浦賀にやって来たか?は、外国に門戸を閉ざしていた日本を開港させるためで、その内実は日本との交易のほか、本命の中国(清)の足場となる前進基地、補給基地の確保のため等、多くの思惑があったとされている。
 ペリーの黒船はなぜ日本に来たのか?は、歴史教科書にも書いてあったので大体わかる。
 しかし、以前からすっきりしない疑問があった。
 黒船は、どうやってアメリカから浦賀に来たのか?である。

 世界地図を見ると、日本とアメリカは広いとはいえ太平洋を隔てて隣同士である。
 アメリカのペリーの黒船は、太平洋を渡って日本の浦賀にやって来た。
 多分、アメリカの西海岸、サンフランシスコ辺りから太平洋を渡って来たのだろう。地理上から、それ以外にないだろうと漠然と思っていた。
 しかし、確信はなかった。教科書にも書いていなかったからだ(今の教科書は知らないが)。

 長年、そんな思いを抱いていたときのことだ。
 「アメリカ・イン・ジャパン――ハーバード講義録」(吉見俊哉著、岩波新書)を見た(見たのだ)。そこに、思わぬことが書かれていた。

 先に書いたように、アメリカが独立したのは1978年で、北アメリカ大陸の東海岸の一角、今のボストン、ニューヨーク、ワシントン辺りの13州からである。
 当然、主な政府機関、軍港などは、その地域一帯にあった。

 ペリーが西海岸から太平洋を渡ってやって来たとなると、捕鯨等の漁港はあったとしても、西海岸にすでに軍港があったことになりはしないか。
 西海岸に軍艦を造るだけの港がなかったとしたら、東海岸の軍港から出港して西海岸に至ることになる。
 となると、東海岸から西海岸の太平洋に出るには、まだパナマ運河は開通していないから、南米大陸を沿ってアルゼンチン、チリの最南端(オルノス岬)を通って出たのか?
 南米最南端、ここから太平洋を渡って日本を目指すのは、地図を見ただけでも大航海で、困難な航路だと想像つく。

 では西部開拓の空想の域を出ないが、アメリカの東海岸から西海岸へ陸路による船の運搬を考えてみる。しかし、最初の大陸横断鉄道が開通したのが、ペリー来日のずっと後の1869年である。
 東海岸から西海岸へ、陸路で戦艦を運ぶことはありえない。

 つまり、ペリーの黒船は東海岸から出発したのである。ということは、大西洋に向かって出港したのである。
 「アメリカ・イン・ジャパン」には、世界地図付きで、ペリーの航海図が載っている。
 1852年に、アメリカ東海岸ノーフォークを出港したペリーの艦隊は、大西洋に出て、アフリカ西海岸を沿って最南端の喜望峰を渡り、インド洋から中国・香港へ北上したのである。
 う~ん、何と大航海時代のポルトガル、スペインと同じ航路ではないか。
 アメリカの東海岸を出港したのが1852年の11月で、香港に到着したのが翌53年の4月であるから5か月近くを要している。
 ペリーの黒船が、大西洋からアフリカ喜望峰を周ってインド洋から南シナ海を経て、浦賀にやって来たとは、思いもよらぬ驚きと発見であった。
 帰りもその逆航路で、ペリーは太平洋を渡ってはいなかったのだ。

 *咸臨丸と使節団は、どうやってアメリカへ行ったのか?

 ペリーによる日米修好通商条約の締結を経て1859(安政6)年、日本は横浜開港を迎える。
 翌1860(万延元)年1月、日本の使節団が条約批准書交換のためアメリカへ向かった。ペリー来航から8年後である。
 このときの、咸臨丸の初めての太平洋横断によるアメリカ渡航で有名だ。
 しかし、そのとき行ったのは咸臨丸だけではなかった。アメリカのポーハタン号との2隻で、分乗しアメリカへ向かったのだった。
 咸臨丸は、オランダで造られた幕府の西洋式軍艦である。ポーハタン号は、1854年ペリーが再来日したときの旗艦船である。
 咸臨丸は正使鑑ポーハタン号の随行という護衛艦の役割だった。
 アメリカ人を除くポーハタン号に乗った日本の使節団は、正使の新見豊前守正興、副使の村垣淡路守範正、目付の小栗豊後守忠順をはじめとする77名である。
 咸臨丸には、軍艦奉行木村摂津守はじめ、艦長の勝麟太郎(海舟)、福沢諭吉、ジョン万次郎など日本人96人、アメリカ人11人の107名が乗っていたとされる。

 しかし不思議なのは、咸臨丸がポーハタン号の護衛艦でありながら、この2隻は別々の日程、違った航路でアメリカに行っている。
 咸臨丸は、使節団の乗ったポーハタン号より1日遅れて浦賀を出港。ポーハタン号が悪天候によって船舶が損傷したのを修理するためハワイに寄港する間も、別の航路で航海を続け、ポーハタン号より12日前にサンフランシスコに入港している。
 咸臨丸の往路は、38日の航海だった。

 使節団の役割は条約批准書の交換だから、政府機関のある東海岸、ワシントンに行かなければならない。
 一行が、西海岸から東海岸へどうやって行ったのかもわからなかった。
 使節団はサンフランシスコで9日を過ごしたのち、ポーハタン号で南下してパナマまで行く。当時はまだ運河ができていなかったので、ここでポーハタン号を降りて陸路、パナマ地峡経由で大西洋側へ向かう。一行は、ここで初めて蒸気機関車に乗っている。
 太平洋側で待っていたアメリカのロアノーク号に乗り換え、アメリカ東海岸のワシントンに向かった。
 う~ん、こういう手があったのか?
 アメリカの東海岸まで行ったのは使節団のメンバーたちで、咸臨丸およびその乗船人はサンフランシスコに留まっていたのだ。
 
 使節団は条約の批准書を交換し、ワシントン、フィラデルフィア滞在した後、ニューヨークから帰途に向かった。
 その間、咸臨丸はサンフランシスコで船の損傷の修理をし、しばらく滞在した後、太平洋、ハワイ経由で1860年5月に帰国している。復路は45日の航路であった。
 一方、ニューヨークを出港した使節団は同年6月、米艦ナイアガラ号に乗り、大西洋からアフリカ喜望峰を経由して日本に向かう。浦賀にやって来たペリーと同じ航路である。
 喜望峰からインド洋、バタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)、香港を経由し、同年11月に品川沖に帰着した。

 “日本の咸臨丸、使節団の一行、アメリカへ行く”は、想像を超える苦難と曲折の航海だった。

 ※写真は、「ペリー提督・横浜上陸の図」(横浜開港資料館パンフレット・歴史が見える)と「アメリカ・イン・ジャパン――ハーバード講義録」(岩波新書)。

 * 
 なお、日露戦争のときのロシア・バルチック艦隊も、大航海時代の長い航路であった。
 1904年(明治37)年10月バルト海を出た艦隊は、ヨーロッパ西端を周り、スエズ運河経由でインド洋に出る計画であったが、本隊は重量オーバーでスエズ運河を渡れず(一部の小型艦はスエズ運河経由)、アフリカ喜望峰を周ることとなった。
 喜望峰からインド洋、東シナ海の長旅を経て、途中で支隊と合流したバルチック艦隊は、疲弊して翌1905(明治38)年5月に日本海へたどり着き、「日本海海戦」に突入した。

 様々な歴史が刻まれている大西洋、ヨーロッパからのアジア、極東への航海、長い道のりは、輝ける大航海時代の偉大な荒波に憑りつかれているかのように思われる。

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歌う銀幕のスター、「小林旭回顧録 マイトガイは死なず」

2025-01-30 03:15:43 | 本/小説:日本
 街のみんなが振りかえる 青い夜風も振りかえる
 君と僕とを振りかえる そんな気がする恋の夜……

 *二刀流の小林旭

 時代とともに綺羅星のごとく多くのスターが生まれ、多くのスターが流れ星のように消えていった。
 思えば、どれだけのスターと呼ばれた人が、記憶に残るのだろうか、記録に残っていくのだろうか。

 小林旭は、今なお現役で活動している。
 1938(昭和13)年生まれだから、今年86歳である。
 1956(昭和31)年、第3期日活ニューフェイスに合格し、映画界の道へ入る。同年「飢える魂」(監督:川島雄三)で映画界にデビューし、1957年、「青春の冒険」(監督:吉村廉)で初主演。1958(昭和33)年の作品、浅丘ルリ子との共演「絶唱」(監督:滝沢英輔)は初期の代表的な文芸作品となった。
 1959(昭和34)年、「南国土佐を後にして」(監督:齋藤武市、原作:川内康範、出演:小林旭、浅丘ルリ子、内田良平、南田洋子、ペギー葉山)での主演映画が大ヒットし、この映画が滝伸次なる「渡り鳥シリーズ」の先駆けとなった。
 さらに同時期に作られた、二階堂卓也なる「銀座旋風児シリーズ」、野村浩次なる「流れ者シリーズ」、清水次郎なる「暴れん坊シリーズ」、氷室浩次なる「賭博師シリーズ」などで、毎月のように旭主演の映画が封切られ、石原裕次郎とともに日活の黄金時代を築いた。
 日活を出たあとは、東映の「仁義なき戦いシリーズ」(監督:深作欣二)、東宝の「青春の門」(監督:浦山桐郎)など、多数映画出演した。

 小林旭は歌も歌う。
 映画全盛期には映画の主題歌として歌い、それは映画から独り立ちして一般的な歌謡曲(流行歌)としても広く流れた。
 1958(昭和33)年、日本コロムビアより「女を忘れろ」(作詞:野村俊夫、作曲:船村徹)で歌手デビュー。同年歌った2曲目の「ダイナマイトが百五十屯」(作詞:関沢新一、作曲:船村徹)より、彼の愛称「マイトガイ」が生まれた。
 冒頭にあげた歌の文句は、1960(昭和35)年の映画「流れ者シリーズ」の第2作「海を渡る波止場の風」(監督:山崎徳次郎)の主題歌「ズンドコ節」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実、編曲:狛林正一)の出だしの歌詞である。
 映画が下火になったころ、小林旭は事業に手を出し、ゴルフ場経営の失敗などで多額の負債を背負う。そのとき、1975(昭和50)年発売したレコード「名前で出ています」(作詞:星野哲郎、作曲:叶弦大)を引っ提げて全国を回り、やがて有線からじりじりと火が付いたこの歌が大ヒットして、借金返済の目途がたったという話は有名だ。
 そして、1985(昭和60)年発売の、作詞・阿久悠、作曲・大瀧詠一という予想外のコンビによる「熱き心に」は、その後フィナーレで歌われる定番曲になった。

 スクリーンではアクション・スターとして躍動し、ステージでは声(甲)高く歌を歌い、それが両方とも人々を熱くさせてきた。それゆえに、歌う銀幕のスターと称されたのだった。
 今で言うところ(大谷翔平風)の、“二刀流”なのである。

 若いときには、日活の小林旭の映画はよく見たし、レコードも買って歌もよく聴いた(今でも聴いている)。
 そして、貴重な体験だったが、一度だけライブを聴きに行った。
 日活撮影所がある東京都調布市が市制施行60周年企画として、2016(平成28)年に小林旭のスペシャル・コンサートが調布市グリーンホールで開かれたときである。
 このときは、会場に浅丘ルリ子、宍戸錠が駆けつけてくれた。
 このときのことは、ブログで書いている。
 ※「小林旭① 調布市制施行60周年「熱き心のコンサート」」(2016-02-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/6b35d19bcd2a7b6a4e87da492c0e94be
 ※「小林旭② 吉永小百合との共演「黒い傷あとのブルース」」(2016-02-27)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/257392907047a50ea22036bcfac00204

 *何を隠そう、旭が好き!

 先日(2月25日)の朝日新聞の読書欄に、小林旭の回顧録「マイトガイは死なず」(文藝春秋刊)が掲載されていた。この固いコーナーに、俳優の本が載るのは珍しいので驚いた。論評したのは美術家(グラフィック・デザイナー)の横尾忠則であった。
 ここのところ小林旭がクセになってライブに通っていると、横尾はこの書評で述べている。
 小林旭の自伝的単行本は、すでに「さすらい」(新潮社)など何冊か出ているが、この「マイトガイは死なず」は、月刊「文藝春秋」に連載していたものを、単行本として去年(2004年)11月、出版された本である。

 かつて「渡り鳥シリーズ」をはじめ日活作品が芸術作品とは比べるべくもなく低級だと思われていたころ、意外な文化人が日活映画、とりわけ小林旭が好きだと評価したり、そう思わせる文(本)を書いたのを発見すると、密かに嬉しく思ったものである。

 小林信彦(作家)は、1970年代初頭に、小説「オヨヨ・シリーズ」のなかで、小林旭を登場させている。文中でこれを発見したときは、当時このようなことは滅多になかったので、驚いたと同時に感激した記憶がある。
 渡辺武信(建築家、詩人)は、1972年発行の「ヒーローの夢と死」(思潮社)で小林旭の映画を「無国籍アクション映画」と定義し、そのあと「日活アクションの華麗な世界」(未来社)で詳細に分析・記録した。
 この人は本職は建築家だが、日活アクションが好きで映画評も個性的で好きだった。本職を交えた「銀幕のインテリア」(読売新聞社)を出したとき、雑誌編集者だった私は取材でお話ししたことがある。
 日活黄金期の風景としては、「渡り鳥シリーズ」などの脚本を書いた山崎巌の自伝的小説「夢のぬかるみ」(新潮社)が興味深い。
 しかし何と言っても、小林旭を知るうえで欠かせないのは、小林信彦と大瀧詠一(ミュージシャン)の編集による「小林旭読本」(キネマ旬報社、2002年刊)である。保存版ともいうべき、小林旭出演の全映画(2002年まで)が、スタッフ、キャスト、内容解説付きで詳細に記録されている。

 それで、本題の「マイトガイは死なず」である。
 石原裕次郎、浅丘ルリ子、美空ひばりなど、彼と関係が深かった人物に関しては今まで小林旭が語ってきたこと以上の話は出ていない。
 しかし、今まで形式的にしか書かれなかった人物の実像も、ちらとだが書かれている。
 「ズンドコ節」や「ついてくるかい」など、終始旭の曲を書いてきた遠藤実。コロムビア時代からクラウンにレコード会社を移っても旭を担当した、五木寛之の小説「艶歌」などの主人公の「艶歌の竜」のモデルとされる音楽ディレクター、馬淵玄三。「昔の名前で出ています」他を作曲した叶弦大など、知らなかった一面を垣間見せている。
 そして、あまり実像が語られなかった大物俳優、鶴田浩二に関して、奥歯にものが挟まったような表現で以下のように述べている。
 「鶴さんは変わったところがあった。普段からまともに人の顔を見ようともしないんだ。なんていうか、陰に隠れて障子の向こうからものを言ったりする人だった」

 *幻のレコード大賞「熱き心に」

 この本「マイトガイは死なず」のなかで衝撃的なのは、「文藝春秋」(2023年11月号)にも掲載されたのだが、日本レコード大賞についての項である。
 1986(昭和61)年の「第28回日本レコード大賞」(TBS系)に「熱き心に」が大賞候補にノミネートされた。このときのことは、だいたい次のように書かれている。
 大賞が発表される直前まで、小林旭には自分が選ばれるという確信があった。舞台裏で事前に審査員の西村晃から受賞を伝えられていたからだ。
 小林旭は、作詞を手がけた阿久悠と共に授賞式が行われた日本武道館のステージに立った。ところが大賞に選ばれたのは、前年「ミ・アモーレ」で大賞を受賞した中森明菜の「DESIRE」だった。旭に渡されたのは「特別選奨」という聞いたこともない賞だった。
 「熱き心に」が審査段階で大賞に決まったものの、直後の裏工作により中森明菜の「DESIRE」が逆転受賞したというのである。
 この大賞レースの意外な結末に、小林旭も怒りをこらえて苦笑いを浮かべるしかなかったという。
 
 *大瀧詠一との一期一会

 この「熱き心に」を作曲した大瀧詠一は、小林旭のファンで知られていて、自ら作詞に阿久悠を指名して、それこそ熱い心でこの作品を作りあげた。
 歌も大ヒットし、その後小林旭との友好関係が築かれたと思いきや、録音のときのスタジオで顔を合せただけだという。
 大瀧は、大森昭男との対談(「みんなCM音楽を歌っていた」田家秀樹)でこう述べている。
 「あの時一回だけ。六本木のあの歌人れのスタジオが最初で最後。その時、銀座に誘われたんだけど、そんなところに行ったら大変だと思ったからね(笑)。それ以降も逢ってないです。一期一会。それで十分。作品の提供だけで良いんですよ」
 大瀧詠一の小林旭への愛と清々しさが伝わってきて、ほほえましい。
 
 大瀧詠一も阿久悠も今はないが、小林旭は健在である。
 マイトガイは死なず。
 渡り鳥いつまた帰る……

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隠れた別の世界へ……村上春樹の「街とその不確かな壁」

2024-02-06 02:11:08 | 本/小説:日本
 *影の存在

 すぐ近くの図書館のカフェコーナーで、コーヒーを飲みながらいっとき本を読んで(最近は時々こういう時間を作っている)、図書館を出た。カラスでも鳴いてよさそうな淡い夕暮れ時だった。
 いつも通っている見慣れた路上に出た際、私はおもむろに自分の足元を見まわした。私の“影”がちゃんとあるのかを確かめるために。
 というのも、今読み終わりつつある(すでに読み終わった)本というのが村上春樹の「街と不確かな壁」という小説で、2部(3部構成になっている)の最後にこう綴ってあるのだ。

 「ねえ、わかった? わたしたちは二人とも、ただの誰かの影にすぎないのよ」

 物語の主人公は、いつの間にか自分の影を失くしていた。失くした影は別の世界にいた。影はもう一つの別の世界で、影の持ち主とは別に生きていた。

 私(筆者)も、最近は影をないがしろにしていたなあと思いなおし、自分の影をさりげなく、それでも注意ぶかく探したのだった。影の存在を確認するために。
 考えるに、影はなぜあるのだろう。
 影は変幻自在だ。大きくもなれば小さくもなり、角度を変えれば自分の前に行ったり後ろに行ったりする。ぼくのことは気にしなくていいよとばかりの動き、行動だ。
 影の存在を強く意識したことはなかったけど、影は何の役にたっているのだろう。なくても何不自由しないようにも思える。
 影を失くしたら、どうなのだろう。あるいは、私に黙って影が出ていってしまったら。
 それでも私は、何ごともなかったように生きていくのだろうか。

 *村上春樹の、40年前の喉に刺さった魚の棘のような小説

 村上春樹がデビューしたての頃の1980年に、雑誌「文芸」に著者3作目の中編小説「街と、その不確かな壁」を発表した。
 そのとき村上は内容的に納得がいかず、この小説を書籍化はしないでいた。2023年発表の新作「街とその不確かな壁」(新潮社)の「あとがき」によれば、村上の書かれた小説で書籍化していないのはこの作品だけであった。
 しかし、最初からこの作品は彼にとって重要な要素が含まれていると感じていて、いつかじっくり手を入れて書き直そうと思っていた。 
 そして1982年、本格的長編小説「羊をめぐる冒険」を書きあげた。
 それから「街と、その不確かな壁」を書き直すつもりで着手した小説、二つのストーリーを並行して交互に進行させていく「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」ができあがり、1985年に出版する。
 これらは、村上春樹作品を象徴する代表作といえる。
 しかし歳月が経過し、作家としての経験を積み、年を重ねるにつれ、村上はそれだけで「街と、その不確かな壁」に決着をつけたとは思えなくなり、新たに筆をとった。
 時は、新型コロナウィルスがパンデミックとして猛威を振るい始めた2020年のことである。社会も個人も、閉塞を余儀なくされていた状況のときであった。このことは、おそらく何かを意味しているに違いないと村上は述べている。
 最初作品が発表されてから40年がたっていた。

 *私と私の影の物語、「街とその不確かな壁」

 「きみがぼくにその街を教えてくれた。」
 こうやって、この六百数十頁もの長い物語は始まる。主人公のぼくは17歳で、彼女のきみは16歳。
 「街は高い壁にまわりを囲まれているの」ときみは語りだす。
 「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」ときみは言う。
 「じゃあ、今ぼくの前にいるきみは、本当のきみじゃないんだ」、当然ながらぼくはそう尋ねる。
 「ええ、今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。その身代わりにすぎないの。ただの移ろう影のようなもの」

 高い壁に囲まれた街を話すきみ(彼女)は、ある日、ぼく(主人公)の前から突然消えたようにいなくなる。いつまでたっても消息が知れないきみのことを思い待ち続けながらも、年月は過ぎていく。
 いつしか40代になった私(主人公)は、ある日、もう一つの世界である君(彼女)が話していた高い壁に囲まれた街に落ちる(行きつく)。 
 その街は、時間の止まったような影のない世界である。私は、街の入口で自分の影と離される。私はその街で、16歳のままの少女である君のいる図書館で、<夢読み>として働くことになる。そして、次第にその街に慣れ親しんでいく。

 彼女と私(主人公)が行きついた、もう一つの世界の概要を記しておこう。
 街は、高い煉瓦の壁に囲まれていて、その内側には街の唯一の出入り口である門衛小屋がある。
 街は腎臓の形に似た外周を持ち、街の中央を緩やかに蛇行しながら一本の美しい川が流れている。ひっそりとした街中にはひっそりと家々があり、一冊の書物も置かれていない図書館がある。
 静かで時が止まったような街で、壁の上を飛べる鳥を除いて、人以外の生物では生命力の乏しい単角獣がいるだけである。
 ※「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」も、二つの物語(世界)が交互に進行する。その「世界の終り」の章は、壁に囲まれた街で、一角獣が生息している。

 壁に囲まれた街は、閉塞された街である。かといって、私は不幸でも不満でもない。私の役目である<夢読み>の仕事も順調だし、なにより君(少女)がいる。
 壁の中の生活にも慣れてきたころ、街を散策した私は、やがてその街から抜け出す入口のようなものを発見する。(1部)

 *現実から抜け出し、別の世界で生きる!

 物語の2部では、主人公の私は40代半ばの中年サラリーマンになっている。結婚はしていない独身である。まだ17歳のときの君(少女)のことを忘れていないし、君が話した壁に囲まれた街のことも頭の片隅にある。
 私はそれまで勤めていた会社を辞め、これといった理由はないのだが、どこか図書館で勤めようと思いたつ。
 そして、たまたまであるが何かに導かれるように、東北(福島県)の田舎の小さな図書館に職を得る。そこで、前の図書館長である老人との友好的だが奇妙な交流が始まる。その人は、現実にはすでにいない人であった。
 そして、その図書館へは、現実社会にそぐわない少年が本を読みに頻繁に通ってきていた。その少年は、壁に囲まれた街(もう一つの世界)へ行こうと思うようになる。そして、少年は突然姿を消す。

 3部は、壁に囲まれた街に残った(中年の)私のその後である。
 壁の中の街で、私は元の街での図書館に通っていた少年を見つける。少年と話をしているうちに、私は元の世界に戻ろうと思う。

 *地図を描き、穴に落ちてみる、物語の世界

 物語のもう一つの世界である壁に囲まれた街は、ほとんど人影のない、死んだような世界である。時は動いているのだが時間がない、それゆえ街の時計には文字盤はあるが針がない。
 不気味だが、感情がないので一概に不幸とは言えない、影のない世界。

 現実の世界ともう一つの世界である壁に囲まれた街を行き来するということに、何を見出したらいいのか。
 こちらの世界ではない、あちらの世界とは…と考えてみる。今住んでいるところとは異なる地図を描き、風景を想像する。そこには今抱いているのとは違った価値観、幸福感がある。その他、異なった些細な事例を思い描く。
 小説、物語の醍醐味は、自分の思いもよらない世界に導かれることにある。

 例えば、見過ごしがちだった影というものを認識するように、穴の奥、あるいは井戸の底における未知の世界への通路という村上春樹が作るメタファーの物語は、今までの小説とは違った水路を開発していて、思いもよらない異なった景色の世界へ誘い込む。
 ※ブログ→「穴の向こう側に行く旅、「騎士団長殺し」(2017-10-10)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/256a2ef466173e16bc44bf4d8b60e573
 ※ブログ→「図らずも、「穴」に落ちるという体験」(2017-11-27)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201711

 私は村上春樹の恋愛小説、例えば彼の作品で最も売れたとされる「ノルウェーの森」や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」などは、どうして彼がこんな小説を書くのだろうと首を傾げたのだが、現実を超脱した長編小説の多くは、想像力と脳を躍動させる。
 ありそうもない物語でも、奇想天外なSFや浅薄なファンタジーにならないのは、彼の比喩・暗喩を塗せた稀有な文体による、独自の突破力にあるといえるだろう。それゆえ、ありそうもない話として出発した物語が、いつしかあってもよさそうな話に運びさられるのである。

 村上春樹は「あとがき」で、最後にホルヘ・ルイス・ボルヘスの言葉に倣い、次のように締めくくっている。
 「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか」

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越境文学のイニシエーション、「星条旗の聞こえない部屋」

2023-07-28 02:13:13 | 本/小説:日本
 *越境文学の先駆者、リービ英雄

 外国人が母語以外の言語である日本語で書く小説を「越境文学」(transborder literature、border-crossing literature)と呼んでいる。
 その越境文学における、現在の新しい書き手であるグレゴリー・ケズナジャットの「 開墾地」について、先に書いた。
 ※ブログ「外国人による和語の純文学、「開墾地」」(2023-06-27)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/87b6c3cb88b5367c756cb189a38d497a

 日本の越境文学において、避けて通れないのがリービ英雄である。そして、越境文学の嚆矢ともいえるのが、彼の小説としての処女作「星条旗の聞こえない部屋」(1992年)といえる。
 *
 リービ英雄(Ian Hideo Levy、1950年~)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー生まれ。本名、リービ・ヒデオ・イアン。東欧系ユダヤ人の父と、ポーランド人移民の母親をもつ。“ヒデオ”は、父の友人で第二次世界大戦中に敵性民間人としてアメリカ内陸部に抑留された日系人に因んでつけられたもの。
 父親は外交官で、幼少・少年時代は台湾、香港、アメリカで育つ。17歳の時に初来日し、日本語に魅了される。
 プリンストン大学東洋学専攻卒業、同大学で「万葉集」を学ぶ。同大学院にて1978年、柿本人麻呂論で文学博士。プリンストン大学、スタンフォード大学で日本文学の教鞭をとる。
 1982年、「万葉集」の英訳で全米図書賞。1987年、「群像」に日本語による「星条旗の聞こえない部屋」を発表し、小説家としてデビュー。
 1989年から日本に定住。1992年、「星条旗の聞こえない部屋」で野間文芸新人賞。
 1996年、「天安門」で芥川賞候補。2005年、「千々にくだけて」で大佛次郎賞、2009年、「仮の水」で伊藤整文学賞、2016年、「模範郷」で読売文学賞、2021年、「天路」で野間文芸賞を受賞。元法政大学国際文化学部教。

 *「しんじゅく」へ向かった、「星条旗の聞こえない部屋」

 1992年発売の単行本(講談社刊)は、「群像」に載った「星条旗の聞こえない部屋」(1887年3月号)、「ノベンバー」(1989年10月号)、「仲間」(1991年11月号)の、3部作といえる作品からなっている。
 リービ英雄は本書の「あとがき」で、日本語で小説を書くことについて、以下のように記している。
 「日本人の血を一滴も持たないぼくが、なぜ日本語で小説を書くのか、という質問をよく受ける。実に返事に困る質問なのだ。
 なぜ日本語で書くのか。その問いに対して、日本語は美しい、フランス語なんかは問題にならない、日本語で書きたくなるのは当然ではないか、と即座に答えたくなる。
 しかし、ぼくが日本語で小説を書く必然性はいったいどこにあるのか。ぼくはますます返事に戸惑う。なぜなら、ぼくが日本語で書く「必然性」には、経験的で、主観的な要素が大きいからだ」

 リービ英雄が日本語で小説を書く理由。それは、1960年代の終わり、彼が青春の多感な時期に日本語に出合い、日本のなかに入り込んでいったからなのだ。
 その過程が、この「星条旗の聞こえない部屋」のなかに、自分の青春期をなぞるように哀感をもって綴られている。
 「ぼくの日本語は、十六、七の頃の居候の中で生まれた。ベン・アイザック(注:本書の主人公)のように家出少年が生きのびるために町で拾ったものが、ぼくの日本語の出発点だった」

 17才の主人公のベン・アイザックはアメリカの外交官の息子で、横浜の領事館に父と中国人に後妻、それに弟と暮らしている。
 その主人公を覆い被さる思春期の靄のような現在と存在が、湧き水のような反抗心と迷路のような思案・思考を下敷きに、文学者らしい文体で綴られる。
 それを、リービ英雄はこう表す。
 「ベンがバージニア州の高校で読んだ十九世紀のある詩人は、どの少年も青春の門前まで至りつくのに、まず終わりなさそうなえんえんたる回廊を通り抜けなければならない、という。ベンが少年の頃から歩んできた回廊には、常に大人の足音が長い影のように響きわたっていた」
 日本語に興味を持ちだしたベンに、父親は冷たくこう言う。
 「たとえお前が皇居前広場へ行って、完璧な日本語で「天皇陛下万歳」と叫んでセップクしたとしても、お前はやつらのひとりにはなれない」
 ページを開いて、何行かを読んだだけで、リービ英雄はすでにれっきとした日本文学者だと感じさせる。
 ときには、私の好きなハッとするような表現にも出くわす。
 「父はベンの知らない言語で囁きはじめた。中国語の方言だったのだろう。未知の音節と抑揚に伴って、父の腕は隣の座席にいる女の肩へやさしく動きだした。熱帯植物の大きな葉のように、ゆっくりと確かな動きだった」

 主人公のベン・アイザックは、「現在」のここでないところに行こうと思っている。
 そして、ついに現在である、横浜の領事館を脱出する。向かう先は、父親がここには行くなと言っていた「しんじゅく」。
 ベンは、新宿で日本を体感することになる。1960年代の新宿は、おそらく「特別」だった。

 *
 1960年代後半の日本は高度経済成長のさなかで、大学は政治の季節だった。全学連、ベ平連、安保反対、ベトナム戦争反対、ヒッピー……と、社会は過激な動きと賑わいを止めなかった。その中心にいた東京、そのなかでも新宿という街は特別な色彩を籠らせていた。
 そのような当時の社会の匂いが、この「星条旗の聞こえない部屋」には横浜、西早稲田、新宿を舞台にして、滲み出ている。

 *1960年代の新宿の匂いを放つ、「仲間」

 「星条旗の聞こえない部屋」のなかに収められている3部の連作ともいえる最後の作品「仲間」は、主人公のベンが新宿の喫茶店「キャッスル」でアルバイトをする体験を綴ったものである。この作品では、主人公の環境になじめない“外人”としてのやるせない疎外感が滲み出ている。
 十代での新宿での喫茶店でのウェイター体験という主人公の状況が、私を個人的に最も感情移入させるものであった。

 ベンは同じ喫茶店で働く日本人従業員に馴染もうと思うが、仲間というより異邦人とみなす同僚との間には埋めがたい大きな溝と距離を感じる。
 同僚との溝が埋まらないまま、日々は過ぎていく。ある日の仕事が終わった後、たむろしていた同僚たちに近づくベンに、外人であるお前にはできないことだろうという素ぶりで、同僚たちは難なく生卵を次々と飲み込む。ベンはそれを見て、というより見せつけられて、自分も生卵を飲み込むことにする。
 唇に卵汁を垂らし彼らのようにうまく飲み込めなかったが、ベンはそれをやり終えたという実感を抱くや、店を立ち去る決意をしたのだった。

 この物語の1960年代後半の新宿は、混沌と熱情のさなかにあった。“外人”のベンも、自らそのなかに入り込んでいった。

 主人公がアルバイトする舞台の喫茶店「キャッスル」は、話のなかの状況、ネーミングからして歌舞伎町にあった喫茶店「王城」、つまり「珈琲王城」であろう。
 「王城」は、建物はヨーロッパの中世の城のようで、できた当時はここは他とは違うぞという雰囲気を周りに醸し出していて、喫茶店とは思えないひときわ目立つ建物だった。際立っていたのは外観だけでなく、なかに入ってもシャンデリアがキラキラと輝き、ゴージャスな雰囲気に満ちていた。
 歌舞伎町の「王城」の建物は現在(2023年)でも存在するが、古ぼけてしまった外観からはかつての壮麗さは消え失せていて、建物のなかも喫茶店ではなくすっかり変わっている。

 *夜の新宿、珈琲「王城」と「西武」物語

 東京オリンピックが行われた1964年、私は九州の田舎から上京し、大学1年のその年の冬の12月に、新宿角筈1丁目(現:新宿3丁目)の喫茶店でアルバイトをした。
 職種は「ボーイ」である。当時は、水商売のウェイターをこう呼んでいた。今は、フランスでも「ギャルソン」と呼ばないらしい。
 新宿のその店は、1階がパチンコ店で、2~4階が新しく開店の喫茶店「西武」、つまり「珈琲西武」だった。その上階にキャバレーがあった。
 バイト初日に店に行ったら、まだ内装工事が終わっていないということで、準備が終わるまでの約1週間を、経営が同じだったのだろう歌舞伎町の「王城」へ派遣された。
 何を言おうか、私の新宿でのウェイター(ボーイ)初体験は、「王城」、つまり「珈琲王城」だった。
 「王城」では、年下だが先輩である同僚ウェイターの冷たい洗礼にあった。その実体験が、物語「仲間」の主人公に思い重ねることになったのだが。
 「王城」から「西武」へ正式に戻ったら、それはそれで楽しいウェイター生活であった。
 それにしても、「珈琲王城」も「珈琲西武」も、ステンドグラスにシャンデリアが輝き、どちらも田舎から上京した私にはまばゆかった。その胸を浮きたたせるゴージャスさが、私にアルバイトの辛さを感じさせなかった。
 あのダイヤモンドのようにまぶしく光っていたシャンデリアが、たとえ虚飾に彩られたガラス玉だったにせよ、若い18歳にはまだ見ぬ未来の輝きに映っていたのだった。

 夜の街に、こんな曲が流れた。
 ……街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり
   ウナセラディ・トーキョー……

 「珈琲西武」が、かつてのゴージャスなシャンデリアはないが、レトロな喫茶店として今でも営業しているのは、感慨深いものがある。

 ……いけない人じゃ ないのにどうして 別れたのかしら
   ウナ・セラ・ディ東京……(唄:ザ・ピーナッツ、作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)
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コロナ下で問われた哲学とは……「目的への抵抗」

2023-07-17 01:44:18 | 本/小説:日本
 *パンデミック下で甦った「暇と退屈の倫理学」

 もう十年以上前に出版された國分功一郎著の「暇と退屈の倫理学」が、去年(2022年)、東大、京大で最も売れた本となったという記事を見たとき驚いたと同時に、この本が評価されたことにホッとした。
 というには、この本が出たころ、私は永井路子の小説のなかの「人生は死ぬまでの長い暇つぶしよ」という台詞に、立ち止まって吟味していた。“暇”と“退屈”が人生にとってどういう意味があり、どういう位置づけなのかを思案・思考していた私にとって、「暇と退屈の倫理学」は絶好の刺激的な本だった。以来、ずっと心の片隅に居座り気になり続ける本となった。
 2020年からの3年に及んだ世界的パンデミックとなったコロナ危機下で、不要不急の外出自粛や緊急事態となり、大学も対面授業が行われなくなった状況で、学生のみならず多くの人にとって、暇と退屈は自分自身に直面せざるを得ないテーマとなったと思われる。
 「暇と退屈の倫理学」について、10年前に書いた私の文を記しておきたい。
 ※ブログ「人生は長い暇つぶしなのか?を考える、「暇と退屈の倫理学」」(2013-11-23)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201311

 *哲学の役割を考える、「目的への抵抗」

 2020年から3年に及んだパンデミック、コロナ危機(禍)は、多くの人が人生において初めての体験だっただろうし、多くのことを考えさせられた。
 「目的への抵抗」シリーズ哲学講話(新潮社)は、このコロナ危機下において、國分功一郎が講義・講話した二つの話を基本とした本である。
 一つは、2020年10月2日、東京大学教養学部主催「東大TV――高校生と大学生のための金曜特別講座」において行われた講義(「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」。オンライン開催)。もう一つは、2022年8月1日に自主的に開催された「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」。対面開催)である。

 <第1部> 哲学の役割―コロナ危機と民主主義
 冒頭、「存在以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?」と、コロナ危機下で政府が実施した政策に関して発言したジョルジョ・アガンベン(イタリアの哲学者)の言葉が記されている。
 この言葉は、コロナ危機下で、葬儀も行われなく死に目にも会えない状況であったことへの言葉である。その状況をやむを得ないと受け止めていた社会全般への批判も含んだ発言で、学者の間で議論を呼んだし、このことを國分功一郎はいち早く日本での議題に挙げた。
 この問題を、2020年、社会学者の大澤真幸と哲学者の國分功一郎が、対談形式の本「コロナ時代の哲学」(左右社)で語っている。
 その時の私のブログを記しておこう
 ※ブログ「「コロナ時代の哲学」を考える① 哲学者Aが導くもの」(2020-10-11)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/b3474578990c8564dc7179bbfb86d75b

 *自由は、目的に抵抗する

 「目的への抵抗」の後半は、コロナ危機下における「不要不急」を掘り下げた内容である。
 <第2部> 不要不急と民主主義
 冒頭、「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」というハンナ・アーレント(ドイツ出身の米国の政治哲学者、思想家)の言葉が記されている。

 コロナ危機下で、私たちに突きつけられた真新しい言葉に、流行語にもなった「不要不急」がある。必要のない、緊急でない外出は自粛するようにという政府の規制要請である。
 本書は、この人の移動の自由への規制要請をこう掘り下げる。
 「必要といわれえるものは何かのために必要なのであって、必要が言われるときには常に目的が想定されている。必要の概念は目的の概念と切り離せません」
 そして、こう続ける。
 「自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか」

 *現代社会の、贅沢から消費への変質

 國分功一郎は目的と自由を語るに関して、ジャン・ボードリヤール(仏哲学者)の消費論を紹介している。贅沢とは何かを語ることによって、現代社会における消費なるものを紐解いていく。
 「我々は、人間の生存にとっては必要という限界を超えた支出が行われるときに、それに贅沢を感じる。贅沢はしばしば嫌われ、退けられます。というのも、それはしばしば無駄だと捉えられるからです。」
 それでは、無駄を省き生存に必要なものだけがあればいいのだろうか、と問う。生存に必要なものだけがある生活とはギリギリの生活で、豊かさを感じることができるでしょうかと疑問を投げかけるのだ。
 「実際、どんな社会も豊かさを求めたし、贅沢が許された時にはそれを享受してきた。……贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶならば、人間はまさしく浪費を通じて、豊かさを感じ、充実感を得てきたのです」
 人類はずっと浪費を楽しんできた。ところが、20世紀になって人類は突然全く新しいことを始めた、とボードリヤールは言う。それが「消費」なのだと。
 「浪費は満足をもたらします。そして満足すれば浪費は止まります。つまり、浪費には終わりがある。ところが、消費には終わりがありません。」

 それは、食事を例にして語られる。
 生存に必要な、それ以上のご馳走を食べたとき人は満足感、贅沢を感じてきた。しかし、その贅沢感は現代では消費に変わられているのだという。
 「消費において人はものそのものを受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして、観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。そのような性質を名指して、ボードリヤールは消費を観念論的な行為とも呼んでいます」
 現代社会では、次々とネットや雑誌等で美味しい店、新しい店が紹介されている。それらの店を廻り食するのは、贅沢というより消化になっているというのであろう。
 旅もそうであろう。
 知らない街や知らない文化との遭遇と発見の心のときめきから、情報が行き届きPRされた世界遺産巡りに象徴されるように、名所旧跡に行ったという観念や記号を得ている、つまり現代は消化の旅に変質しているということだろう。

 國分功一郎は、ボードリヤールの消費論に基づいて次のように語る。
 「消費のメカニズムを応用すれば、経済は人間を終わりなき消費のサイクルへと向かわせることができます。20世紀にはこれが大々的に展開され、大量生産・大量消費・大量投棄の経済が作り上げられるとともに、人類史上、前例のない経済成長がもたらされました」

 そして、冒頭であげた彼の著書である「暇と退屈の倫理学」について、強調したのは次の点だと述べる。
 「消費社会は僕らに何の贅沢も提供していない。「次はこれだ、その次はこれだ」と僕らを消費者になるように駆り立てている消費社会は、僕らを焦らせているだけで、少しも贅沢など提供していない。つまり消費社会の中で僕らは浪費できていない。僕らは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている」
 それでは、現代の消費社会において、私たちはどう生きるのか、どう生きたらいいのか?それに対し、國分功一郎はこう回答する。
 「つまり、楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としているのです。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあるということができます。
 それに対し、現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めない社会になりつつあるのではないか。」

 贅沢を失いつつある私たち。いや、失っているのか?
 「暇と退屈の倫理学」は、いまだに私のなかでは終わりのない問いかけである。

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