かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

別れのワイン

2010-02-03 05:07:44 | ワイン/酒/グルメ
 「刑事コロンボ」は、最初アメリカのテレビ・ドラマとして、1967年単独で「殺人処方箋」が放映された。その後、パイロット版として71年「死者の身代金」が放映されたあと、シリーズ化され、69作品作られた。
 日本語版のほか、各国で放映された人気シリーズである。

 「別れのワイン」は、刑事コロンボ・シリーズの第19作目の作品である。原作、W・リンク、R・レビンソン。単行本は二見書房刊。
 原題は、「 Any old port in a storm 」。日本では、「別れのワイン」としたタイトル・メーキングは秀逸だ。
 物語の中で、ワインを通して含蓄ある会話が取り交わされる。ワインを愛する男の誇りと熱情が伝わってくる、名作と言っていい。

 ワインは、ただ飲むものではない。いや、ただ美味しいと飲んでももちろんいいのだけれど、それでとどまるものではない。
 葡萄の種類や生産される土地や風土や年度、さらに製造過程などで、まったく違った味を作り出す。加えて言えば、同じ銘柄・同じ生産年度品でも、保存状態によっても大きく違ってくる。それは、知れば知るほど、それについて知りたくなる、悪女のような魅力があるのだ。
 いや、失礼。これは、僕の浅はかな知識による推測による発言である。
 悪女という表現は適切ではない。若草のような処女もいれば、目も眩む熟女もいる、と言った方がいいかもしれない。いやいや、そんな魅力的な女性ばかりでなく、素っ気ない名も知らぬ女や、素通りするに値する性悪女もあまたいる、と付け加えなければならないのだろう。
 いわゆる、ワインの味の微妙な違いが分かるにしたがって、味の好みが生まれ、それに優劣が感じとることができるようになるということである。つまり、各ワインに、極端に言えば一本一本のボトルに、味の広がりと奥行きの差異を感じとるようになるのだ。
 だから、あるボルドーのワインには、ヒエラルヒーともいえる等級が存在する。ボルドー以外でも、価格の等級は歴然とある。
 それとこの種の酒に限って、自ずと飲み方が問われるような気がする。そのような意味では、ある種のスコッチもそうであろう。
 これらは、それを選択した時点で、暗黙のうちに人間性を問われているような面はゆい思いを抱かせる。
 例えば、知らない店で、特にフランス・レストランで、ワイン・リストの中から知らないワインを、それもあまり高くないのを頼んだりするとき、今日はこんなものでいいよねと、言い訳がましく照れ笑いしながら頼むのも、本当は面白くない。
 高いのを頼めばいいというものでもない。知らない銘柄であれば、それがどの程度のものか知識がないのに高い値段を払うのも癪なのだ。それに、高いのを頼んで、味が大したことなかったら、どんな反応をしたらいいのだろう。
 値段と味が比例するとは限らないのも、ワインなのだ。
 どちらにしろ、値段の高低にかかわらず、胸を張って頼めないところがあるのだ。味と値段がほぼ確定している、あるいはそれほど高低差がないビールや日本酒やほかの酒では、こんな後ろめたい思いで頼むことはない。
 つまり、ワインは、生半可な知識では、生半可な頼みしかできなく、生半可な味わいしか持てない、と言うことなのかもしれない。
 ワインを知るには、キャリアと愛情が必要なのだ。
 それに、最も大事なことだが、人間性が。

 *

 物語の主役、カリフォルニアのワイナリーの経営者、エイドリアン・カシーニは、ワインの製造に純粋に情熱を注ぎ込んでいる、この地では一目置かれる人物である。

 ある日、エイドリアン・カシーニ氏と数人のワイン鑑定の専門家が試飲用サンプルのワインを飲んでいた。
 その中で、エイドリアンに注目は集まっている。彼は、おもむろにワインを少し口にし、呟く。
 「フムム…。育ちのいい酒だ。あと味も愛嬌があって面白い。ちょっとばかり皮を取り去るのに時機を逸した気味があるが」
 そして、もう一口、ほんの少し口にして、ゆっくりと息をして、満足そうに言うのだった。
 「どうやら見当がついた。葡萄の品種は……、スパイスのような独特の風味は、輸入物だな。しかも良産年のものらしい」
 そして、銘柄とヴィンテイジの生産年度を言う。
 ざわめきが起こる。そして、一人がボトルを取り出し確認する。そして、大きく首を振ると、周りは感嘆の声に変わる。
 「まあ、信じられないくらいですわ。その通りだわ。どうして、そんな芸当ができるのですか。ぜひ、その秘密を教えてください」との女性の声がかかる。
 息を呑んだ一同に、彼は厳かに言う。
 「いや、簡単そのものですよ。あなた方が、ワインの芳香に気を奪われていらっしゃるその間に、私は瓶のラベルを見ただけでしてね」
 そして、弾けるように笑う。かつがれたと感じたみんなも、一緒に笑うのだった。
 業界専門家の一人が、隣の同僚にそっと呟く。
 「いや、エイドリアン君のユーモアの感覚てのは実に素晴らしいですな。パーティーの主役をさせても一流でしょう」
 隣の同僚も、微笑を浮かべて小さな声で囁く。
 「その通りです。実に洗練された感覚の持ち主だね。君、見ましたか? 私はずっと注意していたのだが、エイドリアン君は一度だって瓶のラベルなど見ていないんですなあ。つまり、彼は実際に的中させたのです」
 「じゃあ、なぜ?」
 不審そうに訊く同僚に、彼は説明する。
 「あまりに鮮やかすぎる才能は、とかく嫉妬や反感を招くものだ。エイドリアン君は、それが分かっているんです。だって的中したといってもたかが酒の銘柄だと言われりゃあそれまで。気障(きざ)なやつだということで食通としてはともかく、実業家としてはマイナスになりかねない。それより、周囲の人々を楽しませた方がいい。おそらく、彼はそう判断したのでしょう。分かる人は分かる、そう思ってね」

 この領域に達するには、相当高い峰に上らねばならない。
 それを支えるものは、ゆるぎない自信である。それに、人徳。

 *

 オークションの会場に出席したエイドリアン・カシーニは、古いワインの競りに値を付けた。値段はどんどん高騰する。
 隣りに座っている秘書が心配声で言う。
 「カシーニさん、これまでの分だって相当な量になりますわ。1本のワインに大金を投じるというのは、どんなものでしょう。この分だと(このボトルは)3千ドルはいきそうですが」
 それに対して、エイドリアンはこう答える。
 「分かっている。たかが1本のワインにしては高すぎる。買わなきゃならない必然性なんて何もないさ。だがねえ、人生はそう長くはない。芸術はどうか知らんが、人生というやつは、まったく痛ましいぐらい短いんだ」
 そういって、競売人に手を挙げて値を言うのだった。
 結局、エイドリアンは予想を超えて5千ドルで競り落とした。
 秘書は言う。
 「カシーニさん。いったいあのボトル、本当に入り用ですの?」
 エイドリアンは、苦々しい口調で答える。
 「1本5千ドルのワインが入り用な人間なぞ、いるわけがない。私は、他の人間にあのボトルを取られたくないのだ。それだけのことさ」

 このドラマが作られたのが、1973年のことだから、5千ドルの価値がどれくらいのものか。1ドル300円ぐらいの時である。
 そして、まだカリフォルニア・ワインはブレイクしていなくて、やっとアメリカにワインが根つき始めた頃である。カリフォルニア・ワインが、フランスのボルドー・ワインに、ブラインドテイスティング競争で勝ったのは、その3年後の1976年である。それは事件であった。
 入幕したばかりの力士が、横綱を破ったようなものだったからだ。
 そして、その後カリフォルニア・ワインが、いや、新興国のワインがおしなべて、ボルドーを抜いたという話は聞かない。
 今でも、東西の横綱は、ボルドーとブルゴーニュなのである。
 単なる味の追求だけでは測れないのである。それが文化の深度の違い、つまるところワインの奥行きなのだと思うのだが。

 *

 コロンボは、エイドリアン・カシーニが、腹違いの弟を殺害したとして、例の下手に出ながらも執拗に付きまとう。
 「このワイン、きっと気に入ると思いますよ。コロンボ警部」
 カシーニ・ワイナリーに顔を出したコロンボに、エイドリアンは嫌な顔をせずに、グラスにワインをついで差し出す。
 「このワインはですな」
 エイドリアンの説明を遮るように、コロンボは、「私が、当ててみます」と言う。
コロンボはワインのことはまったく知らなかったのだが、この日の前日、専門家に、基本だけでも教えてくれと申し出ている。
 「フウン…、デリケートな育ち、芳香も素晴らしい。コクも上等。あと味も結構で」
 ワインを一口味わい、呑み込んだコロンボの、この言葉を聞いて、エイドリアンの顔は、思わずほころんだ。昨日、カベルネ・ソーヴィニヨンの発音もできなかった男と思えない台詞だったからだ。
 「これは、バーガンディーじゃありませんか? だが、私に分かるのはそこまででして、ピノ・ノワール種かガメェ種だと思うんだが、どちらかまでは判定できませんのです」
 コロンボは、少し小首をかしげて笑いながらエイドリアンの目をのぞき込む。
 「素晴らしい。びっくりしましたよ。ピノ・ノワールです。でも、いったいどうして分かったのですか?」
 驚いたエイドリアンに、コロンボは照れくさそうに説明するのだった。
 「カシーニ・ワイナリーで作っている赤ワインは3種だということは知っていたのです。1つは、カベルネ・ソーヴィニヨンでボルドー・タイプ、あと2つはバーガンディー・タイプということもね。この赤ワインは、昨日ご馳走になったカベルネ・ソーヴィニヨンとは違った味だからバーガンディーに違いない。バーガンディーとなれば、ここで栽培しているのはピノ・ノワールかガメェでしょ。簡単な消去法による推理です」
 エイドリアンは目を丸くしてこう言う。
 「警部、あなたもなかなか隅に置けないお人ですな」

 このドラマの公開当時、僕もコロンボと同じく、カベルネ・ソーヴィニヨンもピノ・ノワールも知らなかった。だから、ワインを一口、口にしただけで、数多くのワインの銘柄の中から、当てる人物を驚嘆の思いで見ていた。
 今では簡単な推理で基本的なワイン(葡萄の種)の種類だが、このときのコロンボの推理も、感嘆したのだった。
 バーガンディーとは、ブルゴーニュのことで、かつてアメリカではこう言っていた。ヴェネティアをベニスというようなものだ。

 *

 最後に、コロンボは策謀を仕掛ける。
 疑ったことを詫びる意味で、コロンボはエイドリアン・カシーニと秘書のカレンを高級フランス・レストランに招待する。レストランでは、「パリの空の下」の曲が流れている。
 そこでコロンボは、特別なワインを注文する。それはポート・ワインの「フェレイラの1945年産」である。
 これが、原題の「old port 」である。port は、ポルトガル・ワインのことである。
 また、port は、港の意味でもある。「any port in a storm」で、「急場しのぎ」という慣用句となる。この、「any port in a storm」が、事件の命取りになったのだった。
 日本題名「別れのワイン」もいいのだが、原題も事件の核心を暗喩していて、なかなか洒落ている。

 *

 事件を感づいた秘書カレンは、12年勤めている勤勉な中年の独身女性である。カレンが、エイドリアン・カシーニのために嘘の証言をコロンボにする。
 そのことをたてに、エイドリアンはカレンに結婚を迫られるのだった。
 人が変わったような彼女の強気な姿勢に、エイドリアンは彼女に哀れんだ表情で言う。
 「強要で愛は得られないよ、カレン」
 「そうかもしれないわね。でも、結婚するのに愛が不可欠なんてことはないでしょ。結婚なんてもろい地盤の上で結構成り立ってるじゃありませんか」
 エイドリアンは何も言う気もなくなって、黙って彼女に背を向けて歩き出す。

 そして、エイドリアンは、自分の「any port in a storm」(急場しのぎ)のせいで、事件の綻びを見て、コロンボに自白する覚悟を決める。
 エイドリアンは、コロンボに言う。
 「実際の話、肩の荷を下ろしたような気分ですよ」
 「はあ」と聞き返すコロンボに、エイドリアンは呟くのだった。
 「いや、実は真相を知ったカレンに結婚を迫られているのですよ。こうなったら、女は強いですな。……刑務所は結婚より自由かもしれませんね」

 エイドリアンを車の助手席に乗せて、警察へ向かう途中、彼のワイン工場の前でコロンボは車を止める。
 「私が幸福だと感じた世界でただ一つの場所でした」
 エイドリアンはしみじみと呟く。
 コロンボは、バックシートから1本のボトルを取り出す。そして、グラスを2個取り出した。
 エイドリアンは、そのボトルを手に取ると、やっと硬い表情を崩すのだった。
 「モンテフィアスコーネですな。素晴らしいデザート・ワインです。別れの宴に相応しい」
 エイドリアンは、グラスについだワインを一口飲んで、コロンボに言った。
 「実によく勉強したものですな」
 コロンボはエイドリアンを見つめながら、言った。
 「ありがとうございます。何よりも嬉しいお褒めの言葉です」
 そう言って、2人は別れのワインのグラスを空けて、コロンボは車を発車させたのだった。

 モンテフィアスコーネはイタリアの白ワインで、正確には「エスト!エスト!!エスト!!!ディ・モンテフィアスコーネ」。「エスト」とは、「ある」という意味のラテン語で、12世紀の酒好きの僧正とその召使いの伝説による銘柄。
 最後にコロンボが「ありがとうございます」とエイドリアンに言う台詞は、「Thank you,sir」と、サーを付けて敬意を表している。ワインを媒体として、コロンボはエイドリアンの人間性を認めていたのだ。
 だから、この物語では、証拠による逮捕ではない。「自白してくれますね」という、異例の終結となっている。
 カシーニ・エイドリアン役のドナルド・プレザンスの、哀愁をおびたワインを愛する男の存在感がいい。
 まだワインに対する知識が行き届いていない時代のドラマ作成で、それにアメリカでできた作品とは思えないほど、ワインに対する愛情が溢れている。
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