*流れゆく日々
何もしないまま時間だけが過ぎていく。
いつもより、空や雲を見る時間が増えた。それもあってか、時間が過ぎていくというより、空気が過ぎていく感じである。私は置き去りにされたまま。
もともと籠ったような生活であるから、新型コロナウイルス危機による4月7日からの緊急事態宣言後の生活も基本的には変わらない。
あゝ、それなのに……。
島田雅彦の私小説「君が異端だった頃」を書こうとして、放置したまま1か月以上が過ぎた。「私小説」という方向で書きだしてから2か月以上が経っている。
ただ時間ともいうべき空気が通り過ぎていった、不思議な無感覚の経過というべきだろうか。怠惰な流れに身を任せているというべきだろうか。
とはいえ、私小説島田雅彦の「君が異端だった頃」について、ひとまず書いておかなければならない。
島田雅彦は、大学在学中の1983年、「海燕」(福武書店、現ベネッセ)掲載の「優しいサヨクのための嬉遊曲」でデビューした時から、読まなくとも気になる作家であった。
デビューからだいぶん後になり、島田が作家として幅を広げた活動をしていた頃、おもむろに彼の恋愛論を知ろうと手にした「彼岸先生の寝室哲学」には辟易したし、「新潮」(2003年8月号)に掲載された「無限カノン」3部作の一つ「美しい魂」は完読できなかった。
それでも、ずっと彼の言動には、作品とは別の人間としての存在感が感じられた。芥川賞を6回落選(5回は受賞作なし)するも、彼の文壇での地位は徐々に揺るぎないものになり、現在はその芥川賞の選考委員を務めている。
そして、大学の教授でもある。作家で大学で教鞭をとっている人間はそう珍しいことではないし、その逆も多々ある。島田が教えている学部が、文学部ではなくて国際文化学部というところがフリーな思考の彼らしい。
なぜか彼が若いときから、文豪といえる道を歩くのはこの人だろうと私は思っていた。
その、文豪の後を追うと公言している島田雅彦が私小説を書いた。
*島田雅彦の私小説、「君が異端だった頃」
この本の最終章の「青春の終焉」で、島田雅彦は次のように書いている。
「そう遠くない未来、自分の記憶も取り出せなくなってしまうので、その前にすでに時効を迎えた若かった頃の愚行、恥辱、過失の数々を文書化しておくことにした。それにうってつけの形式は私小説をおいてほかにない。」
私が私小説が好きなのと私小説の魅力については、先に「私小説」①で書いたとおりである。私小説は作者が自分自身のことを書いているので、読む方としてはある程度、作者の捏造や脚色を考慮する必要がある。
しかし、島田は私小説について、きっぱりとこう付け加えた。
「正直者がバカを見るこの国で本当のことをいえば、異端扱いされるだろうが、それを恐れる者は小説家とはいえない。小説、とりわけ私小説は嘘つきが正直者になれる、ほとんど唯一のジャンルなのである。」
このように、正直に語ると潔く宣言して書かれた私小説も珍しく、少なくとも貴重だといえる。
本書は、島田雅彦が「君」という二人称をとりながら、川崎市北部のニュータウン多摩地区で育った幼少期・中学時代から、川崎市の南部にある川崎高校時代をへて、自由闊達な東京外語大での大学生活、卒業を前にしての思わぬ形での作家デビュー、恵まれたともいえる文豪との接触や交友、そして作家としての現在へ至る入口までの歩みを、あらゆる制約から解放されたかのように、饒舌ともいえる筆遣いで「己の系譜」を書き綴っている。
彼が大学3年のとき、目をつけた女性に接近するために、オーケストラに入りビオラを手にする。そして、半年後の演奏会でチャイコフスキーの「悲愴」を演奏するために練習を重ね、ついに演奏会にて出演・演奏するまでになる。
私もヴァイオリンを手にした経験から、たった半年でチャイコフスキーの「悲愴」とは、技量はともかく大変なことだ。
結局その目当ての女性も攻略することになったのだから、チャイコフスキーの「悲愴」は青春の嬉遊曲であろう。そして、結婚もした。
この本のなかでは多くの作家が出てくるが、興味深かったのは、島田を舎弟のように扱った、愛憎半ばする中上健次との関係だ。中上の存在感に圧倒され、彼を疎ましく思いつつも、彼の死を嘆き、「自己申告ではない、正真正銘の文豪になれる手もあったじゃないですか」と呼びかける。
私も一度だけ、中上に会ったことがある。会ったというより、見たといった方が正しい。
新宿東口の駅ビルが「マイシティ」といっていた頃、8階にレストランと喫茶を併設した「プチモンド」があった。そこは、仕事の打ち合わせや待ち合わせによく利用していた。
その日、出版社の同僚と打ち合わせを兼ねてコーヒーを飲みにプチモンドに入った。店内に入って、空いているテーブルを見つけてそこへ行くとき、すでに4人が座っているテーブルの脇を通った。通る時に通路脇に座っていた体のでかい男が、品定めをするかのような眼でじろりとこちらを見た。
それが中上健次だとすぐにわかった。面識はなかったので、私たちは奥のテーブルに座った。しばらくして、もう一度彼らのテーブルを見やると、中上もこちらを見ていて目が合った。サバンナで獲物を見ているライオンのような表情だった記憶がある。
しかし、何といっても島田雅彦にとって、柄谷行人と古井由吉との交友は大きかったと思う。現代の知の巨人と思える柄谷を通して、カント、マルクス、フロイト、ウィトゲンシュタイン、ゲーテ、漱石、小林秀雄、安吾を再発見したと記している。
古井由吉からは、酒場での酒の飲み方、大作家の枯淡の境地を知ったのではなかろうか。
島田雅彦より2年後に「ベッドタイムアイズ」でデビューした山田詠美に自分と同類の匂いを嗅ぎつけ、俄然興味を持ち文学仲間に引き入れるのも島田らしい。デビューしたての頃の山田も、才能が滴り落ちていた。
島田雅彦の作家への道程に不可欠なのが、女性との恋や情事である。私小説(実体験)でありながらまるで小説(物語)のようにエピュキュリアン的アバンチュールだ。
このなかで恋愛小説嗜好の私が惹かれたのは、そのとき結婚しているにもかかわらず、アメリカ娘の二人のニーナとの恋、もしくは情事のアバンチュールである。日本にまでやってきた大学院生のニーナの存在は、やがて妻の知るところとなり、案の定泥沼化する。この話は、改めて独立した小説もしくは私小説として読んでみたい、と思わせる内容の濃いものであった。
このジャンルこそ、彼の本分だろうと思わせる。文豪への道は、思いきって「火宅の人」になるか、谷崎潤一郎への道かもしれない。
「君が異端だった頃」には、人間島田雅彦が詰まった、小説を超える私小説の醍醐味があった。
何もしないまま時間だけが過ぎていく。
いつもより、空や雲を見る時間が増えた。それもあってか、時間が過ぎていくというより、空気が過ぎていく感じである。私は置き去りにされたまま。
もともと籠ったような生活であるから、新型コロナウイルス危機による4月7日からの緊急事態宣言後の生活も基本的には変わらない。
あゝ、それなのに……。
島田雅彦の私小説「君が異端だった頃」を書こうとして、放置したまま1か月以上が過ぎた。「私小説」という方向で書きだしてから2か月以上が経っている。
ただ時間ともいうべき空気が通り過ぎていった、不思議な無感覚の経過というべきだろうか。怠惰な流れに身を任せているというべきだろうか。
とはいえ、私小説島田雅彦の「君が異端だった頃」について、ひとまず書いておかなければならない。
島田雅彦は、大学在学中の1983年、「海燕」(福武書店、現ベネッセ)掲載の「優しいサヨクのための嬉遊曲」でデビューした時から、読まなくとも気になる作家であった。
デビューからだいぶん後になり、島田が作家として幅を広げた活動をしていた頃、おもむろに彼の恋愛論を知ろうと手にした「彼岸先生の寝室哲学」には辟易したし、「新潮」(2003年8月号)に掲載された「無限カノン」3部作の一つ「美しい魂」は完読できなかった。
それでも、ずっと彼の言動には、作品とは別の人間としての存在感が感じられた。芥川賞を6回落選(5回は受賞作なし)するも、彼の文壇での地位は徐々に揺るぎないものになり、現在はその芥川賞の選考委員を務めている。
そして、大学の教授でもある。作家で大学で教鞭をとっている人間はそう珍しいことではないし、その逆も多々ある。島田が教えている学部が、文学部ではなくて国際文化学部というところがフリーな思考の彼らしい。
なぜか彼が若いときから、文豪といえる道を歩くのはこの人だろうと私は思っていた。
その、文豪の後を追うと公言している島田雅彦が私小説を書いた。
*島田雅彦の私小説、「君が異端だった頃」
この本の最終章の「青春の終焉」で、島田雅彦は次のように書いている。
「そう遠くない未来、自分の記憶も取り出せなくなってしまうので、その前にすでに時効を迎えた若かった頃の愚行、恥辱、過失の数々を文書化しておくことにした。それにうってつけの形式は私小説をおいてほかにない。」
私が私小説が好きなのと私小説の魅力については、先に「私小説」①で書いたとおりである。私小説は作者が自分自身のことを書いているので、読む方としてはある程度、作者の捏造や脚色を考慮する必要がある。
しかし、島田は私小説について、きっぱりとこう付け加えた。
「正直者がバカを見るこの国で本当のことをいえば、異端扱いされるだろうが、それを恐れる者は小説家とはいえない。小説、とりわけ私小説は嘘つきが正直者になれる、ほとんど唯一のジャンルなのである。」
このように、正直に語ると潔く宣言して書かれた私小説も珍しく、少なくとも貴重だといえる。
本書は、島田雅彦が「君」という二人称をとりながら、川崎市北部のニュータウン多摩地区で育った幼少期・中学時代から、川崎市の南部にある川崎高校時代をへて、自由闊達な東京外語大での大学生活、卒業を前にしての思わぬ形での作家デビュー、恵まれたともいえる文豪との接触や交友、そして作家としての現在へ至る入口までの歩みを、あらゆる制約から解放されたかのように、饒舌ともいえる筆遣いで「己の系譜」を書き綴っている。
彼が大学3年のとき、目をつけた女性に接近するために、オーケストラに入りビオラを手にする。そして、半年後の演奏会でチャイコフスキーの「悲愴」を演奏するために練習を重ね、ついに演奏会にて出演・演奏するまでになる。
私もヴァイオリンを手にした経験から、たった半年でチャイコフスキーの「悲愴」とは、技量はともかく大変なことだ。
結局その目当ての女性も攻略することになったのだから、チャイコフスキーの「悲愴」は青春の嬉遊曲であろう。そして、結婚もした。
この本のなかでは多くの作家が出てくるが、興味深かったのは、島田を舎弟のように扱った、愛憎半ばする中上健次との関係だ。中上の存在感に圧倒され、彼を疎ましく思いつつも、彼の死を嘆き、「自己申告ではない、正真正銘の文豪になれる手もあったじゃないですか」と呼びかける。
私も一度だけ、中上に会ったことがある。会ったというより、見たといった方が正しい。
新宿東口の駅ビルが「マイシティ」といっていた頃、8階にレストランと喫茶を併設した「プチモンド」があった。そこは、仕事の打ち合わせや待ち合わせによく利用していた。
その日、出版社の同僚と打ち合わせを兼ねてコーヒーを飲みにプチモンドに入った。店内に入って、空いているテーブルを見つけてそこへ行くとき、すでに4人が座っているテーブルの脇を通った。通る時に通路脇に座っていた体のでかい男が、品定めをするかのような眼でじろりとこちらを見た。
それが中上健次だとすぐにわかった。面識はなかったので、私たちは奥のテーブルに座った。しばらくして、もう一度彼らのテーブルを見やると、中上もこちらを見ていて目が合った。サバンナで獲物を見ているライオンのような表情だった記憶がある。
しかし、何といっても島田雅彦にとって、柄谷行人と古井由吉との交友は大きかったと思う。現代の知の巨人と思える柄谷を通して、カント、マルクス、フロイト、ウィトゲンシュタイン、ゲーテ、漱石、小林秀雄、安吾を再発見したと記している。
古井由吉からは、酒場での酒の飲み方、大作家の枯淡の境地を知ったのではなかろうか。
島田雅彦より2年後に「ベッドタイムアイズ」でデビューした山田詠美に自分と同類の匂いを嗅ぎつけ、俄然興味を持ち文学仲間に引き入れるのも島田らしい。デビューしたての頃の山田も、才能が滴り落ちていた。
島田雅彦の作家への道程に不可欠なのが、女性との恋や情事である。私小説(実体験)でありながらまるで小説(物語)のようにエピュキュリアン的アバンチュールだ。
このなかで恋愛小説嗜好の私が惹かれたのは、そのとき結婚しているにもかかわらず、アメリカ娘の二人のニーナとの恋、もしくは情事のアバンチュールである。日本にまでやってきた大学院生のニーナの存在は、やがて妻の知るところとなり、案の定泥沼化する。この話は、改めて独立した小説もしくは私小説として読んでみたい、と思わせる内容の濃いものであった。
このジャンルこそ、彼の本分だろうと思わせる。文豪への道は、思いきって「火宅の人」になるか、谷崎潤一郎への道かもしれない。
「君が異端だった頃」には、人間島田雅彦が詰まった、小説を超える私小説の醍醐味があった。