かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

銀幕のパールライン、「誘惑」

2012-08-30 02:19:35 | 映画:日本映画
 調布シネサロンでは、「日活100年への軌跡」として毎月、日活映画を上映しており、「銀幕のパールライン」と銘打って、先日「誘惑」(監督:中平康、1957年)を上映した。
 ここでいうパールラインとは天草のパールラインではなく、日活ファンの人は承知であろうが、ダイヤモンドラインに準じて作られた呼称である。
 ダイヤモンドに対して、ルビーやサファイアでなくパール、すなわち真珠とは、いささか控えめの感があるが、これがとてもぴったりとあっている。野村克也(元野球選手)の例えではないが、ヒマワリに対して月見草のような奥ゆかしさがある。
 では、パールラインには誰がいたのであろう。

 1950年代後半の日活映画は、文芸ものからアクションものに変換していく過程にあった。そして、1959年頃より、アクション映画を主とした石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治をもってダイヤモンドラインなるものが編成され、毎週この4人の誰かが銀幕に登場するようになる。
 しかし、61年に裕次郎のスキー場での骨折、赤木圭一郎のゴーカード事故死で、それまで助演者であった宍戸錠、二谷英明を主演級に昇格させる。だから、ダイヤモンドラインは、後半には変容している。
 アクション映画は、あくまでも男優のヒーローが主役であった。相手役の女優のヒロインは、やはり月見草の美しさである。
 パールラインは、ダイヤモンドラインのヒーローの相手役であるヒロインを呼称したものである。であるから、ヒロイン役を演じた北原三枝、芦川いづみ、浅丘ルリ子、笹森礼子、清水まゆみ、そう思っていた。
 しかし、小林旭の渡り鳥、流れ者、銀座旋風児などのシリーズでの浅丘ルリ子、和田浩二の小僧シリーズでの清水まゆみなど、シリーズものでは、ヒロインは不動であったが、石原裕次郎や赤木圭一郎主演のシリーズもの以外の単発もののヒロインは、さまざまであった。裕次郎は北原三枝と結婚したあとは彼女とはコンビは組まず、相手ヒロインは変わっていった。
 だから、パールラインとは、固定されていなかったと言っていい。
 それを物語るものとして、日活が発行していた「日活映画」なる雑誌の(昭和35年6月号)表紙には、座談会「日活パールラインのおしゃべりタイム」なる記事がある。僕はその内容を読んだわけではないが、その出席者は笹森礼子、吉永小百合、南里磨美とある。笹森礼子、吉永小百合はともかく、南里磨美という女優を僕は知らない。ダイヤモンドラインの相手役をやったという記憶もない。
 その後の芸能雑誌によるパールラインの記事を見ても、ダイヤモンドラインのヒロイン役とは限らないようで、日活が公開する映画のPR用に若手の女優を登場させていたようである。

 その後日活では、アクション映画の影で薄くなっていた青春映画が、アクション映画の衰退とともにクロスするように表舞台に出てくるようになる。
 吉永小百合は日活入社後、「拳銃無頼帖・電光石火の男」「霧笛が俺を呼んでいる」など赤木圭一郎主演のアクション映画などに脇役で出演していたが、1960年末の浜田光夫との「ガラスの中の少女」で初主演を飾る。ここに日活青春映画の萌芽を見ることになる。
 吉永は翌61年には、アクション映画の「黒い傷あとのブルース」(小林旭主演)などを交えながら、浜田光夫とのコンビで石坂洋次郎原作の「草を刈る娘」などによって、日活に青春映画を定着させ始める。
 そして、62年に「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)にて、日活の青春映画の開花を見る。この年の「赤い蕾と白い花」では、吉永は挿入歌の「寒い朝」をヒットさせ歌手の仲間入りも果たし、同年橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」では日本レコード大賞を受賞する。
 稀しくも、この年封切られた「渡り鳥北へ帰る」が、小林旭の渡り鳥シリーズの最後の映画となる。
 裕次郎は、61年「あいつと私」で事故より復活するが、その後不良じみたアクションとは無縁になる。 
 62年、赤木圭一郎の事故死により撮影中断していた「激流に生きる男」で初主演した高橋英樹は、吉永小百合、和泉雅子などと文芸ものに共演し、スターとなっていく。
 こうした機運を受けて、吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹など若手を中心に、山内賢、和泉雅子などでグリーンラインが編成される。出演作からみて、吉永小百合、松原千恵子などは、パールラインとグリーンラインの両方にわたっていたと言っていい。
 ダイヤモンドライン、パールラインの自然消滅とクロスして生まれたグリーンラインであるが、日活の青春映画も、時代の波とともに衰退・変身を余儀なくされていく。

 *

 「誘惑」(1957年、日活)は、「狂った果実」で本場フランス・ヌーベヴェルバーグよりも早い出現と言われた、鬼才中平康の監督作品である。
 内容は、銀座通りで洋品店をやっていた店主(千田是也)が、2階で画廊を始める。そこで、学生によるグループ展をやらせることにした際の、画廊の店主、娘、店員、学生たちを絡めた淡いラブロマンスである。
 1957年作という時代を思えば、洒落た作品である。銀座もパリのシャンゼリゼのように映る。
 パールラインの一粒、芦川いづみ出演作である。といっても、主演は彼女ではなくて左幸子である。
 そして、芦川いづみの相手役は、ダイヤモンドラインの男優ではない。しいていえば、中年男の千田是也(俳優座)である。しかも、写真の宣伝ポスターにあるように、その千田是也との、寝ている状況とはいえキスシーンまである。裕次郎や旭とでも、キスシーンはなかったはずだが。
 左幸子は、アクション、青春映画が大手を振っていた日活において、「にっぽん昆虫記」(監督:今村昌平)、「飢餓海峡」(監督:内田吐夢)など優れた芸術作品で好演していて、もっと注目されていい女優なのだが。
 この映画で僕が注目したのは、葉山良二である。典型的な甘い二枚目で、日活がアクション映画に本格的に取り組む前の揺籃期に、文芸ものやメロドラマに主演していた。中平康は、この葉山が気に入っていたようで、彼の作品にはよく出演している。
 アクション映画全盛期にも、準主演級として出演していたが、どうしても石原裕次郎や小林旭などの個性には負けてしまい、次第に脇役になっていった。
 アクション映画で、助演や脇役で出演している葉山を見て、惜しいなあと思っていた。
 葉山良二が日活ではなく松竹にいたら、上原謙や佐田啓二の後継者として人気を博したかもしれない。

 本題のパールラインであるが、グリーンラインもそうだが、固定しなくて変動制であるなら、映画と連動させながら、新人の若手女優をどんどんマスコミに露出させればよかったのだ。
 そして、日活独自に人気投票などをして(日活映画入場者に投票権を与えて)、ランク付けをしたりする。今月のパールライン・ベスト10の、No.1は浅丘ルリ子、No.2は吉永小百合…などと、当時の雑誌「平凡」「明星」「近代映画」などとタイアップして発表したりして。
 う~ん、AKB48の先取りだな。

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盆には亡くなった両親に出会うことができる、「異人たちとの夏」

2012-08-18 02:55:01 | 映画:日本映画
 今年(2012年)の暑い盆が過ぎた。
 それでも、まだ暑い。外では蝉が生き急ぐように、夜になっても鳴き続けている。
 最近、庭に雀が顔を出すようになったので、葉の形をした底の丸い皿を2つ置いて、米粒と水を時々差し入れている。
 また、先日、盆の日(8月15日)には、庭の草むらからタイルに、トカゲ(蜥蜴)が姿を現した。先月姿を見せたカナヘビに続き、トカゲも生きていたとは。(写真)
 盆には、亡くなった人が帰ってくるという。今年の盆は、僕は佐賀の実家には帰らなかったので、空き家の家に父と母は帰ってきただろうか。それとも、トカゲに姿を変えて現れたのだろうか。

 そんな思いを抱かせる映画が「異人たちの夏」(監督:大林宣彦1988年松竹)である。
 テレビの脚本を書いている中年の男(風間杜夫)は、現在妻と別居し離婚調停中で、今は都心のマンションに一人で住んでいる。
 暑い夏の日の午後だった。男は仕事の後ふと思いついて、子どもの頃まで暮らした浅草に行ってみる。浅草をぶらぶら散策したあと寄ってみた浅草演芸劇場で、客席に一人の男(片岡鶴太郎)を見つける。その男も自分を見つけ、親しげな目線を向ける。
 何とその見知った男とは、彼の父親だった。劇場を出たあと父親は、ちょっと寄っていくかと言って、自分の家へ連れていく。そこは、路地を入ったアパートの2階で、久しぶりじゃない、もっと早く来ると思っていたのに、と言いながら母親(秋吉久美子)が顔を出した。
 部屋の卓袱台で、3人でビールを飲み、とめどもない話をしながら楽しい時間を過ごす。
 父も母も若い。男が子どもの頃3人で写っている写真のままの顔姿だ。
 それもそのはずだ。男の両親は彼が12歳の時、交通事故で死んでいるのだ。
 男はすっかりくつろいで遅くなり、「また来いよ」、「本当にいらっしゃいよ」と、父と母に言われ、アパートをあとにした。男は、またとない幸福感に満たされていた。
 それはそうだ。死んだはずの父と母と、思いもがけずに楽しいひとときを過ごしたのだから。
 帰りのタクシーの中で、ビルの明かりを見ながら男の心は躍り、そして思う。
 「嬉しかった。街の明かりがきらめき、信号の色まで美しかった。こんな夜なら、誰にだって優しくできる」

 マンションに着くと、同じマンションの違う階に住んでいる女(名取裕子)が立っていた。
 先日の夜、寂しいのでよろしければお酒でも一緒にと、シャンペンを抱えて、突然男の部屋にやって来た女だ。そのときは、執拗な女の誘いにも男はつれなく断ったが、この夜は違う。
 男は、別の日に、女を部屋に招き入れる。
 よく見れば女は魅惑的だ。二人で酒を飲みながら、女は独り言のようにつぶやく。
 「過ぎ去ったことは取り返しがつかないと言うけれど、そんなことはない。自分の過去なんだから、好きなように取り返せばいいじゃない」
 妻とも別れ自由なシングル・ライフを送っている男は、この女と恋仲になり、性に耽溺する。

 その後、男はしばしば浅草の父と母のところに行くようになる。
 父とキャッチボールをやる。母の作ったアイスクリームを食べる。一緒にビールを飲む。花札遊びをする。
 母の手を握り、「お母さんの手だね。幻なんかじゃないんだね」と、男はつぶやく。
 男は、人知れぬ楽しい時間と場所を持った。それに、恋人ともいえる彼女も現れた。しかし、男は周りの人間から、どうしたの、最近やつれて、と言われ始める。自分では気づかないのだが、男の容貌は急激に衰退しているのだった。
 その異常さに気付いた、別れた妻を想う仕事仲間の男(永島敏行)に、もう死んだはずの父母には会わない方がいいと忠告を受ける。恋人ともいえる彼女も、今の自分の顔をちゃんと見て、と言う。男が、ようやく自分の映った顔を見ると、妖怪のような顔があった。

 男は父母と会うのはこれで最後と決めて、子どもの頃に誕生日に食べていたすき焼きを食べに父母を誘う。
 昔懐かしい浅草を3人で歩き、すき焼きの店「今半」に入る。座敷の部屋に上がる途中の窓辺に雀が舞いおりてきて、母はあらっと言って、立ち止まる。
 父と母との最後の食事になるすき焼きだ。夏だけどすき焼きだ。
 まだ食事の途中で、父と母は、「おまえに会えてよかったよ」と、もう時間がないことを言った。男は、それが永遠の別れと気がついた。男は涙をためて「行かないで」と言ったが、それが虚しい言葉だとわかっていた。
 「体を大事にね」「もう会えねぇだろうが」と、母と父は言った。
 男は、「ありがとうございます」と言うのが精いっぱいだった。父と母は静かにほほ笑みかけたまま姿を消し、異界へ帰っていった。
 男は涙をこらえて、父と母がすき焼きを口にした箸を、ハンカチに包むのだった。形見の品のように。

 夏に帰ってきた父と母との、至福の日々が終わった。
 やはり、幻の時間だったのだ。
 男は、路地を入った父母が住んでいたアパートに行ってみる。そこは、取り壊される予定の廃屋だった。まるで、「雨月物語」のように。
 しかし、異界の人は、父と母だけではなかった。寂しさに耐えられなくて男のもとにやって来た同じマンションの女も、実は異界の人だった。

 *

 今はない、父と母との団らんがいい。父とやったキャッチボール、母の愛のこもった何気ない小言、家族での花札、どれもみんな僕の中にも残る心の奥の一頁だ。
 そして、父と母との最後の晩餐となったすき焼き。僕も、最後の晩餐は何にする?と問われれば、迷うことなく、すき焼きと答えている。

 映画「異人たちとの夏」は、原作が山田太一で、 脚本が市川森一という絶妙の組み合わせだ。山田はもともと映画界出身で脚本家だが、「異人たちとの夏」は小説として発表し、自分で脚本してもいいものを市川森一に任せた。自分が書いた物語を同業者の市川がどう料理するか、自分にないものを見たかったのだろう。
 この物語と同じく、山田太一は少年時代を浅草で過ごしている。
 僕は、昨年(2011年)12月に死去した長崎出身の市川森一の抒情性溢れる、単発ドラマの脚本が好きだった。
 監督もまた幻想性、抒情性過剰とも思える「転校生」「時をかける少女」の大林宣彦である。セピア色調の映画をとらせたら右に出る者がいない。

 「蒲田行進曲」が出色の風間杜夫は、都会のナイーブな男をやらせるといい味がある。
 父親役の片岡鶴太郎の、板前職人は適役だ。現在(2012年)放映中の朝ドラ「梅ちゃん先生」(主演:堀北真希)の下町の職人親父に通じるものがある。
 母親役の秋吉久美子は、「旅の重さ」でデビューし、若くして「赤ちょうちん」「妹」「あにいもうと」などで好演し、その感性から名女優になるだろうと予感された。この映画製作当時33歳だが、まだ美しさと名優の片鱗を色濃く残している。
 名取裕子は、変わらず色っぽい。最近はドラマで活躍しているが、この人は年をとらない。秋吉久美子より若いが、昔から大人っぽかったのだ。

 *
 <追記>映画の中の映画
 男(風間杜夫)が同じマンションの女(名取裕子)を自分の部屋に招いて、ブランデーを飲みながら2人で妖しい会話をしているとき、部屋ではテレビが流れている。といって、2人はテレビを見ていたわけではない。薄暗い部屋で、2人の会話の合間に音声のないテレビの映像が映し出される。
 夜の暗い部屋でのテレビの四角い画面には、絵の具で描いたような青空が写る。その大自然の青空の下ではしゃぎまわる2人の女。
 そのテレビで映されたのは、高峰秀子と小林トシ子が演じる映画「カルメン故郷に帰る」(監督:木下恵介、1951年松竹)だった。画面の高峰はさっそうと上着を脱ぎすてブラジャー姿になるのだが、どこまでも健康的だ。テレビの前の男と女も、服を脱ぎ絡み合うのだが、決して健康的でなく、それはナメクジを連想させるように、病的な世界を予感させる。
 映画の中の映画。劇中劇。
 過去の恩師の記念碑的作品と現在進行形の自分(山田)の作品、大自然の田舎の青空の下と都会の夜の薄闇の下を対比したかったのだろうか。
 原作者の山田太一は大学卒業後、一時松竹に入社し、監督木下恵介に師事している。「カルメン故郷に帰る」は、木下の監督による日本初のカラー映画である。

 *

 盆は過ぎていった。
 しかし、暑さはまだ続く。
 そして、誰もが年をとる。父や母のように。
 死んだ人は、死んだ時のままだが。

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戦後、最も強い男は?「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

2012-08-06 01:59:07 | 本/小説:日本
 今年(2012年)のロンドン・オリンピックの柔道は、男子はついに全7階級で金メダルがゼロに終わった。女子は、57キロ級の松本薫の1個である。
 このことは、日本の柔道が初めてオリンピックの正式種目となった1964(昭和39)年の東京大会から予測されていたことなのかもしれない。
 当時は、まだ世界各国で柔道があまねく広がっていたわけではないので、この東京オリンピックから行われた、軽・中・重・無差別級の4階級制において、日本のメダル独占はある意味で当然視されていた。
 それまで、本来無差別で闘うべきという柔道(武道)の考えに基づき、国際大会でも無差別級のみで闘われていた。そんななか、1961年の第3回世界柔道選手権大会でオランダのアントン・ヘーシンクが優勝するなど、日本の実力者を打ち負かす男が現れた。
 体重別階級制となった東京オリンピック大会では、最強と思われていた無差別級に出場するヘーシンクに日本人の誰をあてるかが議論された。そして、日本の実力第一人者である神永昭夫が対戦することに決まる。
 このとき、本気とも冗談ともつかず、木村政彦をあてたらどうだろう、という話が出たという。当時、木村は全盛期をとうに過ぎていて47歳。
 この第1回となる柔道のオリンピック大会の無差別級で、日本が負けたことによって、つまり金メダルを逃したことによって、柔道は新しい国際化の1ページを刻むことになる。

 * 

 戦後日本で、一番強かったのは誰か? 戦後、最も人気があったのは誰か?
 強くて人気がある、この二つに該当する人物に、まず力道山の名があがるのは間違いないだろう。昭和30年代、テレビの普及と同時に、プロレスラーの力道山は日本のお茶の間のスーパースターだった。
 この力道山に対峙した男として木村政彦なる男がいたということは、人々の記憶から忘れ去られようとしている。
 木村政彦は、実際は力道山より強かったと言う当時の関係者は多いという。その木村政彦とは、何者なのか? 

 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著、新潮社刊)は、木村政彦の一生を追った書である。それにとどまらず、古流柔術から柔道への流れ、そして日本におけるプロレスの誕生にまつわる揺籃期を、数多くの資料や文献を渉猟しつつ解き明かした書である。
 上下2段組み、700ページに及ぶこの本を読むことで、格闘技上の伝説的人物ともいえる、講道館を開いた嘉納治五郎、柔道界の鬼の牛島辰熊、柔道界最強の男と言われた木村政彦、相撲界からプロレスラーとなった国民的スター力道山、空手の大山倍達などの、知られざる実像が浮かびあがってくる。

 木村政彦は柔道家である。戦前に展覧試合をはじめ数々の柔道選手権を制覇し、戦後も「鬼の木村」と言われ、日本一の実力者と誰もが認めていた男である。そして柔道のプロとなるがうまくいかず、アメリカやブラジルに渡り、すでに人気が出ていたプロレスをやることになる。帰国した後、まだプロレスが根付いていない日本でもやり始める。
 そんな時期、人種差別という不満を持って相撲界を飛び出した力道山も、プロレス界に活路を見出そうとしていた。
 ほどなく、柔道から出てきた木村政彦と、相撲から出てきた力道山という2人の怪物が、プロレスという舞台で出会うことになる。

 1954(昭和29)年、あの日本中を沸かせた、シャープ兄弟とのプロレス日米対決という図式のタッグマッチの闘いが行われることになる。
 この試合は東京はじめ全国で14連戦が行われ、これによって日本にプロレスブームに火がつくことになるのだが、日本人は力道山だけが有名だが、実は大半が木村政彦とタッグを組んでいる。あと、一部試合を山口利夫、遠藤幸吉と組んでいた。
 その理由は、そのころ力道山より早くプロレスを始めていた木村政彦と山口利夫、とりわけ木村の人気と実力をこの大興業としては無視できなかったのだ。その当時は、木村政彦の方が力道山より格上だったと記されている。
 当時の日本人はそう思っていなかったが、プロレスはショー・ビジネスである。だとすると、筋書きが決まっている。どちらかが一方的に勝って終わるのでは、盛り上がらないし、試合もすぐ終わったのでは高い入場料を払った客は納得しない。試合としては、シーソーゲームの末に片がつくのが一番面白い。大体が、3本勝負のうち、日本組の2勝1敗か、1勝1敗1分けというシナリオである。
 ということを踏まえて、アメリカでも人気だったシャープ兄弟との試合の興業が力道山側にあったので、どうしてもメインを力道山がとることになり、実力者とはいえ木村は負け役を背負うことになった。
 本書による、そのときの記録を記すと以下になる。
 <14連戦の全成績>
 木村政彦 4勝8敗2分け、力道山 12勝1敗
 <タッグでのシャープ兄弟戦>
 木村政彦 1勝8敗、力道山 12勝1敗
 木村の4勝のうち3勝は日本人(遠藤、清美川、駿河灘)相手で、タッグでのシャープ兄弟戦では、木村の地元熊本戦で1勝させてもらった以外は、全敗である。これでは、木村が力道山の引き立て役になったと言わざるを得ない。

 このシャープ兄弟戦以後、世間における2人の人気と格は明らかに逆転する。
 このイベントを期に、力道山は一気に金と名声を得て、国民的スターに駆け上がる。
 その後、木村政彦は地元熊本でプロレスの団体を起こすがうまくは行かない。シャープ兄弟戦以後、評価を落とした木村は、歯がゆい鬱積した思いをつのらせる。
 こうした鬱憤の中で、「真剣勝負だったら力道山には負けない」という木村の思いと発言で、2人は勝負をすることになる。事前に試合に対する取り決めが行われ、2人だけの念書もあったとされる。
 そして、ついに昭和の巌流島と称される1954(昭和29)年12月22日、力道山対木村政彦の試合が行われる。61分、3本勝負。
 木村にとって人生を決した試合は、木村の思いとは全く違った形で、一方的に15分49秒で終わる。木村の無残な完敗。そのとき、木村は37歳、力道山は30歳。
 その試合後から、力道山に負けた男というレッテルを貼られた木村の恩讐に似た苦悩の人生が始まる。再戦か、それがかなえなければ刺し殺してやる、とまで木村は思い詰める。

 その後、絶頂にあった力道山は1963(昭和38)年、永田町のナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で、愚連隊風の男に腹部を刺されたのが原因で、39歳であっけなく死亡する。
 木村政彦は、力道山に対する復讐を果たせないまま生き続け、1993(平成5)年、75歳で癌で逝く。

 「木村政彦は、本当に負けたのか?」
 この真相を追って、著者の増田俊也は膨大な資料から、長い紐を辛抱強く手繰っていく。
 この本には、なるだけ客観性を持たせようと燃える炎を抑えようとする筆者の心が見えるが、木村政彦に対する愛が溢れている。そして、柔道に対する愛に満ちている。
 日本の柔道、プロレスを知る力作である。

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風流を忍ぶれど、隅田川の花火大会

2012-08-02 01:54:50 | * 東京とその周辺の散策
 夏の盛り、花火の季節である。全国の各地で花火大会が行われている。
 放浪の画家と言われた山下清は、この季節になると花火の名所を求めて旅したそうだ。作品に有名な「長岡の花火」がある。
 日本で有名な花火大会というと、この長岡(新潟県)の他に、大曲(秋田県大仙市)や諏訪(長野県)あたりがあがる。いやいや、おらが町の花火が一番だと言う人もいるだろう。
 しかし歴史でいえば、東京の隅田川の花火に勝るものはないのではないだろうか。
 隅田川の花火大会は、資料をひも解くと江戸時代中期にまで遡る。8代将軍吉宗がその前年の大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733(享保18)年7月9日の旧暦、水神祭を催し、それに伴い「両国の川開き」に花火を打ち上げたのが始まりとされる。
 しかし、昭和に入り、第2時世界大戦の戦争で1度中断される。戦後復活したものの、今度は経済成長のあおりで隅田川の汚染が進み、1962(昭和37)年再び中断を余儀なくされる。そして、隅田川の水質が浄化した1978(昭和53)年に復活したという曲折がある。

 *

 今年(2012年)の隅田川の花火大会は、7月28日(土)に行われた。
 祭り好きの僕は、5月20日の浅草三社祭に続き、この日浅草へ出向いた。
 隅田川での花火の打ち上げは、午後(夜)の7時5分からである。
 夕方の浅草行きの地下鉄銀座線が、普通はゆとりがあるのに、表参道駅からすでにいっぱいである。乗客に浴衣姿の若い女性の姿も結構目につく。目当ては今夜の花火なのだ。それに、スカイツリーの完成もあって、今年は余計に人気なのだろう。
 浅草に着くと、浅草松屋前はすでに規制されて浅草(雷門)通りに入れない。隅田川に架かる吾妻橋に入る人たちが、歩行者専用道路となったあの広い通りいっぱいに溢れている。しかし、橋は塞がれていて、時間が来ないとまだ橋には入れないのだ。神谷バー前あたりは人で身動きとれない状態だ。
 5月の三社祭のときよりも人が多い。金曜日の国会・官邸前の脱原発のデモ集会よりもはるかに多い。 人は、いろんな時にいろんな所に集まるものだ。集合する動物なのだ。

 松屋前で、隅田川花火大会の案内図つきのパンフレットと団扇(うちわ)を配っていたのでもらった。
 案内図によると隅田川の川場2カ所で、2万発の花火が打ち上げられる。
 隅田川には、上流の明治通りに架かる白髭橋から、下流に行くにしたがい橋の名を記していくと、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、そして浅草橋駅と両国駅の間にある靖国通りに架かる両国橋となる。その先は、いくつかの橋を経て東京湾に流れる。
 この上流の白髭橋と言問橋の間が、花火が打ち上げられる第1会場となり、その下流の駒形橋と厩橋の間が第2会場となる。であるから、浅草松屋前の浅草通りから続く吾妻橋、およびその下にある駒形橋からは、第1、第2の左右の花火が見えるということになる。
 この日は、先にあげた橋の間は6時からは交通規制区域となり、車は入れず歩行者専用となる。しかも、橋は交互に一方通行だ。

 人込みに交じって、橋に入るのを待った。家族やカップルなど、笑顔が絶えない。外人も多い。整理のために装甲車の上に警察官がいるのは、国会・官邸前と同じだが、こちらは声も明るく、「今日の楽しい思い出のために列を守りましょう」などと叫んでいる。それにしても、耳障りになるくらいに口数が多い。
 人込みは、いつの間にか道路の左右から紐を持った係員によって、グループに分けられていた。暗くなり始めた7時少し前から橋が開き、「第1グループ前へ」と先頭グループから、随時グループごとに前に進むという按配だった。
 7時過ぎから、 まず第1会場の上流の方から花火が上がった。
 やっと順番がきて、橋の上に来た。上流の言問橋(ことといばし)の方に花火が上がった。
 あの在原業平も、ここいら辺で都の京都を思いながら、思えば遠くへ来たものだと詠ったのか。
 「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」

 しかし今は、ひとときの情緒を味わっている余裕はない。
 「橋の上では、立ち止まらず歩きながら花火は見てください」と、整理係の警官が言う。といっても、今どきデジカメや携帯カメラはみんな必携だ。ほとんどの人が、立ち止まってカメラを向けている。
 「写真は1枚撮ったら、すぐに前に進みましょう。写真よりももっと大切な心に写しておきましょう」などと整理係の警官は、思わず笑ってしまう余計なおせっかいを言い出す始末だ。
 ちょうど、30分遅れで下流の第2会場の方からも花火が上がった。吾妻橋からは、左に右にと花火が見える。しかも、南の駒形橋の方には月も浮かんでいる。月の横に花火が舞う。(写真)
 立ち止まってゆったりしていると、後ろから来た紐を張った係員から押されるはめになり、しぶしぶ橋を渡り終えされた。

 吾妻橋を渡ったところにも、多くの人がいた。それはそうだ、僕のように浅草から橋を渡ってきた大群と、もともとこちら墨田区側にいた人たちが交ったのだから。
 ビルの間にイルミネーションに彩られたスカイツリーが大きく見える。人気のスカイツリーもこの夜は脇役だ。
 吾妻橋は一方通行で戻れないので、街中の道に入って南に歩いた。道のあちこちにビニールシートを敷いて、座って飲み物を飲んだりしている人がいる。ここでもビルの谷間に花火が見える。地元の人たちだろうか、橋からの花火は以前さんざん見たし、列を作ってまで見るこたぁないというのかもしれない。こういう花火見物もあるのだ。
 南の方に街角を歩いていくうちに、また人込みに出た。そこは、吾妻橋の一つ下流にある駒形橋のたもとだった。ここから、また反対方向に橋を渡る人込みだった。
 この橋でも人数制限が行われていて、列に沿って駒形橋に入り、そこからも花火を見ることができた。駒形橋を渡って、再び浅草へ出た。

 浅草駒形から、南の蔵前の先の浅草橋駅の方へ向かって、大きな江戸通りを歩いた。通りには、やはり人がいっぱいいた。ビルの谷間から花火が見える。まるで、ビルから火の粉が舞いあがって火事になっているようだ。
 橋を渡らない人たちは、ビルの谷間からの花火を楽しんでいた。夜7時から始まった花火は、8時半に終わった。
 隅田川の花火は、場所によっていろんな花火見物となっていた。
 翌日の新聞によると、来場者数は95万人と発表されていた。佐賀県の人口よりも多い。
 名物の隅田川の花火、今度はゆっくりと、願わくば風流に舟の上からでも見てみたいものです。

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