家の窓からは、庭木の先に緑の小高い山が見える。いつも変わらない風景だ。山はなだらかな稜線を持った穏やかな表情なのだが、それに似つかわしくない「鬼ガ鼻」といういかつい名を持っている。
その日も、山の背景である青い空には、雲が幾重にも立ち込めていた。雲は流れに任せて、少しずつ形を変えていたが、それらは人間の営みとは関わりを持たない、きわめて抽象的な考察のように思えた。
今年の佐賀の夏は、きわめてという形容詞を当てはめるのに何の躊躇いも誇張もないほど暑く、報道によるとその暑さは佐賀に限ったことではなく、この国全体を被っているようであった。暑さは、まるで誰かが積年の恨みを晴らすために、どこか人知れない深い森の中にある岩穴で、時間を忘れて一心に呪いに耽っているかのように、執拗に続いた。いや、今もまだ続いている。
家のエアコンは冷房のスイッチを入れてもいつまでたっても涼しくならないばかりか、時間がたてば逆に温風になるので、とっくに稼働させるのを諦めて、1台の扇風機に涼を任せていた。しかし、扇風機がいくら休みなく羽を回し続けたとて、この暑さを凌ぐというには荷が重すぎ、満足点を与えるには遠く及ばない状態なのは自明のことであった。
僕は、インド旅行のとき、40度以上を経験した時のことを思い浮かべた。あの時は、熱帯のインドだから暑いのは仕方がないと思い直すことができたが、ここは温帯の日本だ。最近の暑さに、日本はもう亜熱帯気候だと言う人もいるが。
それに、熱帯特有のいきなりの土砂降りの雨も最近は多く起こっている。スコールと呼ぶには粘着的すぎる性質を持っているので、熱帯の開放感はない。しかも、湿度が高いので、温度計の数字以上に身体に負荷をかけるようだ。
この暑さはすぐには終わりそうもないので、新しくエアコンを買うべきなのだろう。
この日も風はなかったが、それまで沈黙を保っていた軒下の風鈴(ふうりん)が、まるで物語の始まりを告げるかのように、とつぜん鳴り始めた。
その有田焼でできた風鈴は、それまでのチリンチリンという奥ゆかしい音とは違って、譜面に意図的に不協和音を付け加えたかのような、どこかで間違った音色を混ぜ合わせたとも思える、濁点が入ったガチャガチャという音に聞こえた。
昨晩、寝ようとしたとき、庭でガチャガチャと鳴ったクツワムシの鳴き声に共通するものがあった。そのクツワムシは、眠るのを妨げるというよりは、エーエチケーの集金人が居留守を装うアパートのドアを叩くように、執拗に鳴き続けたのだった。
クツワムシというのは、キリギリスに擬態をしたのか、地面の土の保護色を狙ったのか、馬のような土色で、まさに馬の轡(口輪くつわ)をぶつけるように煩いのだった。
*
ガチャガチャとせわしなく音をたてる風鈴を耳にしながら、扇風機を前に寝そべって、読みかけの村上春樹の「1Q84」のbook3の本を開いた。1、2巻発売より期日がたったが、このb3も発売されるやすぐにベストセラーとなった本だ。
スポーツ・クラブのインストラクターで暗殺者の青豆と、塾の講師をしながらベストセラーになった、フカエリこと深田絵里子の「空気さなぎ」のゴーストライターである川奈天吾の物語であった。
彼らは、どうしたことか月が2つ出ている世界に紛れ込んでいるのだった。
b3には、ある宗教組織のリーダーを暗殺した青豆を、組織から依頼されて追いかける牛河という男が登場してくるのだった。この不細工で偏執な中年男の行動にかなりのページ数をかけていた。
村上は、人物の描写が実に上手い。それも彼独特のメタファー表現で、ディテールを生きいきと浮き上がらせることによって、人物の実像(創造のだが)をあぶりだしていく。それも、特に醜い人物像を描くときに彼らしさが遺憾なく発揮される。
「牛河の外見は、かなり人目を惹く。人混みの中に姿を紛れ込まそうとしても、ヨーグルトの中の大むかでみたいに目立ってしまう。
彼の一家は誰もが羨む優秀な写真映りの良い一家だ。しかし、そこに牛河が加わると、人々はいくぶん眉をひそめ、首をひねることになった。ひょっとしてこの一家は、美の女神の足元をすくうようなトリックスター的な風味がどこかで混入しているのではあるまいかと人々は考えた。あるいは、考えるにちがいないと両親は考えた」
牛河が調査で会いに行った、小学校の女教師の描写はこうだ。
「いつ作られたのか見当もつかないが、いずれにせよそれが作られたときから既に流行遅れだったのではないかとおぼしきウールのスーツには、防腐剤の匂いが微かに漂っていた。色はピンクだがどこかで間違った色を混ぜ込まれたような、不思議なピンクだった。おそらくは品の良い落ち着いた色調が求められていたのだろうが、意図が果たせぬままそのピンクは気後れと韜晦(とうかい)とあきらめの中に重く沈み込んでいた。おかげで襟元からのぞいている真新しい白いブラウスは、まるで通夜に紛れ込んだ不謹慎な客のように見えた」
彼、つまり牛河の調書により、青豆が雅美という名であること、麻布の不思議な老婦人が緒方という苗字だったのを読者も知るのだった。
1、2巻では書く必要のないものであったが、b3で書く必要がでてきたのだ。
1Q84年の物語は、横道に逸れたかのように見えながらも大筋では終結に向かい、誰もが思った終点にたどり着くのであった。
村上作品は、横道に逸れたかのように見えるのは路地であり、その細い道が次々に現れるが、何本もの路地は、大きな幹線道路にいつしか集結するのである。その幹線道路も、蛇行する川のようにうねっている。
しかし、この本で村上は大きく、ある領域を飛び越えたような気がする。
「1Q84」のQは、僕にとってはまさしく、Questionの「Q」である。
*
先日の朝日新聞に、「北京の書店から」と題して、この「1Q84」が、中国で話題になっているという記事が出ていた。
中国でも、日本と同じようにベストセラーで、ダントツの人気なのである。
今年7月10日付「新京報」によるベストセラー・ランキング(北京の主要書店およびネット書店より集計)が出ていた。
6月末に「1Q84―b2」が発売されるやたちまち総合ランキングの1位に、7位に「1Q84―b1」が再びランクインされていた。
そして、話題というのは今まで村上作品を翻訳してきた林少華から、「1Q84」では、違う翻訳者に代わったということによる論争である。訳者は、公募で決まった「走ることについて語るときに僕のできること」の訳者である。
翻訳者によって文体が違うのはよくあるが、中国語は漢字なので、どう違うのか興味深いところである。村上本に関しては、中国の簡体字版と別に、台湾の繁体字版もある。解説によると、今までの林訳は四字熟語や成語を多用した美文調に対し、新しい施訳はすっきりとして読みやすいという特徴があるらしい。
そして、現在b3が翻訳中で、年内には刊行の見通しで、中国の人々はそれを待ち焦がれているという。
最初、「1Q84」のページをめくり、読み始めてすぐに印象に残ったのは主人公の「青豆」という変わった名前だった。
多くの海外版が出ている村上本であるから、この青豆をどう翻訳するのだろうと考えたのだった。中村とか坂本といった普通の名前だったら、そんなことは考えなかっただろう。青豆とは、名前という記号であると同時に、村上が描いたイメージでもあろう。
中国では文字は漢字なので、そのまま青豆でいい。日本では変わった名前、苗字だが、中国ではどうなのだろう。このような中国名は聞いたことがない。苗字は多くが1字だ。名前では、普通は香蘭だとか秀麗といった美しさをイメージした名前が多い。
しかし、張芸謀(チャン・イーモウ)監督の初期の中国映画に、女の子の名前の「菊豆」(チュイトウ)というのがあるから、可愛い名前になるかもしれない。
英語版ではどうだろう。
「Aomame」は、「Blue bean」、「Green peas」と意味を訳するのだろうか、と考えた。
男の主人公の名前は「天吾」である。こちらは、いかにも大らかで純朴なイメージが浮かぶ。
それに比べて青豆を追い続ける醜男の名前(苗字)は「牛河」である。う~ん、この男の名が春宮だとか鷹司だったら、ずいぶんイメージが変わっただろう。村上自身、キャラクターを変えただろう。牛河は、誰からも好意的には見られず、スポーツはできないが、忍耐強く物事に執着するのを得意としているのだった。
中国人は、つまり漢字文化圏の人は、これらの本来は記号であるべき名前に対して、日本人と同じく、含有する付加的イメージを共有できているのだろう。それが、他の外国語の翻訳よりも原語である日本語に近い感覚で理解され、人気の一つの要素になっているのかもしれない。
*
中国での村上春樹の「1Q84」人気はさておき、僕が興味をひいたのは、中国ベストセラー(総合部門)の6位に入っている本である。
「中国自助游」(2010年版)である。
「自助游」とは、団体旅行ではない自由な個人旅行のことである。
この本は、大都市から小さな町まで「泊まる」、「食べる」、「遊ぶ」情報を網羅し、ツアーでなく、自分だけの旅の楽しみを提案するガイドブックとある。
中国人も、個人の、自由な旅をする時代に入っているのだ。
中国は広い。この本は、中国版「地球の歩き方」かもしれない。2002年から毎年更新されているという。
国内を自由に旅する人間が、いつまでも自国内の旅に留まることはない。いつか海の彼方を目指す。
これから日本でも、リュックを背負った中国人のひとり旅が見うけられる時代がやってくるだろう。
<追伸>
「1Q84」の1、2に関しては、2月14日のブログを参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/cae8da61bd1f4b48c8d4f124129b0717
その日も、山の背景である青い空には、雲が幾重にも立ち込めていた。雲は流れに任せて、少しずつ形を変えていたが、それらは人間の営みとは関わりを持たない、きわめて抽象的な考察のように思えた。
今年の佐賀の夏は、きわめてという形容詞を当てはめるのに何の躊躇いも誇張もないほど暑く、報道によるとその暑さは佐賀に限ったことではなく、この国全体を被っているようであった。暑さは、まるで誰かが積年の恨みを晴らすために、どこか人知れない深い森の中にある岩穴で、時間を忘れて一心に呪いに耽っているかのように、執拗に続いた。いや、今もまだ続いている。
家のエアコンは冷房のスイッチを入れてもいつまでたっても涼しくならないばかりか、時間がたてば逆に温風になるので、とっくに稼働させるのを諦めて、1台の扇風機に涼を任せていた。しかし、扇風機がいくら休みなく羽を回し続けたとて、この暑さを凌ぐというには荷が重すぎ、満足点を与えるには遠く及ばない状態なのは自明のことであった。
僕は、インド旅行のとき、40度以上を経験した時のことを思い浮かべた。あの時は、熱帯のインドだから暑いのは仕方がないと思い直すことができたが、ここは温帯の日本だ。最近の暑さに、日本はもう亜熱帯気候だと言う人もいるが。
それに、熱帯特有のいきなりの土砂降りの雨も最近は多く起こっている。スコールと呼ぶには粘着的すぎる性質を持っているので、熱帯の開放感はない。しかも、湿度が高いので、温度計の数字以上に身体に負荷をかけるようだ。
この暑さはすぐには終わりそうもないので、新しくエアコンを買うべきなのだろう。
この日も風はなかったが、それまで沈黙を保っていた軒下の風鈴(ふうりん)が、まるで物語の始まりを告げるかのように、とつぜん鳴り始めた。
その有田焼でできた風鈴は、それまでのチリンチリンという奥ゆかしい音とは違って、譜面に意図的に不協和音を付け加えたかのような、どこかで間違った音色を混ぜ合わせたとも思える、濁点が入ったガチャガチャという音に聞こえた。
昨晩、寝ようとしたとき、庭でガチャガチャと鳴ったクツワムシの鳴き声に共通するものがあった。そのクツワムシは、眠るのを妨げるというよりは、エーエチケーの集金人が居留守を装うアパートのドアを叩くように、執拗に鳴き続けたのだった。
クツワムシというのは、キリギリスに擬態をしたのか、地面の土の保護色を狙ったのか、馬のような土色で、まさに馬の轡(口輪くつわ)をぶつけるように煩いのだった。
*
ガチャガチャとせわしなく音をたてる風鈴を耳にしながら、扇風機を前に寝そべって、読みかけの村上春樹の「1Q84」のbook3の本を開いた。1、2巻発売より期日がたったが、このb3も発売されるやすぐにベストセラーとなった本だ。
スポーツ・クラブのインストラクターで暗殺者の青豆と、塾の講師をしながらベストセラーになった、フカエリこと深田絵里子の「空気さなぎ」のゴーストライターである川奈天吾の物語であった。
彼らは、どうしたことか月が2つ出ている世界に紛れ込んでいるのだった。
b3には、ある宗教組織のリーダーを暗殺した青豆を、組織から依頼されて追いかける牛河という男が登場してくるのだった。この不細工で偏執な中年男の行動にかなりのページ数をかけていた。
村上は、人物の描写が実に上手い。それも彼独特のメタファー表現で、ディテールを生きいきと浮き上がらせることによって、人物の実像(創造のだが)をあぶりだしていく。それも、特に醜い人物像を描くときに彼らしさが遺憾なく発揮される。
「牛河の外見は、かなり人目を惹く。人混みの中に姿を紛れ込まそうとしても、ヨーグルトの中の大むかでみたいに目立ってしまう。
彼の一家は誰もが羨む優秀な写真映りの良い一家だ。しかし、そこに牛河が加わると、人々はいくぶん眉をひそめ、首をひねることになった。ひょっとしてこの一家は、美の女神の足元をすくうようなトリックスター的な風味がどこかで混入しているのではあるまいかと人々は考えた。あるいは、考えるにちがいないと両親は考えた」
牛河が調査で会いに行った、小学校の女教師の描写はこうだ。
「いつ作られたのか見当もつかないが、いずれにせよそれが作られたときから既に流行遅れだったのではないかとおぼしきウールのスーツには、防腐剤の匂いが微かに漂っていた。色はピンクだがどこかで間違った色を混ぜ込まれたような、不思議なピンクだった。おそらくは品の良い落ち着いた色調が求められていたのだろうが、意図が果たせぬままそのピンクは気後れと韜晦(とうかい)とあきらめの中に重く沈み込んでいた。おかげで襟元からのぞいている真新しい白いブラウスは、まるで通夜に紛れ込んだ不謹慎な客のように見えた」
彼、つまり牛河の調書により、青豆が雅美という名であること、麻布の不思議な老婦人が緒方という苗字だったのを読者も知るのだった。
1、2巻では書く必要のないものであったが、b3で書く必要がでてきたのだ。
1Q84年の物語は、横道に逸れたかのように見えながらも大筋では終結に向かい、誰もが思った終点にたどり着くのであった。
村上作品は、横道に逸れたかのように見えるのは路地であり、その細い道が次々に現れるが、何本もの路地は、大きな幹線道路にいつしか集結するのである。その幹線道路も、蛇行する川のようにうねっている。
しかし、この本で村上は大きく、ある領域を飛び越えたような気がする。
「1Q84」のQは、僕にとってはまさしく、Questionの「Q」である。
*
先日の朝日新聞に、「北京の書店から」と題して、この「1Q84」が、中国で話題になっているという記事が出ていた。
中国でも、日本と同じようにベストセラーで、ダントツの人気なのである。
今年7月10日付「新京報」によるベストセラー・ランキング(北京の主要書店およびネット書店より集計)が出ていた。
6月末に「1Q84―b2」が発売されるやたちまち総合ランキングの1位に、7位に「1Q84―b1」が再びランクインされていた。
そして、話題というのは今まで村上作品を翻訳してきた林少華から、「1Q84」では、違う翻訳者に代わったということによる論争である。訳者は、公募で決まった「走ることについて語るときに僕のできること」の訳者である。
翻訳者によって文体が違うのはよくあるが、中国語は漢字なので、どう違うのか興味深いところである。村上本に関しては、中国の簡体字版と別に、台湾の繁体字版もある。解説によると、今までの林訳は四字熟語や成語を多用した美文調に対し、新しい施訳はすっきりとして読みやすいという特徴があるらしい。
そして、現在b3が翻訳中で、年内には刊行の見通しで、中国の人々はそれを待ち焦がれているという。
最初、「1Q84」のページをめくり、読み始めてすぐに印象に残ったのは主人公の「青豆」という変わった名前だった。
多くの海外版が出ている村上本であるから、この青豆をどう翻訳するのだろうと考えたのだった。中村とか坂本といった普通の名前だったら、そんなことは考えなかっただろう。青豆とは、名前という記号であると同時に、村上が描いたイメージでもあろう。
中国では文字は漢字なので、そのまま青豆でいい。日本では変わった名前、苗字だが、中国ではどうなのだろう。このような中国名は聞いたことがない。苗字は多くが1字だ。名前では、普通は香蘭だとか秀麗といった美しさをイメージした名前が多い。
しかし、張芸謀(チャン・イーモウ)監督の初期の中国映画に、女の子の名前の「菊豆」(チュイトウ)というのがあるから、可愛い名前になるかもしれない。
英語版ではどうだろう。
「Aomame」は、「Blue bean」、「Green peas」と意味を訳するのだろうか、と考えた。
男の主人公の名前は「天吾」である。こちらは、いかにも大らかで純朴なイメージが浮かぶ。
それに比べて青豆を追い続ける醜男の名前(苗字)は「牛河」である。う~ん、この男の名が春宮だとか鷹司だったら、ずいぶんイメージが変わっただろう。村上自身、キャラクターを変えただろう。牛河は、誰からも好意的には見られず、スポーツはできないが、忍耐強く物事に執着するのを得意としているのだった。
中国人は、つまり漢字文化圏の人は、これらの本来は記号であるべき名前に対して、日本人と同じく、含有する付加的イメージを共有できているのだろう。それが、他の外国語の翻訳よりも原語である日本語に近い感覚で理解され、人気の一つの要素になっているのかもしれない。
*
中国での村上春樹の「1Q84」人気はさておき、僕が興味をひいたのは、中国ベストセラー(総合部門)の6位に入っている本である。
「中国自助游」(2010年版)である。
「自助游」とは、団体旅行ではない自由な個人旅行のことである。
この本は、大都市から小さな町まで「泊まる」、「食べる」、「遊ぶ」情報を網羅し、ツアーでなく、自分だけの旅の楽しみを提案するガイドブックとある。
中国人も、個人の、自由な旅をする時代に入っているのだ。
中国は広い。この本は、中国版「地球の歩き方」かもしれない。2002年から毎年更新されているという。
国内を自由に旅する人間が、いつまでも自国内の旅に留まることはない。いつか海の彼方を目指す。
これから日本でも、リュックを背負った中国人のひとり旅が見うけられる時代がやってくるだろう。
<追伸>
「1Q84」の1、2に関しては、2月14日のブログを参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/cae8da61bd1f4b48c8d4f124129b0717