調布シネサロンでは、「日活100年への軌跡」として毎月、日活映画を上映しており、「銀幕のパールライン」と銘打って、先日「誘惑」(監督:中平康、1957年)を上映した。
ここでいうパールラインとは天草のパールラインではなく、日活ファンの人は承知であろうが、ダイヤモンドラインに準じて作られた呼称である。
ダイヤモンドに対して、ルビーやサファイアでなくパール、すなわち真珠とは、いささか控えめの感があるが、これがとてもぴったりとあっている。野村克也(元野球選手)の例えではないが、ヒマワリに対して月見草のような奥ゆかしさがある。
では、パールラインには誰がいたのであろう。
1950年代後半の日活映画は、文芸ものからアクションものに変換していく過程にあった。そして、1959年頃より、アクション映画を主とした石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治をもってダイヤモンドラインなるものが編成され、毎週この4人の誰かが銀幕に登場するようになる。
しかし、61年に裕次郎のスキー場での骨折、赤木圭一郎のゴーカード事故死で、それまで助演者であった宍戸錠、二谷英明を主演級に昇格させる。だから、ダイヤモンドラインは、後半には変容している。
アクション映画は、あくまでも男優のヒーローが主役であった。相手役の女優のヒロインは、やはり月見草の美しさである。
パールラインは、ダイヤモンドラインのヒーローの相手役であるヒロインを呼称したものである。であるから、ヒロイン役を演じた北原三枝、芦川いづみ、浅丘ルリ子、笹森礼子、清水まゆみ、そう思っていた。
しかし、小林旭の渡り鳥、流れ者、銀座旋風児などのシリーズでの浅丘ルリ子、和田浩二の小僧シリーズでの清水まゆみなど、シリーズものでは、ヒロインは不動であったが、石原裕次郎や赤木圭一郎主演のシリーズもの以外の単発もののヒロインは、さまざまであった。裕次郎は北原三枝と結婚したあとは彼女とはコンビは組まず、相手ヒロインは変わっていった。
だから、パールラインとは、固定されていなかったと言っていい。
それを物語るものとして、日活が発行していた「日活映画」なる雑誌の(昭和35年6月号)表紙には、座談会「日活パールラインのおしゃべりタイム」なる記事がある。僕はその内容を読んだわけではないが、その出席者は笹森礼子、吉永小百合、南里磨美とある。笹森礼子、吉永小百合はともかく、南里磨美という女優を僕は知らない。ダイヤモンドラインの相手役をやったという記憶もない。
その後の芸能雑誌によるパールラインの記事を見ても、ダイヤモンドラインのヒロイン役とは限らないようで、日活が公開する映画のPR用に若手の女優を登場させていたようである。
その後日活では、アクション映画の影で薄くなっていた青春映画が、アクション映画の衰退とともにクロスするように表舞台に出てくるようになる。
吉永小百合は日活入社後、「拳銃無頼帖・電光石火の男」「霧笛が俺を呼んでいる」など赤木圭一郎主演のアクション映画などに脇役で出演していたが、1960年末の浜田光夫との「ガラスの中の少女」で初主演を飾る。ここに日活青春映画の萌芽を見ることになる。
吉永は翌61年には、アクション映画の「黒い傷あとのブルース」(小林旭主演)などを交えながら、浜田光夫とのコンビで石坂洋次郎原作の「草を刈る娘」などによって、日活に青春映画を定着させ始める。
そして、62年に「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)にて、日活の青春映画の開花を見る。この年の「赤い蕾と白い花」では、吉永は挿入歌の「寒い朝」をヒットさせ歌手の仲間入りも果たし、同年橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」では日本レコード大賞を受賞する。
稀しくも、この年封切られた「渡り鳥北へ帰る」が、小林旭の渡り鳥シリーズの最後の映画となる。
裕次郎は、61年「あいつと私」で事故より復活するが、その後不良じみたアクションとは無縁になる。
62年、赤木圭一郎の事故死により撮影中断していた「激流に生きる男」で初主演した高橋英樹は、吉永小百合、和泉雅子などと文芸ものに共演し、スターとなっていく。
こうした機運を受けて、吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹など若手を中心に、山内賢、和泉雅子などでグリーンラインが編成される。出演作からみて、吉永小百合、松原千恵子などは、パールラインとグリーンラインの両方にわたっていたと言っていい。
ダイヤモンドライン、パールラインの自然消滅とクロスして生まれたグリーンラインであるが、日活の青春映画も、時代の波とともに衰退・変身を余儀なくされていく。
*
「誘惑」(1957年、日活)は、「狂った果実」で本場フランス・ヌーベヴェルバーグよりも早い出現と言われた、鬼才中平康の監督作品である。
内容は、銀座通りで洋品店をやっていた店主(千田是也)が、2階で画廊を始める。そこで、学生によるグループ展をやらせることにした際の、画廊の店主、娘、店員、学生たちを絡めた淡いラブロマンスである。
1957年作という時代を思えば、洒落た作品である。銀座もパリのシャンゼリゼのように映る。
パールラインの一粒、芦川いづみ出演作である。といっても、主演は彼女ではなくて左幸子である。
そして、芦川いづみの相手役は、ダイヤモンドラインの男優ではない。しいていえば、中年男の千田是也(俳優座)である。しかも、写真の宣伝ポスターにあるように、その千田是也との、寝ている状況とはいえキスシーンまである。裕次郎や旭とでも、キスシーンはなかったはずだが。
左幸子は、アクション、青春映画が大手を振っていた日活において、「にっぽん昆虫記」(監督:今村昌平)、「飢餓海峡」(監督:内田吐夢)など優れた芸術作品で好演していて、もっと注目されていい女優なのだが。
この映画で僕が注目したのは、葉山良二である。典型的な甘い二枚目で、日活がアクション映画に本格的に取り組む前の揺籃期に、文芸ものやメロドラマに主演していた。中平康は、この葉山が気に入っていたようで、彼の作品にはよく出演している。
アクション映画全盛期にも、準主演級として出演していたが、どうしても石原裕次郎や小林旭などの個性には負けてしまい、次第に脇役になっていった。
アクション映画で、助演や脇役で出演している葉山を見て、惜しいなあと思っていた。
葉山良二が日活ではなく松竹にいたら、上原謙や佐田啓二の後継者として人気を博したかもしれない。
本題のパールラインであるが、グリーンラインもそうだが、固定しなくて変動制であるなら、映画と連動させながら、新人の若手女優をどんどんマスコミに露出させればよかったのだ。
そして、日活独自に人気投票などをして(日活映画入場者に投票権を与えて)、ランク付けをしたりする。今月のパールライン・ベスト10の、No.1は浅丘ルリ子、No.2は吉永小百合…などと、当時の雑誌「平凡」「明星」「近代映画」などとタイアップして発表したりして。
う~ん、AKB48の先取りだな。
ここでいうパールラインとは天草のパールラインではなく、日活ファンの人は承知であろうが、ダイヤモンドラインに準じて作られた呼称である。
ダイヤモンドに対して、ルビーやサファイアでなくパール、すなわち真珠とは、いささか控えめの感があるが、これがとてもぴったりとあっている。野村克也(元野球選手)の例えではないが、ヒマワリに対して月見草のような奥ゆかしさがある。
では、パールラインには誰がいたのであろう。
1950年代後半の日活映画は、文芸ものからアクションものに変換していく過程にあった。そして、1959年頃より、アクション映画を主とした石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治をもってダイヤモンドラインなるものが編成され、毎週この4人の誰かが銀幕に登場するようになる。
しかし、61年に裕次郎のスキー場での骨折、赤木圭一郎のゴーカード事故死で、それまで助演者であった宍戸錠、二谷英明を主演級に昇格させる。だから、ダイヤモンドラインは、後半には変容している。
アクション映画は、あくまでも男優のヒーローが主役であった。相手役の女優のヒロインは、やはり月見草の美しさである。
パールラインは、ダイヤモンドラインのヒーローの相手役であるヒロインを呼称したものである。であるから、ヒロイン役を演じた北原三枝、芦川いづみ、浅丘ルリ子、笹森礼子、清水まゆみ、そう思っていた。
しかし、小林旭の渡り鳥、流れ者、銀座旋風児などのシリーズでの浅丘ルリ子、和田浩二の小僧シリーズでの清水まゆみなど、シリーズものでは、ヒロインは不動であったが、石原裕次郎や赤木圭一郎主演のシリーズもの以外の単発もののヒロインは、さまざまであった。裕次郎は北原三枝と結婚したあとは彼女とはコンビは組まず、相手ヒロインは変わっていった。
だから、パールラインとは、固定されていなかったと言っていい。
それを物語るものとして、日活が発行していた「日活映画」なる雑誌の(昭和35年6月号)表紙には、座談会「日活パールラインのおしゃべりタイム」なる記事がある。僕はその内容を読んだわけではないが、その出席者は笹森礼子、吉永小百合、南里磨美とある。笹森礼子、吉永小百合はともかく、南里磨美という女優を僕は知らない。ダイヤモンドラインの相手役をやったという記憶もない。
その後の芸能雑誌によるパールラインの記事を見ても、ダイヤモンドラインのヒロイン役とは限らないようで、日活が公開する映画のPR用に若手の女優を登場させていたようである。
その後日活では、アクション映画の影で薄くなっていた青春映画が、アクション映画の衰退とともにクロスするように表舞台に出てくるようになる。
吉永小百合は日活入社後、「拳銃無頼帖・電光石火の男」「霧笛が俺を呼んでいる」など赤木圭一郎主演のアクション映画などに脇役で出演していたが、1960年末の浜田光夫との「ガラスの中の少女」で初主演を飾る。ここに日活青春映画の萌芽を見ることになる。
吉永は翌61年には、アクション映画の「黒い傷あとのブルース」(小林旭主演)などを交えながら、浜田光夫とのコンビで石坂洋次郎原作の「草を刈る娘」などによって、日活に青春映画を定着させ始める。
そして、62年に「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)にて、日活の青春映画の開花を見る。この年の「赤い蕾と白い花」では、吉永は挿入歌の「寒い朝」をヒットさせ歌手の仲間入りも果たし、同年橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」では日本レコード大賞を受賞する。
稀しくも、この年封切られた「渡り鳥北へ帰る」が、小林旭の渡り鳥シリーズの最後の映画となる。
裕次郎は、61年「あいつと私」で事故より復活するが、その後不良じみたアクションとは無縁になる。
62年、赤木圭一郎の事故死により撮影中断していた「激流に生きる男」で初主演した高橋英樹は、吉永小百合、和泉雅子などと文芸ものに共演し、スターとなっていく。
こうした機運を受けて、吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹など若手を中心に、山内賢、和泉雅子などでグリーンラインが編成される。出演作からみて、吉永小百合、松原千恵子などは、パールラインとグリーンラインの両方にわたっていたと言っていい。
ダイヤモンドライン、パールラインの自然消滅とクロスして生まれたグリーンラインであるが、日活の青春映画も、時代の波とともに衰退・変身を余儀なくされていく。
*
「誘惑」(1957年、日活)は、「狂った果実」で本場フランス・ヌーベヴェルバーグよりも早い出現と言われた、鬼才中平康の監督作品である。
内容は、銀座通りで洋品店をやっていた店主(千田是也)が、2階で画廊を始める。そこで、学生によるグループ展をやらせることにした際の、画廊の店主、娘、店員、学生たちを絡めた淡いラブロマンスである。
1957年作という時代を思えば、洒落た作品である。銀座もパリのシャンゼリゼのように映る。
パールラインの一粒、芦川いづみ出演作である。といっても、主演は彼女ではなくて左幸子である。
そして、芦川いづみの相手役は、ダイヤモンドラインの男優ではない。しいていえば、中年男の千田是也(俳優座)である。しかも、写真の宣伝ポスターにあるように、その千田是也との、寝ている状況とはいえキスシーンまである。裕次郎や旭とでも、キスシーンはなかったはずだが。
左幸子は、アクション、青春映画が大手を振っていた日活において、「にっぽん昆虫記」(監督:今村昌平)、「飢餓海峡」(監督:内田吐夢)など優れた芸術作品で好演していて、もっと注目されていい女優なのだが。
この映画で僕が注目したのは、葉山良二である。典型的な甘い二枚目で、日活がアクション映画に本格的に取り組む前の揺籃期に、文芸ものやメロドラマに主演していた。中平康は、この葉山が気に入っていたようで、彼の作品にはよく出演している。
アクション映画全盛期にも、準主演級として出演していたが、どうしても石原裕次郎や小林旭などの個性には負けてしまい、次第に脇役になっていった。
アクション映画で、助演や脇役で出演している葉山を見て、惜しいなあと思っていた。
葉山良二が日活ではなく松竹にいたら、上原謙や佐田啓二の後継者として人気を博したかもしれない。
本題のパールラインであるが、グリーンラインもそうだが、固定しなくて変動制であるなら、映画と連動させながら、新人の若手女優をどんどんマスコミに露出させればよかったのだ。
そして、日活独自に人気投票などをして(日活映画入場者に投票権を与えて)、ランク付けをしたりする。今月のパールライン・ベスト10の、No.1は浅丘ルリ子、No.2は吉永小百合…などと、当時の雑誌「平凡」「明星」「近代映画」などとタイアップして発表したりして。
う~ん、AKB48の先取りだな。