かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 最終目的地

2010-04-29 19:41:46 | 本/小説:外国
 ピーター・キャメロン著 岩本正恵訳 新潮社

 自分にはこの道しかない、この道が閉ざされたらすべてが終わりだ、と思うときがある。
 そう思うのは、多くが若いときの、受験だったり就職試験だったりのときである。また、あるときは恋の場合もあろう。
 しかし、あとから振り返ると、道はその道だけとは限らないことを知る。自分の望むただ一つの道が閉ざされても、別の道があるものなのだ。
 とはいっても、その時点ではそうは思えない。正面に広がっている道以外は、道とはいえない薮や闇にしか思えないのだ。
 しかし、望む道が遮られても、前に進まないといけない。とにかく進んでみて、違った脇道があるのを知るのだ。その脇道に、もっとすばらしい展開が待ちうけているかもしれないのだ。
 いやいや、すばらしいかどうかは分からない。その表現は間違っている。そもそも二つの道の比較はできないのだから、どちらがすばらしいかなど言えるはずがない。人は二つの人生を歩むことができないのだから。
 ただ、望む正面の道はある程度予測可能だが、脇道は何が起こるか分からないという予測不可能の道なのだ。
 どの道に進むにしろ、それが人生である。

 *

 アメリカのカンザス大学の大学院で文学を学んでいるオマー・ラギザは、作家のユルス・グントの伝記を執筆する計画でいる。この伝記を執筆するということで、大学の研究奨励金を受けていたし今後も受けられる予定である。それに、この伝記の執筆が終わったら、大学出版局から出版する認可も受けている。
 そうすると、博士課程を順調に進級・受得すると同時に、大学への教職の展望もうまく開けてくるだろう。つまり、彼の伝記作家としても研究者としても、レールに乗るだろうと思われるのだ。
 それには、故人となっている伝記対象者のユルス・グント氏の遺言執行者の伝記執筆に関する公認証明書が必要で、それを大学に提出しなければならない。要するに、グント氏の関係者の正式な許可が必要というわけである。
 グント氏の遺言執行者は、氏が作家活動を行った南米のウルグアイに住んでいる。
 関係者は3人いて、ユルス・グントの元妻、元愛人、それにユルス・グントの兄である。

 オマーが、彼らにユルス・グントの伝記の執筆依頼と、その公認証明書を与えて欲しいとする手紙を送るところから、この物語は始まる。
 しかし、オマーのもとに、思いもよらない不許可の返事が来る。
 彼は途方に暮れる。ほかの選択肢は考えていなかったし、見つからなかった。そんな彼を見て恋人のディアドラは、すぐにウルグアイに行って、彼らを説得するように言う。
 このような事情で、オマーは彼らが住む見知らぬウルグアイに行くことにする。
 住所をもとにたどり着いたそこは、静かな人里離れた村で、彼らが住む古い邸宅があった。
 突然の招かれざる若い男の出現は、彼らの心にそれぞれ波紋を呼び起こす。

 著者のピーター・キャメロンは、1959年生まれのアメリカの作家。少年時代をイギリスで過ごしている。本書は、「日の名残り」を撮ったジェイムス・アイボリー監督によって映画化されている。ちなみに、この映画には真田広之も出演しているという。
 
 まず裏表紙に紹介されている小説の粗筋を読んで、静かな平凡な家庭に一人の若者がさ迷いこんできて、彼らのすべての人と性的関係を持ち、家庭を崩壊させて去っていくという、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア映画「テオレマ」(テレンス・スタンプ主演)を想起させた。
 また、一人の男を巡る3人の姉妹との関係・動揺を描いた、韓国映画でイ・ビョンボン、チェ・ジウ主演の「誰にでも秘密がある」をも思い出した。

 しかし、この物語は少しニュアンスが違った。主人公は、完璧な男ではない、気の優しい青年である。
 作家の元妻、愛人、兄。彼らの一人一人が、作家の伝記に関して違った思惑を持っていて、違った目でさ迷いこんできた男を見、接した。やがて、そこで静かに暮らしていた彼らの過去が、少しずつ顕わになってくる。
 南米の静かな村。このまま平穏に進んでいくのではないかと思われた一見穏やかな関係に、亀裂が入る。関係の崩壊と同時に新しい展開が始まる。
 しかし結局、伝記を書くことしか思いがよらなかった大学院生のオマーは、すべてを捨て、まったく違った道を歩むことを決心する。
 物語の最終では、一人の男の道だけでなく、関係者のすべてが違った展開、道に出くわすことになる。おぼろげながらにこのまま進むであろうと思っていた静かな道以外に、別の道が現れたのだった。

 人生には、大きな真っ直ぐな道以外に小道や脇道や、人のあまり通らない獣道も存在する。思いもよらないところから出現する新しい細い道を一歩進むことから、その道は大きな道に変わる。それは、新しい人生とも言える。
 もちろん、それが正しい道とも、よりすばらしい道とも、誰も言えない。一歩前に進まなくとも、それは人生である。何を、誰に咎められよう。
 どのような道を選ぼうとも、時は均しく人に与えて、いつしか過ぎていく。

 ともあれ、「最終目的地」(The city of your final destination)は、どこにあるか分からない。決まっていないのが人生である。
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「西行花伝」と母の行方 ③

2010-04-21 10:37:11 | 気まぐれな日々
 春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり
                                     西行

 4月、桜は咲きほころんだ。西行も桜に心の動揺を託した。

 4月に入り、入院していた母の容態は急速に悪化した。
 3月中旬までは、こちらの話しかけに頷いたり、少しは言葉で応えたりもした。しかし、細い身体に常時点滴の管が取りつけられ、鼻と口は酸素吸入器で塞がれ、瞼は開くことはなく、荒い呼吸だけが生きている証のように見えた。
 遡れば、歩行は困難とはいえ、今年の正月には細いながらもちゃんと食事をし、普通に話をしていたのだ。
 あっという間の変化だった。
 4月4日、当直の医師に告げられた。
 もうすぐそこであるということを。

 *

 遅々として進まなかったが、ふとしたことから「西行花伝」(辻邦生著)を読んでいた。
 西行の弟子の藤原秋実が、西行ゆかりの様々な人間から西行に関して聞き書きするという物語り構成であった。
 西行は、ただ世の儚さを嘆き、世捨て人の歌詠みになっているのではなかった。若いときは、歌を詠ったばかりでなく、蹴鞠(けまり)にも流鏑馬(やぶさめ・馬を走らせながら的に向かって弓矢を射る競技)にも秀でた男であった。つまり、文武両道の男だった。
 出家したあとも、都に出向いて要人と会ったり、弟子より都の情勢を聞くことを絶やしてはいなかった。また、平泉の藤原秀衛と縁戚にある関係もあって、遥か東北・陸奥(みちのく)へも2度旅していた。

 鳥羽院の北面の武士だった佐藤義清(のりきよ)が、どうして若くして出離して西行になったのかを思った。その引き金は何だったのだろう、と。
 佐藤義清(のちの西行)は、母の死にあって、友人が心配するほど、人目をはばかることなく泣き悲しむストレートな男だった。
 その義清が鎌倉二郎源季正(西住)に、源重実のいう「雅」(みやび)について語った箇所がある。

 「人が死んで居なくなることと、生きていてここにいることと、どう違うのだろう」
 「この二つは決定的に違っている。まるで矢が的に当たるのと、当たらないのとが、違っているように」
 「源重実殿は矢が当たる当たらないに、さして気を遣うなと言われた。当たる当たらないを喜んだり悲しんだりするのではなく、矢を射ることをと楽しむべきだと諭された。当たるも嬉しい、当たらないのも嬉しい、とにかく矢を射るそのことが嬉しい――それが雅(みやび)だと言われるのだ」
 「その雅から見ると、当たる当たらないで一喜一憂するのは下卑た態度なのだ。本当の弓矢の花を生きていないことになる」
 「矢が当たる当たらないが、別々のことだとすれば、どうしてその別々のことを同じように楽しめるのか。それは、当たる当たらないに共通した矢を射るという事実があるからだ。この矢を射るに注目するので、当たる当たらないは気にならない。もしそうだとすれば、生きることと死ぬことが、決定的に違っていても、両方を、同じように楽しむことができるのではないだろうか。当たるを喜び、当たらないを悲しむのが雅でないのなら、生を喜び、死を悲しむ態度も雅ではないはずだ。雅であるためには――この世の花を楽しむには、生を喜ぶと同時に死を喜ばなくてはいけないんじゃないだろうか」
 「矢の当不当には矢を射るということがあった。だから、矢を射るにさえ注目しそれを喜べば、矢の当不当の煩いから超えられた。では、人の生死を超えて、矢を射るに相当するものは何だろう」
 「それさえ分かれば、母の死も空白の悲哀ではなく、喜びと感じられるはずだ。だって生死は、そのことに結果にしかすぎないからね。そのこと――何か大きなものに感じられるな――を喜んでいれば、生死に煩わされることはない。矢の当不当に煩わされぬのと同じように」
 「重実殿は、そうした宴が雅であると思っているのだろう」

 *

 4月6日、家から病院へ行く途中にある堤(池)の麓にある4本の桜が満開を迎えていた。(写真)
 私は、病院へ向かう途中、その桜の枝に手を伸ばし、花を摘んだ。4本の茎があり、そこから花びらが伸びていた。
 それを、白いビニールの袋に入れて病院へ行った。
 花びらを取り出し、瞼を開くことのない母の顔の上にかざし、それを頭の上の方に伸びた点滴の台に結んだ。
 4月7日、堤の麓の桜は、緩やかな風に花びらを飛ばしていた。花の季節も終わろうとしていた。
 私は、再び花びらを摘み、今度は透明なビニールの袋に入れて、それを母のもとへ運んだ。
 翌4月8日の夜、母は桜の花びらの下で逝った。旧暦きさらぎ(如月)の25日、花まつりの日であった。

 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
                                     西行


 *

 4月10日正午、葬儀を終えて母を運ぶ車に、桜の花吹雪が舞った。もう残す花びらはいらないとでもいうように。
 
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「西行花伝」と母の行方 ②

2010-04-20 01:31:42 | 気まぐれな日々
 散るを見で 帰る心や 桜花
     昔にかはる しるしなるらん

 桜の散るのを見ないで帰るという、桜の盛りにその散る哀しさを感じとった歌であろう。若き西行が唯一心を奪われ、出家(出離)の間接的動機となった恋心に終止符を打った頃の歌とされる。

 *

 3月下旬、佐賀の実家に帰っていた私はその日、町中を自転車で走らせた。旧国道の長崎街道で、大町宿から小田宿の方へである。(「長崎街道の佐賀の田舎道を行く」3月26日付)
 途中、小学校の脇を通った。校門の両脇に桜が立っていた。
 かつて通った学校だ。校門を入ってみた。校門の先の校庭はグラウンドになっていて、その先に校舎が見える。校舎はこぎれいになっていた。校門から校庭を囲むように、桜が連なっていて、これから盛りを迎えようとしていた。
 誰もいない校庭の桜は、心なしか寂しそうだ。
 かつて炭鉱が栄えていた頃、この学校は日本一の生徒数を誇るマンモス小学校として、名をなしたこともあった。エネルギー革命後の石炭産業の衰退、閉山と続くなか、町の人口減と比例して生徒数は漸減し、町も学校も今は当時の面影を記憶にとどめるにすぎない。通りからも街角からも、それに校庭からも、往年の熱気はとうに消えうせている。
 街も人も、とどまることを知らない。すべては移りゆく。
 校庭の桜は、それを静かに見てきたのかもしれない。

 この町にかつてあった、まるで栄光を象徴する塔のような2本の高い煙突も、炭が運ばれていく選炭場の高い建物も、地底に続く坑道の入口跡も、何もかもが跡形もなく消えてしまった。田川(福岡県)に残る「青春の門」に見る三角形のボタ山も、ここではそれをとどめてはいない。
 佐渡の金山、石見の銀山、足尾の銅山は、しっかりその文化的・産業的遺跡としての足跡を残していた。石炭の山跡の夕張や三池も残している。比較的近年まで運行していた長崎の高島、池島炭鉱は残っているし、これからも残すであろう。
 長崎の崎戸では、鉄筋コンクリートの炭住(炭鉱住宅)が、まるで風雪に晒されて耐えているリヤ王の亡霊城のように、骨組みだけで聳えていた。それは、それだけでもう遺跡であった。
 哀しいかな、佐賀は残すという意識が極めて薄い。
 先に「佐賀城下で「世界遺産への道」を思う」(4月1日付)で綴った“人間魚雷工場”とされる伊万里の川南造船所跡も取り壊しが決まった。
 ところがその後、これを遺産として残してくれという動きが起こった、という新聞報道(朝日新聞4月11日)があった。やはり佐賀にも、このような声をあげて立ち上がる人が出てきたかと思った。しかし、市に寄付を申し出て、残してくれという声の主は地元からではなく、千葉県の会社員からのものだった。

 *

 次の日のこと、地元の友人が桜を見に行こうと言ってきた。
 その日は朝から今にも雨が降りそうな天気だったが、友人の車で出かけた。
 まず、大町々の浦田公園に行った。堤(池)に添うようにして立ち並ぶ桜は、水に映って情緒があった。人が誰もいないのが、雨の気配も漂って、華やかな桜に侘しさを漂わせる。(写真)
 近くには、最近できた大町温泉がある。

 そこを出て、北方の医王寺を抜けて、武雄の宇宙科学館が建つ池ノ内池の周辺へやって来た。霧雨が、池の周りに並ぶ桜を水彩画のように幽玄の景色を作り出していた。池に浮かぶボートが雨に濡れている。
 桜も雨に濡れている。

 *

 3月の終わり、佐賀に出向き、佐賀城の堀端の桜を見て歩いた。城と桜はよく似合う。
 東京では、江戸城(皇居)の堀端の千鳥が渕の桜を見に、毎年この季節通った。
 千鳥が渕の桜は、大和の吉野の桜と双璧だろう。この2つの桜は、街中の桜と山里の桜という、まったく異なった趣がある。
 
若い頃、紀伊・熊野の那智から高野山へ出て、吉野の山を歩いたことがある。すでに桜も散った、緑の葉桜の季節だったが、奥の西行庵まで辿った。山奥の細道の先に、西行庵はぽつねんと佇んでいた。
 一昨年の4月の終わり、再び吉野へ行った。吉野の桜の花の開きは、里から山の方へ向かって順次昇っていくので、上(奥)の方はまだところどころ薄桃色に煙っていた。
 再び西行庵を訪ねると、主(あるじ)のいない庵の麓の桜は、まだ散らずに待ってくれていた。
 西行は、若くして儚く移り行く現世(うつせみ)を捨て、隠遁のなかで歌の世界に生きる決心をした。そして、花を、あるいは月を歌に託して、思いを燃やした。
 吉野の桜を見ていた西行の気持ちは、どのようなものだったのだろう。

 花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身を

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「西行花伝」と母の行方 ①

2010-04-14 19:04:48 | 気まぐれな日々
 願はくは 花のしたにて 春死なん
     そのきさらぎの 望月のころ

 西行については歌以外に多くを知っていなかったが、この桜の季節、西行について書かれた文を偶然に読み始めた。
 なぜ、西行の伝記を手にするという、思わぬ偶然がやってきたのだろうか。
 西行の無常観漂う短歌は、時々気紛れに作る私の歌の、師匠というにはおこがましくてはばかれるが、手本であった。とはいえ、彼の歌以外には、西行がどのような人生を送ったかはほとんど知らずにいた。北面の武士だった彼が、何故(なにゆえ)にか若くして隠遁の生活に入り、歌に没頭したということぐらいの知識しか持っていなかった。
 時折、彼の歌が綴られた本を、思い出したようにめくる程度であった。

 2010年4月初旬、桜が咲きほころんだ。
 昨年の末から、母の行方を案じ、私は以前にもまして東京と佐賀を行き来し、佐賀に多く滞在していた。
 冬が終わり春の足音が聞こえてくる今年のこの季節、私は実家の佐賀にいた。振り返れば、この季節に佐賀にいたのは、学生時代以来となる。
 であるから、今年、私は佐賀の桜をよく見ることとなった。
 まずは、東京から佐賀に帰った翌日の3月20日の夜だった。
 私が友人たちと武雄で飲んでほうけて、駅から家へ帰宅する途中の、ゆるやかな坂から不規則な石の階段になる細道を歩いているときだった。道は湿っていて、その日の夕から夜にかけて雨が降った名残りをとどめていた。私は足を滑らさないように、ゆっくりと下を見て歩いた。
 私の家の裏の高台に来たところで、夜の薄暗い闇に染まった石段に紛れたように、白い斑点がいくつもあるのが目に入った。
 私は、すぐに空を見上げた。すると、そこに大きな毛細血管のような幾様にも入り乱れた木の枝が、灰色の空を背景にした影絵のように広がっていた。
 それらの枝々は高台の片隅の大きな木に繋がっていて、そこから枝は四方に伸びていた。その枝々は、たわわに花を湛えていたのだった。
 やはり石段に染みていた白い斑点は、思ったように花びら、桜の花びらに違いなかった。
 そのことを確認するために腰を屈めて、白いものを摘もうと指を伸ばし爪をたてたが、まるで石に染み込んだように貼り付いて取れなかった。すでに雨はやんでいたが、濡れた石段は、おそらく花びらを化石のように吸い取っていた。
 実家の家の近くの、いつも通っていたところの片隅にあった木は、おそらく桜だというのを、その夜知ったのだった。こんなところに、ぽつんと桜があったのだ。
 開花予想より、ずっと早く咲いていた。雨にうたれて、花びらはいくつか落とされたのだ。

 翌日、その木のところへ行ってみた。
 老木とは思えない威勢のよい桜が、花をつけた途端、われを忘れて天に伸びようとしているようであった。(写真)

 普段は押し黙って佇んでいて、気にもとまらない凡庸にも思える木が、急にこの季節、突然と思えるように色めき、自己主張し、人々の目を奪う。おや、こんなところにもと、足を止めさせる。
 しかし、今目の前に咲いている花は、急ぎ足で散っていく。華やかであればあるほど、孕んでいる儚さを予感させる。
 華(はな)やぎは、いつまでも続かない、ということを自然と知らしめる。
 それが、桜の木である。

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佐賀城下で、「世界遺産への道」を思う

2010-04-01 02:38:30 | 気まぐれな日々
 3月の終わり、佐賀城下の堀割りを歩いた。
 おりしも、桜が満開だ。
 佐賀城跡・本丸歴史館からさらに南に行くと、大きな堀が左右に広がり、それは城を四角く囲むように伸びていく。かつてこの堀には蓮の群れが繁っていたが、今はない。
 堀に沿って伸びる遊歩道には、満開の桜の淡いピンクが連なっている。水辺の桜は、儚さを醸し出して、その魅力に付加価値を与えている。(写真)
 例年なら東京にいて、皇居の堀端の千鳥が渕の桜を堪能していたことだろう。
 佐賀の桜を見るのはいつ以来だろうか。会社勤めの頃はこの季節帰省しないし、その後フリーになっても帰っていないので、そう思うと学生時代以来になるのかもしれない。
 先日、小学校の前を通ったら、校門の脇に桜の木があり、花を咲かしていた。僕が入学したときも咲いていたに違いない。記憶は遠くおぼろげだ。
 学校と城に、桜はよく似合う。
 桜は、じっと冬を耐え忍んできたかのように一気に咲き誇り、惜しむ間もなくはらはらと散っていく。卒業と入学・入社、出会いと別れがやって来る、この季節に照準を合わせたかのように咲く桜。その散り際を、武士の潔さに例えられもした。

 この3月、佐賀城本丸歴史館にて、「世界遺産への道」と題したテーマ展を開いていた。外の桜を見ながら、展示場をのぞいた。
 現在、世界遺産の暫定リストに登録している「九州・山口の近代化産業遺産群」に向けての展示である。
 ずっと鎖国を続けていた日本は、江戸幕末期、西洋列強国の日本への接近により、やむを得ず開国し、明治維新後、急速に西洋技術の導入、近代化を進めていった。それを担っていたのが、九州・山口に起こった軍事、石炭、製鉄、造船、紡績などの産業群であった。
 世界遺産へ向けての産業遺産群の候補地には、福岡の三池炭鉱跡、八幡製鉄所跡、下関の前田砲台跡、長崎の造船所、高島・端島炭鉱跡、鹿児島の旧集成館跡、山口の萩反射炉跡、恵美須ヶ鼻造船所跡、ほかの候補地が挙げられている。
 佐賀からは、当初、唐津にある石炭王、高取伊好の邸宅が挙げられていたが、時代的に少し後だということ、それより幕末期に最も近代技術開発が進んでいた佐賀藩の工業技術跡が重要だということで、そのなかの一つ、「三重津海軍所跡」がリストアップされた。

 長崎湾岸の警備を担当していた佐賀藩は、幕末期、三重津(現佐賀市川副町・諸富町)で、独自に海軍技術の教練を行っていた。幕府が、長崎に置いていた長崎海軍伝習所を廃止したことにより、ここにその施設を移し、やがて日本初の蒸気船「涼風丸」の建造に成功させた。
 佐賀藩の近代化遺産には、このほか、日本初の反射炉で製鉄大砲を製造した、「築地(ついじ)反射炉跡」。
 浦賀に現れた黒船の来航に危機感を持った幕府は、江戸湾に砲台を設置するため、佐賀藩に大砲鋳造を依頼する。そのために造られた、「多布施反射炉跡」。その遺構は、現在でも東京のお台場に残っている。
 また、佐賀藩が進めた、洋書の翻訳、薬剤や煙硝の試験、蒸気機関や電信機の研究などを行った理化学研究所である「精錬方跡」、などがある。
 しかし、これらについての記録はあるものの、現在建造物等は何も残っていない。
 それで県と市は、最近、三重津海軍所跡(川副町)での発掘調査を行い、ドッグの遺構の跡と思われる杭などを発見した。
 今回の佐賀城本丸歴史館での「世界遺産への道」の展示は、三重津海軍所関連の跡地からの出土遺物、反射炉や蒸気機関の図、などを公開したものだ。

 福岡や長崎には、炭鉱の跡も多く残っている。残したというより無人島となって残っていた長崎の軍艦島と呼ばれている端島も、近代化産業遺産群の候補地であり、廃墟ブームもあって、いまや人気の観光スポットだ。
 ひるがえって佐賀県だが、唐津、多久、北方、大町、江北町などに優良な炭鉱所があったが、その施設や建築物はほとんど残っていない。多久にわずかに放置されたように残っているが、どの町にも産業遺産あるいは町の遺産として残しておこうという考えは、まったくなかったようだ。
 最近、「人間魚雷」と呼ばれる特殊潜水艇の工場だったとも言われる、伊万里市の「川南造船所跡」が、老朽化して危険だという理由で1年以内に撤去されることになった。昭和初期に当初ガラス工場として建てられたこの建物は、廃墟ファンには有名なところだ。僕も知らずに偶然この建物の前を車で通ったことがあるが、ひと目見て強いインパクトを受け、車を止めてしばし見入ったものだった。
 新聞報道によると、この建物の撤去関連費用に、市は2010年度に1億1300万円を当初予算案に計上したとされるが、保存をできないものなのかと思ってしまう。
 佐賀は、過去の歴史をかんがみても、おしなべて保存とPRに非積極的なように思える。それでいて、「佐賀はなんもなか」と自虐的に話す人が多い。そんなことはないのに。
 世界遺産に登録された島根の石見銀山跡(大田市)を、世界遺産に登録される前に行ったことがある。そこで、地元の人たちの、町並みと銀山跡の保存に対する強い情熱と一体感を感じた。

 佐賀が輝きを取り戻すためには、佐賀にあるものを自ら見出し、自ら密やかにでも育てなくてはならない。
 今は、せめて周りにある桜を、しばし楽しもう。すぐに、惜しげもなく散ってしまうのだから。
 散りゆくもの、消えていくものの中に、密かに「美」が隠されているのだ。
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